第143話 一方、オリエント王国では①
オリエント王国歴952年。
六の月30日。
湖畔でヒカルたちが《始マリノ祠》の工事と厩舎の運用確認を進めていた頃、王都へ続く街道を、一人の商人が馬で進んでいた。
「……ようやく見えてきた」
私は手綱を少し緩め、遠くに見える王都の城壁を眺めた。銀狐族の王が治める、オリエント王国の王都。
その城壁の向こうには王城があり、商人街があり、私の商会がある。そして、今回の報告を待っている人たちもいる。
「湖畔を出てから、ずいぶん経った気がするな」
実際、数日どころではない。途中で東岸補給基地に立ち寄り、ドワーフたちと酒を飲み、思いがけない情報まで手に入れた。
その後も街道の状況を確かめながら王都へ戻ってきた。
商人としての仕事もある。王族としての仕事もある。密偵としての仕事もある。
……三つも仕事を持つものではないな。
「まあ、商売が一番楽しいんだけど」
そう呟いてから、私は馬を進めた。今の私は、バーモント商会会頭バーモント。王室御用達の香辛料商人。ただし、本当の名はロイド・ゼビウス。
王直属の密偵であり、軍務卿ゼビウス公爵の息子。そして、セイラム王の甥でもある。我ながら面倒な身分だ。
「さて。まずは店へ顔を出すか」
王城へ行く前に、商会へ預けるべき荷物がある。何しろ、異界の商品を大量に持ち帰ってきたのだ。これを見た商会の連中が、どんな顔をするか。
……少し楽しみだった。
◇
王都の西市場。バーモント商会の本店は、香辛料商としてはそれなりに大きな店構えをしている。
一階が店舗。奥に事務室と商品保管庫。裏手には倉庫が二棟。二階には商談室と従業員用の部屋がある。
店先には、南方から仕入れた乾燥香草や香辛料の袋が並び、独特の香りが漂っていた。
「会頭!」
馬を降りたところで、店員の一人が駆け寄ってきた。
「お帰りなさい!」
「ただいま。留守中、変わったことは?」
「特には。ただ、会頭が戻ったらすぐに知らせるよう、番頭から言われています」
「でしょうね」
私は馬を預け、店の奥へ入った。帳簿を抱えていた番頭が、こちらを見るなり立ち上がる。
「会頭!」
「ただいま」
「遅いですよ!」
「帰って早々、それですか」
「予定より遅れているでしょう!」
「途中でチョットだけ仕事が増えまして」
「会頭の『チョットだけ』は信用出来ません!」
「ひどいなあ」
「前回もそう言って、帰ってきたら仕入れ先が三つ増えていました!」
「利益は出たでしょう?」
「そりゃ出ましたけど……」
私は笑った。この番頭は、私の正体を知らない。知っているのは、商会の会頭が時々長い出張へ行き、妙な商品や取引話を持ち帰ることくらいだ。
それで十分。商会は本物の商会でなければならない。従業員には、普通に商売をしてもらう。それが一番、安全なのだ。
◇
「それで、今回の仕入れは?」
番頭が訊いた。
「仕入れというより、新しい取引先から試験的に購入した商品です」
「どちらのですか?」
「西の大湖畔にある、白き神獣の里」
「……」
番頭の手が止まった。
「今、何と?」
「白き神獣の里です」
「……会頭」
「はい」
「また、とんでもない取引先を見つけてきましたね?」
「王室からの紹介ですよ」
「それなら先に言ってください!」
「言ったじゃないですか」
「順番がおかしいんです!」
……父上と似たことを言うな、この人。私は収納から帳面を取り出した。
「まず、王室献上分と商会販売分を分けます」
「承知しました」
「それから、販売分はすべて試験扱い。勝手に追加注文しないこと」
「なぜです?」
「現地の職人や商人との兼ね合いがあります」
「なるほど」
「売れるからといって、大量に市場へ流すつもりはありません」
番頭が少し真面目な顔になった。
「希少品として扱うのですね」
「それもあります。ただ、こちらが市場を壊すような商売はしたくない」
「……会頭らしくないお言葉ですね」
「私はいつも健全な商人でしょう?」
「利益が出ると分かれば、三日寝ずに商談する方が何を」
「寝ますよ。少しは」
「ほんの少しでしょう!もう少しご自身の――」
私は聞こえないふりをした。
◇
最初に出したのは、白い米袋だった。
「これが?」
「米です」
「……米?」
「古い文献には残っているでしょう?」
「あの穀物の?」
「そうです」
番頭が袋を覗き込む。
「……ずいぶん白いですね」
「精米されていますから」
「せいまい?」
「外側を取り除いて、食べやすく加工してあります」
「なるほど」
私は商会用の十袋を並べた。
「十キロ入りが十袋。商会分は百キロです」
「百キロ!」
「王室献上分も同量あります」
「……会頭」
「何です?」
「これ、本当に試験販売の量ですか?」
「米は料理方法を知らないと売れませんからね。最初は飲食店や料理人を中心に紹介します」
「料理法は?」
「あります」
私はヒカルさんたちから預かった説明書を出した。
米の炊き方。水の量。洗い方。保存方法。それに、いくつかの料理の作り方。
「ずいぶん丁寧ですね」
「取引先の方針です」
「商品だけでなく、使い方まで?」
「そうです」
番頭が頷いた。
「それなら、料理人に試してもらいやすい」
「でしょう?」
……本当は私も、もう一度あの白飯が食べたい。だが、それは口にしないでおこう。
