第134話 白狐神とバギーの試乗会
異世界生活95日目。
六の月24日の夕方。
今日の厩舎工事を終えて、俺はニナと一緒に食堂の方へ戻っていた。
馬房の扉は、だいぶ形になった。グレゴールとエリオットが午後から合流したことで建付け確認も進み、カイルとレイルの給水配管も残りが見えてきた。まだ完成ではないが、馬を受け入れるための建物としては終わりが近い。
「ニナ」
「なに?」
「今日はここまでな」
「うん」
「工具は?」
「戻した。バッテリーも充電」
「よし」
「記録も書く」
「それ書いたら今日は終わり」
「分かった」
ニナは赤い工具ワゴンを引いて、そのまま作業倉庫の方へ向かっていった。俺は少し肩を回す。
今日は溶接朝練がなかったとはいえ、午前中に自治領だの人権だのという慣れない説明をしたせいで、身体より頭の方が疲れた気がする。
「四十歳で国づくりの勉強を始めるとはなあ……」
誰に言うでもなく呟く。正確にはまだ国じゃない。白狐の里自治領。それもまだ制度を作り始めたばかり。
代表職の名前すら決まっていない。なのに昨日は、勢いでロックパーム大公宛てに親書まで出す話になった。
「段取りが決まると速い、か」
ガランに言われた言葉を思い出す。自覚はある。必要なことが見えると、次に何をすればいいか考えてしまう。でも……。
「急ぎ過ぎないようにはしないとな」
そう思いながら、食堂タープの方へ目を向けた。
「きゃあああ!」
「はやい!」
「ミーシャ! もういっかい!」
「トト、押しすぎ!」
「そんなに押してないよ!」
……何だ?
◇
食堂タープの横、広くて平らな草地を、赤いワゴンが走っていた。
正確には。
「うわああ!」
「きゃー!」
ミーシャが前から引っ張り。トトが後ろから押している。その赤いキャリーワゴンの中には、ユキとミナ。二人が前後に並んで乗っていた。
「おっちゃん!」
ユキが俺に気づいた。
「おっちゃ!」
ミナも気づく。二人揃って手を振る。
「手を離すなよ!」
「うん!」
「あい!」
そこは素直。
「ミーシャ、速度出し過ぎるなよ!」
「分かってる!」
「トトも急に押すな!」
「押してないよ!」
「ならいい!」
ワゴンが俺の前を通り過ぎる。
「きゃああ!」
「はやい!」
実際は大して速くない。ミーシャが歩くより少し速いくらい。でも、三歳と五歳には十分な速度らしい。
ユキの大きな白い尻尾と、ミナの小さな赤茶色の尻尾が並んで揺れている。何だこの光景。
「完全に異世界遊園地だな」
◇
あの赤いワゴンは、ミーシャ用に追加した物だ。洗濯物や弁当を運ぶために買ったキャリーワゴン。仕事道具ではあるが、以前から安全な草地なら遊びに使っていいことにしている。
鋼橋や坂道など、そういう場所は禁止した。今いるのは食堂横の平坦な草地。周囲にも障害物はなく、速度も大人が歩く程度。
「まあ、このくらいならいいか」
俺が見ている間にも一周して戻ってきた。
「ついたー!」
ミーシャが止まる。
「もういっかい!」
ユキ。
「もっかい!」
ミナ。
「ちょっと休憩!」
ミーシャが息を吐く。
「私がずっと引っ張ってるんだから!」
「じゃあ僕が引く」
トトが前へ回る。
「トト一人じゃ重いよ」
「押して」
「私が?」
「うん」
「結局私もやるんじゃない」
兄妹で何やら話している。俺はワゴンの中を見る。
「ミナ」
「う?」
「楽しいか?」
「あい!」
狐耳がぴんと立つ。
「ミナ、のった!」
「見てたよ」
「はやい!」
「そんなに速くないけどな」
「む。はやい!」
「本人が速いなら速いか」
隣でユキが胸を張った。
「ユキ、ミナと、いっしょだった」
「ちゃんと落ちないように見てたか?」
「みてた」
「ミナ、立とうとしなかった?」
「した」
「したのかよ」
