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スキル四十(しじゅう)の手習いで神獣幼女を養います  作者: ELWOOD CRAFTWORKS


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136/139

第135話 白狐神と繋がったシオン


 異世界生活95日目。

 六の月24日の夜。


 湖から遠く離れた西、レイシス皇国の皇都。皇城の一室で、レイシス十七世は机いっぱいに広げた古い軍用地図を眺めていた。


 地図の中央には皇国を南北に隔てるように山脈が伸び、その南側にはレイシス皇国、北側には現在の国境線を挟んで《ロックパーム公国》の名が記されている。


 ただし、それは後から書き加えられたものだ。地図そのものは三十年以上前に作られた物で、公国となった土地も元々はレイシス皇国と同じ色で塗られている。


「三十年か……」


 皇王は低く呟いた。三十年前まで、ロックパームという国は存在しなかった。今では国境線によって二つに分けられている大地も、当時はただ一つの皇国だった。


「陛下」


 静かな執務室に側近の声が響く。


「神務院の司祭がお見えです」


「入れろ」


「はっ」


 扉が開き、白い法衣を纏った五十代ほどの男が入ってきた。胸元には神務院を示す紋章が銀糸で刺繍されている。男は皇王の前まで進むと深く頭を下げた。


「皇王陛下に拝謁いたします」


「堅苦しい挨拶はいい。湖畔の件か?」


「はい」


「その前に一つ聞く」


 レイシス十七世は地図から目を上げないまま、指先でロックパームの名を叩いた。


「貴様ら神務院では、今もロックパームを何と呼んでいる?」


 司祭の返答が一瞬遅れた。


「……内部では《反逆公領》と呼ぶ者もおります。正式な文書上では、ロックパーム地方と」


「地方、か」


 皇王の口元に薄い笑みが浮かぶ。


「三十年前から何も変わらんな」


     ◇


 三十年前。レイシス十七世には弟がいた。同じ皇王家に生まれ、北西部一帯を任されていた公爵であり、今ではロックパーム公国の大公と呼ばれている男。


 まだ国が分裂する前、二人はただの皇王と公爵ではなく兄弟だった。


     ◇


『兄上、奴隷制度を廃止してください』


 三十年前の皇城会議室で、弟は真正面からそう言った。


 席には宰相、軍務官、神務院の高位司祭、北方諸侯が並んでいた。それだけの人間を前にしながら、弟は一歩も引かなかった。


『出来ぬ』


 自分は即答した。


『皇国の経済がどう動いているか、お前も知っているだろう。農地も鉱山も街道整備も、奴隷労働に依存している地域は多い。一度に変えれば国が崩れる』


『だから変える準備を始めるのです』


『理想論だ』


『理想を口にする者すらいなくなれば、それこそ国は終わります』


 昔から弟は面倒な男だった。


 亜人を人族と同じ席に座らせ、ドワーフの職人と肩を並べて酒を飲み、エルフの医師を領都へ招き入れ、狐族の祭りにも自ら足を運んだ。


 そして何より、白狐神の古い伝承をただの昔話として扱わなかった。


『白狐神は、人族だけを守った神ではありません』


『昔話だ』


『その昔話を、神務院の前身である神務魔導府は滅ぼそうとした』


『証拠はない』


『記録を残さなかった者が、証拠がないと言うのですか』


 その瞬間、会議室の空気が変わったことをレイシス十七世は今でも覚えている。


 神務院の高位司祭たちは露骨に弟を睨み、自分もまた、これ以上は余計なことを口にするなと弟を黙らせた。