◇
次はカレールーとカレー粉。特にカレー粉を出した瞬間、番頭の表情が変わった。
「……香辛料ですか?」
「ええ」
「香りを確かめても?」
「少量だけ」
缶を開ける。独特の香りが、事務室へ広がった。
「……これは」
番頭が鼻を近づける。
「複数の香辛料を混ぜていますね」
「そうです」
「辛味だけではない。香りが複雑です」
「分かりますか」
「当然です。何年香辛料を扱っていると思っているんです?」
「頼もしいですね」
番頭はしばらく香りを確かめてから、真剣な顔になった。
「会頭」
「はい」
「これは売れます」
「まだ料理を食べていませんよ?」
「香りで分かります」
「そうですか」
「ただし、値付けを間違えると危険ですね」
「私もそう思います」
私は缶の蓋を閉めた。
「最初は料理人へ少量ずつ。調理例を見せてから判断しましょう」
「承知しました」
「それと、勝手に混ぜ直して販売しないこと」
「なぜです?」
「配合が分からないまま変えると、品質が安定しません」
「……なるほど」
「いずれこちらの香辛料で再現出来るかは調べます。でも、今はまだ試験段階です」
番頭が頷いた。
「会頭が珍しく慎重ですね」
「だから私はいつも慎重ですって」
「どの口が言うんですか」
……会頭の扱いがひどい。
◇
その後、醤油、味噌、乾燥出汁、保存容器、裁縫用品や雑貨を順番に確認した。どれも少量だ。とはいえ、番頭にとっては初めて見る物ばかりらしい。
「これは?」
「小型の爪切りです」
「爪を?」
「切ります」
「刃物にしては随分小さいですね」
「指先へ当てて、こう」
ぱちん。
「……おお」
「便利でしょう?」
「便利ですが、鍛冶職人が見たら分解したがりそうですね」
「でしょうね」
私は湖畔の鍛冶場を思い出した。ドランとボルガが溶接機の前で目を輝かせ、七歳のニナが工具の管理表を抱えている光景だ。
あの連中なら、爪切り一つでも構造を調べ始めるだろう。
「他にも工具類がありますが、現地の鍛冶職人との調整が必要です」
「販売しないのですか?」
「少量は扱います。ただし、こちらの職人に同じ物を作れと言っても、材料や加工方法が違う」
「なるほど」
「安い異界製品で既存の工房を潰すようなことは避けたい」
番頭はしばらく考え、帳簿へ書き込んだ。
「では、まず需要調査ですね」
「そうしてください」
「それで、販売価格は?」
「仮価格を付けて、試験先の反応を見ます」
「会頭」
「何です?」
「商売の話になると、ちゃんと仕事をしますね」
「普段はしていないみたいに言わないでください」
「普段はどこにいるか分からないので」
「……それは否定しにくい」
◇
商会での確認を終えたところで、私は小さな包みを取り出した。
「これも預けます」
「何でしょう?」
「商会向けではありません。私物です」
「……会頭の?」
「ええ。絶対に販売しないでください」
番頭が怪訝そうな顔をする。
「そこまで言われると気になりますね」
「お酒です」
「酒?」
「異界産の蒸留酒」
「……」
番頭が少し黙った。
「会頭」
「はい」
「また、珍しい物を」
「美味しかったので」
「商会の仕入れですか?」
「私物です」
「売れば儲かりそうですね」
「売りません」
「会頭が利益を捨てるとは」
「人聞きが悪いなあ」
実際、あの酒には随分助けられた。東岸補給基地で出会ったドワーフたち。彼らとの酒席がなければ、ガルムという名に繋がるかもしれない手掛かりは得られなかった。
その事を思い出した私は包みを引き戻した。
「……やっぱり、これは自分で持っておきます」
「どうしてです?」
「まだ使い道がありそうなので」
「また商談ですか?」
「ええ」
商談。まあ、間違いではない。ただし今度の商品は、酒ではない。情報だ。
◇
王城へ向かったのは、その日の午後だった。表向きには王室御用達商人として、献上品を持参したことになっている。王城の門では商会証と王室からの通行許可証を示した。
「バーモント商会会頭、バーモントです」
「確認いたします」
門番が書類を調べる。しばらくして、奥から王宮の役人が出てきた。
「バーモント殿。お待ちしておりました」
「ありがとうございます」
「献上品の確認はこちらで」
「承知しました」
私は王室向けの品を、指定された部屋で取り出した。
米百キロ。カレールーが一箱。業務用カレー粉二キロ缶十缶。醤油、味噌、出汁の粉末。それに、湖畔産のジャガイモととうもろこし。調理方法を書いた説明書も添える。
役人たちの表情が、だんだん怪しくなっていった。
「……これは何です?」
「米です」
「こちらは?」
「カレー粉」
「この黄色い粒の付いた棒は?」
「とうもろこしです」
「食べ物ですか?」
「全部食べ物です」
「……」
役人が隣の役人を見る。
「料理長を呼んだ方がよいのでは?」
「そうだな」
私は笑顔で頷いた。
「ぜひ。説明書もありますので」
……ヒカルさん。あなたの国の食べ物は、王城でも混乱を起こしそうです。
◇
献上品の確認を終えると、私は王城の奥へ案内された。ここから先は、普通の商人が立ち入れる場所ではない。
廊下の先にある小さな控え室。そこへ入ったところで、私は変幻魔法を解いた。銀色の狐耳が現れる。背後には銀色の尾。久しぶりの、本来の姿だ。
