第42話 一方、レイシス皇国では
話はヒカル達が、砦から脱出した夜に遡る。
レイシス皇国西辺国境砦。その夜、南東側通用門の詰所で、最初に異変に気づいたのは若い兵士だった。
「……おい。奴隷管理局の移送班、まだ来ていないのか?」
返事がない。地下房へ向かった兵が戻った時、顔色は紙のように白かった。
「砦長閣下へ報告を! 子供の奴隷3名が消えています!」
ヴォルフ・グレイナー砦長は、その報告を聞いた瞬間、椅子の背もたれから身体を起こした。
「……もう一度言え」
「奴隷管理局移送対象の子供3名が、房から消えています。見張りは昏倒。首輪と命令石も……ありません」
部屋の空気が冷える。グレイナーはしばらく黙っていた。怒鳴りもせず机を叩きもしなかった。それが逆に怖さを物語る。
「門を閉じろ。全出入口を確認。だが、外へ追撃部隊はまだ出すな」
「追わないのですか?」
「追う相手が分からん。夜の森へ無策で兵を出すほど、私は親切な死神ではない」
兵士は息を呑む。グレイナーは立ち上がり、外套を羽織った。
「現場を見る」
地下房へ降りると、鉄格子の部屋は不気味なほど静かだった。
子供3人の姿はない。床にはこすれた跡。見張りの兵は壁際で眠るように倒れている。死んではいない。だが、意識が戻っても、しばらくまともな証言は期待できないだろう。
神務院付きの下級神官が、顔を赤くして叫んだ。
「これは反逆です! オリエントの使節団が――」
「黙れ」
グレイナーの声は低かった。
「ここは私の砦だ。叫ぶだけの口なら外へ出て、狼にでも聞かせてこい」
神官は口を閉じた。
グレイナーは鉄格子の内側へ入り、壁、床、鍵を確認する。
「鍵は?」
「開けられています。破壊ではありません。見張りの鍵が奪われた様です」
「命令石は?」
「消えています」
「首輪は?」
「対象3名分、ありません」
グレイナーは眉をひそめた。
「……妙だな」
副官が聞いた。
「何がでしょうか」
「普通、鍵で房を開けたとしても、首輪までは簡単に外せん」
「命令石ごと持ち去ったのでは?」
「それなら首輪の命令系統は生きている。追跡魔術に反応するはずだ」
そこへ、神務院の上級司祭補佐が入ってきた。白い法衣。銀の刺繍。砦の兵から見れば、扱いに困る存在だった。
「砦長。すぐに追跡術を行います。兵を出しなさい」
「追跡術の結果を見てからだ」
「命令です」
「ここで兵を動かす命令権は私にある」
2人の視線がぶつかった。司祭補佐は唇を歪める。
「白狐神の伝承に関わる可能性があります。軍の判断で遅れることは許されません」
グレイナーは内心で舌打ちした。
白狐神。その名が出た時点で、面倒事の格が上がった。
「ならば、なおさら慎重に動く。相手がただの逃亡奴隷なら兵で追える。だが神務院が白狐神を疑うなら、夜の森へ通常兵を出すのは無駄死にだ」
「臆したのですか」
「責任を負う立場の者は、臆病でなければならん」
司祭補佐は答えなかった。追跡術が始まる。命令石の残滓。首輪の魔力痕跡。子供たちの登録印。だが、床に描かれた追跡円は、途中で火が消えるように途切れた。
「反応が……切れています」
神官が震える声で言った。
「どういうことだ」
「首輪の命令系統が、焼き切られたように……」
司祭補佐の顔色が変わった。グレイナーはその反応を見逃さなかった。
「神務院の首輪を焼き切れる者がいるのか」
「……通常は、いません」
「通常は、か」
グレイナーは壁際に視線を向けた。
そこには、わずかに焦げたような魔力痕が残っていた。火ではない。雷でもない。だが、神官たちはそれを見て、明らかに怯えている。
「白い獣の神気に似ています」
下級神官が小さく呟いた。司祭補佐が鋭く睨む。
「余計なことを言うな」
グレイナーは心の中で、その言葉を記録した。白い獣の神気。つまり、神務院は何かを知り、そして隠している。
一方その頃、砦から少し離れた奴隷管理局収容施設の神務院専用区画では、狐族の少女シオンが、小さな寝台の上で目を開けていた。
首には奴隷首輪ではない、薄い銀環がはめられている。神務院はそれを「保護具」と呼んだ。シオンはその名を信じていない。
この場所には窓がない。灯りは青白い魔石灯。部屋の外には神官兵が2人。
その夜、シオンは夢を見なかった。代わりに、遠くで何かが切れる感覚があった。
ぱちん。小さな火花のような音。それから、胸の奥が少しだけ軽くなった。
「……びゃっこ」
シオンは毛布を握った。夢の中で何度も聞いた名。白い狐。小さな神。
泣いていたような、怒っていたような、でも誰かに手を引かれていたような気配。その気配が、砦から遠ざかっていく。
「逃げた……?」
シオンは安心したかの様に小さく笑った。初めて、少しだけ。だが扉の向こうから足音が聞こえた瞬間、その表情は消える。