     ◇


「……裏切ったのは、あいつだ」


 記憶から戻った皇王が、小さく呟く。


 三十年前、ロックパーム公爵は北部の各領主と軍を掌握すると、奴隷制度の廃止、亜人種への法的差別撤廃、神務院の領内活動禁止、奴隷商の排除を相次いで宣言した。


 皇都は即時撤回を命じたが、公爵は拒否した。軍が送られ、北部の各領主と領兵は公爵側についた。


 そして最終的に、北西部のロックパーム公爵および北部近隣の各領主は、ロックパーム公国としてレイシス皇国からの独立を宣言した。


 皇国は三十年が経過した今も、その独立を正式には認めていない。


「弟は余に刃を向けた。皇族でありながら国を割り、今では大公を名乗っている」


「その通りにございます。大公という称号自体、皇国から見れば僭称に過ぎません」


 司祭の答えを聞き、皇王はゆっくりと顔を上げた。


「貴様らは簡単でいいな」


「陛下?」


「反逆者、異端、亜人、奴隷。名前をつけて分類してしまえば、それ以上考えずに済む」


 司祭は何も答えなかった。レイシス十七世自身、弟を許しているわけではない。


 国を割り、兵を死なせ、皇王家の権威を傷つけた。現在も国境では小規模な衝突が繰り返されている。


 許せるはずがなかった。それでも、ときどき考える。どこで兄弟はここまで違ってしまったのか。


 弟が変わったのか、自分が変わったのか。それとも最初から、同じものを見ながら違う景色を見ていただけなのか。


「それで」


 皇王は古い地図を畳んだ。


「湖の報告を聞こう」


「はっ」


 司祭が手にしていた書類を開く。


「西部大湖の湖畔において、白き神獣と思われる存在を確認しております」


「白狐神か?」


「その可能性が高いと判断しております」


「四百年前と同じ場所で?」


「ほぼ同一地域です」


 皇王の目がわずかに細くなった。


「……また、あの土地か」


     ◇


 約四百二十年前。大湖の湖畔には、白狐神を中心とした大きな集落が存在していたという。


 狐族だけではない。狼族、エルフ、ドワーフ、人族まで、複数種族が混じって暮らしていた里だった。


 その存在を異端として問題視したのが、現在の神務院の前身にあたる《神務魔導府》だった。


 討伐隊は何度も送られたが、湖畔の里を覆う結界を突破することは出来なかった。


 やがて大規模な攻略作戦が立案され、最後には当時の神務魔導府が保有していた最終兵器まで投入された。


 ところが、その直後に戦場で何が起きたのかを示す確かな資料は、皇王室にもほとんど残されていない。


 分かっているのは、戦場で大きな混乱が発生し、その後、白狐神の里そのものが消えたことだけだった。


 建物も、住民も、白狐神も、一夜にして湖畔から姿を消した。


「当時の報告を読み返した」


 皇王が言う。


「神務魔導府が皇王室へ提出した文章には、《異端集落の消滅を確認》としか書かれていない」


「はい」


「討伐成功とも、住民を殲滅したとも書かれていない。ただ消滅した。それだけだ」


「四百年以上前の資料ですので、詳細が失われている可能性もございます」


「それで四百二十年、押し通してきたわけだ」


 司祭は何も言わなかった。皇王室が把握している事実は少ない。一方で、皇王家や軍上層部の間に噂として残り続けた話はあった。


 神務魔導府が投入した最終兵器は制御を失った。攻撃対象だけではなく、味方の兵まで巻き込んだ。討伐隊には大量の死者が出て、多くの兵が帰還しなかった。兵器そのものも失われた。


