第142話 白狐神と未来から来た神使
異世界生活101日目。
六の月30日の朝。
「むにゃ……標的、確認……」
「……」
「……白狐神ユキ……保護対象……むにゃ」
ん?
「むにゃ……未来は変えられる。運命なんてものはない。自ら作り上げるものじゃ……」
俺はまだ目を閉じたまま、耳だけをそちらへ向ける。
「……デデンデンデデン!……デデンデンデデン!……♪テレレ〜テ〜レレレ〜♪」
どこかで聞いたような台詞とメロディだな。どうやら、こびゃっこの寝言らしい。
「……服を寄越すのじゃ……」
「……」
「……革の上着と……ブーツ……それから……バイクじゃ……」
……おい。
「……むう……乗るには足が届かぬ……」
そりゃそうだろう。
「……ならば……ミミに乗るのじゃ……」
どういう展開だよ。
◇
俺は薄く目を開けた。右腕には、いつものようにユキが抱きついている。大きな白い尻尾が腹から左脚へ斜めに載り、俺の寝返りを見事に封じていた。
そして、枕元の籐籠。こびゃっこが仰向けで寝ている。前足は胸の上で組まれ、何故か右前足だけ親指を立てるような格好になっていた。
「……あいるびーばっく……じゃ……」
「……」
「……未来で……また会おうぞ……」
俺は確信した。これ、あの映画だ。
昨日は森の不思議な生き物が出てくるアニメだったのに、今朝は未来の殺人マシンかよ。こびゃっこの夢の番組編成はどうなってるんだ。
「……液体金属……来るでない……」
「……」
「……ニナよ……溶接してしまうのじゃ……」
「おい!」
「……ドラン……炉をもっと熱くするのじゃ……」
「待て待て」
「……ぐぬぬ……あやつ、また元へ戻りおった……」
「夢の中で誰と戦ってるんだ」
こびゃっこが急に前足を突き出した。
「……ヒカル! ツチノコを出すのじゃ!」
「俺まで巻き込むな!」
「……未来は……変えられる……重機で……」
「重機で未来を変えるな!」
思わず声を出しツッコミを入れたところで、腕の中のユキがもぞもぞと動いた。
「……おっちゃん?」
「あ、起こしたか」
「こびゃっこ、うるさい」
「だよな」
ユキが片目を開け、籐籠を見る。
「……こびゃっこ?」
「夢の中で、暗い未来に抗っているらしい」
「みらい?」
「映画の夢だ」
「えいが」
ユキは少し考えた。
「きのう、もふもふ」
「ああ。昨日は可愛い森の住人だったな」
「きょうは?」
「今日は鉄の怖いおっちゃんらしい」
「……てつ?」
「死にたくなければ、ついてくるのじゃ!」
そう叫んで、こびゃっこががばっと起き上がった。
「おはよう」
「……む?」
「審判の日は避けられたか?」
「……」
こびゃっこが周囲を見た。住居ユニットの中にあるベッド。そして布団。自分が寝ていた籐籠。俺とユキ。
「……夢かえ」
「そうだな」
「惜しいところじゃった」
「何が?」
「あと少しで、あの液体金属の化け物を仕留められたものを!」
「そうか」
「ドランの炉と、ヒカルのツチノコを組み合わせれば勝てたのじゃ!」
「夢の中でもそんな使い方するな!」
◇
「大体想像がつくが、何の夢だったんだ?」
俺が訊くと、こびゃっこは籐籠の縁へ立ち上がった。
「昔、日本で見た映画じゃ。未来の機械が人間を追って、過去へやって来る話じゃな」
「やっぱりあの映画な」
「第一作では恐ろしい殺人機械だった男が、次の作品では少年を守る側になるのじゃ」
「二作目まで見たんだな」
「うむ!」
こびゃっこが得意げに胸を張る。
「映画の最初はな、夜の街へ何も身に着けず現れるのじゃ。ごつい男の姿でのう。店へ入って服を奪い、黒い眼鏡を掛ける。これがまた、妙に格好よい!」
「夢の中のお前には、服のサイズが合わないだろ」
「夢のびゃっこは身長百八十センチの美少女じゃった!」
「それもなんだか怖いから」
「次に警察の建物へ行くのじゃ。受付で相手にされぬものだから、いったん外へ出る。戻ってきたと思ったら、建物の壁ごと車で突き破る!」
「そこは真似するなよ」
「びゃっこの場合はグイグイじゃ!」
「もっと駄目だ!ブルドーザーを使うな!」
ユキが目を丸くする。
「こびゃっこ、グイグイ、うんてん?」
「現実では絶対無理だな」
「む」
「そもそも足が届かん」
「神力で操作すれば――」
「絶対するなよ」
「ヒカルは夢がないのう」
「重機の安全に関しては現実主義で結構だ」
◇
「それで二作目じゃ!」
こびゃっこの説明は止まらない。まあ、聞いてやるか。
「今度は少年を守るため、機械の男が過去へ来る。ところが追ってくる敵は、身体が銀色の液体になって形を変えるのじゃ!」
「そうだったな」
「銃で撃っても穴が塞がる。鉄格子もすり抜ける。姿まで別人に変わる!」
ユキの耳が立つ。
「へんしん?」
「そうじゃ!」
「ユキも、いつか?」
「こびゃっこの変幻神力と一緒にするな」
こびゃっこが続ける。
