第21話 白狐神は見捨てない
朝から、砦の中は妙に落ち着かなかった。兵士の足音。役人の声。馬のいななき。荷車の車輪。そして、石壁に反響する鐘の音。
「8時か…」
砦の中庭にある小さな鐘が鳴った。正確な時刻を告げるその音に、俺は思わずマリベルからもらった説明を思い出す。
この世界には、魔石水晶の時計がある。大陸にある各国では大陸標準時として管理されているらしい。異世界なのに、時間管理がやたら近代的だ。過去の異界人の影響という話だ。過去の異界人たち、妙なところで文明を置いていきすぎである。
「おっちゃん」
ユキが俺の袖を引いた。今のユキは、病弱な人族の子供にしか見えない。特殊メイクで顔色は悪く、薄布で顔の下半分を覆い、耳は布とフードで隠している。白い尻尾は背負いリュックの中だ。
「どうした?」
「8、えらい?」
「今の時間か?数字としては普通だな」
「2と9は?」
「肉だろ?」
「うん」
ユキは真剣に頷いた。
「2と9、えらい」
「この状況で数字評価を始める白狐神、なかなか強いな」
「ユキ、びょうじゃく」
「病弱な子はそんなに元気に数字を評価しない」
「む」
「その『む』も病弱風に」
「……む」
控えめになった。よし。いや、何の訓練だこれは。
客舎の中では、全員が静かに動いていた。アルノは寝台の上で横になっている。医官から二日安静と言われたおかげで、無理に動かされる心配は薄い。首輪跡も特殊メイクと包帯で不規則な外傷に見せてある。
マリベルは治療道具を整理しながら、薬師役を続けている。リーファは窓辺で外の動きを見ている。
ドランは扉近くで腕を組み、置物のように立っている。置物にしては圧が強い。魔除けにはなりそうだ。
ロクは耳を澄ませている。狼族の聴覚は、本当に便利だ。
そしてガランは、親書手続きのため、朝早くから砦長グレイナーのもとへ呼ばれていた。
親書。オリエント王国の銀狐王セイラム陛下から、レイシス皇帝へ向けた正式文書。その扱いが終われば、俺たちは一つ身軽になる。
逆に言えば、それが終わるまでは動けない。動けば、外交問題になる。
いや、今からやろうとしていることは、どう考えても外交問題なのだが。そこは深く考えると胃が死ぬ。まず段取りだ。俺はノートを開いた。
一、親書手続き完了確認。
二、ミーシャ、トト、ニナの移送時刻確認。
三、命令石と鍵の所在確認。
四、見張り交代時刻確認。
五、首輪解除時の安全確保。
六、脱出経路。
七、砦外で車を出す場所。
八、ミミとクロメ回収。
九、全員乗車確認。
十、南東街道から森外縁へ移動。
「十項目」
俺は小さく呟いた。会社員時代なら、これをタスク管理表にして、担当者と期限を入れて、進捗会議を開くところだ。
だが今は、首輪をつけられた子供三人の命と、ユキの正体がかかっている。進捗会議どころではない。失敗したら、会議室ではなく牢屋か処刑場だ。
「おっちゃん、むずかしいかお」
「かなりな」
「にく、かく?」
「肉はもう九番じゃない」
「9、ある?」
「九番は全員乗車確認だ」
「のる?」
「ああ。車に乗る」
「くるま?」
ユキの目が少し輝いた。そうだ。脱出後は車だ。ワンボックスのコミューターバス、14人乗り、4WD。すでに購入済みで収納内にある。
人数を数える。俺。ユキ。こびゃっこ。ガラン。リーファ。ドラン。ロク。マリベル。アルノ。ミーシャ。トト。ニナ。
十二人。いや、こびゃっこは違うか。十一人だ。
さらにミミとクロメは犬枠、いや魔犬枠。車内に乗せるか、状況次第で後部スペースに毛布を敷いて乗せる。ぎりぎり行ける。14人乗りを買っておいてよかった。いや、買った時点でこんな逃走劇を想定していたわけではないが。
「おっちゃん、くるま、はやい?」
「ああ。かなり速い」
「ミミとクロメも?」
「回収する」
「よし」
ユキは小さく頷いた。
「むれ、のる」
「群れが増えすぎなんだよな」
「おっちゃん、たいへん」
「本当にな」
