第27話 白狐神と逃げられないおっちゃん
その夜、俺たちは森の外縁で一泊した。湖までは、明日の昼頃には出られる見込みだが、無理をして夜の森を進む理由はない。
負傷者がいて、子供もいる。リリアもまだ本調子ではない。そして俺は、ここ数日で人生何回分かの緊張を味わった。もう十分だ。夜道チャレンジはもう終了したい。
「ここなら結界を張れるわ」
リーファが周囲を確認しながら言った。木々の間に、少し開けた場所がある。倒木が風よけになり、地面も比較的乾いている。すぐ近くに小さな沢もあった。
ロクが鼻を動かす。
「魔物の匂いは薄いっす。人の匂いもないっすね。ただ、夜は何が来るか分からないっす」
「じゃあ、野営だな」
俺は収納からテント、マット、寝袋、ランタンを出した。もう見慣れたはずのガランたちも、やはり収納からぽんぽん物が出てくる光景には微妙な顔をする。
「ヒカル」
「何だ?」
「今さらだが、お前の収納の中は、戦略物資そのものだな」
「俺もそう思う」
まさか自分の世界の整理収納アドバイザー資格が、異世界で戦略扱いされるとは思わなかった。人生、収納から始まる戦争もあるらしい。いや、ない方がいい。
俺は二台のバギーを収納し、周囲に目立つ物を残さないようにした。ユキは草地にしゃがみ、指先で小さな鳥居を描いている。
「ここ、ねるところ?」
「ああ。今夜はここで寝る」
「とりい、いる」
「ああ、頼む」
ユキが指先を鳥居に触れさせる。
ぱちっ。小さな白い火花が走り、地面の鳥居紋が淡く光った。空気が少しだけ柔らかくなる。森のざわめきが、遠くへ下がったような感じだ。
ミーシャが目を見開く。
「また、静かになった」
トトも猫耳をぴんと立てた。
「怖いの、少し減った」
ニナはしゃがんで、鳥居紋をじっと見ている。
「鳥居、べんり」
「それも、べんりに入るのか?」
「安心、べんり」
「確かにそうだな」
ユキは胸を張った。
「ユキの、とりい、えらい」
「ああ。かなり偉い」
その言葉に、ユキは満足そうに尻尾を揺らした。
夕食は簡単にした。温かい野菜スープ。ロールパン。スライスした焼豚ハム。子供四人には同じ量。大人にも同じように配る。ユキは自分の皿を見て、ミーシャたちの皿を見る。
「おなじ」
「ああ。同じだ」
「むれ、おなじ」
「そうだな」
ユキは少し考えてから、真面目な顔で頷いた。
「にくもおなじ、だいじ」
「そこに着地するか」
だが、たぶん合っている。
ミーシャはまだ、配られる量を確認する癖が抜けていない。トトも、自分の分が本当に自分のものか不安そうに見ている。ニナは単純に肉を見ている。リリアはスープを受け取って、まだ少し遠慮した。
「私は、皆様の後で……」
「今…」
俺が言う前に、ユキが言った。
「リリア、いまたべる」
リリアは一瞬固まり、それから小さく笑った。
「はい、ユキ」
昨日より、少しだけ返事が自然になっている。それだけで、ちょっと安心した。
食後に、見張りの順番を決める。ガラン、リーファ、ロク、ドラン。マリベルは治療担当なので休ませる。俺も一応入ると言ったが、ガランに却下された。
「お前は明日も運転だ。寝ろ」
「でも」
「寝ろ」
「はい」
圧が強い。ガランも運転するのだが、ランクSの「寝ろ」は、上司の「今日中によろしく」より強い。逆らえない。
テントの中で、ユキが俺の寝床に潜り込んでくる。
「ユキの寝袋は隣だぞ」
「おっちゃん、にげる」
「逃げないよ」
「でも、ねると、いなくなるかも」
俺は少し黙った。ユキは森で一人だった。眠って、起きて、誰もいない日々を過ごし、それが彼女にとって当たり前の生活だった。
初めて会った時は、一人の生活が当たり前で、寂しさの概念も知らない感じだっだが、俺やガランたちと一緒にいる内に、一人になることを恐れるようになったのだろう。
だから、寝る時に袖を掴む。それを、ただの甘えとは言えない。
「分かった。今日はこっちで寝ろ」
「うん」
ユキはこびゃっこを抱え、俺の腕に尻尾をかけた。
「おっちゃん」
「ん?」
「あした、みずうみ?」
「ああ。湖に出る」
「ユキの、かりのいえ?」
「そうだ」
「ほんとのいえ、つくる?」
「ああ。作る」
「むれのいえ」
「そうだな。群れの家だ」
ユキは満足そうに目を閉じた。
「よし」
そう言ってユキは、あっという間に眠りにつく。
翌朝。異世界生活十日目。人生で一番内容の濃い十日間を過ごした後の朝の森は、薄い霧に包まれていた。
以前マリベルに聞いたところ、今は三月。こちらでは三の月と言うそうだ。俺はこちらに来た時の元世界の日付を覚えていないが、なんとなく同じ三月だったような気がする。
今日の日付は三月二十九日。曜日は第六曜日。元世界の土曜日にあたる。
冷たい空気の中で、ミミとクロメが周囲を嗅ぎ回っている。ロクは眠そうな顔で、でも耳だけはしっかり動いていた。
「追手の匂いはなしっす」