「ユキ、だめ、した」
「ミナ?」
「う?」
「ワゴンの中で立ったら危ないだろ」
「……」
ミナの耳が少し横へ倒れる。
「ヤッ!」
「何がヤッだ」
「ミナ、できゆ」
「立てるかどうかじゃない」
「できゆ!」
「出来てもやらない」
ユキがミナを見る。
「ミナ。あぶない、だめ」
「……」
「すわる」
「……あい」
俺よりユキの方が効くな。
「お姉ちゃんしてるな」
「ムフー」
すぐ得意になる。
◇
その時だった。草地の向こうから灰色と黒の大きな影が歩いてくる。ミミとクロメ。巡回から戻ってきたらしい。そして。
「ふふん。夕刻の巡回を終えての帰還じゃ!」
ミミの背中には白い毛玉。こびゃっこ。
「お前は何で乗ってるんだよ」
「神使専用単車じゃ!」
「ミミは単車じゃない」
ミミが俺を見て尻尾を振った。クロメも横から近づいてくる。
「ミミ、クロメ。お疲れ」
二頭の頭を軽く撫でると、そこへ……。
「こびゃこ!」
ミナの声。こびゃっこの身体がびくっとした。
「……ぬ?」
「こびゃこ!」
ミナがワゴンから身を乗り出す。
「だっこしゅゆ!」
「待つのじゃ!」
こびゃっこが反射的にミミの背中へ伏せた。
「何で隠れる」
「隠れておらぬ!」
「完全に隠れたぞ」
「これは戦術的位置取りじゃ!」
「三歳児相手に戦術とか言うな」
ミナがワゴンから降りようとする。
「ミナ、ゆっくり」
ユキが先に降りて手を出した。
「あい」
ミナも地面へ足をつける。
そして、こびゃっこへ向かおうとして、一歩進むが……。
「こびゃ――」
止まった。
「う?」
視線が下へ動く。正確には、こびゃっこを乗せているミミへ。
◇
ミナの狐耳が、すっと伏せた。
「……」
尻尾も身体へ寄る。さっきまでこびゃっこしか見えていなかったのに、ようやくその下にいる大きな魔犬へ気づいたらしい。
ミミは普通の犬より明らかに大きい。しかも魔犬。
俺たちにはもうすっかり見慣れた家族みたいなものだが、初めて見る三歳児からすれば十分怖い。その横には黒いクロメまでいる。
「……おっちゃ」
ミナが後ろへ下がった。
「ん?」
俺の脚へぴたっとくっつく。
「わんわん……?」
「犬に近いけど、魔犬だな」
「まけん?」
「ミミとクロメ」
「……」
ミナは俺のズボンを掴みながら、二頭を見る。ミミは首を傾げた。クロメも無理に近づかない。ちゃんと分かってるらしい。
「怖い?」
そう聞くと、ミナは少し迷った。
「……こわい」
素直に言った。
「そうか」
「おっきい」
「大きいな」
「かむ?」
「噛まない」
「ほんと?」
「少なくともミナを噛むようなことはしない」
ミミが小さく鼻を鳴らす。
「ほら」
「……」
まだ動かない。
◇
一方。ミミの背中では、こびゃっこの目が明らかに輝いていた。嫌な予感がする。
「ヒカル」
「何?」
「見たか?」
「何を?」
「幼子はミミを恐れて近づけぬ」
「まあ初対面だからな」
「つまり」
こびゃっこが胸を張る。
「今後びゃっこがミミへ騎乗しておれば」
「おい」
「抱き締められ」
「おい」
「頬ずりされ」
「やめろ」
「毛並みを逆立てられ」
「聞いてるぞ」
「耳を触られる危険から――」
「ミミを避難所にするな」
「完璧な防衛策じゃ!」
ミミが振り返った。何となく不満そうに見える。
「ミミも迷惑だと思うぞ」
「なにを申す。これは神使と魔犬による高度な連携――」
「ミミ」
ユキが呼ぶ。ミミがすぐユキの方へ向く。
「おいで」
「ぬおっ!?」
ミミが普通に歩き出した。当然、その背中のこびゃっこも運ばれる。
「待てミミ! そちらは敵陣じゃ!」
「誰が敵だよ」
◇
「ミナ」
ユキが振り返る。
「ミミ、やさしい」
「……」
「クロメも」
「……」
ユキはミミの鼻先へ手を出した。ミミが匂いを嗅ぐ。ぺろ。
