第29話 白狐神と約束のホットミルク
湖畔に戻った時点で、日はすでに傾いていた。空は赤く、湖面は夕焼けを映している。
俺が建てたアンティークな街灯風のソーラー式ポールライトが、ぽつりと灯り始めていた。まだ一本だけの、小さな灯り。けれど今の俺たちには、十分に「帰ってきた」と思わせる光だった。
「よし。まず寝床だ」
感傷に浸っている場合ではない。俺たちは十二人と、ミミとクロメの大所帯だ。
俺、ユキ、ガラン、リーファ、ドラン、ロク、マリベル、アルノ、ミーシャ、トト、ニナ、リリア。そして元使役魔犬二頭。
帰る場所はできたが、寝る場所はまだない。現実はいつも、ちょっと雑に襲ってくる。
「今日は本格的な建物は無理だな。テントを張る。まず全員が横になれる場所を作るぞ」
ガランが頷く。
「見張りの位置も決める。湖側、森側、両方だ」
「頼む」
俺は収納から、家族用大型テントを数張り、個人用マット、寝袋、毛布を出した。
それから、食事場所用に三メートル×六メートルのタープテントを購入する。サイドシート付き。風よけにもなる。さらに折りたたみテーブルを五台。椅子も人数分。調理用のテーブルを一台追加。湖畔に、仮の食堂ができていく。
まだ床は草地だ。テントのサイドシートが壁代わり。でも、テーブルが並び、椅子が置かれ、ランタンが灯ると、それだけで急に「ここで暮らす」感じが出てきた。
「おっちゃん」
ユキがこびゃっこを抱えて、タープの下を見上げた。
「ここ、ごはん?」
「ああ。しばらくはここが食堂だ」
「しょくどう」
「ごはんを食べる場所」
「ユキ、わかった。ここ、にくのばしょ」
「だいたい合ってるけど、肉限定ではない」
ニナは折りたたみ椅子を広げている。使い方も大分覚えたようだ。
「折り畳み、べんり」
「指を挟むなよ」
「わかった」
リリアはテーブルの配置を見て、少しだけ顔つきが変わった。
「食事の場所でしたら、風向きを考えて、こちら側に給仕用の台を置くと動きやすいと思います」
「助かる。じゃあ、この調理用テーブルはそっちか」
「はい。子供たちは奥側に座ると、湖側へ走り出しにくいかと」
「なるほど」
さすが元メイド。生活動線への理解が早い。ただし、リリア本人はまだふらつくので、重い物は持たせない。
「リリアは指示だけな。持つのは俺たち」
「ですが」
「まずは、回復が仕事だ」
「……はい、ヒカルさん」
少し不満そうだが、昨日よりは受け入れが早い。これも進歩だ。
ミーシャはトトの手を引き、椅子に座らせていた。トトは湖を見て、少し不安そうに耳を伏せる。
「ここ、広いね」
「ああ。広い」
「逃げるところも、いっぱい?」
その言葉に、俺は一瞬止まった。逃げる場所。この子たちにとって、広い場所は安心でもあり、不安でもあるのか。俺はしゃがんで、トトの目線に合わせた。
「逃げる場所もある。でも、ここは逃げなくてもいい場所にする」
「逃げなくていい?」
「ああ。見張りもいる。ユキの結界も張るし俺もいる」
トトはユキを見た。ユキは胸を張る。
「ユキ、とりい、する」
「とりい……」
「こわいの、ちょっとへる」
トトは小さく頷いた。
「じゃあ、ちょっと大丈夫」
「そうだ。ちょっと大丈夫だ」
ユキは湖畔の草地にしゃがみ、指で鳥居紋を描いた。
ぱちっ。白い火花が小さく走り、鳥居紋が淡く光る。空気が少し柔らかくなり、湖の波音が近くに。森のざわめきが遠くなる。ミミとクロメも、その結界の内側で丸くなった。
「よし。寝床と食堂は仮で確保。次は約束のやつだ」
ユキの耳が立つ。
「ほっとみるく!」
「ああ。全員分だ」
「むれのしあわせのおゆ!」
「そうだな」
俺は鍋を出し、カセットコンロで牛乳を温める。焦がさないようにゆっくり混ぜる。砂糖を少し。人数分のマグカップを出す。紙コップでもよかったが、今日はちゃんとしたカップにしたかった。
ここが家になるなら、最初の一杯くらいは、使い捨てじゃない方がいい。
「はい、ユキ」
ユキは両手でマグカップを受け取った。ふーふーして、一口飲み目が細くなる。
「うんみゃあ。しあわせのおゆ」
「約束だったからな」
「おっちゃん、やくそく、まもった」
「ああ」
「えらい」
「俺が褒められる側か」
ミーシャは恐る恐るカップに口をつけた。
「甘い……」
トトは一口飲んで、耳をふわっと立てた。
「あったかい」
ニナは無言で飲み、すぐに言った。
「おいしい。おかわりある?」
「早いな。全部飲んでからな」
ドランが笑う。
「ニナ、いい飲みっぷりだ!」
「いや、酒じゃないから」
リリアはマグカップを両手で包み込んだまま、しばらく動けずにいた。