その時、扉が軽く叩かれた。兵士の声。
「ガラン殿が戻られた」
ドランが扉を開ける。ガランが入ってきた。その手には、一枚の羊皮紙のような証明書と、封をされた写しがあった。
「終わった」
ガランは短く言った。
「親書は?」
「辺境伯代理ベルトラン・オルデンの預かり証明を受けた。砦長グレイナーの確認印もある。親書は9時30分、早馬で皇都へ向けて出た」
「もう出たのか」
「ああ」
ガランは証明書を机に置く。
「これで、オリエント王国使節団としての第一目的は果たした」
その言葉に、部屋の空気が少し変わった。リーファが静かに息を吐く。マリベルも肩の力を抜いた。ドランは腕を組んだまま、にやりと笑う。
「つまり、少しは身軽になったわけだな」
「そうだ」
ガランは俺を見た。
「ここから先は、親書を人質に取られる心配はない」
「なら」
「ああ」
ガランの目が鋭くなる。
「子供たちの件に集中できる」
ユキの手が、俺の袖を強く握った。
「おっちゃん」
「分かってる」
俺は頷いた。
「見捨てない」
ガランは証明書をしまいながら、声を落とした。
「ただし、状況は悪くなった」
「何があった?」
「辺境伯代理ベルトラン・オルデン。あれは神務院寄りだ」
リーファの表情が険しくなる。
「やはり」
「親書の手続き自体は正式に行った。だが、奴隷管理局の移送書類にも目を通していた」
「鉄格子の子供たちか?」
俺が聞くと、ガランは頷いた。
「三人の名前が分かった」
部屋の中が静かになる。ガランは低い声で続けた。
「猫族の女の子。ミーシャ。八歳」
ユキが息を呑む。
「猫族の男の子。トト。六歳。ミーシャの弟だ」
「きょうだい……」
ユキが小さく呟いた。
「それから、ドワーフの女の子。ニナ。七歳」
ドランの眉が動いた。
「ドワーフの子まで首輪か」
「三人とも奴隷管理局の移送待ち。だが、神務院の検査対象候補に入っている」
アルノが寝台の上で顔を強張らせた。
「シオンと同じ……」
「可能性がある」
ガランの声は重かった。シオン。狐族の少女。びゃっこの夢を見て、神務院に連れて行かれた子。今度はミーシャ、トト、ニナ。猫族とドワーフの子供まで、何の検査対象だ。
夢か。魔力か。血筋か。それとも、神獣に近い何かか。俺の腹の奥が熱くなる。息を吐く。マインドフルネス。怒りは燃料。ハンドルは段取り。
ユキが俺を見る。
「おっちゃん、こわいにおい」
「悪い。抑える」
「ちょっとだけ」
「ああ。ちょっとだけ」
ガランは続けた。
「さらに悪い情報だ。移送が早まった」
「明後日朝じゃなかったのか」
「変更された。今夜、3時過ぎ。夜明け前だ」
部屋の空気が凍った。
「早すぎる」
リーファが低く言う。
「辺境伯代理が来た影響かもしれないわね」
「おそらくな」
ガランが頷く。
「表向きは、奴隷管理局の馬車修理が済んだから移送再開。だが、神務院側が先に確保したがっている可能性がある」
「今夜3時過ぎ……」
俺はノートに書き込む。移送時刻、3時過ぎ。現在は午前10時前。残り十七時間ほど。長いようで短い。
情報収集、準備、仮眠、実行、脱出。全部を今夜までにやる必要がある。胃が重いどころではない。胃が撤退を要求している。だが、撤退はできない。
「ガラン」
「何だ」
「強引な脱出路線に切り替える」
ここで俺は言った。自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「親書は渡した。証明もある。ここに残る理由はアルノの安静だけだ。でも、子供たちが今夜移送されるなら、待てない」
ガランは俺を見た。
「覚悟はあるか?」
「怖い」
「正直だな」
「怖いに決まってる。ここは敵地だ。兵士がいる。神務院も絡んでる。俺は六日前まで普通のサラリーマンだった」
「そうだったな」
「でも、あの子たちを見捨てて湖畔に戻ったら、たぶん俺はユキの顔をまともに見られない」
ユキが俺の袖を握る手を強めた。