「う」
ユキの手を舐めた。
「ほら」
「……」
ミナは俺の脚にくっついたまま。無理に触らせる必要はない。初めて見る大きな動物を怖がるのは普通だ。
「今日は見るだけでもいいぞ」
俺が言う。
「触りたくなったら、その時で」
「……こびゃこ」
目的はまだそこか。
「びゃっこはここじゃ!」
「だっこ……」
「今日はミミの上から交流するのじゃ!」
「こびゃっこ、ずるい」
「何がずるい!」
◇
「ミミ!」
今度は別の声。テオだった。診療所の方から歩いてきたらしい。後ろにはマリベル。
「テオ、走るなよ」
「走ってない!」
言いながら早足。犬族の少年だからか。ミミとクロメを見た途端、表情が変わった。
「でっか!」
「魔犬だぞ」
「本当に?」
「ああ」
テオがしゃがむ。無警戒に近づこうとしたので。
「待て」
「え?」
「最初は向こうに匂いを嗅がせろ」
「あ、うん」
俺はテオに教える。手を上から出さない。急に顔へ近づけない。まず姿勢を低くして向こうから来るのを待つ。
テオが手を出すと、ミミが近づく。
クンクンとテオの匂いを嗅ぐ。クロメも横から近づく。
「……」
テオの犬耳がぴくぴく動いている。ミミの尻尾も揺れた。次の瞬間。ペロッ!
「うわ!」
テオの頬。
「舐めた!」
「気に入られたな」
「本当?」
クロメも鼻先を押しつける。
「ははっ、くすぐったい!」
テオが笑う。ミミの首へ腕を回そうとして。
「ゆっくりな」
「あ」
「初対面だからな」
「うん」
今度は首筋を優しく撫でる。ミミは逃げない。
「毛、硬い」
「外で動くからな」
「でもあったかい」
◇
それをミナがじっと見ていた。
「……」
俺の脚の後ろから、半分だけ顔を出している。テオが笑ってミミもクロメも怒っていない。ユキも普通に触っている。その上にはこびゃっこ。
「……こびゃこ」
「まだそこかえ」
「ミナ」
テオが呼ぶ。
「大丈夫だよ」
「……」
「ミミっていうんだって」
「みみ?」
「こっちがクロメ」
「くろめ……」
二頭が自分の名前に反応して顔を向ける。ミナがびくっとして、すぐ俺の後ろへ隠れる。
「無理しなくていい」
「……」
数秒後、また顔を出す。今度はユキがミナのところへ戻ってきた。
「ミナ」
「う?」
「て、つなぐ?」
「……あい」
ユキが手を出し、ミナが握る。二人で一歩前に出るが、ミミまではまだ遠い。もう一歩前に。ミナの耳は伏せたままで尻尾も身体へ寄っている。
「ミミ」
ユキが言う。
「ゆっくり、そのまま」
ミミはその場で伏せた。
「おお」
俺もちょっと感心した。分かってる。
◇
伏せると、ミミの顔が少し低くなるが、それでもミナには大きい。
「ミナ」
ユキがミミの背中へ手を置く。
「さわる?」
「……」
「ヤッ?」
ミナは少し考える。
「……ヤッ、じゃない」
お。
「じゃあ?」
「……さわゆ」
「うん」
ユキが先に撫でる。
「ここ」
ミナが手を伸ばすが、途中で止まる。ミミは動かない。あと少し……、そして指先が灰色の毛へ触れた。
「……」
すぐ引っ込める。
「さわれたね」
ユキが言うと、ミナが自分の手を見る。そして、もう一度手を伸ばす。今度は手のひら。そっと。
「……あったか」
「うん」
「ミミ」
ミナは嬉しそうだ。耳が少しずつ起きる。
◇
今度はクロメ。
「こっちも触る?」
テオが聞く。
「……」
ミナはミミを見る。次にクロメ。黒っぽい毛に目元は白い模様。
「くろめ」
クロメが尻尾を振ると、ミナがびくっとする。でも逃げなかった。一歩進む。
「ユキねーちゃ」
「うん」
「いっしょ」
「うん。いっしょ」
二人でクロメへ近づき、ミナが手を伸ばして触った。
「……」
クロメが鼻先をミナの手へ近づけた。
「う」
クン、クンクン。そして、ペロッ!
