第57話 一方、オリエント王国では(前編)
王都東門の衛兵たちが、街道の向こうから近づいてくる二つの影を見つけていた。
「騎馬……ではないな」
「荷車にしては小さいぞ」
「人が、車輪の上に乗っている?」
二つの影は、馬に引かれていなかった。
前後に一つずつ車輪があり、その間に組まれた金属の骨組みに、人がまたがっている。足を上下に動かすたび、車輪が勢いよく回っていた。
先頭を走るのは、剣士ガラン。その後ろでは、ドワーフのドランが歯を食いしばってペダルを踏んでいる。
「ぬおおおおっ! 城門まで、あと少しじゃ!」
「速度を落とせ、ドラン! 人がいる!」
「止まる時に、どちらの足を出すか、まだ時々分からんのじゃ!」
「王都へ着くまでに覚えろと言っただろう!」
ガランがブレーキを握り、速度を落とす。ドランも慌てて両手のレバーを握った。前後のブレーキをほぼ同時に強くかけたため、後輪がわずかに浮く。
「おおっ!?」
ドランは踏ん張った。どうにか前へ投げ出されることは免れたが、停止した姿勢のまま右へ傾く。
「ぬおっ」
左へ戻す。
「おおっ」
もう一度右へ傾く。
「足をつけ!」
「分かっておる!」
最終的に、ドランはマウンテンバイクを抱いたまま草むらへ倒れた。
城門前が静まり返る。
ガランは額を押さえた。
「……王都到着だ」
「見事な着地じゃろ」
「何一つ見事ではない」
衛兵の一人が、恐る恐る近づいた。
「ガラン殿……ですか?」
「ああ。東風の牙のガランだ。こちらはドラン」
「それは存じていますが、その乗り物は……」
「マウンテンバイクという」
「魔導具ですか?」
「魔力は使わない」
「では、どうやって動くのです?」
「足だ」
衛兵は、ガランの足とマウンテンバイクを交互に見た。
「足……」
「足で回す」
「馬より速いのですか?」
「道次第ではな。少なくとも、長距離を走っても餌はいらない」
草むらから起き上がったドランが、腰を押さえながら言った。
「ただし、乗り手の飯の量は増えるぞ」
「お前が食べすぎるだけだ」
「湖畔の飯が美味すぎたせいじゃ!」
王都へ戻った最初の言葉が、飯の話だった。ドランらしいといえば、あまりにもドランらしい。
◇
湖の東端近くまでは、ロクとリーファがバギーで送ってくれた。
巨大な湖の南西側にある拠点から、東端付近までは約250キロメートル。
本来なら、徒歩や馬車で湖沿いを進むだけでも十日以上かかる。そこから王都までを含めれば、普通なら片道二週間は見ておかなければならない。
だが、湖岸の大半をバギーで移動できた。さらに湖東側からは、ヒカルから渡されたマウンテンバイクを使った。
馬のように休ませる必要がなく、細い森道も通れる。故障やタイヤの損傷に注意すれば、その移動速度はこの世界の常識を大きく超えていた。
結果、ガランとドランは予定より遥かに早く、王都へ帰還した。もっとも、ドランの尻と腰は、王都到着時点でかなり限界へ近づいていた。
「王へ報告する前に、椅子へ座りたくない」
「立ったまま謁見するつもりか?」
「可能なら、うつ伏せで頼みたい」
「不敬罪になるぞ」
「では、尻の痛みを王へ訴える」
「国家への報告に、お前の尻の事情を混ぜるな」
「馬でも尻が痛い。自転車でも尻が痛い。人は何に乗ればよいのじゃ」
「歩け」
「それでは二週間かかる!」
王都へ入った二人は、そのままハンターギルドへは向かわず、王城への急報を頼んだ。
白狐神に関する最優先報告。神務院の動向。湖畔で起きた異変。そして、レイシス皇国へ託された親書の結果。
それらを伝えると、王城の対応は早かった。通常なら数日待たされる謁見が、その日の午後に組まれた。
◇
オリエント王国は、建国から952年を数える。
もともとは、東方の森林と山岳地帯に暮らしていた、獣人、エルフ、ドワーフ、人族などの小国や氏族が集まって生まれた国だった。