「リリア。口に合わないか?」
俺が声をかけると、彼女は小さく首を横に振った。
「いえ……座って、温かいものをいただくのが、まだ少し、不思議で」
「これから慣れればいい」
「はい」
リリアは一口飲んだ。その瞬間、目に涙が滲む。
「……甘いです」
「砂糖入りだからな」
「はい……とても」
ユキが満足そうに頷く。
「リリア、しあわせのおゆ、わかった」
「はい。とても、よく」
ガランもマグカップを手に、静かに息を吐いた。
「これは落ち着くな」
「拠点の定番にする」
「いい判断だ」
リーファは湖を見ながら飲んでいた。
「温かい甘い飲み物って、不思議ね。体より先に心がほどける感じがする」
「名言っぽいな」
「たまには言うわよ」
マリベルも頷く。
「衰弱した人に出す場合は量を調整すれば、良い補助になりますね」
「治療担当の評価は、実用的だな」
「大事です」
ロクはミミとクロメの水皿を置きながら、自分のカップを持った。
「俺も好きっす。甘いの、いいっすね」
「狼族も甘いのいけるんだな」
「狼族っすけど、甘いのは普通に好きっす」
「そりゃそうか」
湖畔の風が吹いた。タープの下に、温かい湯気がいくつも立つ。それだけで、この場所が少しだけ家に近づいた気がした。
まだ仮のテントだ。まだ壁も床もない。それでも、座る場所があって、温かいものがあって、誰かと同じものを飲める。それは、きっと家の最初の形なのだと思う。
ユキはマグカップを抱えたまま、ポールライトを見ていた。
「おっちゃん」
「何だ?」
「ここ、むれのばしょ」
「ああ」
「みんな、いる」
「そうだな」
「ユキ、うれしい」
俺は少しだけ言葉に詰まった。その「うれしい」は、肉を食べた時の「うんみゃあ」とは違う。ホットミルクを飲んだ時の「しあわせ」とも違う。
森で一人だった子が、灯りのある場所で、群れと同じものを飲んでいる。それだけのことが、たぶんユキにとっては大きい。
「これから、もっとちゃんとした場所にする」
「おうち?」
「ああ。家だ」
「むれのいえ」
「そうだ」
ユキはこびゃっこをぎゅっと抱いた。
「こびゃっこも、すむ」
「ああ。こびゃっこもだ」
ミーシャはその会話を静かに聞いていた。トトはマグカップを両手で包んでいる。ニナはすでに空になったカップを覗き込んでいた。
リリアは涙を拭いて、少しだけ笑っていた。ガランたちは、見張りの位置を確認しながらも、どこか肩の力が抜けている。
湖の波音。森の気配。ポールライトの小さな灯り。タープの下の湯気。首輪の国から逃げてきた俺たちは、ようやく息を吐いた。
次は夕食だ。疲れているし、腹も減っている。そして何より、明日からは家づくりが始まる。なら今夜は、あまり手間をかけず、温かくて、できれば楽しいものがいい。
俺はスキルショップを開いた。弁当。惣菜。和食。いくつか眺めて、そこで目が止まった。
「のり弁当……」
白飯に海苔。シャケ。白身魚のフライ。ちくわ磯辺揚げ。きんぴら。漬物。懐かしい。地球では何度もお世話になった、庶民の味方だ。異世界で最初の帰還飯がのり弁当。
悪くない。いや、かなりいい。
「今日はこれにするか」
ユキが耳を立てる。
「なに?」
「箱に入ったごはんだ」
「はこのごはん」
「ああ。のり弁当っていう」
「のりべんとー?」
「そうだ」
ユキは真剣に頷いた。
「のりべんとー、たぶん、えらい」
「まだ見てないだろ」
「なまえが、えらい」
「名前で判断するな」
だが、ユキの予感はたぶん当たる。腹が減った夕方。灯りの下。帰ってきた最初の夜。のり弁当は、きっと強いに違いない。
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【収支報告】
異世界生活十日目・夕方
開始残高:864,906 pt
今回の購入:
・大型テント、追加寝袋、マット、毛布、犬用ブランケット 420 pt(約42,000円)
・タープテント3m×6mサイドシート付き、折りたたみテーブル、折りたたみ椅子一式 620 pt(約62,000円)
・調理用折りたたみテーブル、予備ランタン、簡易洗い桶、片付け用ゴミ袋 80 pt(約8,000円)
・ホットミルク材料、牛乳、砂糖、マグカップ類 90 pt(約9,000円)
今回支出合計:1,210 pt(約121,000円)
現在残高:
864,906 pt − 1,210 pt = 863,696 pt
円換算目安:
863,696 pt × 100円 = 約86,369,600円相当
続く




