第24話 白狐神と廃村のメイド
廃村に、人の匂いがある。ロクがそう言った瞬間、俺の背中にまた緊張が戻った。まだ休めない。
まあ、そうだろうなとは思った。異世界八日目、ここまで来て「安全な廃村でした、めでたしめでたし」となるほど、俺の人生は親切ではない。
「人数は?」
ガランが低く尋ねる。
「一人っす。かなり弱ってるっす。血と泥、それから…やっぱりエルフの匂いっす」
「エルフ……」
リーファの声がわずかに硬くなった。アルノも、車内で顔を上げる。
「エルフ、ですか……?」
「アルノは動くな」
マリベルが即座に言った。
「今のあなたが動いたら、また熱が上がります」
「ですが……」
「だめです」
マリベルの声は柔らかいが、逆らいにくい。アルノは小さく頷いた。
俺は車を見た。白いコミューターバス。夜明け前の廃村に置かれた、異界丸出しの巨大な箱。
「これは隠した方がいいな」
ガランが頷く。
「ああ。目立ちすぎる」
「べんりなのに」
ニナがぼそっと言った。
「便利だけど目立つんだ」
「べんり、むずかしい」
「そうだな。便利は難しい」
俺は全員をいったん廃屋の陰へ移動させてから、コミューターバスを収納した。
音もなく、大きな車が消える。ミーシャが目を見開く。
「消えた……」
トトがミーシャの服を掴む。
「あれ、魔法?」
ニナは短く言った。
「消えた。べんり」
「その反応、助かる」
魔法で片づけるより、便利で片づける方が精神的に楽だ。ドランがうむうむと頷く。
「ニナは見込みがあるな」
「ドワーフなの?」
ニナがドランを見る。
「そうだ。ドランだ」
「わたしニナ」
「知っておる。首輪が外れてよかったな」
ニナは首元を触る。
「軽くなった。べんり」
「そうか。よし」
何がよしなのか分からないが、ドランは満足そうだった。ガランが周囲を見る。
「まず確認だ。ヒカル、ユキ、リーファ、ロク、マリベルは来い。ドランはここで子供たちとアルノを守れ」
「また留守番か」
「斧を持って地下に降りると音が出る」
「ぐうの音も出ん」
「今は音を出すな」
「分かった」
ドランは不満そうに斧を抱えた。だが、ミーシャたちを見ると真顔になる。
「大丈夫だ。ここにおれ。ワシが見ておる」
ミーシャは警戒しながらも、小さく頷いた。トトはミーシャの後ろに隠れる。ニナはドランの斧を見ていた。
「それ、べんり?」
「とても便利だ」
「何に?」
「扉を壊す」
「べんり」
「ニナ、それは便利の方向が危ない」
俺は小声で突っ込んでから、ロクの案内で廃屋へ向かった。廃屋は、村の中では少し大きな建物だった。
かつては村長の家か、集会所だったのかもしれない。屋根は半分落ち、壁には蔦が絡んでいる。入り口の扉は外れ、床板の一部が腐っていた。
ロクが鼻を動かす。
「下っす」
「地下?」
「貯蔵庫みたいな場所っす」
床板の一部が外されている。その下に、暗い穴と階段が見えた。リーファが耳を澄ませる。
「息遣いがあるわ」
俺は鑑定を使う。
⸻
【鑑定結果】
対象:エルフ女性
年齢:二十歳前後
状態:衰弱、脱水、軽度発熱、外傷、強い恐怖
備考:元奴隷。首輪解除済み。逃亡中。
⸻
「エルフの女性。二十歳くらい。元奴隷だ。首輪はもう外れてる」
リーファの顔が険しくなる。
「降りましょう」
「待て。相手は怯えてる。いきなり大人数で行くと怖がらせる」
俺は息を吐く。
「リーファ、マリベル、俺、ユキで行く。ガランとロクは入り口を押さえてくれ」
「分かった」
ガランは頷いた。ユキが俺の服を掴む。
「おっちゃん」
「怖いか?」
「くびに、ひも、ない。でも、いたいにおい」