当時、この地では種族間の争いが絶えなかった。
領地。水場。鉱山。狩り場。宗教。言葉。違いは、そのまま争う理由になった。
そんな時代に、白狐神の里から使者が現れた。
空を飛ぶ小さな白狐。時には白い髪を持つ女性へ姿を変え、各地の集落へ足を運んだという。
彼女は争いを力で止めるのではなく、白狐神の里から医師や農業技術者、治水に詳しい者を送り、飢えや病を減らしていった。
食料が増え、水路が整った。病で死ぬ者が減り、冬を越せる集落が増えた。争う理由が、少しずつ減った。
やがて複数の氏族が盟約を結び、その盟約がオリエント王国の原型となった。
初代王に選ばれたのが、銀狐族の族長だった。それ以来、王国では銀狐族の王家が続いている。
ただし、王が絶対的な支配者となったわけではない。
各種族の代表が議会へ加わり、王はそれをまとめる存在とされた。オリエント王国が亜人共存を掲げるのは、理想論だけではない。
異なる者同士が協力しなければ、この国そのものが生まれなかったからだ。そして、その歴史の始まりには、白狐神の里があった。
だからこそ、約420年前に白狐神の里がレイシス側から攻撃された事件は、この国にとって消えない負の記憶となっていた。
王国軍が異変を知った時には、すでに湖畔一帯が強力な結界と魔力嵐に覆われていた。
救援隊は湖東側まで進んだが、森へ入ることすらできなかった。
数日後、魔力嵐が収まった時、白狐神の里は消えていた。
住民も。建物も。畑も。
先代白狐神しらゆきも。
何一つ残っていなかった。
レイシス皇国は、白狐神を討ち滅ぼしたと宣伝した。オリエント王国では、それを信じる者と、信じたくない者に分かれた。そして真実が分からないまま、420年の時が過ぎた。
◇
謁見の間には、銀狐王セイラムが座っていた。
銀灰色の髪。頭には、銀狐族特有の耳。年齢は50代半ばほどに見えるが、背筋は真っすぐで、金色を帯びた瞳には強い光がある。
王の左右には、宰相、軍務卿、外務卿、財務卿、神殿長が並んでいた。
ガランとドランは王の前へ進み、片膝をついた。
「ガラン、ドラン。よく戻った」
「はっ」
セイラム王は、挨拶もそこそこに身を乗り出した。
「まず聞こう」
金色の瞳が、まっすぐガランへ向けられる。
「白狐神は、本当におられたのか」
謁見の間が静まり返った。宰相も、軍務卿も、神殿長も、ガランの返答を待っている。
ガランは顔を上げた。
「はい」
一拍置き、はっきりと答える。
「白狐神は実在します」
重臣たちの間に、息を呑む気配が広がった。
「御神名はユキ。外見は人族の幼子で、白い髪、白狐の耳、大きな白い尾を持ちます。年齢は五歳ほどです」
「ユキ様……」
セイラム王が、その名を静かに繰り返した。
「誰が名を授けた」
「サコン・ヒカル殿。異界人です」
「白狐神へ、異界人が名を?」
「はい。ヒカル殿は、白狐神ユキ様の名付け親です」
神殿長の表情が固まった。
「ユキ様は、それを受け入れられたのか」
「はい。名付けによりヒカル殿は白狐神の加護を授かったとの事です。ユキ様はヒカル殿を『おっちゃん』と呼び、絶大な信頼を寄せています」
「おっちゃん……」
軍務卿がわずかに視線を伏せた。笑ってよいのか、判断できなかったのだろう。
「……何と、先代白狐神しらゆき様と同じ様に、異界人に名付けをされるとは…」
神殿長が神妙な顔で呟く。
ドランが小声で付け加える。
「本人は『さま』を付けられるのを嫌がるぞ」
「ドラン。今は報告の為に、敢えて敬称を入れている」
「分かっとるが、大事なことじゃ」
セイラム王の口元が、わずかに緩んだ。
「どのように出会ったのだ」
ガランは一度呼吸を整えた。
「我々が白狐神ユキ様とヒカル殿に初めて会ったのは、レイクサーペント討伐の直後でした」
「レイクサーペントだと?」
軍務卿が身を乗り出す。
王都から遠く離れた巨大湖に棲む、災害級の魔物。東の湖岸一帯の漁場と水路を支配し、過去には討伐隊を何度も壊滅させた存在だった。