「そして少年が小さなバイクで逃げるのじゃ。後ろから巨大なトラックが追い掛けてくる!」
「うん。そうそう」
「そこへ守る側の機械が大型バイクで現れ、道路の脇から飛び降りて助ける!」
「有名な場面だな」
「夢では少年がトトで、バイクはミミじゃった!」
「もう乗り物ですらない!」
「追ってくるトラックは、ヒカルのグイグイじゃ!」
「ブルドーザーを敵にするな!」
「操縦しておったのはミネットじゃった!」
「何で液体金属のロボットが屋根職人なんだよ!」
「銀色の猫耳を生やしておったぞ!」
「猫耳は残るんだな……」
ユキが楽しそうに笑う。
「ミネット、つよそう」
「まあ映画でも最強の敵キャラだしな」
◇
「最後がまたよいのじゃ!」
こびゃっこが右前足を高く上げた。
「映画のラストは、工場で激しく戦い、機械の男は自分も危険な存在だと判断するのじゃが、少年は別れを嫌がってのう。それでも男は最後に親指を立てて――」
こびゃっこの声が少し静かになった。
「……あの場面は泣けるのう」
「ああ。そうだったな」
「夢では、びゃっこが溶けた鉄へ沈んでいくところじゃった」
「お前、ぬいぐるみだから燃えるぞ」
「感動を壊すでない!」
「しかもドランが横で『まだ温度が足りん!』って叫んでたんだろ?」
「なぜ分かったのじゃ!」
「さっき寝言で言ってた」
「……む」
俺は笑いながらベッドから身体を起こした。
「そういえば、あのシリーズは二作目のあとも続いてるぞ」
「……何じゃと?」
「三作目もあるし、その後にも――」
「待て!」
こびゃっこが飛び上がった。
「これ!ネタバレをするでない!」
「内容は――」
「一切聞かぬ!」
「お前が知らない話を教えようと思っただけだろ」
「今度、続きを見せるのじゃ!」
「はいはい」
「びゃっこは二作目までしか知らぬのじゃ! 未来のことは未来の楽しみに取っておく!」
「映画はとっくに公開されてるけどな」
「ネタバレ禁止じゃあ!」
ユキが両手を上げた。
「ねたばれ、きんし!」
「ユキまで覚えなくていい……まあ、分かったよ」
こびゃっこは満足そうに頷いた。
「なら、よし」
「それ、ユキの台詞だぞ」
◇
朝食を食べ終えたところで、いつもの仕事が始まった。二日間の休日は昨日で終わり。今日から通常業務の再開だ。やることは山ほどある。
《始マリノ祠》の建設。
完成した仮設厩舎の本格運用。
そしてセレナとの報告書作成。
特に最後は、日付を考えると後回しに出来ない。八の月一日に神務院の《湖畔調査隊》が動く。
シオンから聞いた情報では、移動式魔導兵器と、魔力供給に使われる奴隷たちが同行するらしい。
ただし、何人来るのか。どの道を通るのか。いつ湖畔へ到着するのか。そこまでは分かっていない。だからこそ、王国側に伝える必要がある。
「おっちゃん」
「ん?」
朝食を終えたユキが俺の袖を引いた。
「きょう、いそがしい?」
「まあな」
「ひとり、する?」
「しない」
即答した。ユキが満足そうに頷く。
「なら、よし」
「仕事はちゃんと、みんなに分けるよ」
「ユキも、おしごと」
「午前は祠の監督。午後はセレナとの打ち合わせにも来るか?」
「いく」
「ミナは?」
「リリアと、あそぶ」
「そうだな。工事現場へは連れていけないから」
ユキは少し考えた。
「おひる、ミナと、たべる」
「ああ。それなら一緒に食べよう」
◇
午前八時半。俺たちは作業倉庫へ集まっていた。グレゴール、バドル、カイル、レイル、エリオット、ミネット、ドラン、ボルガ、ニナ。それにユキとこびゃっこ。
作業台の上には《始マリノ祠》の図面と、仮組みを進めてきた部材が並んでいる。祠本体の柱、梁、壁板、屋根の下地。小さな建物ではあるが、単に箱を作ればいいわけではない。
ユキが生まれた場所。そして先代しらゆきも生まれたと伝えられる大木のそばに建てる祠だ。
さらに別次元にも同じ名の祠がある。何らかのつながりがある可能性は考えているが、まだ確定したわけではない。だから工事も慎重に進めたい。
「昨日と一昨日の間は作業を止めていたから、今日はまず仮組みの状態から確認する」
「分かった」
グレゴールが頷く。
「屋根の部材も大体揃ったぞ」
「反りは?」
「大きなものはない。湿気で少し動くのを見越して納める」
「助かる」
バドルが図面を開いた。
「石材の方は、今日から据付に入れる」
「基礎は?」
「砕石の転圧まで済んでる。水も抜ける形になった。昨日までの二日間で雨もなかったから、今の状態を確認して問題がなければな」
「じゃあ現地を見て決めよう」
カイルが手を上げる。
「排水溝の続きもあるぞ」
「そうだった」
「十五センチのU字溝だ。祠の後ろから左右へ分けた部分は出来てる。参道の先までつないで、出口を確認したい」
レイルが続ける。
「下流側で水が溜まるようなら、出口の位置を変える」
「頼む」
