第139話 白狐神とシオンからの知らせ
異世界生活98日目。
六の月27日の夜。
部屋の照明を落とす。ユキがいつものように俺の腕へ抱きつき、大きな白い尻尾が腹から脚へ載った。
「おやすみ」
「おやすみ、おっちゃん」
「こびゃっこ」
「びゃっこは既に就寝体勢じゃ」
「おやすみ」
「うむ。よい夢を」
その言葉が妙に引っ掛かった。でも考える前に眠気が来た。
◇
気が付くと、俺は立っていた。
「……またか?」
足元には柔らかな草があり、少し離れた場所から湖の水音がする。空は夜でも朝でもない薄い白色。
夢だ。それも普通の夢じゃない。
「おっちゃん」
横から声がした。
「ユキ」
ユキがいる。寝間着ではなく、いつもの白いトップスとデニムのサロペット。
「む?」
もう一つの声がした。振り返ると……。
「やっぱり」
そこにいたこびゃっこは、普段の手のひらサイズのぬいぐるみではなかった。
体長五十センチほど。四本の脚で地面へ立つ本物の白狐。白い毛並みは柔らかく光り、尻尾も普段より長い。
以前、しらゆきたちと繋がった共有夢で見た姿だ。
「白狐になってるぞ」
「夢じゃからの」
「便利だな」
「元はこちらが本来の姿に近いのじゃ!」
「こびゃっこ、おおきい」
ユキがすぐ近寄る。
「ユキ、ミナのように飛びつくでないぞ」
「まだ、してない」
「目がしておる」
「目で、ぎゅー?」
二人はいつものやり取りだ。でも俺は周囲を見る。
「ここ、どこだ?」
湖畔に似ている。ただし建物ははっきり見えない。遠くに食堂らしい影。
森、湖、大木。全部が薄い霧越しに重なっている。
「前と違うな」
「うむ」
こびゃっこも急に真面目になる。
「しらゆきたちとの共有夢とも違う」
「シオン?」
ユキが言った。俺とこびゃっこが同時にユキを見る。
「感じるか?」
「……まだ」
ユキは周囲へ顔を向け、狐耳を動かす。
「でも」
「何?」
「だれか、いる?」
背中に小さく緊張が走った。
◇
同じ頃。遠く離れたレイシス皇国の神務院専用区画で、シオンは眠っていた。首には細い銀環。
観測室では弱い波形が少しずつ動き始めていたが、夜勤の神官はまだ異常とは判断していない。
シオンの意識だけが、ゆっくりと湖畔へ引かれていく。
◇
シオンには三人が見えていた。白い髪の小さな少女、黒髪の男、そして。
「……びゃっこ」
息が止まりそうになった。今夜のびゃっこは、小さなぬいぐるみ姿ではない。
昔、まだシオンが夢の中で一人だった頃。何度もそばへ来てくれた大きな白狐。以前見た姿より随分小さく感じる。それでも間違えようがない。
白い毛、尻尾、声。ずっと夢の中で自分を守ってくれていた存在。
「びゃっこ……」
呼んでみた。けれど三人はこちらを見ていない。自分の姿も向こうには見えていないらしい。
前と同じだ。シオンからは見えるが、向こうからは見えない。それでも三日前の夜、声はたしかに届いた。
「ユキ」
呼んでみる。白い狐耳が僅かに動いた。
『……?』
胸が強く鳴る。
「おっちゃ……」
そこでシオンは言い直した。
「ヒカル」
黒髪の男が周囲を見る。
『今、何か聞こえなかったか?』
届いている。まだ弱い。でも届いている。
「びゃっこ」
今度は少し強く呼ぶ。
◇
白狐姿のこびゃっこの耳が、ぴんと立った。
「待て」
「何?」
「しずかに」
ユキも耳を立てる。俺は息を止めた。湖の水音。木々の葉擦れ。そのさらに向こうから、本当に遠く、霧の奥を通ってきたような細い声が聞こえた。
『……びゃっこ』
こびゃっこが目を見開く。
「シオン……?」
◇
「きこえる!」
ユキが叫んだ。
「シオン?」
『ユキ』
今度ははっきりした。姿は見えない。でも声は聞こえる。
「いる!」
ユキが霧へ向かって一歩進む。
「シオン、いる!」
「ユキ、待て」
俺は肩を掴む。前回と同じなら、この接続がどこまで続くか分からない。しかもシオンの首には銀色の環がある。あれが何を見ているのかも、完全には分かっていない。