「……やれやれ」
肩を軽く回す。人族の姿は便利だが、長く続けると窮屈に感じることがある。耳と尾を隠すのは、慣れていても疲れる。扉が三度叩かれた。
「ロイド様。陛下がお待ちです」
「分かりました」
私は姿勢を正した。ここからは、商人バーモントではない。王直属の密偵。そして、ロイド・ゼビウスだ。
◇
王の執務室には、セイラム王とゼビウス軍務卿がいた。宰相も同席している。机の上には、王国西部の地図と、何枚もの報告書。私が入ると、セイラム王が顔を上げた。
「戻ったか、ロイド」
「ただいま戻りました、陛下」
「さて、私の記憶が正しければ、お前にはガラン大使付きの情報担当として、湖畔に常駐する様に命じたはずだが」
「ええ。実は少々、予定外のことがありまして」
父上が眉を寄せた。
「お前の『予定外』は、いつも面倒な話になる」
「今回は良い話もありますよ」
「悪い話もあるのだな?」
「……鋭いですね」
「お前の父親を何年やっていると思っている」
セイラム王が小さく笑った。
「まず座れ」
「失礼します」
私は椅子へ腰を下ろした。
「それでは、王直属密偵として報告いたします」
部屋の空気が変わった。
◇
「最初に、白狐神ユキ様と守護者サコン・ヒカル殿について」
私は湖畔で見聞きしたことを、順番に説明した。
湖畔の拠点が、以前の報告より大きく発展していたこと。住居や祠、診療所、作業倉庫、道路、橋、畑。そこで職人たちが働き、子供たちが暮らし、近衛騎士団を受け入れる設備まで整っていたこと。
「そこまで進んでいるのか」
父上が地図を見る。
「はい」
「ガランの報告から、まだそれほど経っていないぞ」
「私も驚きました」
「異界の普請や築造技術か」
「それだけではありません」
私は続けた。
「現地の職人たちが、異界の道具を学んでいます。大工、石工、鍛冶、土木。役割分担も進んでいました」
「なるほど」
「そして、ヒカル殿はすべてを一人で行おうとはしていません」
セイラム王が興味深そうに私を見る。
「どういう意味だ?」
「職人へ仕事を任せ、手順を整え、記録を残しています。湖畔は、守護者一人の力だけで成り立つ場所から、住民自身が運営する拠点へ変わり始めています」
父上が静かに頷いた。
「それは重要だな」
「はい」
「一人が倒れれば終わる拠点では、国として長く付き合えん」
「その通りです」
私は少し笑った。
「もっともそれは、白狐神様の監督の目が非常に厳しい事もあるようですが」
「……監督?」
「五歳の神様が、青い線の入った白いヘルメッ……兜を被って普請や築造、作事を見ています」
沈黙の後、セイラム王が目を瞬いた。
「……何?」
「白狐神様が、現場の監督をされています」
「……」
父上が額を押さえた。
「ロイド」
「はい」
「冗談は報告の後にしろ」
「本当です」
「本当に?」
「本当に」
宰相が静かに筆を止めた。
「……歴史書へ、どのように記録すればよろしいのでしょう」
「そのままでいいのでは?」
「白狐神様自ら、土木の普請を監督、と?」
「はい」
セイラム王が笑いを堪えている。
「……いや、よい。続けろ」
◇
「守護神使様についても報告があります」
私は言った。
「以前は《びゃくや》と呼ばれていたお方ですが……」
「うむ」
「現在は、こびゃっこと名乗っています」
「それは聞いている」
「実体は小さな白狐の布玩具に似ています」
「ガランの報告では、『ぬいぐるみ』と言っておったか……」
「空を飛んでいました」
「……やはり、神殿の記録のとおりか」
「撮影機材を持ち、普請の記録を取っています」
父上が私を見る。
「撮影とは?」
「異界の道具で、動く映像を記録するものです」
「神使様が自ら?」
「はい」
「何のために?」
「普請の記録です」
また沈黙。私は別に思い出したことを付け加えた。
「ただし、撮影主任から見習いへ降格されています」
「……何だと?」
「何でも、撮影機材を使った悪戯が過ぎた様で」
「神使様が?」
「ええ」
セイラム王がとうとう笑った。
「ははは!」
「兄上!」
「いや、すまぬ。千年前の記録にある、王城の壁への悪戯書きを思い出してな……」
「その件につきまして、神使様は若気の至りと反省されている様でした」
「そうなのか?」
「御本人にとっては、黒歴史との事です」
父上が大きなため息をついた。
「……お前、湖畔で何を見てきたのだ」
「……何と言うか、その……実に興味深いものを」
◇
「次に、先代白狐神しらゆき様と、その守護者であった橘宗一郎殿について」
私は声を改めた。
「両名は、現在も生存している可能性が極めて高いと考えられます」
セイラム王の笑みが消えた。
「……続けよ」
「白狐神ユキ様と守護者ヒカル殿。そしてこびゃっこ様が、別次元に存在する白狐の里と接触しました」
「別次元……」
宰相が呟く。
「我々の世界とは異なる場所、ということですか」
「はい」
私は、湖畔で聞いた内容を慎重に説明した。
まずは、白狐神ユキ様と現在の守護者ヒカル殿、こびゃっこ様の共有夢のこと。そしてその共有夢を通じて先代しらゆき様と宗一郎殿が接触したこと。
白狐の里は、約四百二十年前の災厄を経て、別の世界へ渡ったこと。そこには白狐の里が存続し、現在は人口約三万人の自治区へ発展していること。
