第144話 一方、オリエント王国では②
オリエント王国歴952年。
七の月2日。
「……硬い」
朝食のパンを齧ったところで、思わず声が出た。
商会の二階。私室の小さな机には、パンと干し肉、それに湯で薄めた香草茶が並んでいる。いつもの朝食だ。旅先なら、これに乾いた果物が付けば上等だった。
ところが今朝は、パンを噛みながら別のものを思い出している。
白い飯。
湯気の立つ汁物。
焼いた魚。
「……いかんな」
湖畔へ行く前は、何とも思わなかったのに。私はパンを茶へ少し浸した。パンが柔らかくなる。これはこれで美味い。そう自分に言い聞かせていると、扉が叩かれた。
「会頭。起きていらっしゃいますか」
「起きていますよ」
「お客様です」
「こんな朝から?」
「王宮の料理人の方が」
「……また?」
「今度は、米を洗った水をどこまで澄ませるのか、とのことです」
私はパンを皿へ置いた。
「説明書は?」
「お持ちです」
「では、それを見ながら――」
「説明書の『軽く洗う』という加減を、実際に見たいそうです」
「……なるほど」
言われてみれば、そのとおりだ。初めて見る穀物だ。軽くと言われても、指で撫でるのか、両手で揉むのか。それだけで迷うのだろう。
異界の商品は、渡せば勝手に使ってもらえるわけではない。
「すぐ下ります」
「ありがとうございます。それから、会頭」
「まだありますか?」
「朝食なら、一階で米を炊く練習をしていますが」
私は皿の上のパンと干し肉を見た。
「……先に言ってください」
「硬い、とおっしゃる前にお呼びしようと思ったのですが」
「聞こえていたんですか」
「扉越しに」
番頭の声が、少し笑っていた。
◇
商会の厨房では、料理人二人が鍋を覗き込んでいた。王宮の料理人は袖をまくり、商会の賄いを担当する女は腕を組んでいる。
「火を弱めるのは、ここですか」
「私は少し早かったようでしてね。昨日は底へ硬いのが残りましたよ」
「水の量は?」
「説明書のとおり。ただ、鍋が違うでしょう」
私は入口で立ち止まった。……私より、よほど詳しい。
「会頭」
番頭がこちらを向く。
「実際に炊いたことは?」
「湖畔で、炊いているところを見ました」
「ご自分では?」
「……食べる方を担当していました」
「では、最初からそうおっしゃってください」
「聞かれませんでしたから」
王宮の料理人が笑った。
「構いません。召し上がった時の状態を教えていただければ。それだけでも助かります」
「それなら、喜んで」
私は炊き上がった米を少量、皿へ取ってもらった。白い粒が、少し潰れている。口へ入れると柔らかいが、湖畔の飯より水気が多かった。
「もう少し、粒の形が残っていましたね」
「洗う時に力を入れ過ぎたかもしれません」
「次は、そこを変えてみましょうか」
二人はすぐに相談を始めた。私は口を閉じる。相手は料理の職人だ。私の仕事は、見てもいない工程を分かった顔で教えることではない。
「分からない点をまとめてもらえますか」
私は言った。
「次に湖畔と連絡する時、こちらから確認します。」
「よろしいのですか?」
「こちらで試して分かったことも添えましょう。その方が、先方も答えやすいでしょうから」
料理人が頷く。
「では、鍋の形と、一度に炊いた量も書いておきます」
「お願いします」
そこで、番頭が小声で言った。
「会頭。それは商会の仕事ですか?」
「王室との大切なお取引です」
「朝食のお代わりは?」
「……味の確認です」
「承知しました。確認用のお椀をお持ちします」
どうも、私の扱いが日に日に雑になっている気がする。
◇
事務室へ戻ると、机の上に紙が三枚並んでいた。ベルグ方面の取引先へ出した照会の控え。王都の鍛冶師組合で写した、古い職人登録。そして、父上の工兵部門へ尋ねる項目。
ザックル。その名は見つかった。だが、今どこにいるのかは、まだ分からない。
「組合の登録は、工房名がありませんね」
番頭が紙を覗く。
「ええ。本人の名前と区画、それに業種だけです」
「では、商会の取引記録で工房名を探しても、出てこないかもしれません」
「そうですね」
