第17話 白狐神、首輪の国に入る
異世界生活六日目の朝、俺はいつもより早く目が覚めた。まだ空は薄青い。街道脇の野営地には、朝の冷たい空気が沈んでいた。
遠くには、レイシス皇国の見張り塔。その先に国境砦がある。今日、俺たちはそこへ入る。
「……胃が重い」
昨日の干し肉スープが悪いわけではない。完全に緊張だ。横を見ると、ユキは丸くなって寝ていた。
フードは外している。白い狐耳がぴょこんと出て、こびゃっこを胸に抱え、尻尾は俺の足首に巻きついている。
「ほっとみるく……にく……」
「寝言が欲望で素直すぎる」
そっと尻尾を外そうとしたら、尻尾がきゅっと巻き直された。
「おっちゃん、にげるな……」
「寝言で拘束するな」
小声で突っ込む。なんとか抜け出すと、焚き火のそばでガランが起きていた。
「早いな」
「今日は砦入りだ。眠りは浅くなる」
「同じだ」
捕虜の奴隷狩り五人は、木のそばで大人しく座り込んでいる。催眠術とマリベルの魔法、そしてユキの結界の効果で、昨日からずっとぼんやりしていた。暴れられるよりはいい。
アルノは毛布に包まって眠っている。顔色は昨日より少し良いが、まだ弱っていた。
「アルノの首輪跡、隠した方がいいな」
俺が言うと、ガランはすぐに頷いた。
「そのままでは逃亡奴隷だと疑われる」
赤く擦れた痕。黒ずんだ線。首輪が長く食い込んでいた証拠。それを見られたら揉める。
俺は収納からメイク用品を出した。ただし、現代的なケースは使わず、木箱に移して薬師の道具っぽく見せる。
コンシーラー。肌色補正クリーム。小筆。スポンジ。固定用パウダー。まさか異世界で、元奴隷の首輪跡をメイクで隠す日が来るとは思わなかった。
マリベルが起きてきた。
「ヒカルさん?」
「アルノの首輪跡を隠す。肌に合うか確認してくれ」
「分かりました」
少量を腕の内側で試し、異常がないことを確認する。アルノも目を覚ました。
「……おはようございます」
「おはよう。今日、砦に入る。その前に首の跡を隠したい」
アルノの顔が強張る。無意識に首元を押さえた。
「嫌ならすぐ止める。痛くはしない」
彼はユキの方を見た。ユキはまだ寝ている。
「……お願いします」
俺は慎重に作業した。まず清潔な布で軽く拭く。擦らない。傷になっている部分は避ける。
赤みを抑え、黒ずんだ線をぼかし、肌色を少しずつ重ねる。最後に薄く粉を乗せる。
完全には消えない。だが、遠目には分からない。薄い包帯を巻けば、負傷者として通せる。
「どうだ?」
マリベルが確認する。
「驚きました。ほとんど目立ちません」
リーファも息を呑んだ。
「首輪跡が……消えたように見えるわ」
アルノに小さな鏡を渡す。彼は震える手で受け取り、自分の首を見た。
「……ない」
「隠してるだけだ。完全に消えたわけじゃない」
「でも……見えない」
アルノの目から涙がこぼれた。
「奴隷になってから、鏡を見たことがありませんでした。自分の首に輪がないのを……初めて見ました」
誰も何も言えなかった。その時、ユキがもぞもぞ起きた。
「……ユキ?」
「自分の名前で起きるな」
「おっちゃん、おはよ」
「おはよう」
ユキはアルノを見て、首を傾げた。
「アルノ、くび、ひもない」
「ああ。おっちゃんが跡を隠した」
「おっちゃん、すごい」
「メイクの手習いだ」
「めいく、えらい?」
「今日はかなり偉い」
ユキはこくんと頷いた。
「アルノ、もう、ひもない」
アルノは涙を浮かべて笑った。
「はい。ユキのおかげです」
「おっちゃんも、あと、かくした」
「はい。ヒカルさんにも」
朝食は控えめにした。パン。薄いスープ。少量のベーコン。ユキには小さなホットミルク。
「しあわせのおゆ、ちょっと」
「今日はちょっとで我慢」
「砦、終わったら?」
「状況次第で多めに作る」
「やくそく?」
「努力目標だ」
「どりょく?」
「大人の弱い約束だ」