「はい。長年、湖を支配していた個体です」
「討伐されたのか」
「ユキ様とヒカル殿によって」
謁見の間が、再び静まった。
「二人でか?」
「はい」
ガランは、湖畔で見た光景を思い出しながら語った。
巨大なレイクサーペントの死骸。戦闘の痕跡。その傍らにいた異界人の男。そして、白い髪、白狐の耳、大きな尾を持つ幼い少女。
「ユキ様が神気と結界を用いレイクサーペントの動きを封じ、ヒカル殿が強力な武器で遠距離攻撃を加えて倒しました。我々は遠くからですが、その一部始終を目撃しております。現場の状況と残された痕跡から、討伐が事実であることは間違いありません」
「レイクサーペントを倒すほどの力を持つ白狐神様が、幼子の姿をしているのか」
「はい。ただし、まだ成長途中です。力を連続して使えば疲労し、何でも無制限にできるわけではありません」
神殿長が尋ねる。
「白狐神の成長段階まで分かるのか?」
「現在の神格は、幼神三段です」
「なぜ、そこまで分かる」
「ヒカル殿の鑑定スキルによるものです」
「鑑定……神格まで見抜くのか?」
「対象の名称、状態、性質、危険性などを確認できるそうです。魔物、植物、建材、道具、病状にも使用できます」
宰相が眉を寄せた。
「それほどの鑑定能力を持つ異界人が、白狐神の守護者となっているのか」
「はい。ですが、出会った当初から守護者を名乗っていたわけではありません」
ガランは続けた。
「ヒカル殿は森の中で独りだったユキ様を保護し、食事を与え、衣服と寝床を用意しました。危険な魔物から守り、名を与え、共に暮らしていました」
「白狐神だから保護したのか」
「いいえ」
ガランは即座に答えた。
「ヒカル殿はユキ様が白狐神であることは鑑定で分かっていたそうですが、ただ、空腹で傷ついた幼子を見つけたから、助けたそうです。ヒカル殿の世界では白狐神は存在しておらず、どの様な存在かも知らなかったとの事です」
セイラム王の耳が、わずかに前へ向いた。
「白狐神だからではなく、子供だから助けたのか」
「はい」
「……そうか、先代の守護者、橘宗一郎殿もそういうお方だったと伝えられている」
王の表情には明らかな安堵があった。
◇
「ヒカル殿は、何者なのだ」
宰相が尋ねた。
「ニホンという異世界から来た人物です。転移時の年齢は40歳。現在はユキの加護により、30歳前後に見えます」
「戦闘能力は?」
軍務卿の問いに、ガランは少し考えた。
「極めて高いです」
「お前よりもか?」
「剣技に限れば、私では勝てません」
謁見の間が静まった。ガランは王国でも名の知れたSランクハンターだ。しかも元近衛騎士。そのガランが、自分では敵わないと言った。
「居合と抜刀術という技を使います。剣を鞘へ収めた状態から、一瞬で斬撃を放つ。間合いへ入れば、抜いたところを見てから避けるのは難しいでしょう」
「異界の剣聖か」
「いいえ」
ガランは即座に否定した。
「本人は、剣より工事と料理を優先します」
「……何?」
「住居を建て、水場を整え、風呂、洗濯場、診療所、薬草干し場、祠を作りました。車両、工具、食料、衣服、医療品まで、特殊なスキルで用意します」
ドランが我慢できずに口を挟んだ。
「鉄筋コンクリートも使う!」
「今、その説明は必要ない」
「必要じゃ! あれは建築の未来じゃぞ!」
「王の前だ」
「だからこそ伝えねばならん!」
セイラム王が片手を上げた。
「構わぬ。ドラン、その鉄コン筋クリ…何とかというものは、それほどすごいのか」
「鉄の骨を組み、石より強く固まる材料を流し込むのです! 基礎が岩盤のようになります!」
「そうか」
「しかもヒカルは、地面を掘る鉄の獣を操ります!」
「鉄の獣?」
「ツチノコじゃ!」
王と重臣たちが沈黙した。ガランが淡々と補足する。
「小型の掘削機械です。ユキ様が名付けました」