しらゆき様と宗一郎殿が、今も里を見守っていること。
そして四百二十年前、こびゃっこが開いた門は、単なる転移門ではなく、次元を隔てるものだったこと。
「……三万人」
父上が低く呟いた。
「一つの自治区として十分な規模だ」
「はい」
「その場所へ、こちらから行けるのか?」
「現段階では分かりません」
「門は?」
「自由に開けるものではないようです」
セイラム王が静かに目を閉じた。
「……しらゆき様が、ご存命か」
長い沈黙があった。
「建国王セイル一世が、白狐の里へ通った記録が残っている」
「はい」
「交流のあった、その頃の神使様が、今もおられる。そして先代白狐神様も……」
セイラム王は窓の外へ視線を向けた。
「この王国……負の歴史の記憶が、救われるかもしれぬのだな」
◇
「ただし、陛下」
私は続けた。
「湖畔側は、今後繋がりが取れたとしても、別次元の里へは干渉しない方針とのことです」
「当然だ」
セイラム王は即答した。
「我々も、今更そこへ王国の救済を主張することなど無意味であろう」
「はい」
「白狐神様と守護者殿が望まぬなら、接触も控えよう」
父上も頷いた。
「当然軍としても、別次元の里を作戦対象にするつもりはありません」
「ありがとうございます」
「ただし」
セイラム王が私を見る。
「こちらの湖畔は、守らねばならぬ」
「はい」
「かつて失ったものを、再び失うわけにはいかん」
その言葉には、王としての重みがあった。
◇
「そして現在、造営が進められている《始マリノ祠》についてです」
私は図面の写しを机へ広げた。
「白狐神ユキ様が生まれた大木の近くに、新しい祠を建立中です」
「大木……」
セイラム王が図面を覗き込む。
「先代白狐神様も、その場所で生まれたと?」
「実際に神使様が、誕生の瞬間に立ち会われたそうです」
「なるほど」
「《始マリノ祠》の名称は、別次元の白狐の里と、同じ名にしたそうです」
父上が顔を上げた。
「同じ名?」
「はい」
「そして、祠が二つの世界を結ぶ座標の拠り所になる可能性が考えられています」
「可能性、か」
「まだ確認された事実ではありません」
宰相が書き留める。
「では、王国として何か支援を?」
「現段階では不要でしょう」
私は答えた。
「工事は湖畔の職人たちが進めています。外部から人員を増やすより、今は静かに見守る方がよいと思います」
セイラム王が頷いた。
「そうしよう」
◇
「次に、神務院について報告します」
私は一枚の紙を取り出した。ここからは、笑い話では済まない。
「狐族少女シオン。十二歳。現在も生存を確認しています」
セイラム王が身を乗り出した。
「本当か」
「はい」
「所在は?」
「レイシス皇国奴隷管理局の収容施設。その中に設けられた、神務院専用区画です」
父上の顔が険しくなる。
「神務院専用……」
「通常の奴隷収容とは、管理が分けられています」
「状態は?」
「生存は確認出来ました。ただし、自由に接触出来る状況ではありません」
私は言葉を選んだ。
「首に銀色の環を装着されています」
「環?」
「はい」
「魔道具か?」
「可能性はあります。しかし機能は不明です」
「拘束具か、追跡具か、あるいは……」
「それも分かりません」
セイラム王が拳を握った。
「……十二歳の少女に」
私は黙って頷いた。
◇
「救出は可能か?」
父上が訊いた。
「現時点では、強行すべきではありません」
「理由は?」
「施設の警備と、銀環の機能が不明です。救出した瞬間に追跡術式が作動する可能性もあります」
「なるほど」
「それに、シオンだけを連れ出せばよいという問題でもありません」
私は続けた。
「神務院が何を知り、何を試そうとしているのか。その確認が必要です」
セイラム王が頷いた。
「無謀な救出で少女を危険にさらすな、ということだな」
「はい」
「分かった」
父上が腕を組む。
「情報網を維持し、施設の警備と移送経路を調べさせよう」
「お願いします」
私は小さく息を吐いた。湖畔でユキ様が、何度も言っていた。
『いそぐ? でも、ばたばた、しない?』
あの言葉を思い出す。急がなければならない。だが、慌ててはいけない。……五歳の神様に、仕事の段取りを教えられるとはな。
◇
「もう一つ、神務院の動きについて」
私は湖畔周辺の地図を広げた。
「一か月ほど前、神務院の密偵が湖畔の南側道路から接近しています」
「ついに来たか」
父上が言う。
「はい。オルガという密偵によるものです。但し、白狐神の結界に阻まれ、遠距離での観測しかできなかったそうです」
「結界は強力なものなのだな。それで観測対象は?」
「白狐神様、守護者殿、神使様。それに湖畔の住民、畑、道路、建物、異界の重機まで」
宰相が顔を上げた。
「建物や道路も?」
「ええ。単に白狐神様の所在を探しているだけではないようです」
「軍事的な調査か」
「その可能性があります」
私は地図の南側を指した。
「神務院内部では《湖畔調査隊》という名称が使われています。さらに《奴隷供給》《術式試験》という言葉も確認されています」
父上の表情が変わった。
「奴隷供給……」
「はい」
「魔導兵器か?」
「その可能性を考えています。ただし、今回の調査隊が何を持ち込むかまでは確定していません」