「シオン」
俺は声を張った。
「聞こえるか?」
『……きこえる』
「俺たちはここにいる」
少し間があった。
『うん』
「無理してこっちへ来ようとするな。話せる範囲でいい」
『……おっちゃ』
「ヒカルな」
『ヒカル』
「そう」
こびゃっこが小さく笑った。
「相変わらずそこは訂正するのじゃな」
「大事だ」
『びゃっこ』
「おるぞ」
『ユキ』
「いる!」
三人の名前を確かめるように、シオンが一人ずつ呼ぶ。その声は以前より少しだけ近かった。
◇
「シオン」
俺は訊く。
「何か伝えたいことがあるのか?」
しばらく返事がなかった。聞こえなくなったかと思った時、細い声が返ってきた。
『……八の月』
「八の月?」
『一日』
俺とこびゃっこが顔を見合わせる。
「八の月一日?」
『うん』
「何がある?」
霧が少し揺れる。
『くる』
「誰が?」
『湖……調べる人たち』
湖畔調査隊。頭の中で、以前ロイドから聞いた言葉が蘇る。
「《湖畔調査隊》か?」
少し間があった。
『……そう』
当たりか。
◇
こびゃっこの顔から完全に笑顔が消えた。
「人数は分かるか?」
『わからない』
「無理に思い出さなくていい」
『でも』
シオンの声が震える。
『兵器……くる』
胸の奥が冷えた。
「兵器?」
『……供給奴隷』
ラウルが話していた、複数の奴隷から魔力を集めて動かす移動式魔導兵器。
「結界を破る魔導兵器か?」
『わからない。でも……人、つなぐ』
こびゃっこが低い声で言った。
「おそらく、ラウルの時と同じじゃな」
「たぶん」
四百年以上前、白狐の里を襲った最後の兵器そのものではない。だが、その前段階に使われた兵器と同じ流れを汲むもの。三年前、ロックパーム国境で使われたもの。そして多くの奴隷を壊したもの。
◇
「シオン」
俺はなるべく声を変えない。
「お前は?」
返事が遅れた。
『……いく』
ユキの耳がぴくりと動く。
「シオン、くる?」
『うん』
「兵器に?」
『ちがう』
そこはすぐ否定された。
『わたしは……見るため』
「観測?」
『たぶん』
銀環、魔力、神性。外部とのつながり。ロイドの報告と、これまでの反応が一本につながる。
「お前の首の銀色の環で、湖畔やユキとの反応を見るつもりなのか?」
『……たぶん』
「説明はされた?」
『ほごぐ……って』
「保護具か」
表向きはそういう扱いだったな。
◇
「シオン」
ユキが呼ぶ。
『ユキ』
「こわい?」
少し長い沈黙。
『……こわい』
「うん」
『でも』
「うん」
『いわないと』
ユキは小さく頷いた。
「いってくれて、ありがと」
『……うん』
「シオン、えらい」
その言葉に、向こうで小さく息を呑む気配がした。
◇
「シオン」
俺は続ける。
「八の月一日。それは確定?」
『そう言ってた』
「出発日? 湖畔へ着く日?」
沈黙。
『……作戦の日』
「了解」
少なくとも、こちらが考えていたより具体的な日付だ。今日は六の月27日。まだ時間はある、焦る必要はない。準備するには十分使える情報だ。
「他に分かることは?」
『奴隷……あつめてる』
「魔力供給用?」
『うん』
『供給が遅れているって』
ラウルたちが逃げたからか。神務院側は、逃げた三人が湖畔にいることまでは知らないはずだ。
◇
こびゃっこが霧へ向かって一歩出る。
「シオンよ」
『びゃっこ』
「十分じゃ。これ以上、無理に聞いたことを掘り返すでない」
『でも』
「覚えておることを全部出そうとしなくてよい。お主の身体に負担が掛かっては意味がない」
「こびゃっこの言う通りだ」
『……うん』
「八の月一日。調査隊。魔導兵器。お前も観測対象として同行する。そこまで分かれば十分だ」
『わすれない?』
「忘れない」
『ほんと?』
「段取りに入れる」
ユキがすぐ反応する。
「だんどり」
「ああ」
「なら、よし」
◇
その時。霧の向こうで何かが光ったように見えた。
「何だ?」