「おっちゃん」
「それに、シオンのこともある。神務院が何をしているのか、少しでも掴みたい」
ガランは黙って聞いていた。
「だから助ける。ただし、殺しに行くんじゃない。段取りで逃げる」
ドランがにやりと笑う。
「良い言い方だ。ワシは好きだぞ」
「斧で突破は最終手段だ」
「むう」
「むうじゃない」
マリベルがすぐに言う。
「ドラン、今回は静かにお願いします」
「分かっておる」
「本当に?」
「半分は」
「全部です」
少しだけ空気が緩んだ。ありがたい。この場で全員が緊張しっぱなしだと、どこかで折れる。リーファが窓の外を見ながら言った。
「救出するなら、見張りの交代時刻が重要ね。夜間の巡回経路も」
ロクが耳を動かす。
「それなら拾えるっす。昼のうちに、兵士の会話を追うっす」
「命令石と鍵は?」
俺が聞くと、ガランが答える。
「子供たちの首輪の鍵は奴隷管理局の移送係が持つ。命令石は別管理の可能性が高い」
「別管理?」
「移送時に使う命令石は、責任者が持つ。普段は鉄格子の部屋の奥、管理箱に入っているらしい」
「それをどうやって知った?」
「ベルトランの書類係が口を滑らせた」
「優秀だな」
「おっちゃん」
ユキが小さく言った。
「ユキ、ひも、とる?」
「ああ」
俺はしゃがみ、ユキと目線を合わせた。
「でも、安全にやる。見張りを避ける。鍵と命令石を押さえる。脱出路を確保する。ミーシャ、トト、ニナを連れて、すぐ外へ出る」
「ユキ、ぱちってする」
「できるか?」
「くびにひも、だめ」
ユキの声は小さい。だがその奥に、白い雷のようなものがある気がした。
「ユキ、とる」
「無理はするな」
「おっちゃん、だんどりする」
「ああ。段取りする」
「なら、ユキ、する」
ユキはこびゃっこの袋を握った。
「こびゃっこも、がんばる」
「こびゃっこは袋の中で応援だ」
「こびゃっこ、くらい」
「あとで出す」
「む」
「今はかくれんぼ」
「……む」
控えめな「む」。偉い。俺はノートに作戦案を書く。作戦名は書かない。変な名前をつけると緊張感が死ぬ。
一、昼間は情報収集。
二、夕食後、全員の役割確認。
三、23時以降、砦内の動き低下を確認。
四、1時30分、救出準備開始。
五、2時過ぎ、鉄格子の部屋へ接近。
六、見張り無力化は非殺傷。
七、命令石と鍵を確保。
八、ユキが首輪解除。
九、ミーシャ、トト、ニナを確保。
十、客舎へ戻らず、そのまま脱出。
十一、砦外でコミューターバスを出す。
十二、ミミ、クロメ回収。
十三、南東街道へ。
十四、森外縁にある廃村まで走る。
「十四」
俺は最後の数字を見て、妙に現実感が出た。十四人乗りの車で逃げるから十四項目。いや、狙ったわけじゃない。こういう偶然は要らない。
「おっちゃん、14?」
ユキが覗き込む。
「一と四だな」
「2ない」
「肉じゃないな」
「でも、くるま、14」
「そうだ。十四人乗りだ」
「にく、のれる?」
「肉は乗らない。食べる」
「じゃあ、あとで」
「そこに戻るのか」
ドランが笑いそうになって、マリベルに睨まれていた。昼前、ロクが最初の情報を拾った。
「見張り、鉄格子の部屋の前は二人っす。夜は一人に減るっす。ただし、3時の移送準備で増えるっす」
「狙うならその前か」
ガランが言う。
「2時から2時30分が勝負だな」
「命令石は?」
「管理箱の話が出てるっす。鍵は移送係の腰。命令石は部屋の奥の壁掛け箱っぽいっす」
「部屋の中か」
「たぶんっす」
リーファが窓から外を見ながら言う。
「鉄格子の建物への巡回は、鐘の後に一度。12時、18時、22時、2時。2時の巡回後、移送準備に入る可能性が高いわ」
「つまり、2時の巡回直後に動く?」
俺が聞くと、ガランは頷いた。
「巡回が去った後、移送係が来る前。その隙間だ」
「時間は?」
「おそらく十分から十五分」
「短いな」
「救出なら長すぎるくらいだ」