「そうか」
「ユキ、いく」
「俺の後ろだ。勝手に前に出るな」
「うん」
俺は収納からランタン風ライトを出した。見た目は古いオイルランタン。中身は現代のLED。こういう「それっぽく見える道具」を買っておいてよかった。異世界では、便利さより見た目の言い訳が大事なことが多い。
地下への階段を慎重に降りる。石の壁。湿った匂い。古い野菜か穀物を保管していた場所だろう。空気が重い。奥に壊れた樽があり、その影に人影があった。
長い淡金色の髪。尖った耳。破れたメイド服。いや、メイド服だったもの、と言うべきか。
泥に汚れ、袖は裂け、スカートも破れている。首元には、首輪の跡が生々しく残っていた。手首にも拘束具の痕がある。彼女は光を見ると、びくっと震えた。
「い、いや……」
逃げようとして、壁に背をぶつける。リーファがゆっくり手を上げた。
「大丈夫。傷つけないわ」
女性はリーファの耳を見る。同じエルフだと分かったのか、一瞬だけ表情が揺れた。だが、すぐに恐怖へ戻る。
「私は……逃亡奴隷です……でも、まだ働けます……」
彼女は震える身体で、床に手をついた。跪こうとしている。
「掃除も、洗濯も、料理もできます。子供のお世話も、裁縫も……どうか、どうか売らないでください……」
俺は言葉を失った。その言い方は、あまりに自然だった。何度も何度も繰り返してきた言葉なのだろう。
自分を人間ではなく、役に立つ道具として差し出す言葉。腹の奥が熱くなる。息を吐く。こわいおっちゃん、だめ。ユキの声を思い出す。怒りは燃料。ハンドルは段取り。
ユキが俺の後ろから一歩出た。
「ユキ」
止めようとした俺に、ユキは静かに首を横に振った。小さな足で、女性へ近づく。
女性はユキを見た。白い髪。白い狐耳。大きな白い尻尾。黒に金の光彩を宿した瞳。薄暗い地下で、ユキだけがぼんやり光っているように見える。
女性の目が大きく開いた。
「あ……」
ユキは彼女の前でしゃがんだ。
「くびに、ひも、ない」
女性は自分の首元を押さえた。涙がこぼれる。
「……はい。もう、ありません」
「じゃあ、だいじょうぶ」
ユキは言った。
「リリアは、リリア」
女性が固まった。まだ名前を言っていない。俺も驚いた。
鑑定を見直す。
⸻
【鑑定結果】
名称:リリア
種族:エルフ
年齢:二十歳
職能:メイド、家事、裁縫、読み書き、薬草知識
状態:衰弱、強い恐怖、自己否定傾向
備考:奴隷生活により自己決定能力が著しく低下しています。
⸻
ユキが名前を言ったのは、鑑定を見たからではない。何か感じたのか。それとも、彼女が心の奥で自分の名を抱きしめていたのか。リリアは震えながら、ユキを見つめた。
「なぜ……私の名を……」
ユキは首を傾げる。
「?リリアは、リリア」
それだけだった。リリアの顔が崩れた。床に伏せるようにして、涙をこぼす。
「私は……奴隷です……」
ユキは不思議そうに言った。
「ひも、もうない」
「でも……」
「ひも、ない。リリアは、リリア」
その単純な言葉が、リリアに突き刺さったようだった。彼女は声を殺して泣き始めた。
俺はしゃがんだ。
「リリア、と言ったな」
彼女はびくっとする。
「はい……申し訳ございません、名乗りもせず……」
「謝らなくていい」
「ですが……」
「謝らなくていい。まず水を飲め」
俺は収納から水を出し、木のカップに移して渡した。ペットボトルをそのまま出すと混乱するからだ。リリアはカップを受け取ろうとして、手を止める。
「いただいて、よろしいのですか?」
「そのために出した」
「でも、私は……」
「奴隷じゃない」