「きゃ!」
ミナが手を引く。俺の方へ走ろうとして、止まった。
「……」
ミナは自分の舐められた手を見て、クロメを見る。
「もっかい」
「早いな!」
さっきまで怖がってたのに。
◇
今度は自分から手を出す。クロメがまた舐める。
「きゃは!」
ミナの耳が完全に立った。尻尾もぶんぶん。
「クロメ!」
呼び方まで一気に慣れた様だ。
「ミミも!」
ミミも撫でる。
「ふわふわ!」
「こびゃっこより?」
俺が聞くと。
「こびゃこ!」
ミナの目線がこびゃっこへ。こびゃっこは、ミミの背中で身構える。
「な、なんじゃ」
ミナがミミへ近づく。
「こびゃこ、だっこしゅゆ!」
「結局こびゃっこか!」
ミナはもうミミが怖くない。つまり、こびゃっこの防衛策は、開始から数分で崩壊した。
「ヒカル!」
「知らん」
「待て! 話し合おうではないか!」
「こびゃこ!」
「まず抱き方の確認からじゃ!」
◇
ユキが先に止めた。
「ミナ」
「う?」
「こびゃっこ、やさしく」
「あい!」
「ぎゅー、ちょっと」
「ちょっと」
「みみ、ひっぱらない」
「みみ?」
「こびゃっこの耳」
「……」
ミナがこびゃっこの耳を見ると、こびゃっこが両前足で耳を隠す。
「そうじゃ! ここは重要じゃ!」
「なでなで?」
「優しくならよい」
「ぎゅー?」
「弱くならよい」
「すりすり?」
「……一回くらいなら」
「要求増えてるぞ」
「交渉じゃ!」
ミナが両手を出す。
「だっこしゅゆ」
こびゃっこが覚悟を決めた。
「……仕方ないのう」
ミミの背中から、ミナの腕へ。
「こびゃこ!」
「待つのじゃ! 先ほどの約束を――」
ぎゅ。
「……ぬ」
今日は弱い。
「しゅき!」
「う、うむ」
すり。一回だけ頬ずり。
「ふわふわ」
「そうじゃろう」
こびゃっこが少し得意になる。
「ミナ、上手」
ユキが褒めると、ミナが胸を張った。
「ミナ、できゆ!」
「何が出来たんだ」
「こびゃこ、だっこ!」
「これは成功判定でよいじゃろ」
「まあ今日は毛並みも乱れてないしな」
「ムフー!」
◇
そのまま少し遊んでいると。
「ヒカル」
後ろから声がした。振り返るとラウルだった。マリベルと一緒にゆっくり歩いてくる。まだ完治していないので、歩行補助具を使っている。
「出てきて大丈夫なのか?」
「マリベルの許可はもらった」
「本当?」
「本当です」
マリベルが答えた。
「夕食前の短時間だけです。無理はさせません」
「ならいい」
ラウルが草地を見ると、ミミとクロメ。その間にテオと、こびゃっこを抱いているミナがいた。
「……」
「どうした?」
「いや」
ラウルが少し笑う。
「ミナが、あんなに大きな魔犬へ近づいているとはな」
「最初は俺の後ろに隠れてたぞ」
「そうだよな」
「テオが触ってるの見て、ユキと一緒に少しずつ」
「……そうか」
ラウルは嬉しそうだった。以前なら、自分やテオから離れなかった三歳児が、今はユキに手を引かれ、ミーシャやトトと遊び、魔犬まで撫でている。
回復っていうのは、熱が下がるとか、傷が塞がるとかだけじゃないんだろう。こういう姿も含めてなんだと思う。
◇
「そうだ」
俺は思い出した。
「ラウル」
「何だ?」
「昨日の約束」
「昨日?」
「バギー」
ラウルの顔が変わった。
「あの、百五十キロを三、四時間で走ると言っていた?」
「そう」
「本当にあるのか?」
「だから見せるって言っただろ」
「正直に言えば、まだ半分くらい疑っている」