セイラム王が机へ手を置いた。
「ロイド。お前はどう見る?」
「湖畔の結界を調べ、侵入手段を探っている可能性があります」
「それだけか?」
「いいえ」
私は首を振った。
「神務院が異界の技術に関心を持った場合、白狐神様だけでなく、ヒカル殿や職人たちも標的になり得ます」
「……そうか」
「特に重機や工具を見て、あれが何をするものか理解したなら」
父上が苦い顔をした。
「技術を奪おうとするか」
「ええ」
ただし、神務院がそこまで理解している証拠はまだない。それを忘れてはいけない。
◇
「警備を増やすべきでは?」
宰相が言った。
「湖畔へ、さらに兵を送ることも検討できます」
「私は慎重にすべきだと思います」
私が答えると、父上が頷いた。
「理由を聞こう」
「湖畔にはすでに近衛騎士団が滞在しています。急に増援を送れば、敵の観測に変化が映ります」
「なるほど」
「それに、湖畔の守護者殿は、警備を増やすことそのものより、普段の生活を維持しながら警戒することを重視しています」
セイラム王が小さく笑った。
「白狐神様の暮らしを守るため、か」
「はい」
「それなら、王国側の通常警戒を強化する方がよいな」
父上が地図へ視線を落とした。
「東岸補給基地と西方街道の監視を調整しましょう。通常の巡回と輸送警備の範囲で」
「お願いします」
「湖畔へ知らせるべき新情報があれば、正規の連絡経路を使う」
「はい」
セイラム王が頷いた。
「湖畔を要塞にするのではない。湖畔で暮らす者を守るのだ」
私はその言葉を、心の中に留めた。
◇
「さて」
セイラム王が少し姿勢を変えた。
「軍事報告はひとまずそこまでか?」
「主要なものは」
「では、私からも確認したいことがある」
「何でしょう」
王は真顔だった。
「湖畔で稲荷寿司は食したか?」
「……」
父上が天井を見た。
「兄上」
「何だ」
「今、その話ですか」
「重要だ」
「軍事報告の直後ですよ」
「軍事報告は終わったのだろう?」
私は咳払いした。
「……はい」
セイラム王の銀狐耳が立った。
「本当か!」
「はい。セレナ特使の口添えで、湖畔で作っていただきました」
「おお!セレナが大義を果たしたのだな」
「ただし、陛下」
「何だ?」
「私の収納でも、長期間の保存に絶対の保証があるわけではありません。状態を確認してからお出しします」
「分かった」
「王室の料理人にも確認してもらいます」
「うむ」
父上が額を押さえた。
「兄上。王としての威厳を」
「稲荷寿司を食べることと、王の威厳に何の関係がある」
「……」
父上が黙った。なるほど。陛下は昔から、こういうところが強い。
◇
私は収納から、湖畔で預かった稲荷寿司の包みを取り出した。王宮の料理人が呼ばれ、保存状態を確認する。包みの重箱を開くと、甘辛い油揚げの香りが広がった。
「……これが」
セイラム王が身を乗り出す。
「はい」
「初代国王セイル一世が食べたと伝わる料理……」
「その料理を、湖畔のヒカル殿たちが再現したものです」
セイラム王はしばらく見つめていた。
「食べてもよいか?」
「もちろんです」
王が一つ手に取る。そして、一口。
「……」
「陛下?」
「……むう」
もう一口。
「……美味い」
声が静かだった。
「甘い油揚げというものに、酸味のある米。これは……」
セイラム王は目を閉じた。
「なるほど。初代王が記録に残したのも分かる」
「お気に召しましたか?」
「うむ」
王が私を見る。
「ロイド」
「はい」
「これを王宮で作れるか?」
「米と油揚げ、調味料、調理方法は持ち帰っています」
「ならば、料理長に研究させよう」
「承知しました」
父上も一つ食べた。
「……確かに美味いな」
「でしょう?」
「なぜお前が得意げなのだ」
「運んできたのは私ですから」
「作ったのは湖畔の者たちだろう」
「そこは商人の仕事ということで」
父上が苦笑した。
◇
セイラム王は稲荷寿司をもう一つ手に取った。
「それで、ロイド」
「はい」
「白狐神様は、普段どのように過ごしておられる?」
「……普段、ですか」
「そうだ」
私は少し考えた。工事現場で監督をしていたユキ様。食堂で肉を食べ、満足そうに頷くユキ様。こびゃっこ様を叱り、ヒカル殿の袖を引き、子供たちと笑っているユキ様。
「とても、お元気です」
「そうか」
「食べることがお好きで、働く人たちをよく見ています」
「うむ」
「それから、褒めるのが上手です」
「褒める?」
「『えらい』と」
セイラム王が首を傾げた。
「えらい?」
「はい。仕事を頑張った者や、美味しい料理を作った者を褒めるのです」
父上が小さく笑った。
「五歳らしいな」
「ええ」
「それで、神使様は?」
「……」
私は少し考えた。
「非常にお元気です」
「それはよかった」
「ただし、撮影機材の扱いには少々問題がありまして」
「またその話か」
「それから、魔犬に乗って奇妙な音を叫ぶことがあります」
沈黙。
「……何?」
「ブンブンブブブン、と」
父上が私を見る。
「ロイド」
「はい」
「お前、湖畔で変な酒を飲まされたのではないか?」
「飲みました」
「飲んだのか!」
「異界産のウイスキーを」
「……」
セイラム王が腹を抱えて笑い始めた。……うん。これも報告しておいてよかった。たぶん。