俺は少し強く言った。リリアの肩が震える。やりすぎたか。俺は声を落とす。
「少なくとも、俺のところでは奴隷じゃない。水を飲んで、話はそれからだ」
リリアはカップを両手で受け取り、少しずつ水を飲んだ。
一口。また一口。喉が動く。彼女の目から、また涙が落ちた。
「水を……座って飲んでも……」
「いいに決まってる」
俺は小さく息を吐いた。この国は、人からそんなことまで奪うのか。リーファがリリアの横に座り、優しく背を支える。
「ゆっくりでいいわ」
「エルフ……?」
「ええ。私はリーファ。オリエント王国のハンターよ」
「オリエント……」
リリアの目に少しだけ希望が浮かび、すぐにまた不安が戻る。
「私は、レイシスの貴族屋敷から逃げて来ました。神務院に引き渡されるところを奥様が…私の首輪を外し逃して下さったのです。でも追っ手が……」
「今は近くにいない」
入り口からロクが答える。
「匂いは薄いっす。追手はここまで来てないか、かなり前に外れたっす」
リリアはロクを見る。狼族の獣人だと分かり、また驚いた顔をする。
「獣人……それに、神獣様……」
ユキがむっとした。
「ユキ」
「え?」
「ユキは、ユキ」
リリアは慌てて頭を下げる。
「も、申し訳ございません、ユキ様」
「さま、いらない」
「ですが……」
「ユキ」
リリアは混乱したように俺を見る。俺は頷いた。
「この子はユキだ。そう呼んでくれ」
「……ユキ、様」
「さま、ない」
「ユ、キ……」
リリアが恐る恐るそう言うと、ユキは満足げに頷いた。
「よし」
何がよしなのかは分からないが、ユキ的には合格らしい。マリベルがリリアのそばへ膝をつく。
「状態を見ます」
リリアは反射的に身体を固くした。
「私は大丈夫です。まだ働けます」
「働く話はあとだ」
俺は言った。
「まず手当て」
「ですが、私は」
「またそれ」
ユキが言った。リリアがびくっとする。
「リリア、ねて、たべる。げんきになる」
アルノの時と同じ言葉。リリアはその言葉に、また目を潤ませた。
「私は……寝てよろしいのですか?」
「寝ろ」
俺は即答した。
「食べていいのですか?」
「食べろ」
「働かずに?」
「働くのは元気になってから考えろ」
リリアは本気で分からない顔をした。
「でも、役に立たなければ、私は何のために……」
その言葉が、地下の空気を重くした。俺は少し考えた。気の利いたことは言えない。
俺は元サラリーマンで、異世界転移して、四十の手習いで何とかやっているおっさんだ。奴隷だった人間の心を、すぐに救えるほど立派ではない。だから、言えることだけ言う。
「まず飯食って、寝て、朝起きるためだ」
リリアは俺を見る。
「それで……よろしいのですか?」
「最初はそれでいい」
ユキが追加した。
「あと、ほっとみるく」
「ほっと……?」
「しあわせのおゆ」
リリアは泣きながら、少しだけ笑った。初めて、ほんの少しだけ。マリベルがリリアの傷を確認する。
「脱水と衰弱。発熱もあります。手首の傷は化膿しかけています。今すぐ移動させるより、ここで休ませた方がいいです」
「追手は?」
ガランが地下の入り口から聞いた。ロクが答える。
「今のところ気配なしっす。ただ、車の跡は残ってるっす。街道から外れたところまでは分かるかもしれないっす」
「長居は危険だが、リリアを動かすのも危険か」
「半日休ませたいです」
マリベルが言う。ガランは少し考えた。
「この廃村で一度態勢を整える。追手が来る前に痕跡を散らす。車は収納済みだな?」
「ああ」
「なら、次は拠点化だ。最低限でいい」
「分かった」
俺たちはリリアを地下から運び出した。リリアは何度も謝った。担がれることにも、支えられることにも、毛布をかけられることにも。