「卸先の店には聞いています。金物屋なら、職人の名前も知っているでしょう」
「助かります」
私は別の紙を引き寄せた。
「あと、以前の工房が別の者の名前で残っている可能性もあります」
「息子や弟子へ譲った、とか?」
「ええ」
「確かに。職人の名前が変わっただけで、店も炉も同じ、ということはありますからね」
番頭が照会の控えへ書き足した。
「古い住所の方からも探せるようにしておきます」
「お願いします」
「……会頭」
「はい?」
「この方を見つけても、ご本人が話したくないと言えば、それまでですよ」
私は番頭を見た。
「分かっています」
「いえ。会頭は交渉が上手ですから」
「褒めています?」
「褒めています。ですが、昔の話を聞くのに、商品を売り込む時と同じ勢いで迫られても困るでしょう」
言い返そうとして、やめた。……なるほど。
「気をつけます」
「でしたら結構です」
番頭は帳簿を抱え直した。
「ところで、昨日のお土産は美味しかったです」
「焼き菓子ですか」
「はい。人数分あったのは珍しいですね」
「途中で買い足しましたから」
「そのくらいの気配りでお願いします」
「……分かりました」
私も、叱られてばかりだな。
◇
待っている間にも、出来る仕事はあった。商会の倉庫では、献上分を除いた商品が、種類ごとに分けられている。米、調味料、保存容器、裁縫用品。それぞれに札が付いていた。
「こちらが試験販売用。こちらが調理見本用です」
番頭の説明を聞きながら、私は箱を確かめた。
「同じものが混じっていませんか?」
「ありません。開封した品には印を付けています」
「よし」
「それと、爪切りについて、金物屋から問い合わせが来ています」
「もう?」
「店員が自分用に買った一つを、馴染みの職人へ見せたそうで」
「何と言っていました?」
「爪切りより先に、あの小さな部品を同じ形へ揃える方法が知りたい、と」
私は笑った。やはり、職人の見るところは同じか。
「製法は、こちらでも分からないと答えてください」
「分解してよいかとも」
「買った品なら構いません。ただし、刃や細い部品には気をつけてほしい、と」
「承知しました」
番頭が次の札を取る。
「カレー粉は、明日、料理人を三人招いて試す予定です」
「私はいますか?」
「今のところは」
「今のところ?」
「ザックルの所在が分かれば、すぐ出かけるのでしょう」
「……よく分かりますね」
「会頭の番頭を、何年やっていると思っているんです」
その言い方まで、父上に似てきた。
◇
翌日。王都の鍛冶師組合から、追加の写しが届いた。受付の男が、古い納品記録も探してくれたらしい。
ただし、ザックル本人の書いたものではない。ベルグの工房から王都の金物商へ納めた、金具の記録だ。
「水車軸の締め輪。巻上げ機の爪。鎖の継ぎ金具……」
私は品名を読み上げた。
「鍬や包丁ではありませんね」
番頭が言う。
「設備の修理もする職人だった、という話には合います」
「ただ、鉱山へ行っていた証拠にはならない」
「ええ」
紙の端には、工房の所在が書かれていた。ベルグ、旧水路区。前に見た職人登録の区画と一致している。これで、同じ名前の工房について、二つの記録が揃った。
私は写しの下へ、日付を書き込む。
「王都で受け取った日ですか?」
「そうです。いつの情報か分からなくなると困りますから」
「記録自体は古いですからね」
「その日付も、別に残します」
番頭が小さく頷いた。
「取引先の住所が変わった時も、古い帳簿をそのまま信じると荷が戻ってきます」
「そうですね」
「人を探すのも、似たところがある」
「ただ、見つけた相手を荷物みたいに運ぶわけにはいきませんが」
「会頭なら、ついでに工房ごと買い付けそうで」
「いくら何でも、今回はしませんよ」
「今回は、ですか」
……言葉尻まで拾わなくていい。
◇
その日の午後、父上に呼ばれた。王城の小さな執務室。机の向こうに座っていた父上は、私を見ると紙を一枚持ち上げた。
「お前の探しているザックルだが」
「何か分かりましたか?」
「工兵の古い取引先名簿に、名があった」