 だが、どれも正式記録で裏付けられてはいない。


 神務魔導府が攻略作戦に関する記録の大半を封印し、皇王室にすら提出しなかったためだ。


 何代もの時代が過ぎた後、神務魔導府は組織再編を経て現在の神務院となった。


「その最終兵器について、今の神務院にはどれだけ資料が残っている?」


「断片的なもののみです」


「暴走したという記録は?」


「確証のある資料はございません」


「味方を殺したという話は」


「資料上は確認出来ません」


「資料上、か」


「はい」


 レイシス十七世は椅子へ深く背を預けた。


「四百年前から便利な言葉だな」


     ◇


「今回使用を予定している兵器は、当時の最終兵器そのものではございません」


 司祭が慎重に言った。


「それくらいは分かっている」


「三年前、ロックパームとの国境紛争で実戦投入された移動式魔導兵器です。現在、二機を湖畔作戦へ投入するため整備しております」


「一機は既に使える状態だったな」


「はい。もう一機も七の月半ばには」


「動力は?」


 司祭の返事が一瞬遅れた。


「……魔力供給奴隷です」


「一機につき何人必要だ」


「複数名です。適合者の魔力濃度によって変動します」


「また奴隷か」


「現状では最も効率の高い方式です」


「三年前の兵器と構造は変わっていない?」


「基本術式は同一です」


 皇王の指先が机を一度だけ叩いた。


「三年前の戦場で、供給奴隷は何人死んだ」


 司祭が黙る。


「聞こえなかったか」


「……正確な人数は、詳細記録を確認しなければ」


「概要くらいは知っているだろう」


 司祭の喉が動いた。


「一機につき、供給奴隷の半数以上が術式焼損を起こしております。生存した者についても、戦闘後に大半が再使用不能と判定されました」


「再使用不能」


「はい」


「つまり、人としてではなく兵器部品として分類したということか」


「兵器運用上の分類です」


 皇王の目から僅かに温度が消えた。


「貴様らは三年前から何も学んでいない」


「陛下」


「いや、違うな。使い潰す方法だけは、よく学んでいる」


     ◇


 だが皮肉なことに、その魔導兵器が四百二十年前からほとんど変わっていないことを、現在の神務院は知らなかった。


 三年前に復元された移動式魔導兵器は、かつて神務魔導府が白狐神の里を攻撃する際に繰り返し投入していた奴隷動力式魔導兵器と、ほぼ同じ思想と構造を持っている。


 最後に投入された最終兵器とは別物だ。


 しかし神務魔導府は、最終兵器の暴走と攻略失敗を隠すため、最終兵器だけでなく湖畔侵攻に関する膨大な資料そのものを処分した。


 どの兵器が投入されたのか。

 どれが有効だったのか。

 何が通用しなかったのか。

 白狐神の結界が何をしたのか。

 捕らえて連れてきた奴隷がどうなったのか。


 その失敗までまとめて歴史から消した。


 わずかに残ったのは設計図の断片、術式図の一部、必要資材表、魔力供給計算、運用要領の一部だけだった。


 そして三年ほど前、現在の神務院の技術者たちはそれらの断片を見つけ、かつて実用化された優秀な兵器の資料だと判断した。


 彼らは知らない。


 四百二十年前、その兵器が白狐神の里の結界へ接近すると、中に繋がれていた奴隷たちの隷属術式が次々と焼き切られたことを。


 奴隷たちは首輪から解放され、しらゆきやこびゃっこ、里の者たちに助けられながら兵器を捨てた。


 檻を破壊され、歩けない者まで救い出され、兵器そのものを接収されたことすらあった。


 その記録を消したのは、他でもない神務院の前身だった。


「三年前の実戦では、兵器そのものは問題なく動いたのだったな」


 皇王が聞く。


「はい」


「ロックパーム軍にも損害を与えた」


「大きな成果を確認しております」


「だから、今回も使えると考えている」


「はい」


 司祭は迷わず答えた。


「相手はロックパーム軍ではないぞ」


「承知しております」


「白狐神かもしれない」


「だからこそ、投入する価値があります」


「だからこそ?」


「四百年前に攻略出来なかった対象です。今度こそ確保出来れば、神務研究にとって計り知れない価値があります」


 司祭の声に宿っているのは、恐れではなく欲だった。


「確保出来なかった場合は?」


「抵抗するのであれば、排除もやむを得ないかと」


 皇王の視線が鋭くなる。


「最初から殺すつもりなのか」


「い、いえ。状況に応じて現地指揮官が判断いたします」


「その判断をする者は誰だ」


「戦務部のグラウス司祭です」


「三年前、兵器の出力を上げ過ぎて自軍まで巻き込んだ者ではないか」


「正式な処分には至っておりません」


「知っている。だから言っている」


 レイシス十七世は冷たく続けた。


「同じことを繰り返すな。繰り返した場合、今度は神務院内部の処分で済ませるつもりはない」


「……御意」


     ◇


「こちらが偵察報告です」


 司祭が次の書類を広げる。


 湖、森、道路、鋼橋、畑、建物、そして用途の分からない大型機械。遠距離から観測した内容を基に粗い図まで描かれている。


「一か月ほど前、当院の密偵オルガが湖畔へ接近しました」


「内部へ入ったのか?」


「いいえ。湖畔南側道路の手前、およそ百メートル付近で結界に侵入を拒絶されています」


 皇王の指が止まった。


「結界……四百年前と同じものか」


「そこまでは断定出来ません。ただし、通常の侵入阻害術式ではないと報告されています」


「兵器を近づけた場合、どうなる?」


「実験記録は残っておりません」


「残っていない?」


「関連資料の大半が失われていますので」


「失われたのではなく、消したのだろう」


 司祭は沈黙した。


「それでも兵器を持ち込むつもりか」


「白狐神の存在が確認出来れば、必要な措置と考えております」


「確証もなく、奴隷を積んだ兵器を二機も動かすのか」


「必要な犠牲です」


 その言葉を聞いた瞬間、皇王の目に三十年前の会議室が重なった。


「その言葉を、三十年前にも聞いた」


「……」


「内部戦力は?」


「多くはありません」


「根拠は?」


「確認された白狐神と思われる少女は五歳前後。ほかにはサコン・ヒカルと推定される異界人、以前逃亡した奴隷数名。戦闘職と思われる者は、湖岸や森林を巡回する二名ほどです」