◇
「今日、祠本体まで載せるのか?」
ドランが訊いた。
「いや、まだ」
「何でだ?」
「石材台座と固定金物が決まってからにする」
俺は図面の基礎部分を指した。
「まず石材を据えて、高さと水平を確認。次に固定金物。最後に上へ載る木部との取り合いを確認する」
「なるほど」
「小さい祠だけど、森の中だから湿気がある。木部を直接地面へ近づけたくない」
グレゴールが頷く。
「石台の上にきっちり乗せれば、木も長持ちする」
「そういうこと」
ユキが図面を覗き込む。
「おっちゃん」
「何?」
「ほこら、まだ?」
「まだだな」
「きょう、できる?」
「今日全部は無理かな」
「む」
「でも、昨日までより進む」
ユキが少し考えた。
「いっこずつ」
「そう」
「だんどり」
俺は頷いた。
「そういうことだ」
こびゃっこが腕を組む。
「祠は急いで作るものではないからのう」
「そうだな」
「石を置き、木を組み、鳥居を建て、土地へ挨拶をする。それぞれ意味がある」
おお。珍しく真面目だ。
「神事監修、頼むぞ」
「うむ!」
「ただし勝手に儀式を追加するなよ」
「……」
「何で黙る」
「完成記念で酒樽の鏡開きを――」
「まだ完成してない!」
◇
森へ移動する。以前と同じように、バギーは大木から離れた場所へ停車した。重機や資材を必要以上に根元へ近づけないためだ。
ユキは青ライン入りの白い監督ヘルメット。ニナは黄色のヘルメット。こびゃっこは首から小型4Kカメラを下げている。
「撮影台帳は?」
俺が訊く。
「ニナに記入してもろうた」
「誰が撮影するかは?」
「びゃっこじゃ」
「撮影場所は?」
「祠予定地の正面から少し斜め。作業員の動線を避ける」
「空撮は?」
「重機を止めてからじゃ」
「よし」
こびゃっこが胸を張った。
「撮影主任復帰の日も近いのう!」
「まだ見習いだけどな」
「そこはもうよいではないか!」
ニナが横から言う。
「今日も、みならい」
「ニナまで!」
ユキも頷く。
「がんばる、みならい」
「励まされておるのか、降格を確認されておるのか分からぬ!」
◇
現地へ着くと、まず全員で前回施工した部分を確認した。祠の設置場所には砕石が敷かれ、転圧も済んでいる。参道も鳥居予定地までおおよそ形が出来ていた。両脇には十五センチのU字溝が途中まで並び、大木の根は避けてある。
「まず丁張りの高さを見る」
バドルが水糸を確認する。ニナが水準器とコンベックスを持ってくる。
「これ」
「ありがとう」
「数字、見る?」
「ああ。前回の記録と比べよう」
ニナが記録帳を開く。
「……変わってない」
「水糸の高さはな」
バドルが石材予定位置へ視線を落とす。
「だが、下の砕石が少し動いているところがある」
「どこ?」
「ここだ」
バドルが指した場所は、台座の端が乗るあたりだった。
足で軽く踏むと、ほんのわずかに沈む。
「もう一度締めるか」
俺が言うと、バドルが頷いた。
「このまま石を据えれば、あとで傾く」
「了解」
小型プレート転圧機を出す。
「今日は六十キロの方だな」
ミネットがすぐ反応した。
「あの小さい地面ぶるぶるにゃ!」
「そう。狭いところを先に締める」
「私が使っていいにゃ?」
「もちろん。前回と同じ手順で」
「任せるにゃ!」
◇
ぶるるるるる。小型プレートが振動しながら、砕石の上を進んでいく。ミネットはゆっくりと方向を変え、決められた範囲だけを転圧する。大木の根に近い部分は使わず、そこは手作業で整える。
「この辺りで止めて」
「了解にゃ!」
エンジンを停止。再びバドルが確認する。
「……よし。これなら大丈夫だ」
「次は石か」
「ああ」
俺は収納から前回購入した基礎石材を出した。一つずつ、平らな作業場所へ置く。バドルが石を撫でた。
「やっぱりいい石だ」
「前も同じこと言ってたぞ」
「いい石は何度見てもいい」
「職人だなあ」
ドランが笑う。
「俺が鉄を見るのと同じだ」
「ミネットは屋根にゃ!」
「みんな同じか」
ニナが石の角を見て言った。
「欠けてない」
「そうだな」
「角、だいじ」
「固定する位置では特にな」
七歳の工具担当まで、すっかり職人の目になっている。
◇
石材の据付はバドルが中心となった。石の重量に合わせ、台車や吊り具を使って少しずつ移動する。
手を挟まないこと。吊った石の下へ入らないこと。固定が終わるまで、誰も勝手に触らないこと。基本的なことだが、何度でも確認する。
「よし、降ろすぞ」
バドルの合図で、石がゆっくり下がる。
「右、少し」
カイル。
「もう少し」
レイル。
「そこで止めろ」
バドル。
石材が所定の位置へ収まった。
「水平器」
ニナが手渡す。
「ありがとう」
バドルが石の上へ載せた。
「……右が少し高いな」
「どのくらい?」
「わずかだ。下を調整する」
持ち上げ直し、支持面を整えてもう一度据える。
「……よし」