「そ、そうか……」
王は理解を諦めた顔になった。
「ヒカル殿の人格についてはどうだ」
宰相が尋ねる。
「基本的には平和的です。非常に慎重で、ユキ様を含め他の子供達へも公平に接します。危険が迫った時も、感情だけで動かず、段取りを組んで対処します」
「武力を持ちながら、好戦的ではないと」
「はい。ただし、ユキ様や仲間たちを害する者には、容赦しないでしょう」
「当然だ」
セイラム王は短く答えた。
「白狐神の守護者ならば、それでよい」
◇
「我々は、その後、ヒカル殿とユキ様と共にレイシス皇国へ向かいました」
ガランは報告を、旅の始まりへ戻した。
「本来の目的は、オリエント王国より託された親書を、レイシス皇国へ届けることでした」
謁見の間の空気が、わずかに引き締まる。
「親書は、どうなった」
「レイシス西辺国境砦を通じて、正式に提出しております」
ガランは懐から、保管していた書面を取り出した。
「辺境伯代理ベルトラン・オルデンより、親書の預かりを証明する書面も受領しました。親書は早馬により、レイシス皇都へ送られています」
書面が侍従を通じ、外務卿へ渡される。外務卿は内容と印章を確認し、セイラム王へ頷いた。
「正規の預かり証明に間違いありません」
「では、使節としての任務そのものは果たしたのだな」
「はい」
セイラム王は静かに頷いた。
「よくやった。親書を国境で握り潰されなかっただけでも大きい」
「ですが、その後に事態が急変しました」
「申せ」
ガランは、国境砦で起きた出来事を順を追って説明した。
逃亡奴隷として追われていたエルフの青年、アルノを保護したこと。
親書提出後、神務院と奴隷管理局の動きが強まり、砦内で自分たちや保護した者が拘束される危険が生じたこと。
そして、ヒカル、ユキと協力し、奴隷だった猫族の姉弟ミーシャとトト、ドワーフの少女ニナを連れ、砦から脱出したこと。
「幼い者まで、奴隷として扱われていたのか」
セイラム王の銀色の尾が、玉座の横で低く揺れた。
「はい。三人とも奴隷首輪による命令を受け、逆らうことを許されない状態でした」
「首輪はどうした」
「ユキが、首輪の命令系統と術式を焼き切りました」
重臣たちの間に、低いざわめきが走った。神殿長が身を乗り出す。
「伝承通り白狐神は、隷属術式を破壊できるのか」
「はい。ただし、力を使えば疲労します。無制限に解除できるわけではありません」
「それでも、神務院が白狐神を探す理由としては十分すぎる」
宰相の声は重かった。
ガランは続けた。
「砦を脱出した後、湖畔へ戻る途中の廃村で、エルフの女性リリアも保護しました。彼女も元奴隷です。長く隠れて暮らしていたため衰弱しておりましたが、現在は守護者ヒカル殿の拠点で回復しつつあります」
「アルノ、リリア、そして三人の子供たちは、今も湖畔にいるのだな」
「はい」
「守護者ヒカル殿は、彼らをどう扱っている」
「労働力としてではなく、群れの一員として迎えています。住居、食事、衣服、治療、学ぶ場所を与えました」
「学ぶ場所まで?」
「アルノが先生役となり、子供たちへ文字や数字、時計の読み方を教えています」
「元奴隷へ、教育を……」
「ヒカル殿は、それを特別な施しとは考えていません。暮らすために必要だから用意しただけだと申すでしょう」
セイラム王は、しばらく黙っていた。
「親書を届けるだけでも困難な旅であったはずだ。その帰路でさらに五人を救い、白狐神の里まで守り抜いたか」
「ヒカル殿とユキ様がいなければ、不可能でした」
「いや」
王は首を横に振った。
「守護者ヒカル殿とユキ様だけではない。お前たちも、その者たちを見捨てなかった」
ガランは深く頭を下げた。
「当然のことをしたまでです」
「その当然を、国として行えぬ者が多い。それこそが、我らがレイシス皇国へ親書を送った理由でもある」