そのたびに俺は言った。
「謝らなくていい」
何度でも言うしかなかった。
廃村の中で、使えそうな家を探す。屋根が残っている大きめの家。壁は傷んでいるが、風は防げる。床は一部崩れているものの、寝る場所は作れそうだ。
そこを一時拠点にする。テントを中に張る。寝袋と毛布を出す。簡易マット。ランタン。水。救急用品。
ただし、外から見えないように注意する。窓は布で覆う。煙は出さない。調理はカセットコンロで最小限。
ガランたちは見張りと周辺確認へ。ロクとミミ、クロメは追手の匂い確認。リーファは高い位置から見張り。ドランは家の補強。マリベルはリリアとアルノ、子供たちの手当て。
俺は料理。この流れ、だんだん役割が固定化してきた。
「おっちゃん」
ユキがやってくる。
「なんだ?」
「リリアにも、しあわせのおゆ?」
「飲めるならな。まずは胃に優しいものからだ」
「しちゅー?」
「シチューは少し重い。まずは薄いスープ」
「にくは?」
「少しなら」
「リリア、にく、すきかな」
「聞いてみればいい」
ユキは真剣な顔で頷き、リリアのところへ行った。リリアは毛布に包まれて座っている。
まだ寝台ではなく床に座ろうとしていたので、マリベルとリーファが半ば強制的にマットへ座らせた。
ユキはリリアの前にしゃがむ。
「リリア」
「はい、ユキ」
まだ少し緊張している。
「にく、すき?」
突然すぎる質問。リリアは戸惑う。
「私は……いただけるものなら、何でも」
ユキはむっとした。
「だめ」
「え?」
「にくは、すきっていう」
「ですが……」
「すき?」
リリアは困り果てた顔をした。それから、泣きそうに笑う。
「……好き、です」
ユキは満足そうに頷いた。
「よし。リリア、ちょっとだいじょうぶ」
「ちょっと……大丈夫……」
リリアはその言葉を繰り返した。まるで、初めて聞いた祈りのように。
俺は薄い野菜スープを作った。少しの鶏肉を細かく刻んで入れる。消化にいいように、柔らかく煮る。
リリアには少量。アルノにも。
ミーシャ、トト、ニナにはパンと肉入りスープ。ユキには肉を少し多め。
ユキは自分の器を見て、すぐに言った。
「おっちゃん」
「なんだ?」
「ニナ、もっとにく、いる」
ニナがユキを見る。ユキはかなり真剣な顔をしていた。自分の肉を分けるのは、ユキにとって大事件だ。
「ユキの分を減らすか?」
ユキは自分の器を見た。肉を見る。ニナを見る。また肉を見る。長い葛藤。
「……ちょっとだけ」
ユキは自分の器から小さな肉片を一つすくい、俺に差し出した。
「ニナに」
「偉いぞ」
「ユキ、せんぱい」
「何の?」
「ひも、とったせんぱい」
ミーシャが小さく吹き出した。トトも少し笑った。ニナは受け取った肉を見て、真面目に言う。
「ありがとう」
ユキは胸を張った。
「にく、えらいから、げんきでる」
「うん」
ニナは肉を食べた。そして小さく頷く。
「元気でる」
ユキは満足そうだった。リリアはその様子を見て、涙をこぼしていた。
俺はスープを持って彼女の前に座る。
「リリア。食べられるか?」
「はい……でも、私は後で」
「今食べるんだ」
「皆様の後で」
「同じタイミングで食べる」
「ですが、私はメイドですので……」
「ここでは違う」
リリアが固まる。
「メイドとして働きたいなら、それは後で相談する。でも今は患者。食べて寝るのが仕事だ」
「仕事……」
「そう。今の仕事は、回復すること」
リリアは両手で器を受け取った。震える手でスプーンを持つ。一口。彼女の目が揺れる。
「温かい……」
「スープだからな」