水平器の気泡が中央へ来た。ユキが規制線の外から双眼鏡を下ろす。
「おっちゃん」
「ん?」
「あわ、まんなか」
「そこから見えたのか?」
「うん」
「すごいな。よし!監督合格」
「ムフー」
白い尻尾が得意そうに揺れた。
◇
昼前には、祠本体を支える石材台座の主要部分が据わった。まだ固定金物と細部の調整は残っている。だが、二日前まで砕石だけだった場所に、祠の土台がはっきり現れた。
「おっちゃん」
「何?」
「ここ、ほこら?」
「そうだ」
「このうえ?」
「ここへ木の祠を載せる」
ユキが大木を見上げる。
「ユキ、ここで、ねてた」
「ああ」
「いま、ほこら、できる」
「そうだな」
こびゃっこが静かに浮かんできた。
「長い時間が経ったものじゃのう」
「……そうだな」
「先代のしらゆきが生まれた頃から、この木はずっとここにあった」
こびゃっこが大木を見つめる。
「そしてユキも、この木の下で育った」
ユキはこびゃっこを見る。
「こびゃっこも、いた?」
「夢の中でのう」
「うん」
「じゃが、今はこうして一緒に祠を作っておる」
ユキが小さく頷いた。
「みんなで」
「そうじゃ」
「おっちゃんも」
「ああ」
「ニナも」
「うん」
「バドルも」
バドルが顔を上げる。
「おう」
「むれの、ほこら」
その言葉に、誰も異を唱えなかった。
◇
「ところで、ヒカル」
こびゃっこが急にこちらを向いた。
「何だ?」
「祠の名前を刻む板は、いつ作るのじゃ?」
「ああ。扁額か」
「うむ」
「木部の仕上げに合わせて作る予定だ」
「文字はびゃっこが書くぞ」
「もちろん。そこは頼む」
こびゃっこが胸を張る。
「ならば、神事文字監修主任として――」
「文字監修主任で十分」
「む」
「撮影主任には戻ってないからな」
「まだ言うか!」
ニナが小さく頷いた。
「みならい」
「ニナよ!」
ユキも頷く。
「がんばる、みならい」
「なぜ二人とも同じところで厳しいのじゃ!」
俺は笑いながら作業記録を閉じた。
「よし。午前はここまで」
「もう?」
ユキが訊く。
「午後は別の仕事だ」
「セレナ?」
「そう」
「ほうこく?」
「ああ」
「なら、よし」
今日はまだ一日が長い。
◇
湖畔へ戻ったのは正午少し前だった。手洗い場で泥を落とし、工具を所定の場所へ戻す。ニナは三脚カメラの録画を止め、バッテリー残量を確認している。
「こびゃっこ」
「何じゃ?」
「カメラ、返す」
「うむ」
「データ、あとで確認」
「分かった」
「台帳、書く」
「承知じゃ」
すっかりニナが撮影部門の管理者だ。こびゃっこが俺を見る。
「ヒカル」
「何?」
「びゃっこよりニナの方が偉くなっておらぬか?」
「機材管理ではな」
「ぐぬぬ」
「ちゃんと管理してるからだ」
「びゃっこも管理しておる!」
「なら、そのまま続けろ」
「……む」
ユキがこびゃっこの頭を撫でた。
「がんばってる」
「……うむ」
「みならい」
「最後を付けるでない!」
◇
食堂へ行くと、リリアとマルタたちが昼食の準備をしていた。
今日の昼は、白飯、味噌汁、焼いた湖水魚、それに畑の野菜を使った炒め物。昨日までの休日料理と違って、いつもの湖畔の昼食だ。だが、この普通の食事がありがたい。
「おっちゃーん!」
ミナと一緒に座っていたユキが手を振った。
「おう」
「ミナ、まってた」
「そうか」
ミナが両手を伸ばす。
「おっちゃ!」
「はいはい」
俺はミナの横へしゃがんだ。
「今日は何して遊んだ?」
「トト、え!」
「絵を描いてた?」
「あい!」
トトのスケッチブックを見ると、昨日の釣りの絵があった。銀鱗魚。釣り竿。そして、小さなユキとミナ。二人が仲良く一つの竿を持っている。
「おお、上手いな」
「昨日の記録」
トトが言う。
「ミナ、すごく喜んでたから」
「そうだったな」
ユキが絵を覗き込む。
「ユキ、いる」
「うん」
「ミナも」
「あい!」
ミナが絵の自分を指さした。
「ミナ、おしゃかな!」
「昨日釣ったな」
「ユキねーちゃと!」
「そうだ」
ユキは嬉しそうに頷いた。
「ふたりで、つった」
◇
昼食を終え、少し休んでから厩舎へ向かった。仮設厩舎は三日前に完成している。
二十三頭分の馬房に、近衛騎士団の二十頭と、以前からいる荷馬車用の三頭。屋根、腰壁、扉、ゴムマット、給水、排水、照明。建物としては完成だ。ただし、完成したから終わりではない。むしろ使い始めてからが本番だ。
「ヒカルさん」
入口でハロルドが出迎えてくれた。
「どうかな?」
「馬はだいぶ落ち着きました」
「全頭入れた?」
「はい。ただし昨日までは慣らしを優先して、長く入れたり外へ出したりしていました」
「なるほど」
「今朝は全頭の状態を確認し、問題なく馬房へ戻しています」
中を見る。馬房にはそれぞれ馬が入り、干し草を食べたり、静かに立っていたりする。