◇
報告が一段落したところで、私はもう一枚の書類を取り出した。
「陛下。ここからは別件です」
「何だ?」
「ドワーフの鍛冶師を探しています」
父上が顔を上げた。
「鍛冶師?」
「はい。名前はガルム」
「……ガルム」
「以前、工房を経営していた人物です。大口の仕事を受けたあと、取引先の倒産で借金を抱え、債務奴隷として鉱山へ送られたとされています」
セイラム王の表情が引き締まった。
「レイシス皇国か」
「はい」
「湖畔の者と関係が?」
「娘がいます」
「……娘?」
「七歳のドワーフの少女です」
私は少し息を吐いた。
「現在、湖畔で暮らしています。名前はニナ」
父上が頷いた。
「ガランの報告にあった、レイシス皇国から救出した子供か」
「その子です」
「なるほど」
◇
「ガルムの生死は?」
セイラム王が訊いた。
「不明です」
「所在は?」
「不明です」
「では、何か手掛かりが?」
「あります」
私は東岸補給基地で聞いた話を説明した。白髭のドワーフ職人。レイシス皇国の鉱山町。借金を抱え、債務奴隷となった鍛冶師たち。そして、別の鉱山で働いていたという赤毛のドワーフ。
「赤毛で、腕のいい鍛冶師。工具や精錬設備の修理を担当していたそうです」
「名前は?」
「確認出来ていません」
「……」
「ただ、娘をどこかへ預けたという話もあります」
父上が腕を組んだ。
「一致点はあるな」
「はい」
「だが、本人と断定は出来ん」
「その通りです」
私は頷いた。
「だからこそ、証人を探します」
◇
「証人?」
セイラム王が訊いた。
「その赤毛のドワーフについて、直接見聞きした人物です」
「補給基地で話した職人では駄目なのか?」
「彼は伝聞を話してくれました」
「なるほど」
「情報を持っている可能性があるのは、別の鍛冶師です」
私は紙へ名前を書いた。ザックル。
「東部の鍛冶町ベルグに工房を持っていたドワーフです。現在もそこにいるかは分かりません」
父上が地図を見た。
「ベルグか」
「はい」
「王国東部の鍛冶町だな」
「その人物が、鉱山で働いていた赤毛の鍛冶師の話をしたと聞いています」
「鉱山名は?」
「グラド、あるいはグラード。どちらかだったそうです」
父上が眉を寄せた。
「曖昧だな」
「ええ」
「似た名の鉱山が複数ある可能性もある」
「ですから、地名の照合も必要です」
私は続けた。
「鉱山の位置、所有者、奴隷の移送記録。まずはそこからです」
セイラム王が静かに頷いた。
「分かった。王国の記録で確認出来る範囲は調べさせよう」
「ありがとうございます」
「ただし、ロイド」
「はい」
「その少女へは、まだ伝えるな」
「承知しています」
「希望だけを与えて、あとで違ったと分かれば……」
「ええ」
私は小さく頷いた。
「少なくとも、今はまだ」
◇
「それで、お前はどう動く?」
父上が訊いた。
「まず王都の鍛冶師組合へ問い合わせます」
「うむ」
「次に、商会の取引記録を調べます。ベルグ方面へ香辛料や保存食を卸したこともありますから、商人の情報網が使えます」
「商会を使うのか」
「本業ですので」
「お前の本業は密偵だろう」
「商売も本業です」
「王族は?」
「……四番目くらいです」
父上が額を押さえた。
「まだ言うか!」
セイラム王が笑った。
「ははは! 変わらんな、お前は」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めていない!」
……父上は今日も元気だ。
◇
「ベルグへ行くのか?」
セイラム王が訊いた。
「必要なら」
「すぐに?」
「まず、所在を確認します」
「それがよい」
「ザックルが今もベルグにいるとは限りません。移転しているかもしれないし、引退しているかもしれません」
「あるいは亡くなっている可能性もある」
「はい」
私は頷いた。
「ですから、最初に工房の記録を探します」
父上が少し考えた。
「王国軍の工兵部門にも、ベルグの鍛冶職人との取引記録があるかもしれん」
「それは助かります」
「調べさせよう。ただし、何のために探しているかは伏せる」
「お願いします」
「表向きには、過去の鉱山設備に詳しい職人の照会として扱えばよい」
「それなら不自然ではありません」
セイラム王が頷いた。
「ニナという少女のためにも、慎重に進めよ」
「はい」
私は頭を下げた。
◇
王城を出た時には、すでに夕方が近づいていた。商会へ戻る馬車の中で、私は今日の報告を頭の中で整理した。
白狐神ユキ様。守護者ヒカル殿。守護神使こびゃっこ様。先代白狐神しらゆき様と守護者橘宗一郎殿。シオン。神務院。そしてガルム。
……報告することが多すぎる。
「まったく」
私は小さく笑った。
「湖畔へ一度行っただけで、仕事が何倍にも増えたな」
だが、不思議と嫌ではなかった。あの場所には、守りたいと思わせる何かがある。いや。何か、ではないな。人だ。そこに暮らしている者たちだ。
◇
商会へ戻ると、番頭が待っていた。
「会頭!」
「ただいま」
「また出かける予定ですか?」
「まだ何も言っていませんよ?」
「顔に書いてあります!」
「……そんなに?」
「はい!」
私は苦笑した。
「少し調べたいことがありまして」
「商売ですか?」
「半分は」