「二名?」


「弓を持つエルフと、狼族の男です」


「それだけか」


「偵察時に確認出来た範囲では」


「結界の向こうへ入れず、全域を把握出来ていないのに、少ないと判断した?」


 司祭の返答が止まる。


「……侵攻部隊には追加の偵察班を同行させます」


「最初からそうしろ」


     ◇


 神務院が戦闘職として把握しているのは、リーファとロクの二人程度だった。


 彼らは知らない。オリエント王国近衛騎士団二十名が現在の湖畔に駐留していることを。近衛副団長レオン・ヴァルガを筆頭に、戦闘班、弓士班、防御班、医療班が揃っていることも知らない。


 さらにAランクハンターチーム《蒼岩の盾》が滞在し、Sランク級の《東風の牙》も湖畔にいる。


 オルガが偵察した時点では、まだ到着していなかった者が多い。つまり神務院は、古い情報を基に現在の湖畔戦力を大幅に過小評価していた。


     ◇


「大型の鉄製機械というのは?」


 皇王が尋ねる。


「用途不明です」


「兵器なのか?」


「その可能性は否定出来ません」


「使用された記録は?」


「ありません」


「では、何故兵器だと思う」


「異界の技術ですので、警戒すべきかと」


「分からない物を全て兵器扱いするのは感心せんが、警戒そのものは必要だろう」


 皇王は粗い観測図へ視線を落とした。


「それで、今回の目的は討伐か?」


「調査、及び必要に応じた確保です」


「何を確保する」


「白狐神です」


「神を?」


「神務研究上、極めて重要な対象になります」


「四百年前にも同じことを言ったのではないか」


 司祭は答えない。


「知らないのか」


「四百年以上前の出来事ですので」


「……そうか」


     ◇


 レイシス十七世は席を立ち、窓の外へ視線を向けた。夜の皇都には無数の灯りが並び、その向こうには神務院の高い塔が見えている。


 白狐神。その名を三十年前、弟も何度も口にした。


『我々は四百年前の失敗から何も学んでいない』


 弟はそう言った。当時の自分は答えた。


『失敗ではない。異端集落は消えた』


 すると弟は静かに言った。


『消えたことと、勝ったことは同じではありません』


「陛下?」


 司祭の声で、レイシス十七世は現実へ戻った。


「いつ決行出来る?」


「許可を頂けるのであれば、一か月ほどの準備期間を」


「具体的な日を決めろ」


 司祭は短く考えた。


「八の月一日であれば、二機の魔導兵器、供給奴隷、術式試験、侵攻部隊の編成まで全て間に合わせます」


「奴隷は足りるのか?」


「現在、供給を進めております」


「術式試験は?」


「七の月中に終了させます」


「結界へ兵器を近づけた場合の試験は?」


「……実施予定です」


「予定ではなく、結果を出せ。何が起こるか分からない兵器を、そのまま湖畔へ持ち込むな」


「承知いたしました」


 皇王は再び地図を広げた。白狐神の湖。三十年前に決別した弟。四百二十年前に消えた里。


 無関係だったはずの出来事が、不思議なほど一つの線で繋がって見えた。


「八の月一日。湖畔調査を許可する」


 司祭が深く頭を下げた。


「御意」


「ただし、これは征服作戦ではない。まず調査を行い、白狐神が実在するのであれば出来る限り生きたまま確保しろ。異界人も同じだ」


「はい」


「不要な損害も出すな」


「当然でございます」


「その当然が守られないことを、余は何度も見てきた」


「……」


「現地指揮官にも伝えろ。勝手に殺すな。命令に背けば、神務院の司祭であろうと処分する」


「御意」


 司祭が退室しようとしたところで、皇王が呼び止めた。


「待て。もう一つある」


「何でしょう」


「ロックパームには、この作戦を悟らせるな」


「大公へ、ですか?」


「弟に知られれば、必ず止めに来る」


「では最高機密として」