新しい建物の匂いをまだ気にしている馬もいるようだが、大きく暴れる様子はない。
「よかった」
「ええ。ただ、細かいところは実際に使うと見えてきますね」
「そこを聞きに来た」
◇
最初に確認したのは馬房の扉だった。ハロルドが一つの扉を開閉する。
「動きは問題ありません。ただ、馬が鼻先で押すことがあります」
「金具は?」
「今のところ緩みはありません」
「記録を残そう」
俺が点検表を開く。扉の開閉と錠の掛かり具合。馬側へ飛び出した金具がないか。腰壁にささくれが出ていないか。床のゴムマットが浮いていないか。給水口の水量に排水の流れ。照明と電源。一つずつ確認していく。
「馬が使い始めたら、傷み方も変わるからな」
「そうですね」
ハロルドが頷く。
「蹄で床を蹴る馬もいますし、壁へ身体を擦りつける馬もいます」
「じゃあ最初の一週間は毎日細かく見る」
「それがいいでしょう」
「異常があったら、馬を別の馬房へ移して使用停止」
「承知しました」
◇
奥へ進むと、ベルタがニナと一緒に管理表を見ていた。
「何してる?」
俺が訊く。
「厩舎の点検記録です」
ベルタが答える。
「今朝の給水、照明、電源残量を確認しました」
「もうやったのか」
「昨日までに手順を教わりましたので」
ニナが頷いた。
「ベルタ、できる」
「ありがとうございます」
「ニナは?」
「いっしょに、みた」
「全部やってない?」
「うん。教えた」
「偉い」
ニナの三つ編みの先が少し揺れた。以前なら、自分で全部やりたがったかもしれない。最近は教えることも覚え始めている。
「ポータブル電源の残量は?」
俺が訊く。
「昨夜の照明使用後で、まだ余裕があります」
ベルタが管理表を示す。
「今朝は日が出ていますから、ソーラーから充電も始まっています」
「雨が続いた時は?」
「予備電源への切替を行います。手順書も確認しました」
「よし」
「ただし、馬が休む夜間は、必要な場所だけ点灯させた方がよろしいかと」
「そうだな」
俺は照明の配置を見た。全部を点けっぱなしにする必要はない。通路の安全照明と、必要な馬房だけの照明。馬の睡眠も妨げたくない。
「その運用でいこう」
◇
「飼料の方はどう?」
今度はハロルドへ訊く。
「現在は持参した干し草と、湖畔で補充していただいた飼料を使っています」
「量は足りてる?」
「当面は問題ありません」
「それならいい。ただし消費量を記録してほしい」
「何日分あるか、ですね」
「そう。急に足りなくなっても困る」
ハロルドが頷く。
「王都の厩舎でも帳簿は付けていますが、こちらは馬房ごとに記録した方が分かりやすそうです」
「そこは任せる」
「承知しました」
さらに、水の使用量。敷料の交換。馬糞の回収。蹄と脚の確認。馬具の置き場所。馬が体調を崩した時の対応。一通り話し合った。
「掃除道具は、あそこの区画でいいかな」
「はい。馬の通路からも離れています」
「糞尿は決めた場所へ運んで、畑へ使う場合もそのままでは使わない」
「分かりました」
「病気が疑われる馬は、まず他の馬から離す。マリベルにも相談する」
「広めの馬房が二つあるのは助かります」
「あそこは大型馬だけじゃなく、一時隔離にも使えるからな」
ハロルドが感心したように頷いた。
「完成前から、よく考えられていましたね」
「後から増築するのが面倒だからな」
「十分すぎるほどです」
◇
そこへレオンがやってきた。
「ヒカル殿」
「ん?」
「厩舎の様子はどうだ?」
「問題なく運用出来そうだ」
「そうか」
レオンが馬房を見渡す。
「これだけのものを仮設と言われると、今でも納得がいかんがな」
「まだ言うか」
「王都の軍厩舎でも、ここまで設備が揃っていないところはあるぞ」
「まあ、長く使うなら整備しやすい方がいい」
「それはそうだ」
レオンは一つの馬房の前で立ち止まった。中の馬が鼻先を伸ばし、レオンの手へ近づく。
「おお、どうした」
レオンが首筋を撫でる。
「新しい家は気に入ったか?」
馬が小さく鼻を鳴らす。
「……」
「何だ?」
俺が見ると、レオンが真顔で言った。
「この馬も、ここの厩舎に慣れたら王都へ帰りたくなくなるのではないか?」
「馬に聞けよ」
「人間の方も危ない」
「お前の話か?」
「……否定はしない」
ベルタが横から口を挟む。
「副団長。仕事は仕事です」
「分かっている!」
「では明日の巡回表を確認してください」
「……はい」
近衛副団長が部下に叱られている。湖畔では、よく見る光景になってきたな。
◇
厩舎の確認を終えたあと、グレゴールたちと合流した。午前の祠工事は、俺が離れたあとも進んでいた。
バドルが台座の高さを最終確認し、ドランとボルガが固定金物の寸法を見ている。カイルとレイルは参道脇の排水溝を続けていた。
「どうだった?」
俺が訊く。
「石は据わった」
バドル。
「ただし、金物との取り合いをもう一度確認したい」
「了解」