「本当か?」
「少なくとも近くにはいないっす。街道側の匂いも薄いっすね」
「助かる」
簡単な朝食を済ませ、俺たちは再び二台のバギーを出した。一台目は俺。
二台目はガラン。昨日と同じ配置だ。
ユキは前席でシートベルトを締められながら、胸を張った。
「くびじゃない。からだ、まもるひも」
「そうだ。よく覚えてるな」
「ユキ、せんぱい」
ニナが金具を見ながら言う。
「この留めるところ、べんり」
「勝手に外すなよ」
「今は、しない」
「走ってる時も絶対しない」
「わかった」
毎回ここは確認が必要だ。ニナは悪気なく構造を理解しようとする。そのうち、俺が目を離した隙にバギーのシートベルトを分解しそうで怖い。
早速、出発した。森の中を、二台のバギーがゆっくり進む。朝露に濡れた草。低い枝。根が盛り上がった地面。沢を越え、倒木を避け、時々バギーを収納して徒歩で抜ける。
面倒だ。でも、昨日より皆が慣れてきていた。トトも酔い止めの飴を舐めながら、昨日ほど青い顔をしていない。
「トト、大丈夫か?」
「うん。今日は、ちょっと大丈夫」
「それはよかった」
「でも、揺れる」
「すまんな、我慢してくれ」
ユキが隣で頷く。
「もりのくるま、げんき」
「元気すぎるな」
「おしり、ぼよん」
「そこは言わなくていい」
後席でミーシャが少し笑った。その笑い方は、まだ小さい。でも、砦の鉄格子の中で見た顔とは違う。
リリアも、トトが酔わないように水を渡したり、ミーシャの尻尾が引っかからないよう気にしたりしていた。
「リリア、無理するなよ」
「はい。座ったままでできることだけにします」
「本当に?」
「……努力します」
「よし」
少しずつだ。リリアはまだ、自分が何もしないことに不安を覚える。だが、「座ったままでできることだけ」という折り合いをつけられるようになった。進歩である。
昼前、森の匂いが変わった。湿った木の匂いの奥に、水の匂いが混ざる。
ユキが顔を上げた。
「みず」
「湖か?」
「おおきいみず」
ロクも二台目から声を上げた。
「水の匂いっす! かなり大きいっすね!」
ガランが少し前に出て、地形を確認する。
「もうすぐ抜ける。だが、予定よりかなり東に出るな」
「東?」
「ああ。湖の南側だ。仮拠点は南西側だから、湖岸沿いに戻る必要がある」
「どれくらい?」
「昼食後に移動して、車で行ければ、夕方には着けるはずだ」
俺はホッと息をつく。夕方になるが、ようやく戻れる。そのままバギーを走らせると、木々の間が明るくなっていき、空が広がる。視界の先に、光る水面が見えた。
湖だ。昼頃、俺たちは湖畔の南側へ出た。森が途切れ、視界いっぱいに水が広がる。大きな湖。波打つ水面。小砂利の浜。草地。遠くに水鳥の影。
久しぶり、と言うほど長く離れていたわけではない。だが、俺には妙に懐かしく見えた。
「湖だ……」
思わず呟く。ユキが前席で身を乗り出そうとする。
「みず!」
「ベルトしてるから乗り出すな」
「みずうみ!」
「ああ、湖だ」
「ゆきの、みず!」
「所有権がでかいな」
ユキは尻尾をぶんぶん振った。ミーシャ、トト、ニナは初めて見る大湖に言葉を失っていた。
「……海?」
ミーシャが呟く。
「湖だ」
「向こう岸、見えない」
「かなり大きいからな」
トトは耳を立てて水音を聞いていた。
「怖くない音」
ニナは小砂利の浜を見た。
「走りやすそう」
「そこに注目するのか」
「バギー、いける」
「確かにその通りだ」
小砂利の浜と草地が続いている。森の中より、ずっと走りやすい。仮拠点は湖の南西側。つまり、湖岸沿いに西へ戻ればいい。
その前に、まずは昼食だ。俺たちは湖から少し離れた草地にバギーを止めた。タープテントを張って、簡易の休憩場所を作る。
ユキがまた鳥居紋を描く。
「ここ、ひるごはんのばしょ」
「頼む」
ぱちっ。淡い光が走る。ミミとクロメがその内側で丸くなる。魔犬二頭も、もう鳥居結界に慣れてきたようだ。
ここで、次の段取りだ。食べて、休んで、湖岸沿いに西へ進む。灯りのある場所まで、あと少し。
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【収支報告】
異世界生活九日目〜十日目昼前
開始残高:865,476 pt
今回の購入:
・一泊野営用追加食材、スープ材料、ロールパン、焼豚ハム、朝食用食材 120 pt(約12,000円)
・子供用酔い止め風飴、水分補給用品、アルノ・リリア用経口補水飲料補充 45 pt(約4,500円)
・バギー燃料補充分、簡易整備用品、軍手 80 pt(約8,000円)
今回支出合計:245 pt(約24,500円)
現在残高:
865,476 pt − 245 pt = 865,231 pt
円換算目安:
865,231 pt × 100円 = 約86,523,100円相当
続く