セイラム王の声は静かだった。だが、奴隷制度に対する怒りは、謁見の間にいる誰の耳にも明確に伝わっていた。
◇
「もう一つ、重大な報告があります」
ガランの声が変わった。
「湖畔祠の完成に伴い、守護神使様が現れました」
神殿長が立ち上がりかけた。
「守護神使様が!?」
「はい。現在は、大人の手のひらほどの白狐の姿です。ぬいぐるみという、布と綿で作られた人形へ宿っています」
「人形……」
「空を飛び、話し、かつては変幻の力も持っていたと、本人から聞いています。一人称は『びゃっこ』。ユキからは『こびゃっこ』と呼ばれています」
「びゃっこ……」
セイラム王が目を細めた。
「神殿長。あの記録を」
「まさか……」
神殿長は補佐へ命じ、古い記録箱を運ばせた。中から出されたのは、薄い金属板へ転写された、古い壁面画だった。
そこには、白狐が空を飛ぶ姿と、白い衣をまとった女性の姿が描かれている。そして中央には、古い文字――漢字で大きく書かれていた。
白夜参上。
ガランは文字を読めなかったが、神殿長が声に出した。
「『びゃくや、さんじょう』と読むと伝えられています」
「びゃくや……」
ドランが首を傾げた。
「こびゃっこ殿は、その名を一度も言わなかったぞ」
「先代白狐神の頃の名前だろう。今はユキの守護神使だ」
ガランはそう言って、記録を見つめた。神殿長が説明を続ける。
「建国初期から中期まで、守護神使様は白夜と名乗り、何度も王都を訪れたと記録されています。白狐の姿で空を飛び、時には女性へ変幻したとの事。先代守護者の橘宗一郎殿の知識である農業、治水、医療の他、祭事について初代王へ助言されたとも」
セイラム王が苦笑する。
「悪戯好きだったらしく、この『白夜参上』は、王城西棟の壁へ突然書かれたそうだ」
「突然?」
「夜中に忍び込み、朝には壁へ文字だけ残されていたらしい」
ドランの目が見開かれた。
「守護神使様は、昔からそういう方なのですか?」
「初代王の日記には、『神使殿は礼儀正しいが、時折、悪戯の程度が分からぬ』とある」
ガランは黙った。あのこびゃっこなら、やる。間違いなくやる。おそらく自信満々に、「王城に来た記念に、名を刻んだのじゃ」と言うだろう。
「現在も、壁は保存してある」
「王城の壁に?」
「歴史的聖遺物としてな」
後日、ヒカルがこの話を聞けば、きっと頭を抱える。ガランには、その姿まで想像できた。
◇
そして、ガランは先代白狐神しらゆきの最後について語った。
約420年前。レイシス皇国の神務院、その前身である神務魔導府が湖畔を襲撃した。
隷属紐。奴隷首輪。人や奴隷の魔力を吸い上げる術式。封印されていた魔導兵器。それによって、白狐神の里を守る結界は破壊された。
魔導兵器は敵味方の区別なく魔力を奪い、レイシス側にも大量の犠牲者を出した。
白狐神しらゆきと先代守護者の異界人、橘宗一郎。そして住民たちが追い詰められた時、守護神使は最後の力を使った。
「守護神使様は、別世界へつながる門を開いたそうです」
ガランの声だけが、謁見の間へ響く。
「しらゆき様、先代守護者の宗一郎殿、住民、住居、診療所、設備、畑。里そのものを、可能な限り別世界へ移した。その代償として、守護神使様は神力を使い果たし、肉体を失ってこの世界へ残されました」
「では……」
セイラム王の声が揺れた。
「しらゆき様は、討たれたのではないのか」
「少なくとも、神務魔導府に殺されたのではありません」
王は目を閉じた。謁見の間にいる誰も、すぐには言葉を出せなかった。
王国では420年間、白狐神の里を救えなかったことを恥じてきた。
間に合わなかった。何もできなかった。しらゆき様を死なせた。そう考えてきた。
だが、本当は違った。守護神使様が里を逃がした。全員が無事だったとは限らない。行き先も分からない。それでも、全滅したわけではなかった。
「我らは……」
セイラム王が静かに言った。
「何も知らなかったのだな」