グレゴールが図面を広げる。
「祠本体の仮組みは、今日で一通り確認出来た。明日から仕上げと据付準備へ進める」
「屋根は?」
「下地まで終わっている。仕上げ材は現地で確認しながら取り付ける」
「じゃあ本体を運ぶ前に、もう一度寸法を照合しよう」
「そうだな」
ニナが作業記録を見せる。
「今日、ここまで」
「おお」
台座の設置位置。水平。石材の数。排水溝の施工済み区間。写真番号。全部記録されている。
「ちゃんと残ってるな」
「うん」
「助かる」
「べんり」
「そうだな」
七歳の「べんり」は、今日も正しかった。
◇
午後三時。俺は工事事務所へ向かった。ここからは別の仕事だ。セレナとの報告書作成。事務所の中にはすでにセレナ、ガラン、アルノが集まっていた。レオンも同席する。
机の上には地図、書類、筆記具、そして俺のノートパソコン。
「遅くなった」
「いえ、予定どおりです」
セレナが答える。
「厩舎の確認は終わりましたか?」
「ああ。問題なく運用出来そうだ」
「それはよかったです」
「じゃあ、始めよう」
俺は椅子へ座った。ユキは俺の隣。こびゃっこは机の端。
◇
「まず、昨日までの情報を整理します」
セレナが紙を一枚広げた。
「八の月一日。レイシス皇国神務院の《湖畔調査隊》が作戦を行う予定」
「そう」
「移動式魔導兵器を伴う可能性が高い」
「うん」
「魔力供給に奴隷が使われる」
「そこはラウルの証言ともつながる」
ガランが頷く。
「三年前のロックパーム国境で使われた兵器と、同じ流れのものかもしれん」
「ただし、同一型式かは未確認だ」
俺は言った。
「そこは分けよう」
アルノが記録する。
「確認された事実と、推定を分けるのですね」
「そう」
「今回の場合、事実として扱えるのは何でしょう?」
「正確には、情報源からそう伝えられたという事実だな」
俺は少し考えた。
「実際に兵器を見たわけじゃない。敵の作戦命令書を入手したわけでもない」
「なるほど」
「だから、断定しすぎない」
セレナが頷く。
「王都へ報告する際にも重要ですね」
◇
報告書は二種類作る予定だ。
一つは、東岸の王国軍補給基地へ提出するもの。もう一つは、王都へ送るもの。同じ情報でも、目的が違う。
「補給基地への報告は、現場で必要なことを中心にしたい」
俺が言う。
「敵の接近可能性。移動式魔導兵器。警戒の強化。連絡体制」
「兵の配置だな」
レオンが言う。
「ただし、こちらの湖畔へ大量の兵を送り込んでもらう必要はない」
「どうしてだ?」
「目立つからだ」
俺は地図を指した。
「敵は湖畔を調べようとしている。こちらが急に大軍を動かせば、何か知っていると察する可能性がある」
「なるほど」
「だから、補給基地側には自然な範囲で警戒を強めてもらう。周辺の道路や森の異変を記録し、こちらと連絡が取れるようにしておく」
「王国軍の通常警戒の延長として扱うわけですね」
セレナが確認する。
「そういうこと」
◇
「王都向けには?」
アルノが訊く。
「こちらは、もう少し詳しく書く」
俺はノートパソコンへ目を向けた。
「神務院の動き。ロックパームの件との関連。移動式魔導兵器の危険性」
「そして奴隷供給ですね」
セレナ。
「そう」
俺は頷いた。
「ただし、情報源の名前や、どうやって情報を得たかは書かない」
そこで、ユキが小さく手を上げた。
「おっちゃん」
「ん?」
「シオン、ないしょ?」
「ああ」
「おなまえ、かかない?」
「書かない」
ユキが頷く。
「まもる」
「そうだ」
ガランも静かに頷いた。
「相手が神務院なら、情報漏洩は命に関わる」
セレナが紙へ視線を落とす。
「王都向けの文書でも、情報源は秘匿します。ただし、そのままでは情報の信頼性を疑われる可能性があります」
「そこが難しい」
「ですから、私の正式な特使としての署名を添えます」
「いいのか?」
「必要です」
セレナの声は落ち着いていた。
「私が確認した情報として、陛下と軍務卿へ取り次ぎます」
「助かる」
「ただし、私も情報源の詳細を知ったわけではありません。そこは正確に書きます」
「それでいい」
セレナが少し笑った。
「ヒカルさんも、事実と推定を分けるとおっしゃったでしょう?」
「……確かに」
◇
俺たちは文書を二つに分けて作り始めた。
まず東岸補給基地向け。題名は、《湖畔西岸方面における敵対勢力活動の警戒情報》軍の正式な書式に合わせる部分は、セレナとアルノに任せる。
俺は内容の整理だ。
「第一項、警戒対象」
アルノが読み上げる。
「レイシス皇国神務院関係者。調査隊の可能性あり」
「いい」
「第二項、警戒時期。八の月一日前後」
「そこは『八の月一日に作戦予定との情報あり』の方がいい」
「なぜです?」
「到着日と作戦日が同じとは限らないから」
「なるほど」
アルノが書き直す。
「第三項、兵器について」