「残り半分は?」
「秘密です」
「またそれですか!」
「まあまあ」
私は紙を一枚差し出した。
「ベルグの町に、ザックルというドワーフ鍛冶師がいたはずです」
「ザックル?」
「ええ。工房を持っていたそうです」
「何の取引です?」
「今はまだ取引ではありません。所在を調べたいだけです」
番頭が紙を見る。
「年齢は?」
「今も存命なら六十歳前後と聞いています」
「扱っていた仕事は?」
「鍛冶。鉱山設備の修理にも詳しい可能性があります」
「なるほど」
「商会の過去の取引記録に名前がないか確認してください」
「分かりました」
「それから、ベルグ方面の取引先へ問い合わせを」
「承知しました」
番頭は少し考えた。
「会頭」
「はい」
「この人を探して、何をするんです?」
「昔の話を聞きたいんです」
「昔の?」
「ええ」
私は頷いた。
「ある家族に関係するかもしれない話を」
◇
その夜。商会の二階にある私室で、私は机へ向かっていた。王城へ提出した報告書の控え。商会の商品一覧。ベルグ方面の取引記録。それに、東岸補給基地で書き留めた聞き取り内容。
机の上は紙だらけだ。
「……ヒカルさんの事務所みたいだな」
思わず呟いた。あちらは異界のノートパソコンという道具で、図面も報告書も作っていた。
こちらは紙とインク。まあ、慣れたものだ。私は記録帳を開いた。
赤毛のドワーフ鍛冶師。娘を預けた。鉱山鍛冶場で工具と設備の修理。グラド、あるいはグラード鉱山。証言者候補、ザックル。
「……さて」
私は名前の横へ小さな印を付けた。確認済みではない。あくまで、次に調べるための手掛かりだ。そこを間違えてはいけない。
◇
翌朝。私は王都の鍛冶師組合へ向かった。王都の職人街は朝から賑やかだった。
鉄を打つ音。荷車が石畳を進む音。炉へ空気を送るふいごの音。建物の軒先には、鍬、鎌、包丁、斧。店によっては馬具や車輪の金具まで並んでいる。
……湖畔の鍛冶場とは、ずいぶん違うな。あちらではドランとボルガが、電気で鉄を溶かしていた。しかも七歳のニナが、その横で工具の管理をしている。
「……普通の鍛冶場が懐かしく感じるとは」
自分で呟いて苦笑した。私は組合の建物へ入り、受付の男へ声を掛ける。
「おはようございます」
「おう。何の用だ?」
「バーモント商会の者です。少し職人を探しておりまして」
「仕事の依頼か?」
「まずは所在の確認です」
私は紙を差し出した。
「ベルグの町のザックルというドワーフ鍛冶師をご存じですか?」
男は紙を受け取り、名前を見た。
「ザックル……」
少し考えてから、首を振る。
「俺は知らんな。ベルグの組合記録なら調べられるが」
「お願い出来ますか?」
「古い記録になるぞ」
「構いません」
「時間も掛かる」
「承知しています」
男は私をじっと見た。
「急ぎか?」
私は少し考えた。
「急いではいます」
「なら、どうしてそんなに落ち着いてる?」
「慌てて記録を間違えたら、もっと時間が掛かりますから」
男が笑った。
「商人らしいな」
「よく言われます」
……最近は、湖畔の五歳の白狐神様に似てきた気もするが。
◇
組合の奥から、古い台帳が何冊か運ばれてきた。表紙は擦り切れ、革紐で綴じられている。
「ベルグの職人名簿だ」
「ありがとうございます」
「ただし、数年前の写ししかない」
「それでも助かります」
私はページをめくった。鍛冶工房。金物工房。馬具製作。鉱山工具の製造と修理。ベルグは思っていた以上に職人の多い町らしい。
「……」
私は指を止める。そこには、探していた名前があった。
ザックル。ドワーフ族。鍛冶工房登録。ただし、住所欄には古い区画名が記されているだけだった。
「……あった」
「お?」
受付の男が覗き込む。
「そいつか?」
「名前は一致しています」
「じゃあ見つかったな」
「いえ」
私は首を振った。
「これは過去に登録されていた証拠です。今もそこにいるとは限りません」
「……細かい商人だな」
「商売で人を間違えると大変ですから」
「そりゃそうだ」
私は台帳の登録内容を写した。工房の区画、扱っていた仕事、登録されていた時期、それだけだ。現在の所在も、生死も分からない。だが、一つ前へ進んだ。
◇
「ところで」
受付の男が訊いた。
「何でその職人を探してる?」
「昔の鉱山設備について、話を聞きたいんです」
「鉱山?」
「ええ」
「それなら、工兵や鉱山組合の方が詳しいんじゃないか?」
「そちらも調べます」
男が頷いた。
「ザックルなら、古い職人の誰かが知ってるかもしれん。ベルグの組合へ照会してみるといい」
「ありがとうございます」
「返事が来るまで、何日か掛かるぞ」
「構いません」
私は礼を言って、組合を出た。王都の通りには、朝の日差しが差し込んでいる。荷車が行き交い、商人たちが店を開け始めていた。
いつもと変わらない王都の朝だ。
だが、私の手元には一枚の紙が増えている。ザックルという名が、単なる酒席の昔話ではなく、王国の職人台帳にも存在していた。
もちろん、同一人物とはまだ限らない。だが、調べるべき場所は絞られた。
◇
商会へ戻る途中、私は小さな露店の前で足を止めた。焼き菓子を売っている店だ。
「お兄さん、一つどうだい?」
店主が声を掛けてくる。
「そうですね」