「守護神使様自身も、実体を失ったため、真実を伝えることができなかったそうです」
「それでも、当時の王国が助けられなかった事実は変わらぬ」
王は玉座から立ち上がった。
「だが、同じ過ちを繰り返してはならない」
金色の瞳が、まっすぐガランへ向けられる。
「神務院は、再び白狐神を探っているのだな」
「はい。奴隷管理局とも関係し、白狐神の力を利用しようとしている可能性があります」
「先ほどの奴隷首輪を焼き切る力か」
「それだけではありません。結界、浄化、神気、隷属術式への干渉。神務院にとって利用価値があると判断する理由はいくつもあります」
「ほかに、神務院へ連れ去られた者はいるか」
「狐族の少女、シオンが神務院へ連行されています。守護神使様は、実体を得る以前、夢を通じてシオンへ接触したことがあるとのことです」
「白狐神に縁ある者か」
「その可能性があります」
「分かった」
王は外務卿へ目を向けた。
「白き神獣の里を、我が国の領土や庇護下として扱ってはならぬ」
重臣たちが王を見る。
「白狐神ユキ様は、王国の所有物でも、保護を名目に囲い込む存在でもない。守護者ヒカル殿が築く湖畔の里も同じだ」
ガランは、わずかに頭を下げた。
「ユキ様は、群れを大切にします。人を身分で分けることを好みません」
「ならば、我らはその考えを尊重する」
セイラム王は宣言した。
「白き神獣の里とオリエント王国は、庇護する者とされる者ではない。レイシス皇国の奴隷政策と神務院の策謀へ共に対抗する、対等な友邦となる」
外務卿が深く頭を下げる。
「正式な友好盟約の草案を作成いたします」
「急ぐな」
セイラム王が制した。
「まずは特使を送り、ユキ様と守護者ヒカル殿の意思を確かめよ。こちらだけで決めては、庇護を押しつけるのと変わらぬ」
「御意」
◇
報告が一段落したところで、ドランが持参した箱を前へ運んだ。
「守護者ヒカル殿から、陛下への献上品です」
「献上品まで用意されていたのか」
箱から取り出されたのは、高級ハム、日本酒、ブランデー、ワイン、そしてチョコレートだった。
さらにガランは、自分の腕へ巻いていた黒い腕時計を示した。
「これも、ヒカル殿の世界の道具です。魔力を使わず、時刻を正確に示します」
王が身を乗り出す。
「その小ささでか?」
「はい。水にも強く、夜間は針が光ります」
「魔導具ではないのだな」
「違います」
「なぜ光る」
「私にも、詳しい仕組みは分かりません」
宰相が腕時計を覗き込んだ。
「これが、異世界では一般品なのか?」
「ヒカル殿の世界では、さほど珍しい品ではないそうです」
重臣たちの表情が揃って曇った。異世界の一般品が、王国の高級魔導時計より小さく、扱いやすく、正確だった。
「そして、このマウンテンバイクで王都まで戻りました」
城門から運ばせた二台が、謁見の間の端へ置かれている。軍務卿は車体を一周した。
「この細い車輪で、人を乗せて走るのか」
「はい」
「倒れないのか」
「走っている間は」
「止まったら?」
「足をつきます」
全員の視線が、ドランへ向いた。
「わしは、時々つき忘れます」
「なぜ忘れる」
「尻が痛いからです!」
「尻は関係ないだろう」
セイラム王は笑いをこらえながら、献上品へ視線を戻した。
最初に切り分けられた高級ハムを口へ運ぶ。噛んだ瞬間、王の耳がぴくりと動いた。
「……これは肉か?」
「豚肉を塩漬けし、熟成したものです」
「火を通さず、この味がするのか」
「そのまま食べられます」
次はチョコレート。小さく割った一片を、王が口へ入れる。その表情が止まった。
「甘い」
「はい」
「だが、ただ甘いだけではない」
「カカオという実から作るそうです」
「これを、ユキ様も?」
「子供たちと同じ量を食べていました」
「同じ量?」
「ヒカル殿は、ユキ様、猫族の姉弟、ドワーフの少女へ、同じ種類を同じ量だけ配ります」