ランクS基準怖い。十分で子供三人を救出して砦を出ろと言われている。いや、実際そうしないと駄目なのだが。俺は手汗を拭いた。
「非殺傷の無力化は?」
「ロクが見張りの接近を察知。リーファが遠距離で注意を引く。ドランは使わない」
「なぜだ」
ドランが不満そうに言う。
「音が大きいから」
「むう」
「扉ごと壊しそうだし」
「否定はせん」
「否定しろ」
ガランは続ける。
「見張り一人なら、俺とロクで落とせる。声を出させず、縛る。殺さない」
「俺は?」
「ユキの護衛。首輪解除の補助。子供たちへの説明」
「説明か」
「急に大人たちが来て、首輪を外して逃げろと言っても、子供は動けない。ユキがいる方がいい」
俺はユキを見る。病弱な人族の子に偽装した白狐神。首輪を嫌い、白い雷で輪を砕く幼神。この子が、首輪をつけられた子供たちに「ひも、とる」と言う。それは、たぶん俺たち大人のどんな説明より届く。
「ユキ、できるか?」
俺が聞くと、ユキは少しだけ顔を上げた。
「ミーシャ、トト、ニナ?」
「ああ」
「なまえ、わかった」
「そうだ」
「なまえ、ある。ひも、だめ」
ユキは小さく頷いた。
「ユキ、いう。ひもとって、にげる」
「怖がらせないようにな」
「うん」
「様とか言われたら?」
「ユキはユキ」
「よし」
そこはぶれない。
夕方。砦内は一日の終わりに向けてざわついていた。
辺境伯代理ベルトラン・オルデンは、親書の件を終えると、砦長と短い会談をして帰ったらしい。神務院寄り。嫌な肩書きの人物だが、今は砦内から離れたのは救いかもしれない。
ただし、彼が移送前倒しの引き金を引いた可能性は高い。俺たちの残り時間は変わらない。
19時。客舎には、砦側から簡素な食事が届けられた。
硬いパン。薄い豆スープ。干し肉のかけら。ユキは小さく俺を見上げる。
「おっちゃん」
「言わんでも分かってる」
俺は背を向けて、収納から肩ロースの焼豚ハムを少しだけ出し、薄く切った。匂いが広がりにくく、冷めていても食べられる。しかも肉。今の砦内では、最適解に近い。
「少しだけだぞ」
「にく」
「声を落とせ」
「にく」
ささやき声になった。ユキは一切れを大事そうに口に入れる。そして、特殊メイクで病弱に見える顔のまま、目だけを輝かせた。
「うんみゃあ」
「出たな」
「にく、えらい」
「知ってる」
アルノにも小さく切ったものをスープに入れる。リーファ、ロク、マリベルにも少しずつ。ドランは自分の分を見て、真剣に言った。
「ヒカル」
「何だ」
「これを食ってからなら、ワシは静かに行動できる気がする」
「本当か?」
「たぶん」
「たぶんか」
マリベルがじっと見た。
「ドラン」
「静かにする。約束だ」
「本当に?」
「酒がないから暴れん」
「それはそれで不安ですね」
ガランは肉を一口食べ、少しだけ目を細めた。
「うまいな」
「焼豚ハムだ」
「異界の保存肉か」
「そんな感じだ」
「脱出後にも頼む」
「生きて脱出できたらな」
「ああ。楽しみが増えた」
そういう言い方は嫌いじゃない。食事の後、作戦の最終確認をする。
22時の巡回。
2時の巡回。
2時10分行動開始。
2時20分までに首輪解除。
2時30分までに砦外へ。
2時40分、車を出す。
2時50分、林でミミとクロメ回収。
3時、南東街道へ。
皆、腕時計は装備している。10分刻みの作戦内容が、この世界でも通じるのはありがたい。異界人の先人たち、そこは本当に助かる。
「車を出す場所は?」
ガランが聞く。
「砦南東側の街道から少し外れに、低い石垣の陰がここから見えた。そこで収納から出す」
「音は?」
「出した瞬間はない。走り出したらある」
「馬車より速いのか?」
「比べ物にならない」
ガランは一瞬だけ黙った。
「なら、最初の数分が勝負だな」
「ああ。見られても追いつけない距離まで逃げる」
「魔法追跡は?」
マリベルが考え込む。