私は椅子へ座る前に、足を止めた。
「ベルグの職人ですか」
「ああ。旧水路区。巻上げ機の部品を修理している」
「こちらで調べた記録とも合います」
「ただし、数年前までの記録だ。最近の発注先は別の職人になっている」
父上が紙を机へ置いた。
「廃業か、代替わりか。それ以上は、こちらの控えでは分からん」
「新しい発注先の名は?」
「オーリン。こちらもドワーフだ」
私は名前を書き留めた。
「同じ区画ですか?」
「同じだ」
「工房を継いだ可能性がありますね」
「そう考えて、そちらの照会も続けさせている」
「ありがとうございます」
私はようやく椅子へ腰を下ろした。
◇
「鉱山については、どうでしょう」
私が訊くと、父上は首を振った。
「グラド、グラード。それに似た地名の記録はいくつかある」
「複数ですか」
「古い地図の写しも、綴りが揃っていない。町の呼び名と鉱山の名が混じっている可能性もある」
「なるほど」
「今の段階で、お前の聞いた鉱山はここだ、と指せるものではない」
私は頷いた。 場所を一つに決めてしまえば、調査は早く見える。
だが、間違えた場所を熱心に調べても、目当ての鍛冶師には届かない。
「まずザックルへ会う方がよさそうです」
「その男が、直接知っているならな」
「ええ。そこも確かめます」
父上が私を見た。
「ロイド。ガルムという者を見つけたとして、お前一人で救い出そうとするな」
「まだ生きているかも分かりませんよ」
「だから今、言っている」
声が少し低くなった。
「鉱山へ入り込むことと、囚われている者を連れ帰ることは別だ。監視する者、他の奴隷、首輪。どこで何が起こるか分からん」
「承知しています」
「お前が一人逃げるだけなら、どうにかなるかもしれん。だが、助けようとした相手はそうはいかん」
私は背筋を伸ばした。
「はい」
父上が、ようやく椅子の背へ身体を預ける。
「今は話を聞け。持ち帰れ。次に何をするかは、それからだ」
「そのつもりです」
「本当か?」
「本当です」
「湖畔で、そういう返事の仕方まで覚えてきたのか」
私は笑った。
「覚えたのは、慌てないことです」
◇
「湖畔への連絡は?」
私が訊くと、父上は別の書類へ視線を移した。
「通常の連絡便で、こちらの方針を伝える準備をしている」
「ザックルの件は、伏せていただけますか」
「分かっている」
「ガラン大使とセレナ特使へは、私が情報収集を継続していると分かれば十分です」
「少女の父親のことを、勝手に噂へするつもりはない」
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。
「それと、お前の湖畔常駐の任務だが」
……来た。
「勝手に放り出してよいものではないぞ」
「今回は、先代白狐神様に関する口頭報告が必要でしたので」
「それは聞いた」
「さらに情報源の保護と、神務院の調査が――」
「言い訳を重ねるな」
「……はい」
父上はため息をついた。
「ベルグでの確認までは認める。だが、予定が変わるなら知らせろ。お前がどこにいるか、こちらでも把握出来るようにしておけ」
「承知しました」
「返事だけは昔からよい」
「実行もします」
「今度こそな」
……番頭にも、同じことを言われそうだ。
◇
七の月4日の夕方。ベルグ方面からの返事が届いた。私は商談室で、香辛料の見本袋を並べている最中だった。そこへ番頭が入ってくる。
「会頭。お探しの件です」
声だけで分かった。いつもの小言ではない。
「何か?」
「ベルグの取引先から、返事が来ました」
私は手に持っていた袋を置いた。
「見せてください」
番頭が差し出した紙には、馴染みの金物商の印がある。読み進める。旧水路区のザックルの工房。現在は弟子のオーリンが引き継いでいる。
「……オーリン」
「ご存じで?」
「軍の取引記録にありました」
さらに、その下。ザックル本人は存命。工房を譲ったあと、ベルグ北外れの水車小屋に隣接する修理場へ移った。今も水車や農具の修理を引き受けている。私は一度、息を吐いた。
「……いた」
「ただし、会頭」
「ええ。分かっています」