「座って、温かいものを……」
涙がまた落ちる。
「申し訳ございません……」
「謝らなくていい」
「でも……」
「泣いていい。謝らなくていい」
リリアはスプーンを握ったまま、しばらく泣いた。誰も急かさなかった。
ユキも黙って見ていた。やがて、リリアは少しずつスープを食べた。
食後、俺はリリアの首輪跡にも応急処置をした。アルノと同じように、特殊メイクで隠すことはできる。だが今は、まず傷を清潔にする。
手首の拘束痕も洗い、薬を塗る。リリアは手当ての間、ずっと申し訳なさそうにしていた。
「ご迷惑をおかけします」
「手当てくらい迷惑じゃない」
「私、回復したら必ず働きます。掃除も、洗濯も、料理も、子供のお世話もできます。裁縫も、簡単な薬草の知識も……」
「分かった。すごく助かりそうだ」
リリアは少しほっとした顔をした。役に立てると言われると安心する。でも、それだけに依存させるのは危ない。俺は続けた。
「でも、働く前に休め。倒れたら働けない」
「はい……」
「それと、ご主人様は禁止」
リリアがびくっとする。
「ですが……」
「俺はヒカルでいい」
「ヒカル、様……」
「様もできればいらない」
「それは……難しいです」
本気で困っている。俺は少し考えた。
「じゃあ、さん付けでいい」
「ヒカル、さん……」
「それならどうだ?」
リリアは何度か口の中で繰り返した。
「ヒカルさん……」
そして、小さく頷いた。
「努力します」
「それでいい」
ユキが横から言う。
「おっちゃんでもいい」
「それはユキ専用で頼む」
「む」
「む、じゃない」
リリアがほんの少し笑った。かなり弱い笑みだったが、それでも笑った。
昼前。ロクとミミ、クロメが戻ってきた。
「追手の匂いは街道の方で止まってるっす。こっちに入った形跡は薄いっすね。車の跡は途中までありますけど、森の外縁で匂いがかなり散ってるっす」
「完全にはまけてないか」
「はい。でも、すぐここへ来る可能性は低いっす」
ガランが頷く。
「なら、今日一日はここで休む。ただし見張りは切らさない」
「了解」
俺はようやく、少しだけ肩の力を抜いた。その日は、休息と手当てと警戒で過ぎた。
ミーシャはトトから片時も離れず、時々俺たちを警戒していた。
それでいい。急に信用しろという方が無理だ。トトはユキの尻尾が気になるらしく、ちらちら見ていた。ユキが気づいて、尻尾を少しだけ揺らす。
「トト、みる?」
「いいの?」
「ちょっとだけ」
トトは恐る恐る手を伸ばし、尻尾の先に触れた。
「ふわふわ……」
ユキは満足げに頷いた。
「しっぽ、えらい」
「うん……えらい」
トトは少しだけ笑った。
ニナは俺が出した小型バールとボルトカッターを見たがり、ドランと一緒に「便利」について語り始めた。
危険な組み合わせが生まれている。俺は工具を収納した。
「まだ早い」
ニナは不満そうに言った。
「む」
「ユキの真似をするな」
夕方。簡単に夕食を済ませ廃村の家の中に、毛布とマットを敷いた。リリアは当然のように部屋の隅の床で寝ようとした。
「そこじゃない」
俺は言った。リリアがびくっとする。
「申し訳ございません、邪魔にならない場所へ」
「違うんだ。マットを使え」
「私は床で十分です」
「うちでは、床で寝るのは禁止だ」
リリアは困惑した。
「禁止……?」
「ああ。禁止」
ユキが毛布を持ってくる。
「リリア、ふかふか、だいじ」
「ユキ……」
「ふかふかで、ねる」
リリアは毛布を受け取った。両手で大事そうに抱える。
「……はい」
声が震えていた。その夜、リリアは何年ぶりかに、首輪も命令もない場所で横になった。眠る前に、彼女は小さく言った。