「移動式魔導兵器を伴う可能性。奴隷を魔力供給に使用する方式との関連が疑われる」
「断定は避けるのですね」
「ああ」
「第四項、推奨対応」
ガランが口を開いた。
「通常警戒を維持しつつ、西方からの移動集団、資材輸送、異常な魔力反応を確認する」
「いいな」
「確認した場合は、単独で接触せず上位へ報告」
「それも入れよう」
レオンが頷く。
「不用意に戦闘を始めるな、ということだな」
「そう」
「兵器が何か分からん以上、近づくのは危険だ」
俺は頷いた。
「見つけたら倒せ、ではなく、見つけたら知らせる。まずはそれだ」
◇
次は王都向けだ。こちらは補給基地向けより長くなる。セレナが文面を読み上げる。
「神務院による湖畔方面への調査活動が、継続している可能性があります」
「うん」
「以前、結界外から遠距離観測を行った者がいたという情報とも整合します」
「それはバードさんの報告ですね」
アルノが言う。実はアルノにも、この間来訪した商人バーモントが密偵バード。そして王族のロイド・ゼビウスであることを明かしてある。
「そうです」
セレナが頷く。
「今回の情報を、それと分けずに示した方がよいでしょう」
俺は考えた。バードことロイドが以前持ち込んだ情報では、神務院は湖畔の建物や道路、重機、人の動きを調べていた。
今回のシオンの知らせでは、調査隊がさらに具体的な行動へ移ろうとしている。つながっている可能性は高いが、それでも断定は出来ない。
「『関連する可能性がある』と書こう」
「承知しました」
◇
魔導兵器については、ラウルの証言が役に立った。三年前のロックパーム国境。そこで使われた兵器。複数の奴隷から魔力を集めて動かす仕組み。人を消耗品として扱う、神務院らしい方式だ。
「この部分はラウルの証言として分けて記載した方がいい」
俺が言う。
「本人の名前は?」
アルノが訊く。
「王都向けなら、本人の同意を確認した上で扱う」
ガランが頷く。
「それがいい」
「補給基地向けには個人名は要らない」
セレナも同意した。
「王都向けには、証言者がいることと、その内容の要点を記します。ただし公開範囲は限定します」
「頼む」
俺は少し息を吐いた。書類一枚でも、誰かの命に関わることがある。だから、雑には扱えない。
◇
「次は移動経路か」
レオンが地図を指した。
「東岸補給基地まで、どの道を使う?」
「以前通った湖岸沿いだな」
「ピックアップトラックで?」
「そう」
「森の倒木は?」
「行ってみないと分からない」
「小川の水位は?」
「確認が必要」
俺は地図を広げた。
「以前は同じ日に往復出来た。ただし、今回は道の状態が同じとは限らない」
ガランが頷く。
「準備が必要だな」
「まず行く日を決めたい」
「明日ではどうですか?」
セレナが訊く。俺は少し考えた。
「明日の午前中に書類を仕上げて、車両と道具を確認する。出発はその後に判断したい」
「承知しました」
「天候が悪ければ延期。道が危険なら無理に進まない」
レオンが腕を組む。
「俺も同行した方がいいのではないか?」
「前にも話しただろ」
「副団長が行けば話が早い」
「その代わり目立つ」
「……」
ガランが言う。
「レオン、お前は湖畔に残れ」
「またか」
「近衛をまとめる仕事がある」
「分かった」
レオンは渋々頷いた。
◇
「ユキは、どうされますか?」
セレナが訊いた。
「ユキは行きたいと言ってる」
俺が答える。ユキがすぐ手を上げた。
「いく」
「ただし、車両と道の安全を確認してから」
「うん」
「子供用の座席も必要だ」
「ユキ、しってる」
セレナが微笑む。
「ユキが同行されれば、王国軍も湖畔側の正式な意思表示として受け止めやすいでしょう」
「そうだな」
こびゃっこが前足を上げた。
「当然、びゃっこも同行するぞ!」
「分かってる」
「護衛兼神事監修兼記録撮影主任として――」
「護衛だけでいい」
「む」
「撮影は必要なら許可を取ってから」
「また見習い扱いか!」
「現在進行形で見習いだ」
「ぐぬぬ」
ユキがこびゃっこの頭を撫でた。
「がんばる、みならい」
「ユキまで!」
◇
報告書の下書きが一段落した頃、窓の外は夕方の色になり始めていた。アルノが紙を揃える。
「東岸補給基地向けの下書きは、ほぼ出来ました」
「王都向けは?」
「まだ一部の表現を確認したいです」
セレナが答えた。
「明日の午前中、最終確認しましょう」
「そうしよう」
俺は椅子の背へ身体を預けた。思ったより疲れた。工事現場を歩き回るのとは、また違う疲れだ。
「ヒカルさん」
セレナがこちらを見る。
「何?」
「少し休憩を取ってください」
「え?」
「午後からずっと集中していました」
「……そうか」
ユキが俺の袖を引いた。
「おっちゃん」
「ん?」
「おやすみ、した?」
「昨日まで二日休んだぞ」
「きょう」
「今日は……」
言葉が止まった。ユキが真顔で見ている。