私は紙の最後を読んだ。金物商が知っているのは、半月ほど前に金具を受け取りに来た時のこと。
今この瞬間、そこにいると確かめたわけではない。それでも、古い名簿だけだった時とは違う。存命であるという、最近の目撃がある。
「半月前なら、直接見た話ですね」
「はい。それと、工房を継いだ弟子の名前まで、軍の記録と一致しています」
「こちらの照会を、向こうの工房でも確認してくれたようです」
手紙には、行き先の目印も添えられていた。
町の北門。
水路沿いの道。
二つ目の石橋。
その上流側にある、大きな水車。
私は地図を引き寄せた。
「会頭」
番頭が、先に言った。
「今から出るのは駄目です」
「まだ何も」
「外を見てください」
窓の向こうでは、店先の影が長く伸びていた。
「明日の朝にします」
「そうしてください」
……本当に、よく分かっている。
◇
出発の準備は、その夜のうちに済ませた。
表向きの用向きは、ベルグの取引先への挨拶と、新商品の試験紹介。それから、鉱山設備の修理に詳しい職人への聞き取りだ。
どれも嘘ではない。
商会証、王都の組合から預かった紹介状、古い工房の登録写し。取引先へ渡す調味料の見本。
そして、異界産の蒸留酒。
「やっぱり持っていくんですね」
番頭が包みを見る。
「話が弾むかもしれませんから」
「いくらドワーフでも、飲めば何でも教えてもらえるわけではありませんよ」
「分かっています」
「飲めない方かもしれません」
「その時は持って帰ります」
「それなら結構です」
私は酒を収納へ収めた。東岸補給基地での酒席を思い出す。あの時、私が会ったのは、ガルム本人でも、ザックル本人でもない。
職人の話す、別の職人の昔話だった。今回、会えたとしても、聞いた話が全て正しかったとは限らない。
赤毛。
鍛冶師。
娘がいた。
同じような者は、他にもいるかもしれない。私は記録帳を閉じた。
「聞くことを、もう決めているのですか?」
番頭が訊く。
「大体は」
「ずいぶん書いてありますね」
「ただし、最初から全部見せるつもりはありません」
「なぜです?」
「こちらの知っている話に合わせて、答えてしまうかもしれませんから」
何も悪気がなくても、人はそういうことをする。それなら、まず相手の覚えている話を聞く。
そのあとで、一つずつ照らし合わせればいい。
「商談より面倒そうですね」
「そうかもしれません」
「では、余計に寝てください」
番頭が机の灯りを見る。
「寝不足で聞き違えたら、往復した意味がありません」
「……はい」
◇
翌朝、七の月5日。私は商会の前で馬の腹帯を確かめていた。空は明るい。雲はあるが、すぐに崩れるようには見えなかった。
「見本は全部お持ちですか」
「はい」
「取引先への書状は?」
「あります」
「王城への出発の届けは?」
「昨日、済ませました」
番頭が一つずつ確認する。
「帰りは?」
「向こうでの聞き取り次第です。ただし、着いたら商会へ知らせます」
「お願いします」
「カレー粉の試験販売は任せます。料理人から出た意見を残してください」
「承知しました」
「注文が増えても、在庫の数を超えて約束しないように」
「会頭ではありませんから、大丈夫です」
「……私は、そんな約束をしたことが?」
「あります」
「いつ?」
「お帰りになってから、お話しします」
私は馬へ乗った。どうやら、帰る理由まで用意されてしまったらしい。
「では、行ってきます」
「お気をつけて」
番頭が頭を下げる。その少し後ろで、店員が袋を振った。
「会頭! 今度はお土産、食べ物だけにしてくださいね!」
「どうしてですか?」
「知らない商品の説明書を、また覚えることになるので!」
私は笑った。
「努力します」
「それ、増える時のお返事ですよ!」
背中に声を受けながら、私は王都の東門へ向かった。
◇
街道は、荷車で賑わっていた。 王都へ向かう野菜の荷。工房へ運ばれる木炭。布を積んだ幌馬車。
ベルグへ向かう道にも、鉄や燃料を運ぶ商人が多い。私は馬を急がせず、荷車を追い越す時だけ声を掛けた。
湖畔から戻る時もそうだったが、街道は道があるだけでは保てない。