姿は見えない。でも、シオンがいると思われる方向で銀色の光が一瞬だけ走る。
『……っ』
「シオン?」
『くび……あつい』
銀環か。
「無理するな。切れそうなら切れ」
『まだ』
「駄目だ」
『でも――』
「知らせは受け取った」
俺は強く言う。
「もう十分だ」
ユキも続ける。
「シオン、むり、だめ」
『……ユキ』
「また、はなせる」
俺は一瞬だけ迷った。次も繋がる保証はない。でもユキは迷わなかった。
「また、はなす」
シオンの声が少し震えた。
『……うん』
◇
遠く離れた神務院の観測室。銀環から伸びた波形が大きく跳ね上がった。
「何だ、これは」
夜勤神官が椅子から立ち上がる。数日前に記録された異常と似ている。ただし今回は継続時間が長い。
「共鳴反応……?」
数値がさらに上がる。外部との接続、精神活動、神性に近い反応。しかし位置は出ず方向も出ない。何かと繋がっていることだけが分かる。
◇
『ヒカル』
「いる」
『ユキ』
「いる!」
『びゃっこ』
「おる」
一人ずつ確かめる。
『……よかった』
声が遠くなる。
「シオン!」
『八の月……一日』
「聞いた!」
『くる』
「分かった!」
『きを……つけて』
「ああ」
霧が濃くなる。ユキが手を伸ばした。
「シオン!」
『ユキ……』
「まってる!」
声が途切れた。
◇
静かになった。湖の水音だけが残る。ユキは手を伸ばしたまま動かなかった。
「ユキ」
「……きえた」
「ああ」
「でも」
「うん」
「しゃべれた」
「ああ」
こびゃっこが大きな白狐の姿のまま、霧が消えた方向を見る。
「前回より長かったのう」
「しかも向こうから情報を伝えようとして繋がった」
「銀環も反応したようじゃ」
「それが問題だな」
「うむ」
俺は頭の中で情報を並べる。八の月一日。湖畔調査隊。おそらく移動式魔導兵器。魔力供給用の奴隷。ラウルたちの代替要員。そしてシオン自身も同行。
「明日の朝、ガラン、セレナ、レオンに話す」
「王都への報告も増えたのう」
「ただし大騒ぎはしない」
「だんどり?」
ユキが聞く。
「そう。段取り」
「ばたばた、しない」
「その通り」
◇
俺は改めて霧の向こうを見る。シオンは、まだ向こうにいる。助け出せていない。それでも今夜、あの子は自分の意思でこちらへ知らせを届けた。
強制されて答えたんじゃない。誰かに命令されたんでもない。湖畔へ伝えなければと思って、自分から声を伸ばした。
「シオンも頑張ってる」
「うん」
ユキが頷く。
「シオン、えらい」
「そうだな」
こびゃっこも静かに頷いた。
「今度はこちらの番じゃ」
「ああ」
まだ時間はある。怒るのは簡単。焦るのも簡単だ。でも、シオンが危険を冒してくれた情報を無駄にしないためには、まず段取りだ。
「帰るぞ」
「どうやって?」
ユキが首を傾げる。
「……夢だから起きればいいんじゃないか?」
「どうやって起きる?」
「それは知らん」
こびゃっこが白狐姿のまま鼻を鳴らした。
「最後だけ締まらんのう」
「夢の退出方法なんて習ってないんだよ」
ユキが俺の手を握る。
「おっちゃん」
「ん?」
「あした、すいか」
「……そうだった」
「わすれない?」
「忘れないよ」
「シオンも」
「ああ」
「すいかも」
「両方な」
「なら、よし」
こんな時でも、明日のスイカは大事らしい。でも、それでいい。シオンが帰ってこられる場所は、戦うためだけの場所じゃない。
スイカを採って、みんなで笑って、馬の世話をして、祠を作って、子供が眠れる場所だ。
それを守る。そのための段取りを、明日から始める。
続く。
◇
【第139話・収支報告】
異世界生活98日目・夜
日付:六の月27日
オリエント王国歴952年
開始残高:3,119,005pt
今回の新規購入:なし
今回支出合計:0pt
現在残高:
3,119,005pt − 0pt
= 3,119,005pt
円換算目安:
3,119,005pt × 100円
= 約311,900,500円相当