「ああ」


 皇王は古い地図に描かれた北西の土地を見る。


「余が白狐神への作戦を許可したと知れば、あいつはまた余を止めようとするだろう」


「……」


「三十年前と同じようにな」


 司祭は深く頭を下げ、そのまま部屋を出ていった。扉が閉じ、執務室に静けさが戻る。レイシス十七世は一人、ロックパームの名を見つめた。


「……弟よ。今のお前には、何が見えている」


     ◇


 同じ頃、皇都郊外にある神務院研究施設の地下では、湖畔侵攻に向けた別の会議が開かれていた。


「三名です」


 神官の報告を聞き、上級司祭が眉を寄せる。


「何が三名だ」


「術式試験用として確保していた奴隷のうち、三名が数日前に逃亡しました」


「内訳は」


「成人男性一名、犬族の少年一名、狐族の幼女一名です」


「追跡は?」


「途中で失っています」


「奴隷首輪は?」


「全員、解除されたものと思われます」


「解除だと?」


「はい。命令系統そのものが途切れており、追跡反応も消失しています」


 上級司祭は机を指で強く叩いた。


「どうやって解除した」


「不明です」


「不明で済ませるな」


「申し訳ありません。現在も追跡班が調査しておりますが、痕跡が途中から完全に消えております」


「逃亡した三名の素性は?」


「成人男性は人族。犬族の少年と狐族の幼女は、同じ収容区画から移送された対象です」


「三名が欠けた場合、兵器運用に必要な人数は足りるのか?」


「このままでは不足します。ただし予備対象を繰り上げれば、最低必要数は満たせます」


「適合率は」


「現在確保している者より低くなります」


「兵器は動くのだな?」


「動かすこと自体は可能ですが、出力は一割から二割程度低下する可能性があります」


「許容範囲だ」


「ただ、結界接近時にどの程度負荷が増えるか分かりません」


「だから術式試験をする」


「しかし準備期間が――」


「決行日は八の月一日だ」


 上級司祭の言葉に、周囲が静まった。


「皇王陛下の許可が?」


「出た。三名の逃亡程度で全体計画を遅らせる必要はない。追加の奴隷を調達しろ」


「どこからでしょう」


「西部の収容施設から適合候補を集める。魔力濃度検査を行い、使える者を優先して残せ」


「承知しました」


 人の命ではなく、必要数。彼らの会話では、最初からそのように扱われていた。


     ◇


「銀環対象は?」


 別の司祭が尋ねると、会議室の壁際に立っていた女が顔を上げた。灰色がかった焦げ茶色の髪を後ろで束ね、左目を黒革の眼帯で覆っている。


 神務院の密偵、オルガ。


「生存しています。ただし、これ以上の尋問は中止するよう進言します」


 会議室にいる者たちの視線が一斉に集まった。


「理由は?」


「これ以上、赤眼による精神干渉を続ければ壊れます」


「何がだ」


「シオンの精神です」


 オルガは感情を乗せず、事実を報告するように答えた。


「赤眼への抵抗が強すぎます。抵抗出来なくなるまで使えば情報が取れるというものではありません。これ以上続ければ人格そのものが崩れ、質問に対する反応すら資料として信用出来なくなります」


 研究担当の神官が、銀環の観測記録を確認した。


「確かに、ここ数日は睡眠時の共鳴反応そのものが大きく低下しています」


「夢を見ていないということか?」


「少なくとも以前観測されていた反応はほぼありません」


 オルガの尋問を受けてから、シオンはほとんど夢を見られなくなっていた。眠りについても湖畔の景色は現れず、白い狐も、ユキも、ヒカルも出てこない。


「既に必要な情報はかなり取っています」


 オルガが続けた。


「湖畔の地形、建造物、白狐神と思われる少女、サコン・ヒカル、以前の逃亡奴隷、大型機械、畑、道路、橋。これ以上シオンへ赤眼を使用しても、得られる情報量に対して危険が大きすぎます」