轍を埋める者。
橋の傷みを確かめる者。
雨水の逃げ道を掘る者。
道端では、二人の男が泥を掻き出していた。
「通るよ」
「おう。そっちは固い。左へ寄り過ぎるなよ」
「ありがとう」
私は示された側を通る。ふと、青い線の入った白い兜を思い出した。
小さな白狐神様が、遠くから双眼鏡を覗いている。
『だんどり』
……今頃も、監督をしているのだろうか。いや、時間によっては、食堂で何かを食べているかもしれない。
そう思ったら、少し笑えた。
◇
最初の宿場へ入ったのは、日が傾く少し前だった。馬を預け、水と飼葉を頼む。背を拭いてもらう前に、脚に傷がないか自分でも確かめた。
宿の主人が、私の荷を見た。
「商人かい?」
「ええ。ベルグへ」
「鉄の仕入れか?」
「今回は、職人を訪ねに」
「仕事を頼むなら、早めに声を掛けた方がいいぞ。この時期は、水車の修理もあるからな」
私は顔を上げた。
「水車ですか」
「ああ。水が少なくなる前に、傷んだところを直すんだ。止めっぱなしには出来んから、順番待ちになる」
「なるほど」
ザックルのいる修理場も、忙しいかもしれない。突然訪ねて、長い昔話を頼めるとは限らなかった。
「何日か滞在するつもりです」
「なら、いいさ。職人は仕事をしているところへ口を挟むと、機嫌が悪くなるからな」
「確かに……気をつけます」
◇
宿の夕食は、豆と肉の煮込みだった。悪くない。パンを浸せば、柔らかく食べられる。
私は食べ終えたあと、部屋で記録帳を開いた。東岸補給基地で聞いた話をもう一度読み、指先で紙を押さえる。
もし、ザックルがその鍛冶師を知っていても、最後に会ったのが何年も前なら、現在の生存は分からない。
もし、名前がガルムだったとしても、ニナの父親かどうかは、さらに確かめなければならない。
娘がいる。
七歳くらい。
それだけでは、まだ足りない。ニナが父親について話した内容を、私は全て知っているわけでもなかった。
「……順番を間違えるな、か」
父上に言われたことを、口に出した。先に救出の方法を考え始めれば、会いもしない鍛冶師を、都合よくニナの父親にしてしまうかもしれない。
まず、誰の話なのかを聞く。私は紙を閉じ、灯りを落とした。
◇
翌日も街道を進んだ。昼過ぎ、小さな橋の手前で荷車が止まっていた。
車輪の軸に問題があったらしい。荷を下ろした男たちが、車体の下を覗き込んでいる。
「手伝いは?」
声を掛けると、一人が顔を上げた。
「直す職人は呼んだ。通るなら、あっちを回れる」
「ありがとう」
荷が橋の半分ほどを塞いでいた。私は馬を降り、端へ寄せるのを少し手伝った。商人が何度も礼を言う。
「助かったよ。修理が終わるまで、ここで道を塞ぐところだった」
「お互い様です」
「どこまで?」
「ベルグです」
「なら、明日には入れるな。雨が降らなければ」
私は空を見た。雲は少し増えていたが、まだ高い。
「そう願いたいですね」
「うちは水車の部品も運んでるんだ。届くのが遅れれば、粉屋に叱られる」
「そちらも、お気をつけて」
歩き始めた馬の横で、私は考えた。水車を一つ直すにも、金具を作る者、運ぶ者、取り付ける者がいる。
ザックルが今も修理をしているなら、その周りには、彼の仕事を知っている者がいるはずだ。古い記録の住所だけを頼るより、ずっと確かめやすい。
◇
七の月7日。昼前、ベルグの町へ入った。門の内側から、鉄を打つ音が聞こえる。王都の職人街より、炉が近い。
木炭の匂い。
熱した鉄の匂い。
水で冷やす、短い音。
道端には、鍬の刃が束ねて置かれ、別の店では大きな鉄輪が壁へ立て掛けられていた。
「……なるほど」
鍛冶町と呼ばれるわけだ。私は人族の商人の姿のまま、馴染みの金物商を訪ねた。
「バーモント商会の者ですが」
「おお! 会頭か!」
奥から出てきた男が、驚いた顔をする。
「返事を送ったばかりだぞ」
「届きました。それで、直接」
「商会の若いのを寄越すと思っていたが」
「昔の話ですからね。私が聞いておこうと」
「なるほど。まあ、入れ」
店の奥へ通される。机の上には、私の照会状が置かれていた。