「む」
「む、だけで偉い」
ユキは納得していない顔だったが、カップを大事そうに抱えた。
食後、ミミとクロメは街道から少し外れた林に待機させることになった。砦へ連れて行くと、魔犬だと疑われて面倒になる。
ロクが匂いを残し、ユキが小さな鳥居を地面に描く。
「ここ、ミミとクロメ、まつところ。まもの、くるな。こわいひと、くるな」
ぱちっ。鳥居紋が淡く光った。
⸻
【鑑定結果】
名称:小型守護結界
効果:低級魔物の接近抑制、対象の不安軽減微弱
対象:ミミ、クロメ
状態:安定
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「犬用結界まで作れるのか」
「ミミとクロメ、群れ」
「そうだったな」
ロクが頭を下げる。
「ユキちゃん、ありがとうございますっす」
「ロクも、いぬだから、あとで、かえってくる」
「狼族っすけど、戻ってくるっす」
ユキの変装も整える。顔色を少し悪く見せ、目元に影を入れる。顔の下半分を薄布で覆い、耳は布とフードで隠す。尻尾は背負いリュックへ。こびゃっこは布袋に入れて胸元へ。
「こびゃっこ、くらい」
「砦を抜けるまで我慢だ」
「こびゃっこ、がんばる」
ユキは布袋を撫でた。
隊列を整える。先頭はガラン。隣にリーファ。中央に俺とユキ、マリベル、アルノの担架。後方にドランとロク、そして催眠状態で大人しい奴隷狩り五人。
ライフルは収納済み。人前で見せる必要はない。刀だけを旅人の剣として腰に下げる。できる限りの段取りはした。それでも、不安は消えない。
「おっちゃん」
ユキが小さく言う。
「こわい?」
「ああ」
「ユキも」
「でも、かくれんぼ中だ」
「ユキ、まけない」
「頼むぞ」
街道を進むと、国境砦が見えてきた。石造りの壁。高い門。見張り台。旗。人の声。荷車の車輪。兵士の命令。ここはレイシス皇国の入口で、首輪の国の門がある。
ガランが前を向いたまま言う。
「ここからは、俺たちが使節団として前に出る。ヒカルは余計なことを言うな」
「分かってる」
「特に怒るな」
「名指しか」
「ユキのためだ」
「……分かってる」
門前で兵士が声を上げた。
「止まれ! 所属と目的を告げろ!」
ガランが堂々と前へ出る。
「オリエント王国王命により、レイシス皇国皇帝陛下へ親書を届けに参った。ランクSハンターパーティー《東風の牙》、使節団として入国を求める」
空気が変わった。周囲の商人たちがざわつく。
「オリエントの使節だと?」
「ランクS?」
兵士の顔にも緊張が走る。昨日の巡回兵とは違う。門兵たちは、使節団の扱いを分かっているようだった。
ガランが身分証と封蝋のある親書筒を示す。兵士の一人が確認し、すぐに姿勢を正した。
「確認する。少々待たれよ」
思ったより丁寧だ。こちらが正式な使節団だからだろう。少なくとも門前で雑に扱うつもりはないらしい。
少しして、責任者らしき中年の兵士が現れた。鎧は他の兵士より整っている。
「オリエント王国使節団と確認した。砦長代理が応接室でお待ちする。入城を許可する」
すんなり通った。俺は拍子抜けしそうになったが、油断はしない。ここからが本番だ。責任者の視線が、担架のアルノへ向く。
「負傷者がいるようだが」
マリベルが前に出る。
「森で保護した者です。治療中ですので、静かな場所をお借りできると助かります」
「医務室を用意させる」
おお。それなりの待遇だ。ただ、その視線にはエルフへの侮りが少し混ざっていた。俺はそれを飲み込む。段取り。怒るな。今は怒る場面ではない。
「その子供は?」
来た。俺は一歩前に出る。
「俺の娘です。病の治療中で、顔を覆っています」
マリベルが続ける。
「感染性皮膚病の疑いがあります。症状は抑えていますが、念のため人との接触は避けています」
責任者はわずかに眉をひそめたが、すぐに頷いた。
「医務室の別室を使うとよい」