司祭補佐が入ってきた。
「シオン」
少女は返事をしなかった。
「今夜、砦内で事件が起きた。お前は何か見たか」
「……夢は見ていません」
「嘘をつくな」
「見ていません」
司祭補佐は近づき、シオンの顎を掴んだ。
「白狐神はどこへ行った」
シオンは怯えた。だが、答えなかった。知らないからではない。言えば、その白い子が危ないと思ったからだ。
「びゃっこは……」
「何だ」
「ひとりじゃ、なくなった」
司祭補佐の手が止まった。シオンはそれ以上言わなかった。
その頃、グレイナーは砦長室で報告書を書いていた。机の上には、3通の書状。
1通目は、辺境伯代理ベルトラン・オルデン宛。2通目は、皇都軍務局宛。3通目は、封をせず、机の引き出しに入れておく私的記録。
公式報告には、こう書く。
オリエント王国使節団滞在中、奴隷管理局移送対象3名が消失。見張りは昏倒。命令石および首輪は所在不明。通用門の警備記録に不備あり。追跡術は途中で失敗。使節団の関与は疑わしいが、現時点で確証なし。
グレイナーは筆を止めた。
確証なし。この一文が重要だった。確証があると書けば、国境紛争の火種になる。確証がないと書けば、神務院が怒る。どちらにしても面倒だ。
「……胃が痛いな」
副官が控えめに言う。
「医師を呼びますか」
「いらん。神務院がいるだけで治らん病だ」
副官は笑わなかった。賢明だった。朝になる前に、神務院は独自の追跡隊を出した。神官兵6名。追跡術師2名。黒い外套の男が1名。軍の正式部隊ではない。
グレイナーは城壁の上から、それを見下ろしていた。
「止めなくてよろしいので?」
副官が聞く。
「止めれば、私が隠していることになる。行かせれば、森が判断する」
「森が?」
「この砦の東と南にある森は、人の命令を聞かん」
追跡隊は夜明け前の街道へ出た。やがて、犬を連れた追跡兵が首を振る。匂いが不自然に途切れているらしい。
さらに進んだ先で、魔力痕も乱れた。まるで途中から、逃亡者たちが地面の上を歩いていないかのように。
「車輪跡は?」
「妙な跡があります。馬車ではありません。幅が広く、深さが一定で、途中で消えています」
報告を聞いたグレイナーは目を細めた。鉄の獣。使節団が連れていた異界人ヒカル。病弱な人族の子として隠されていた、あの白い子。
そして神務院の首輪を焼き切る何か。点が線になりかけている。だが、線にしてはいけない。少なくとも今は。
「追跡隊には、南東街道方面を調べさせろ。軍は深追いしない」
「神務院が抗議するかと」
「抗議は紙に書かせろ。紙は兵より安い」
副官は少しだけ口元を動かす。
砦内では、奴隷管理局の担当官が半狂乱になっている。
「移送対象が消えたなど、私は聞いていない! 管理責任は砦にある!」
グレイナーは冷ややかに言った。
「移送時間を前倒ししたのは奴隷管理局と神務院だ。私の兵は、その変更を直前に知らされた」
「だが房は砦内だ!」
「もちろん見張りの不備は処分する。だが、首輪の命令系統が焼き切られた件は、そちらの管理技術の問題ではないか?」
担当官は黙った。首輪に問題がある。その一言は、奴隷管理局にとって致命的だった。
グレイナーは続ける。
「それとも、神務院製の首輪は、幼子でも簡単に外せる粗悪品だと報告書に書くか?」
「……いえ」
「ならば黙って手順書を出せ。今後、同様の事案が起きた時の確認事項をまとめる」
完全に事務処理の口調だった。それが一番怖い。
そして夜が明ける頃、神務院専用区画から、シオン移送の命令が出た。目的地は皇都ではない。西辺神務院支部の奥にある、古い研究礼拝堂。
表向きは保護。実態は隔離。シオンは馬車に乗せられる直前、砦の南東を見た。
森の向こう。湖のある方角。そこに何があるのか、シオンは知らない。だが、胸の奥で小さな声がした。白い子は、生きている。ひとりではない。そして、きっとまた夢で会う。
「びゃっこ……」
シオンの呟きは、馬車の車輪の音に消えた。
グレイナーはその馬車を見送った。神務院は焦り、奴隷管理局は怯えている。辺境伯代理は責任を押しつける相手を探すだろう。
オリエント王国の親書は、すでに皇都へ向かっている。そして、白狐神らしき存在は、砦から消えた。
「副官」
「はっ」
「私的記録を残す。封印して保管しろ。私が死んだ場合のみ開け」
「そこまでですか」
「そこまでだ」
グレイナーは静かに言った。
「今夜、この砦で起きたのは、ただの脱走ではない。神務院が420年隠してきた何かの、蓋が少しずれた音だ」
副官は息を呑んだ。グレイナーは窓の外を見る。夜明けの空は、薄い灰色だった。
「そして蓋を開けたのは、おそらく……白い狐の子供だ」
その言葉は、誰にも記録されなかった。ただ、砦の冷たい石壁だけが聞いていた。
続く