「……ああ。午後はずっと座ってたな」
「おみず」
「飲むよ」
「のんで」
「はい」
ユキが満足そうに頷いた。
「なら、よし」
ガランが小さく笑う。
「白狐神に管理される守護者か」
「最近こうなんだよ」
「悪くないだろう」
「……まあな」
◇
事務所を出ると、夕方の湖畔にはいつもの生活音が戻っていた。厨房からは夕食の匂い。畑の方からは、ロクやミーシャたちが戻ってくる声。厩舎では、ハロルドと騎士たちが最後の馬房確認をしている。
森の向こうでは、《始マリノ祠》の石材台座が今日また一歩完成へ近づいた。
◇
「おっちゃ!」
食堂の方からミナの声がした。小さな赤茶色の狐耳がぴょこぴょこ動いている。その横にはテオとミーシャ。トトはスケッチブックを抱えていた。
「おう、ミナ」
「ユキねーちゃ!」
ミナがユキへ両手を伸ばす。
「ミナ!」
ユキがそちらへ駆け寄ろうとして、途中で速度を落とした。そしてしゃがみ、ミナを受け止める。
「ぎゅー!」
「うん」
ミナがユキへ抱きつく。
「ユキねーちゃ、おしごと?」
「うん」
「できた?」
「いっこ、できた」
「えやい!」
ユキが胸を張った。
「ユキ、えらい」
「自分で言うな」
俺が突っ込むと、ミナは俺を見上げた。
「おっちゃも、えやい?」
「……どうだろうな」
ユキが即答する。
「おっちゃんも、えらい」
「おお」
「でも」
「ん?」
「おみず、のむ」
「まだ言うか!」
ミナも頷いた。
「おみじゅ!」
「二人に言われたら飲むしかないな」
近くにいたリリアが笑っていた。
◇
夕食後。風呂を済ませ、今日の記録を確認してから住居ユニットへ戻った。
机の上には明日仕上げる報告書の控えと祠の施工図。厩舎の運用点検表。三種類の書類が並んでいる。
「……今日はよく書いたな」
思わず独り言が出た。
「ヒカル」
籐籠からこびゃっこの声。
「何?」
「今日もちゃんと進んだのう」
「ああ」
「祠も、厩舎も、王国への話も」
「そうだな」
「全部一日では終わらぬ」
「分かってる」
「なら、よしじゃ」
「お前までユキみたいなことを言うな」
こびゃっこが小さく笑った。
「千年も生きれば、急いでも仕方のないことがあると分かるのじゃ」
「……そうか」
「だが、動かねば何も変わらぬ」
「そこは同意する」
俺は机の上の書類を揃えた。
「だから、明日も進めるよ」
「うむ」
◇
ベッドへ入ると、ユキがいつものように俺の右腕へ抱きついてきた。大きな白い尻尾が腹へ載る。
「おっちゃん」
「ん?」
「ほこら、できる?」
「ああ。もう少しだ」
「おうまも、おうち」
「厩舎に慣れてきたな」
「セレナ、かいた?」
「報告書も進んだ」
「シオンは?」
俺はユキを見る。
「忘れてないよ」
「うん」
「ちゃんと王国へ知らせる」
「うん」
「でも、焦らずにやる」
「ばたばた、しない」
「そう」
ユキが小さく頷いた。
「なら、よし」
少し間があった。
「おっちゃん」
「何?」
「ミナ、きょう、えらいって」
「ああ。聞こえた」
「ユキも、えらい?」
「今日も頑張ったな」
「ムフー」
白い尻尾が少し揺れた。俺は天井を見上げる。千年以上前に日本で映画を見ていた神使が、朝には未来の殺人機械の夢を見ている。
その横で、五歳の白狐神が三歳の狐族の妹を可愛がり、工事の監督までしている。
そして俺は、祠を建て、馬小屋の運用を考え、王国への報告書を書いている。
四十歳になるまで無趣味だった元会社員の生活としては、随分と変わったものだ。
でも、悪くない。
守りたいものが増えたから、やることも増えた。だったら、一つずつ進めればいい。
そう考えたところで、籐籠から小さな声が聞こえた。
「……標的……確認……」
……おい。
「……未来は……びゃっこが……変える……」
また始まった。
「……ツチノコ……発進……」
「だから重機で戦争するな!」
「……むにゃ……」
ユキが俺の腕へ顔を埋めた。
「おっちゃん」
「ん?」
「こびゃっこ、うるさい」
「……そうだな」
「ねる」
「ああ。おやすみ」
「おやすみ」
俺は目を閉じた。明日から七の月だ。また一つ、仕事を進めよう。
……ただし。こびゃっこの夢に、うちの重機を出演させるのはやめてほしい。
続く。
◇
【第142話・収支報告】
異世界生活101日目 日付:六の月30日 オリエント王国歴952年
開始残高:3,114,180pt
今回の新規購入:
・《始マリノ祠》石材据付作業:既購入済み資材を使用 0pt ・厩舎運用確認:既存設備・備蓄品を使用 0pt ・報告書作成:既存のパソコン・用紙・筆記具を使用 0pt
今回支出合計:0pt
現在残高:
3,114,180pt − 0pt = 3,114,180pt
円換算目安:
3,114,180pt × 100円 = 311,418,000円相当