「情が移ったか?」


 司祭の一人が尋ねた。オルガは表情を変えなかった。


「情報源を壊すのは非効率だと申し上げています」


 数秒の沈黙のあと、上級司祭が頷いた。


「……よかろう。シオンへの直接尋問は終了する」


「承知しました」


「ただし、銀環対象そのものは湖畔侵攻へ同行させる」


 その言葉に、オルガの眉がほんの僅かに動いた。


「シオンを?」


「そうだ」


「魔力供給奴隷として使用するのですか?」


「違う。白狐神への反応を見る」


     ◇


 シオンの首にはめられている銀環は、神務院が本人へ《保護具》と説明している特殊な観測装置だった。


 普通の奴隷拘束首輪とは違い、命令石を通じて命令を伝えたり、違反時に苦痛を与えたりすることを主目的としていない。


 銀環が観測しているのは、装着者の魔力変動、精神状態、外部から流れ込む特殊な魔力、そして神性に近い共鳴反応だった。


「湖畔へ近づけば、銀環に何らかの反応が現れる可能性が高い」


 司祭が言う。


「白狐神が本物なら、なおさらだ」


「本人への負担は?」


「許容範囲内だ」


「それは誰にとっての許容範囲ですか」


 オルガが初めて真正面から司祭を見た。


「研究上の基準だ」


「シオン本人の基準ではない」


「口を慎め、オルガ」


「……はい」


 オルガは視線を下げたが、垂らした手だけが僅かに握られていた。


「魔導兵器二機、魔力供給奴隷、術式試験、湖畔調査隊、銀環対象。全て八の月一日に合わせる」


 上級司祭は机上の書類を揃えた。


「今夜から準備を前倒ししろ。兵器整備、適合検査、奴隷移送を同時に進める」


「承知しました」


     ◇


 研究施設のさらに地下には、二つの巨大な影が置かれていた。


 厚い鉄板で覆われた車体。その内部には魔石と複雑な術式管が走り、大きな車輪が重量を支えている。


 中央部に設けられているのは、人間を乗せるためというより、魔力を吸い上げるために奴隷を固定する区画だった。


 三年前、ロックパームとの国境紛争へ投入された移動式魔導兵器。


 二機とも現在、修理と再調整、そして術式試験が進められている。


「基本構造は復元資料通りです」


 技術者が説明する。


「三年前から変更した部分は?」


「魔力流路の安定化を一部行いました。最大出力そのものは、ほぼ同程度です」


「問題は?」


「現時点では確認されておりません」


「結界接近試験で問題が出た場合は?」


「術式を再調整します」


「八の月一日までに間に合わなければ?」


 技術者は答えに詰まった。上級司祭は兵器中央の供給区画を見上げる。


「供給奴隷を増やせば出力は上げられるな?」


「単純に人数を増やせばよいわけではありません。魔力流路側が耐えられなくなります」


「ならば耐えられる適合者を探せ」


「そのために魔力濃度検査を?」


「そうだ」


     ◇


 彼らは知らない。自分たちが誇らしげに復元した魔導兵器が、四百二十年前には何度も白狐神の里を攻撃し、そのたびに無力化されていたことを。


 神務魔導府が自分たちの失敗を隠すために記録を消した結果、後世の神務院は兵器の欠点すら知らないまま、同じ構造を再び作り上げた。


     ◇


 同じ夜。神務院専用区画の小さな部屋で、シオンは一人、寝台に横になっていた。白い壁と薄い毛布。それ以外にはほとんど何もない。


 首元へ手を伸ばすと、細い銀環の冷たさが指先へ伝わってきた。


 ここ数日、シオンは夢を見ていない。最初は、それでいいと思った。夢を見れば、またオルガに質問されるかもしれない。


 ユキのこと。

 びゃっこのこと。

 おっちゃんのこと。

 湖畔のこと。


 また意志に反して話してしまうかもしれない。


「……ごめんなさい」


 尋問を受けた夜から、何度この言葉を口にしたか分からなかった。


 自分が湖畔のみんなを裏切った。そんな思いが頭から離れない。だから最初は、夢を見ないことに少し安心した。


 だが、一日、二日と何も見えない夜が続くうちに、その安心は別の恐怖へ変わっていった。


「……ユキ」


 呼んでも返事はない。


「びゃっこ……」


 巨大な白狐も現れない。


「……おっちゃん」


 もちろん、ヒカルの声も聞こえない。見えるのは冷たい白壁だけだった。


「もう……みえないのかな」


 シオンは毛布を胸元まで引き上げ、小さく身体を丸めた。


 会ったことはない。湖畔へ行ったこともない。それでも、夢の向こうにいる彼らは、シオンにとって唯一と言っていいほど安心出来る存在になっていた。