「私は、本当に……ここにいてもよろしいのですか?」
俺はランタンの明かりを少し落としながら答えた。
「今夜はここで寝ろ。明日のことは明日考える」
「明日……」
「そうだ。明日がある」
リリアは目を閉じた。涙が一筋、頬を伝う。
「はい……」
ユキはこびゃっこを抱えて、俺の隣に座った。
「おっちゃん」
「なんだ?」
「群れ、また、ふえた」
「ああ。増えたな」
「リリアの、ふかふかも、いる」
「いるな」
「ミーシャ、トト、ニナの、ふかふかも」
「いるな」
「アルノも」
「もちろん」
「ミミとクロメも」
「犬用の寝床も必要だな」
「ロクも、いぬ」
「狼族だって怒られるぞ」
ロクが部屋の隅から小声で言った。
「もう、今日は怒る元気ないっす」
ユキは満足げに頷く。
「ロクも、ふかふか」
「ありがとうございますっす」
俺は天井を見上げた。崩れかけた廃村の家。逃げてきた子供たち。衰弱したエルフの青年。奴隷メイドだったエルフの女性。元使役魔犬二頭。ランクSハンターたち。白狐神の幼女。
人数が増えすぎだ。責任も増えすぎだ。湖畔に戻ったら、キットハウス一棟では絶対に足りない。
「……拠点計画、完全にやり直しだな」
ユキが俺を見る。
「いえ、いっぱい?」
「ああ。いっぱい必要だ」
「ほっとみるくのところも?」
「台所もいるな」
「にくのところも?」
「食堂もいる」
「しっぽ、ふわふわのところも?」
「それは何だ」
「しっぽ、ふわふわするところ」
「……ブラッシング部屋か?」
「それ」
俺はため息をついた。でも、少し笑っていた。
「分かった。帰ったら、拠点計画を拡張だ」
ユキは満足そうに頷いた。
「だんどり」
「ああ。今度は家を建てる段取りだ」
廃村の夜は静かだった。遠くで虫の声がする。追手の気配は、まだない。リリアは毛布の中で、静かに眠っている。アルノも眠っている。
ミーシャ、トト、ニナは一つの毛布に固まって寝ていた。
ミミとクロメは入り口近くで丸くなり、ロクのそばにいる。
ガランたちは交代で見張り。
ユキはこびゃっこを抱きしめ、俺の袖を掴んだまま目を閉じた。
「おっちゃん」
「ん?」
「リリア、ひも、ない」
「ああ」
「よかった」
「そうだな」
「でも、まだ、ひも、いっぱい?」
「たぶんな」
ユキは目を閉じたまま言う。
「じゃあ、また、だんどり」
「……そうだな」
また段取り。首輪を外す段取り。飯を食わせる段取り。寝る場所を作る段取り。逃げる段取り。守る段取り。
四十歳からの手習いは、思った以上に忙しい。でも、今夜は少しだけ休む。俺はランタンの明かりをさらに落とした。
廃村の夜に、俺たちの群れはまた一人増えた。奴隷ではなく、メイドでもなく、まずは眠る場所を必要とする一人のエルフとして。
⸻
【収支報告】
異世界生活8日目
開始残高:946,676 pt
今回の購入:
・廃屋内用の簡易マット、寝袋、追加毛布、犬用ブランケット 260 pt(約26,000円)
・リリア用の救急用品、消毒液、包帯、軟膏、経口補水飲料 95 pt(約9,500円)
・薄い野菜スープ材料、鶏肉、パン、ユキ用ホットミルク、肩ロース焼豚ハム追加 130 pt(約13,000円)
・窓目隠し布、ランタン用予備電池、カセットコンロ燃料補充 75 pt(約7,500円)
今回支出合計:560 pt(約56,000円)
現在残高:
946,676 pt − 560 pt = 946,116 pt
円換算目安:
946,116 pt × 100円 = 約94,611,600円相当
続く