◇
「ザックルという方は、今も北の修理場へ?」
「ああ。念のため、オーリンにも聞いた」
「弟子の方ですね」
「そうだ。あいつの店へ寄れば、詳しい道も聞ける」
「ザックルさんが町を離れていることは?」
「仕事で近くの村へ行くことはある。だが、長く留守にするという話は聞いていない」
私は頷いた。
「どんな方ですか」
男は少し考えた。
「口数は多くない」
「なるほど」
「仕事の邪魔は嫌う」
「ええ」
「曲がった軸を、そのままでいいから動かしてくれ、と頼むと怒る」
「……それは、怒るでしょうね」
「だが、直せんものを直せるとは言わん」
男は棚から小さな金具を取った。
「こいつも、あの人が作り直したものだ。古い水車の留め具でな。同じものを探すより、現物に合わせる方が早い」
私は手渡された金具を見る。派手なものではない。だが、穴の縁も、手に当たる角も丁寧に仕上げられていた。
「いい仕事ですね」
「そう言ってやれば、少しは話すかもしれん」
「本当にそう思った時には、そうします」
男が笑った。
「そりゃいい。あの人には、その方が通じる」
◇
宿を取り、馬を休ませてから、旧水路区へ向かった。
古い台帳にあった住所は、今では少し呼び名が変わっていた。水路の一部が埋められ、道幅が広げられている。
写した区画名だけでは、迷ったかもしれない。金物商に教わった角を曲がると、小さな鍛冶工房があった。
入口の上には、新しい看板。壁の下の方には、古い釘穴が残っている。以前の看板が掛かっていたのだろう。
「ごめんください」
炉の前にいたドワーフが顔を上げた。私より背は低いが、肩と腕は厚い。革の前掛けを着け、手には火箸を持っていた。
「何だ?」
「オーリンさんですか」
「そうだが」
「バーモント商会の者です。ザックルさんを探していまして」
「ああ。金物屋から聞いてる」
彼は炉の方へ目を戻した。
「少し待てるか」
「もちろんです」
私は入口の脇へ寄った。鉄を打つ音が、また始まる。相手の手が止まるまで、私は黙って待った。
◇
オーリンが話をしてくれたのは、仕上げた金具を作業台へ置いてからだった。
「師匠に、鉱山の話を聞きたいんだってな」
「はい。設備の修理をされていたと聞きまして」
「どこの鉱山だ?」
「そこも含めて、確かめたいのです」
私は紹介状を差し出した。オーリンは封を確かめ、短く目を通す。
「王都の組合か」
「古い登録を調べていただきました」
「こんな昔の住所で、よく見つけたな」
「取引先にも助けてもらいました」
「そりゃそうか」
オーリンが工房の中を見る。
「ここは、前は師匠の工房だった」
「今は、あなたが?」
「ああ。炉も道具も、まだ買い切れてないがな」
「借りているのですか」
「少しずつ払ってる。師匠は急がんと言うが、だからって甘えてもいられん」
私は頷いた。看板の付け替わった工房。工兵の記録で変わっていた発注先。紙の上で別々だったものが、ようやく一つの場所につながった。
◇
「ザックルさんは、引退なさったわけではないのですね」
「あの人が?」
オーリンが少し笑った。
「俺がここの炉を使えるようになったら、北の粉屋へ通うようになってな」
「水車の修理ですか」
「最初はな。そのうち、隣の物置へ道具を運び込んだ」
「それで、修理場に」
「ああ。大きな仕事はこっちへ回してくる。自分は古い軸や歯車を見ながら、これならまだ使える、あれはもう替えろ、と言ってる」
「職人ですね」
「そうなんだろうな」
オーリンの口元が、少し緩んだ。
「俺がこっちで何か間違えると、なぜか耳に入ってる」
「近くの方が知らせるのでしょうか」
「たぶんな。お陰で、工房を継いでも叱られる」
私は笑った。
「それは、心強い」
「叱られる側は、そうも言ってられんぞ」
……確かに。私にも、王城と商会に一人ずついる。
◇
「今日は、いらっしゃるでしょうか」
「いるはずだ。今朝、うちの若いのが部品を届けた」
私は顔を上げた。
「今朝ですか」
「ああ。修理場で、粉屋の軸受を見ていたそうだ」
半月前ではない。今朝の話だ。