私は焼き菓子を二つ買った。一つを口へ運ぶ。
「……美味い」
昔、王城の厨房へ忍び込んでまで焼き菓子を食べたことを思い出した。あの時は父上に随分叱られたな。まさか、その経験が密偵としての才能の証明に使われるとは思わなかった。
「……人生、何が役に立つか分からないものだ」
私はもう一つの焼き菓子を包み直した。これは番頭への土産にしよう。……いや、たぶん一つでは足りないな。
◇
その日の昼前。商会の事務室へ戻ると、番頭が帳簿を広げていた。
「会頭!」
「ただいま」
「ベルグの取引先へ問い合わせを出しました」
「早いですね」
「会頭が急いでいるようでしたので」
「助かります」
「ただし、返事はまだです」
「分かっています」
私は組合で写した記録を机へ置いた。
「こちらでも、ザックルという名の工房登録が見つかりました」
「では、その人が?」
「まだ分かりません」
「……」
「同名の別人かもしれませんし、昔の登録です」
番頭が頷いた。
「では、両方の記録を照合します」
「お願いします」
「会頭」
「何でしょう?」
「珍しいですね」
「何が?」
「商売にならない相手を、ここまで熱心に探すなんて」
私は少し笑った。
「そうでもありませんよ」
「そうですか?」
「商人にとって、人との縁は財産です」
「……」
「今回は、その縁を少し返したいだけです」
番頭はしばらく私を見ていた。それから、ふっと笑った。
「分かりました。では、きっちり調べましょう」
「お願いします」
◇
夕方。私は王城から届いた封書を受け取った。
父上の名で出されたものだ。中には、軍の工兵部門と鍛冶師組合の照会を進めるという連絡があった。ただし、まだザックルの所在も、グラド鉱山の正確な名称も確認されていない。
私は封書を閉じた。
「……そう簡単にはいかないか」
当然だ。何年も前の鉱山の話だ。しかもレイシス皇国の奴隷制度が絡んでいる。名前を一つ調べれば、すべて分かるようなものではない。
だが、手掛かりはある。それなら、調べ続けるだけだ。
◇
夜。私は机へ向かい、湖畔へ送る報告の下書きを作っていた。ただし、ガルムについてはまだ書かない。
今の段階で伝えられるのは、似た特徴のドワーフが鉱山にいたという伝聞だけだ。それをニナの父親の情報として届ければ、期待させてしまう。
だから、まず確かめる。証人を探し、記録を調べ、可能なら本人の足取りまで追う。それからだ。
「……ニナ」
私は小さく呟いた。黄色いヘルメットを被り、工具を抱えていた七歳の少女。あの子は、父親がどこにいるのか知らない。生きているのかどうかも分からない。それでも湖畔では、毎日一生懸命に働いていた。
いや。働いているというより、学んでいた。ドランやボルガに教わり、ヒカル殿から道具の使い方を学び、自分の仕事に誇りを持っている。
「……いい子だったな」
私は窓の外を見る。王都の夜空には、星が出ていた。湖畔でも、同じ星が見えているのだろうか。
◇
その時、机の端に置いた紙へ目が留まった。ヒカル殿から渡された、商品の説明書だ。
米の炊き方。カレーの作り方。保存方法。そして、商会へ卸した商品の一覧。実に細かい。
「……あの人も、段取りが好きだよな」
私は笑った。五歳の白狐神様が、よく言っていた言葉を思い出す。
『だんどり』
そう。段取りだ。シオンの救出も。神務院への警戒も。ガルムの捜索も。いきなり全部は出来ない。だから、出来ることを一つずつ進める。
「……さて」
私は新しい紙を取り出した。上へ、三つの項目を書く。
《シオンの所在と銀環の調査》
《神務院湖畔調査隊の動向確認》
《ガルムの足取りと証人ザックルの捜索》
それぞれの下へ、次に必要な情報を書き込んでいく。仕事は増えた。だが、進め方は見えている。
◇
私は椅子から立ち上がり、窓を開けた。王都の夜風が、部屋へ入ってくる。遠くには王城の灯り。その向こう、西の方角には大湖がある。
白狐神ユキ様と、守護者ヒカル殿。そして、あの賑やかな守護神使様。
「……今頃、何をしているんでしょうね」
きっと、また妙なことをしているに違いない。神使様が撮影機材を抱えて飛び回り、白狐神様が監督をして、ヒカル殿が突っ込んでいる。
……容易に想像出来るのが怖い。
「まあ、いいか」
私は窓を閉めた。王都での仕事は、まだ始まったばかりだ。明日はベルグ方面からの返事を待ちながら、鉱山記録の照会を進めよう。
それから、商会の新商品も試験販売を始めなければならない。カレー粉の反応は楽しみだ。
……陛下から稲荷寿司の追加注文が来ないことを祈ろう。そう考えたところで、扉が叩かれた。
「会頭!」
番頭の声だ。
「何でしょう?」
「王城から使いの方が!」
「……」
「陛下から、料理長が米の炊き方を確認したいとのことで!」
私は天井を見上げた。
「……早いなあ」
「会頭!」
「分かりました。説明書の写しを渡してください」
「それから!」
「まだあるんですか?」
「カレーという料理についても、詳しい説明が欲しいそうです!」
「……」
私は椅子へ座り直した。シオン。神務院。ガルム。ザックル。そして、カレー。
「……父上」
思わず呟く。
「商人の仕事も、なかなか大変なんですよ」
もちろん、聞こえるはずもない。王都の夜は、まだ長そうだった。
続く