セイラム王は少し黙ったあと、柔らかく笑った。
「よい守護者なのだな」
「はい」
日本酒の封が開けられる。小さな杯へ注がれると、懐かしい米の香りが広がった。
神殿長が目を見開く。
「これは……古文書にある米酒ではないか?」
「はい。日本酒と呼ぶそうです」
セイラム王が杯を口へ運ぶ。ゆっくり味わい、目を閉じた。
「かつて、王国でもこの酒が飲まれていた」
ガランとドランが、同時に王を見た。
「王国で?」
「建国初期から白狐神の里が消えるまで、米は王国へ普通に流通していた。湖畔の里でのみ大規模な稲作が行われ、王都にも運ばれていたのだ」
「米が……普通に?」
「白狐神の里が消え、種籾と栽培技術も失われた。今では一部の古代遺跡で、炭化した米が見つかるだけだ」
ドランが口を開けたまま固まった。
「わしら、湖畔で毎日のように食べておったぞ」
セイラム王の目が細くなる。
「何?」
「白い飯。握り飯。炒飯。稲荷寿司。丼。時々、焼きおにぎり」
王の顔から、威厳が一瞬消えた。
「毎日……?」
「ほぼ毎日」
「稲荷寿司とは、伝承にあった守護神使様の?」
「甘辛く煮た油揚げの中へ、酢を混ぜた米を詰めたもので、守護神使様の大好物じゃそうです」
セイラム王は、玉座の肘掛けを握った。
「私も湖畔へ行かねばならぬ」
「陛下」
宰相が即座に止めた。
「まだ情勢が安定しておりません」
「白狐神ユキ様へ挨拶する必要がある」
「米を食べたい顔でおっしゃらないでください」
「国家として必要な訪問だ」
「稲荷寿司という単語を聞いてから、明らかに決意が強まりました」
「偶然だ」
「耳が前へ向いております」
セイラム王は、自分の銀狐耳へ手を当てた。
ドランが小声でガランへ言う。
「ユキと同じじゃな」
「聞こえるぞ、ドラン」
「王の耳は良いですのう」
◇
献上品の試食後、王国としての具体的な支援が決められた。
東風の牙は、今後も湖畔拠点へ常駐。白狐神ユキと守護者ヒカルを補佐する。そしてガランには、新たにオリエント王国大使の肩書きが与えられた。
「私が大使ですか」
「湖畔の事情を最も理解し、ユキ殿とヒカル殿の信頼を得ているのはお前だ」
「外交儀礼には詳しくありません」
「元近衛騎士で、Sランクハンター。必要なら王へ直接意見できる。十分だ」
「断れる雰囲気ではありませんね」
「断るつもりだったのか?」
「確認しただけです」
さらにガランは、ヒカルのスキルについて説明した。
「ヒカル殿が建材、道具、食料などを用意するには、魔石から得られる力が必要です」
「魔石を消費するのか」
「はい。湖周辺の魔物だけでは、今後不足する可能性があります」
「これほどの拠点を整え、五人の保護者を養い、白狐神を守りながら、魔石まで自力で賄っていたのか」
「はい」
セイラム王は財務卿へ命じ、王国保管庫から魔石を用意させた。
大箱へ収められた、大小さまざまな魔石。ガランたちには、正確な価値までは分からなかった。
後にヒカルが鑑定すれば、合計約3,000,000ptへ変換できる量だと判明することになる。
「これは、白狐神への貢ぎ物ではない」
セイラム王は念を押した。
「守護者ヒカル殿が、湖畔の暮らしと防衛を整えるための、友邦としての支援だ」
「確かにお伝えします」
「また、近衛騎士団から20名を派遣する」
ガランが顔を上げた。
「近衛を?」
「副団長を指揮官とする」
「まさか、レオンですか」
「そのレオンだ」
ガランの眉間に皺が寄った。
「面倒な男を選びましたね」
「親友だろう」
「元親友です」
「本人は、今も親友だと思っている」
「そこが面倒なんです」
近衛騎士団副団長、レオン・ヴァルガ。
ガランが近衛騎士だった頃の同期であり、同じ部隊で何度も死線を越えた男だ。
剣の腕も、指揮能力も高い。
ただし、久しぶりに会うたび肩を組み、酒場へ連行し、過去の失敗談を大声で語る悪癖がある。