「もういちど……」


 目を閉じる。


「もういちどだけ、あいたい……」


 やがて疲労に負けるように、シオンは眠りへ落ちていった。


     ◇


 最初に聞こえたのは、笑い声だった。


『こびゃこ!』


『待つのじゃ! 今は抱くでない!』


『しゅき!』


『強い! 強いと言うておる!』


「……え?」


 シオンが目を開ける。


 そこに広がっていたのは、数日間ずっと見たかった湖畔だった。夕方の湖が橙色に光り、その手前には食堂と草地が広がっている。


 見たことのない大きな犬が二頭。その近くには白い髪と白い狐耳、大きな白い尻尾を持った少女がいた。


「ユキ……」


 間違えようがない。ユキだ。しかも今夜は、ユキの隣に小さな狐族の女の子がいた。


 赤茶色の耳と尻尾を持つ幼女が、両腕で手のひらほどの白いこびゃっこを抱いている。


『ミナよ。ぎゅーは、ちょっとじゃと申しておろう!』


『あい!』


『返事だけはよいのう!』


 その光景を見た瞬間、シオンの頬がほんの少し緩んだ。


「びゃっこ……」


 初めてシオンの夢に現れていたのは大きな白狐だった。ずっと夢の中で「ここにおるぞ」と寄り添ってくれた存在だ。


 しばらくして、びゃっこは夢へ来なくなったが、シオンが湖畔の夢を見る様になってからは、小さなぬいぐるみのような姿をして現れ、周りに《こびゃっこ》と呼ばれていた。


 その少し先には黒髪の男もいる。《おっちゃん》だ。


『ミナ、こびゃっこ潰すなよ』


『つぶさない!』


『今の力加減を見る限り信用してよいのか!?』


『大丈夫だろ。たぶん』


『たぶんでは困る!』


「……おっちゃん」


 シオンの胸の奥が、ゆっくりと暖かくなる。


 料理の匂いがする。

 人の声が聞こえる。


 子供が笑い、魔犬が尻尾を振り、大人たちが夕食の準備をしている。以前見ていた頃よりも人が増えていた。


 騎士らしい格好をした者もいれば、職人らしい大人たちもいる。


「……いっぱい」


 シオンが小さく呟いた。


「むれ……」


 ユキが何度か使っていた言葉を思い出した。……群れ。種族も、身分も、年齢も関係なく、一緒にいる人たち。


「いいな……」


 見ているだけなのに、不思議と寒さが消えていく。


「……あったかい」


     ◇


 その頃、湖畔の住居ユニットでは、眠っていたユキの狐耳がぴくりと動いた。


「……ん」


 すぐ隣ではヒカルも眠り、こびゃっこは夜用の籐籠の中で丸くなっている。もう一度、ユキの耳が動いた。


「……シオン?」


 その小さな声とほぼ同時に、こびゃっこの目も開いた。


「……なんじゃ?今のは」


 身体を起こしたこびゃっこが周囲を見回す。以前、シオンの恐怖や悲しみだけが夢を通して流れ込んできた時とは違う。


 しらゆきたちと繋がった共有夢とも違う。もっと細くて遠い視線。それでも確かに、誰かがこちらを見ているような感覚があった。


「……シオンが、見ておるのか?」


     ◇


 夢の湖畔で、シオンはユキたちを見つめていた。これまでと同じくシオンは夢の景色を見るだけで、その中へ入ることは出来ない。湖畔の人々も、シオンが見ていることには気づかない。


 そのはずだった。


『……?』


 突然、ユキが動きを止めた。狐耳がぴんと立ち、何かを探すように周囲を見渡す。そして、シオンがいる方向へ顔を向けた。


『……シオン?』


「え?」


 シオンの身体が固まった。ユキはもう一度、はっきりと呼んだ。


『シオン?』


「……え?……あっ!びゃっこが!」


 見えているのだろうか。いや、ユキの目は自分そのものを捉えているようには見えない。それでも、確かにこちらを感じている。


 そして、それまで見えていた湖畔の日常風景が揺らぎ、ミナの姿と、彼女に抱かれていたこびゃっこの姿が霧へ溶けるように消えた。


『シオン?いるの?』


「ユキ……?」


 ユキの問いかけに、シオンは思わず名前を呼んだ。その瞬間、ユキの耳がさらに大きく立った。


『きこえた!』


「え?」


 シオンが驚き、ユキも驚く。


「ぬ!?」


 さらに、姿は見えないが、どこからか聞き慣れた声が重なった。


「シオン!」


「びゃっこ!?」


「聞こえるのか!?」


「びゃっこ!」


「ぬおお!? どういうことじゃ!」


 籐カゴの中で目を覚ましたこびゃっこ自身が一番驚いている。覚醒し、実体を取り戻してからというもの、こびゃっこは以前のように自分からシオンの夢へ現れることが出来なくなっていたが、シオンが時折こちらの夢を見ている気配は感じていた。