「昼過ぎには片が付くと言っていたらしい。今から行けば、手が空く頃かもしれん」
「助かります」
「ただ、話をするかどうかは、師匠が決める」
「もちろんです」
「俺には、何を聞くつもりか言わなくていい。ただ、昔の鉱山の話なら、楽しい話ばかりじゃないぞ」
私は返事を急がなかった。オーリンの顔は、先ほどより少し硬い。
「分かりました。無理に話していただくつもりはありません」
「ああ。それならいい」
彼は作業台から炭を一本取り、木片へ道を描いた。
「北門を出て、水路の右側だ。二つ目の石橋まで行け」
「その上流側の水車ですね」
「水車の建物じゃなく、横の低い屋根だ。表に古い鉄輪が立て掛けてある」
「ありがとうございます」
「道が狭い。馬は橋の手前へ繋いだ方がいい」
「そうします」
私は道順を書き写した。ザックル。存命。今朝、北の修理場で仕事をしていた。ようやく、訪ねる場所が決まった。
◇
工房を出る前、オーリンが声を掛けた。
「商人さん」
「はい?」
「酒を持っていくなら、仕事が終わってからにしろよ」
「……分かりますか」
「ドワーフを訪ねる人族は、大体そういう顔をしてる」
そんな顔があるのだろうか。
「飲める方なのですね」
「好きだぞ。ただ、鉄を見てる時に酒の話をすると怒る」
「覚えておきます」
「俺も何度か叱られた」
「なるほど」
それは、よく覚えているはずだ。私は礼を言い、通りへ出た。
◇
私は宿へ戻って馬を引き取り、教わった北門へ向かった。北門を抜けると、町の音が少し遠のいた。代わりに、水の音が聞こえる。
石で縁を固めた水路が、緩く曲がりながら続いていた。道の片側には畑。反対側には、水を引くための小さな堰がある。
私は馬を引いて歩いた。ここまで来れば、急ぐ必要はない。道を間違えないよう、教わった橋を一つずつ数える。
一つ目。低い欄干の向こうを、水が流れている。その先で、粉を入れた袋を運ぶ男とすれ違った。
「この先の修理場へ行きたいのですが」
「ああ、ザックル爺さんのところか」
「ええ」
「水車が見えたら、その手前だよ。今も音がしてるだろ」
私は耳を澄ました。水の音の向こうに、短く鉄を打つ音が混じっている。カンッ!……カンッ!町の工房で聞いた音より、間隔が長い。
「ありがとうございます」
「仕事を頼むなら、直す物も持ってきたか?」
「今日は、話を聞きに」
「じゃあ、手が止まってからだな」
男は、それだけ言って袋を担ぎ直した。私は笑った。誰に聞いても、同じことを言う。
◇
二つ目の石橋が見えた。その少し先で、大きな水車がゆっくり回っている。水を受け、持ち上がり、滴を落とす。建物の脇には、低い屋根の修理場があった。
入口の横へ立て掛けられた鉄輪。
軒下に積まれた木の軸。
形の違う歯車。
教わった目印が、全て揃っている。私は橋の手前の繋ぎ場へ馬を留めた。鞍袋を確かめ、紹介状と記録帳を取り出す。
酒は、まだ出さない。それから、記録帳も閉じた。最初から名前を並べ、こちらの知りたい答えを求めるつもりはなかった。まず挨拶をする。訪ねた理由を伝える。話をしてもらえるか、尋ねる。それだけだ。
◇
修理場へ近づくと、打つ音が止まった。代わりに、何かを削る音がする。開いた戸口の向こうには、作業台と小さな炉があった。壁には、使い込まれた工具が並んでいる。
奥に、ドワーフの背中が見えた。厚い肩。革の前掛け。腕を動かすたび、台へ斜めに差す光が遮られる。
私は戸口の手前で足を止めた。湖畔で、黄色い兜を被っていた少女を思い出す。工具を一つずつ確かめ、使い終えたものを戻していたニナ。
あの子へ伝えられることが、ここで一つ増えるかもしれない。また何も増えないかもしれない。どちらでも、確かめなければ分からなかった。
「……さて」
私は襟元を整えた。王の甥でも、軍務卿の息子でもない。今ここへ来たのは、昔の話を聞かせてほしいと頼む、一人の商人だ。
削る音が止まる。ドワーフが道具を作業台へ置いた。私は柱を軽く叩き、声を掛けた。
「ごめんください。ザックルさんを、お訪ねしました」
奥の背中が、ゆっくりこちらを向き始めた。
続く