「派遣は約1か月後。湖畔へ到着後は、守護者ヒカル殿の指揮下へ入るよう厳命する」
「王国軍の独断で動かさないためですか」
「そうだ。白き神獣の里へ軍を置くのではない。ヒカル殿へ人員を貸し出す」
「賢明かと」
「同時に、特使を派遣する。銀狐族の女性だ。白狐神ユキ様へ正式に謁見し、一定期間、湖畔へ滞在させる」
「人選は?」
「現在、調整中だ。ユキ殿が敬称を嫌うことも伝える」
「そこは重要です」
神殿長が真剣に頷いた。
「神殿からも、過剰な礼拝や儀礼を押しつけないよう通達を出しましょう」
「お願いします。ユキ様は神殿の作法より、全員で同じ食事をすることを喜びます」
「神へ、同じ食事を……」
「肉が多いと、特に喜びます」
セイラム王が、日本酒の杯を置いた。
「覚えておこう」
宰相が、嫌な予感を覚えた顔をした。王が湖畔へ行く気を、まだ諦めていないからだ。
◇
謁見が終わり、ガランとドランは王城の廊下を歩いていた。
大使任命書。王命書。近衛派遣計画書。特使派遣の予告書。魔石箱の受領証。王国から湖畔へ持ち帰るものが、一気に増えた。
「とんでもない話になったのう」
ドランが言った。
「ああ」
「守護神使様が、昔は白夜と呼ばれておったとはな」
「本人から一度も聞いていない」
「『白夜参上』じゃぞ」
「ヒカルが聞いたら、確実に突っ込むだろうな」
「間違いない」
二人は同時に頷いた。
そして、ガランは大使任命書を見下ろす。
「湖畔へ戻ったら、説明することが多い」
「近衛20人。特使。魔石。大使就任。守護神使様の昔の名前」
「それだけではない。職人も集めなければならない」
ドランの目が輝いた。
「そこは任せろ」
「酒を飲みすぎるなよ」
「勧誘には酒が必要じゃ」
「自分が飲みたいだけだろう」
「職人の腹と喉を満たさず、心を動かせるものか」
「ヒカルから預かった酒を、全部飲むな」
「試飲は必要じゃ」
「一杯までだ」
「三杯」
「一杯」
「二杯」
「交渉するな」
ドランは髭を撫で、にやりと笑った。
「では今夜、馴染みの酒場へ行くぞ。大工、鍛冶、石工、水路屋。面白い連中を集めてやる」
「正式な出発は二週間後だ。警護役も手配する」
「お前の後輩たちか?」
「ああ。Aランクチームへ依頼する。表向きはハンターギルドを通す」
「任務は?」
「職人の移動警護。その後、湖畔拠点で三か月、俺たちと共同警備だ」
「湖畔の飯を食えば、三か月では帰らなくなるぞ」
「その可能性はある」
「特に米じゃ。王ですら、あの顔じゃった」
ガランは、稲荷寿司の話を聞いたセイラム王の顔を思い出した。王としての威厳と、銀狐族としての食欲が、激しく争っていた。
「王が突然湖畔へ来ないよう、宰相には頑張ってもらおう」
「来たら来たで、ユキに『さま、いらない』と言われるじゃろ」
「そしてヒカル殿が、王と子供たちへ同じ数の唐揚げを配る」
「王も群れ扱いか」
「ユキが認めればな」
王国の歴史が動こうとしていた。
白狐神は戻り、守護神使も戻った。
420年前、助けられなかった白き神獣の里が、もう一度湖畔に生まれようとしている。今度こそ、王国は何もできなかった国では終わらない。
奴隷だった子供たち。逃亡奴隷だったアルノ。廃村で衰弱していたリリア。彼らを群れとして迎えた湖畔の里を、今度こそ孤立させない。
ただし、その最初の仕事は――。
「まず酒場じゃ!」
廊下の先へ勢いよく歩き出したドランを、ガランが呼び止める。
「待て。まだ昼だ」
「職人は昼から飲んでおる!」
「そんな職人ばかり集めるな!」
国家の大きな決断とは裏腹に、職人招致の第一歩は、いつもの酒場から始まるらしい。
そして二人は、湖畔でこの数日の間に畑が作られ、緑の柵が完成し、小川へ幅6メートルの橋まで架けられようとしていることを――まだ何も知らなかった。
帰還した時、最も大声を上げるのがドランであることだけは、ほぼ確実だった。
続く