「感謝します」
マリベルが丁寧に頭を下げる。ユキは俺の手を握ったまま、黙って俯いている。尻尾も動かない。偉い。本当に偉い。
責任者は捕虜の奴隷狩り五人を見る。
「拘束された者たちは?」
ガランが答える。
「大境界森内で違法行動をしていた者たちだ。領外で逃亡者を追い、我々に攻撃を仕掛けた。砦側で身柄を確認してもらいたい」
捕虜たちはぼんやりした顔で立っている。催眠術の効果で、反論する気力も薄いらしい。
責任者は兵に命じた。
「別室で預かれ。使節団の前で騒がせるな」
門兵たちが捕虜を引き取る。俺は少し緊張したが、捕虜たちは大人しく歩いていった。
催眠術、効いている。怖いくらいに。多用はしない。絶対にしない。俺は心の中でそう決め直した。
門が開く。
「使節団を応接区画へ案内しろ」
兵士が先導する。俺たちは門をくぐった。石造りの門の内側。レイシス皇国の国境砦。兵士たちの視線が、こちらを舐めるように動く。
リーファの長い耳。ドランの髭。ロクの獣耳。アルノの担架。ユキの深いフード。
嫌な視線だ。だが、使節団としての体裁があるおかげで、露骨な暴言は飛んでこない。それでも、ユキの手が少し震えた。
「おっちゃん」
布の下から、小さな声。
「なに?」
「かくれんぼ、まだ?」
「ああ。まだ続いてる」
「ユキ、まけてない?」
「負けてない。すごく上手い」
「しっぽも?」
「尻尾も偉い」
リュックがほんの少しだけ震えた。
「今は動かすな」
「しっぽ、ちょっとだけ、よろこんだ」
「それは許す」
砦の中庭を進む。石畳。兵舎。倉庫。訓練場。井戸。掲げられた皇国旗。そして、端の方に、鉄格子のある小さな建物が見えた。
嫌な予感がした。鑑定したい気持ちを抑える。今は視線を向けすぎるな。
ユキが俺の服を引いた。
「おっちゃん」
「どうした?」
「くさい」
「どの匂いだ?」
「くびに、ひも。いたいにおい」
俺の背筋が冷えた。この砦の中にも、首輪の気配がある。当然だ。ここはレイシス皇国の国境砦なのだから。
俺はユキの手を握り返した。
「今は黙ってろ」
「うん」
「声に出さず、服を引く。覚えてるな?」
「おぼえてる」
ユキは俯いたまま歩く。小さな手だけが、俺の服を握っていた。
応接区画らしき建物へ通される。外よりは整っており、床には古い敷物がある。暖炉もあった。それなりの待遇だが、空気は重い。
ここは敵地だ。親書を届けに来た使節団として扱われているが、ユキの正体が知られれば一瞬で変わる。
アルノの首輪跡は隠した。ユキの耳と尻尾も隠した。こびゃっこも布袋の中。ライフルは収納済み。俺の怒りも、今は隠す。隠し事だらけの入城だった。
だが、門は越えた。第一段階は突破した。問題はここからだ。
砦長代理との面会。捕虜の扱い。アルノの身柄。神務院の影。そして、この砦のどこかにあるかもしれない首輪の気配。
俺はユキの手を握りながら、心の中で呟いた。段取り。段取りだ。この子を守るためなら、化粧でも演技でも何でもする。
四十の手習い。まさかメイクで奴隷の首輪跡を隠し、病弱な娘の父親役で国境砦に入る日が来るとは、元の世界の俺は想像もしなかっただろう。
⸻
【収支報告】
開始残高:991,486 pt
今回の購入:
・アルノの首輪跡隠し用メイク用品補充、包帯、肌色補正材:90 pt(約9,000円)
・朝食用食材、アルノ用消化食、捕虜用最低限の食料:80 pt(約8,000円)
・ミミ、クロメ用フード補充、水皿用小物:60 pt(約6,000円)
・ユキ用ホットミルク少量、飲料水補充:30 pt(約3,000円)
今回支出合計:260 pt(約26,000円)
現在残高:
991,486 pt − 260 pt = 991,226 pt
円換算目安:
991,226 pt × 100円 = 約99,122,600円相当
続く