 更に自分は今起きているのに、シオンの声がはっきり届いている。


 そしてもう一つ、夢の中では……。


『何だ……これ』


 男の声がした。


『ユキ?』


『おっちゃん!』


『こびゃっこ!いるのか?』


「ヒカルの声も聞こえるぞ、びゃっこはここじゃ!」


 籐カゴで起きているこびゃっこが、ヒカルの問いに答える。


 ヒカルも夢の中で意識を持ち、周囲を見渡している。


『何が起きてる?』


『シオン』


 ユキが一方向を指差した。


『そこ、シオン』


『シオン?』


 ヒカルがそちらを見るが、完全な姿は見えない。ただ、霧の向こうに誰かが立っているような輪郭と、説明出来ない気配だけは感じられた。


『……シオンなのか?』


 シオンの目から涙がこぼれた。


「……おっちゃん」


 ヒカルが目を見開く。


『聞こえた……今、確かに聞こえたぞ』


「びゃっこにも聞こえておるぞ!」


『ユキも!』


 四人とも、今起きていることを理解出来ないまま互いを探している。それでもシオンには、今までとは決定的に違うことだけは分かった。こちらの声が、向こうへ届いている。


『シオン!』


 ヒカルが呼ぶ声が遠い。湖の向こうから聞こえてくるようでもあり、深い霧の向こうから聞こえてくるようでもある。それでも確かにシオンに届いた。


「……ごめんなさい」


 シオンは反射的に謝っていた。


『何で謝るんだ?』


「わたし……しゃべった……」


『何を?』


『ユキのこと……びゃっこのこと……おっちゃんのことも……』


 声が震え、夢の景色まで僅かに揺らぐ。


「ごめんなさい……わたし……」


『シオン!』


 ユキが大きな声を出した。


『だいじょうぶ!』


 シオンが言葉を止める。


「……え?」


『だいじょうぶ。シオン、わるくない!』


 今度はヒカルも続けた。


『そうだ。無理やり聞かれたんだろ?』


「でも……しゃべった」


『それで裏切ったことにはならない』


「……」


『悪いのは、無理やり話させた奴らだ』


 夢の景色が少しずつ薄くなっていく。


「シオン、よく聞くのじゃ!」


「びゃっこ……」


「びゃっこは怒っておらぬ。ユキも怒っておらぬ!」


『ユキ、おこってない!』


「もちろんおっちゃんもじゃ!」


『おい、お前までおっちゃんて言うな。というかお前の姿が見えないんだが?』


「びゃっこは起きておる。じゃがシオンやお主たちの声が聞こえてくるのじゃ」


『……どういう事だ?』


「びゃっこにも分からぬ。じゃが、お主も寝ているびゃっこに話掛けたことがあるじゃろう。それと大して変わらぬ」


『あれは、お前の寝言にツッコミを入れただけだろ』


 あまりにもいつもの調子で交わされるやり取りに、シオンの口元から小さな笑いが漏れた。


「……ふふ」


 三人の声が一斉に止まる。


『今、笑った?』


『シオン、わらった!』


「うむ、確かに笑ったぞ!」


 言われたシオン自身も驚いた。自分が最後に笑ったのがいつだったのか、すぐには思い出せない。


「……ユキ」


『うん!』


「びゃっこ」


「ここじゃ!」


「おっちゃん」


『ヒカルだ。いるぞ』


 たったそれだけ。名前を呼んだだけ。それでも、そのたびに返事が返ってきた。今までの夢では、一方的に湖畔を眺めることしか出来なかった。


 初めて、向こうにいる人たちが自分の存在へ気づき、自分の声に答えてくれた。


「……いる」


 シオンが涙を拭う。


「みんな、いる……」


『いるよ』


 ユキの声。


『待ってろ、シオン。必ず助ける』


 ヒカルの声。


「必ずじゃ」


 こびゃっこの声。その瞬間だった。シオンの首にはめられた銀環が、寝台の上で淡い銀色の光を放った。


     ◇


 神務院研究施設の観測室で、夜勤の神官が突然顔を上げた。


「……何だ?」


 目の前にある観測盤では、銀環対象《シオン》の波形が激しく変化していた。


 オルガの尋問以降、数日間ほとんど沈黙していた共鳴反応が、突然これまでにないほど大きく跳ね上がっている。


「これは……共鳴?」


     ◇


 同じ頃、夢の湖畔でも景色が急速に薄れていった。


『シオン?』


 ヒカルが呼ぶ。


『シオン!』


 ユキも手を伸ばす。


「待て! 繋がりが急に弱くなっておる!」


 籐カゴで起きているこびゃっこが叫ぶ。


「ユキ!」


 シオンも手を伸ばした。しかし指先が触れるより早く、白い光が視界を覆っていく。


「ヒカル!」


『シオン!』


「びゃっこ!」


「シオン!」


 最後まで互いの名前を呼び合いながら、湖畔の景色は白い光の向こうへ消えていった。そしてシオンの耳には、最後まで自分を呼ぶ三人の声だけが残った。


続く。

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