「奴隷首輪を外せば命令系統は切れます。ただし、首輪を処分しなければ、命令石で後追いはされるでしょう。魔力痕跡を消すには限界があります」
「命令石と外した首輪は俺が収納する。その後森外縁まで走る。ミミとクロメもいるし、ロクの鼻もある」
「任せるっす」
ロクが頷く。
「匂いの追跡をずらせる場所があれば誘導するっす」
「頼む」
21時。夜が深くなる。ユキの尻尾を一度だけリュックから出した。小部屋の中で、音を立てないように。
「しっぽ」
「静かに」
「しっぽ、がんばった」
「ああ」
白い尻尾がふわっと広がり、ユキはそれを抱きしめた。こびゃっこも布袋から少しだけ出してやる。
「こびゃっこ、あとで、にげる」
ユキが小声で言う。俺はユキの頭を撫でる。
「怖いか?」
「こわい」
「俺も怖い」
「でも、ミーシャ、トト、ニナ、ひも」
「ああ」
「ユキ、とる」
「段取りしてな」
「うん」
ユキは白い尻尾を抱いたまま、小さく頷いた。
「ユキ、かくれんぼ、まけない」
「頼む」
22時。巡回が通った。ロクが耳で確認する。
「足音、二人。鉄格子の建物前で止まったっす。中を確認。今、戻ったっす」
次は2時。残り四時間。仮眠を取るべきだ。俺はそう判断した。判断はしたが、眠れるかどうかは別問題だ。寝台の端に腰掛けると、ユキが俺の隣に来た。
尻尾は再びリュックの中。こびゃっこは布袋へ。病弱な子供に戻っている。
「おっちゃん」
「ん?」
「にげる?」
「ああ」
「みんなで?」
「みんなで」
「ミミ、クロメも?」
「回収する」
「ミーシャ、トト、ニナも?」
「連れていく」
「アルノも?」
「もちろん」
「ガランたちも?」
「全員だ」
ユキは少し安心したように、俺の腕に寄りかかった。
「群れ、いっぱい」
「そうだな」
「おっちゃん、たいへん」
「本当にな」
俺は苦笑した。笑えるだけ、まだ大丈夫だ。今夜、首輪を外し、砦を出る。そして今夜、車で逃げる。
異世界七日目にして、外交から誘拐、いや救出、そしてカーチェイス未満の逃走計画である。元の世界の俺に言っても絶対信じない。
いや、元の世界の俺は、そもそも定時退社すら信じられなかった男だ。人生とは分からない。俺は目を閉じた。眠れなくてもいい。呼吸を整える。
一、息を吐く。
二、吸う。
三、今できることを選ぶ。
怒りではなく段取りで動く。ユキを守る。子供たちを見捨てない。そして、全員で逃げる。
暫く時間が過ぎて、時計は2時を指す。ガランが静かに起き上がった。続けて起きたロクが耳で確認。程なく2時の巡回が通り過ぎて行く。
「準備を始めるぞ」
俺も目を開けた。眠れた気はしない。だが、頭は思ったより澄んでいた。ユキが俺の袖を掴む。
「おっちゃん」
「行くぞ」
「うん」
白狐神は、小さく頷いた。
「ひも、とる」
その声は、病弱な子供のものではなかった。森と湖と迷い人の神。群れをなくした者、家を失った者、首に痛みを負う者の前に現れる白い幼神。
今夜、その伝承は砦の中で動き出す。俺は刀の位置を確かめ、収納の中のコミューターバスを意識した。
火器は使わない。殺しに行くわけじゃない。首輪を外し、子供を連れて、逃げる。段取りは組んだ。あとは、実行するだけだ。
⸻
【収支報告】
異世界生活7日目
開始残高:990,076 pt
今回の購入:
・トヨタ ハイエース コミューター GL 14人乗り 4WD相当 42,650 pt(約4,265,000円)
・肩ロース焼豚ハム、ユキ用ホットミルク、飴、飲料水補充 20 pt(約2,000円)
・アルノ用消化食、スープ材料、包帯・薬草風小物補充 35 pt(約3,500円)
・作戦用ノート・筆記具・布袋補修小物 5 pt(約500円)
今回支出合計:42,710 pt(約4,271,000円)
現在残高:
990,076 pt − 42,710 pt = 947,366 pt
円換算目安:
947,366 pt × 100円 = 約94,736,600円相当
続く