「だろうな」
馬車が普通の世界で、いきなりオフロード車の速度を言われても意味が分からないはずだ。
「じゃあ夕飯前に少しだけ乗る?」
「今から?」
「試走だけ。遠くには行かない」
マリベルを見る。
「ラウルの体、大丈夫?」
「砕石路と平坦な道を低速で走る程度なら」
「了解」
「ただし強い振動は避けてください」
「もちろん」
「テオとミナも?」
「小さいミナを乗せるなら、安全な装備が必要では?」
「そこは俺も考えてある」
◇
バギー置き場へ向かう。ラウルが今回初めて実物を見る六人乗りのオフロード作業バギー。大径タイヤにロールケージ。前後二列の座席と後部の荷台。ラウルが立ち止まった。
「……これか?」
「これ」
「馬がない」
「だから言っただろ」
「本当に馬がない」
「騎馬兵だけに、やっぱりそこが気になるんだな」
テオは目を輝かせている。
「これ動くの?」
「動く」
「速い?」
「速い」
「乗っていい?」
「安全装備つけてから」
ユキはもう慣れている。
「バギー」
「そう」
「ユキも、のる」
「今日はミナもいるから、いつも以上に安全運転な」
「うん。あんぜんだいいち」
「おっちゃ」
ミナが俺のズボンを引っ張る。
「これ、なに?」
「バギー」
「ばぎ?」
「そう」
「ミナものゆ?」
「乗るなら準備する」
「あい!」
◇
問題はミナ。三歳児を普通の座席にそのまま座らせるわけにはいかない。
ユキ用の安全装備は既にあるが、体格が違う。
「ちょっと待ってろ」
俺は《四十の手習い》のショップを開く。車両用品の子供用安全用品でオフロード車対応を検索。
「これかな」
【幼児用チャイルドシート/5点式ハーネス/車両固定対応】
ミナくらいの小さな子供向け。頭部、肩、腰、側面保護。バギーの座席へ確実に固定出来るタイプ。値段が……。
「二百二十ポイントか」
今さらここで節約する理由はない。俺は迷わず購入した。
◇
俺はチャイルドシートを収納から取り出す。
「……!」
ラウルとテオが揃って目を見開いた。
「今、何もないところから……?」
「収納スキルだよ」
「いや、収納持ちは知っている。だが、その大きさの物が入るのか?」
「俺のは少し特殊なんだ」
その横で、ミナが俺とチャイルドシートを交互に見ていた。
「おっちゃ」
「ん?」
「おなかから、だした?」
「違う」
どこかで聞いた質問だ。
「収納から出したんだ」
「しゅーのー?」
「そう」
ミナはしばらく俺のお腹をじっと見てから、真顔で言った。
「おっちゃ、へん」
「お前もそこに辿り着くのか……」
隣でユキが、妙に納得した顔で頷いた。
「おっちゃん、へんなおっちゃん」
「元祖まで乗るな」
「何が出た?」
ラウルが聞く。
「ミナ用の椅子」
「椅子?」
収納から取り出す。ラウルがますます分からない顔。
「これを車の座席に付ける」
「わざわざ?」
「わざわざ」
「普通に座らせては?」
「駄目」
即答。
「身体が小さすぎる」
大人用のシートベルトは大人体格に合わせている。小さな子供へ使えば位置が合わない。首や腹は、事故や急停止時に危険。
「だから身体に合う物を使う」
「……」
「何?」
「いや」
ラウルがチャイルドシートを見る。
「そこまでやるのかと思って」
「三歳児を高速で走る車に乗せるんだぞ」
「そう言われれば当然か……」
「当然」
◇
固定して、ぐらつき確認。一度押して前後、左右を確認した。
「よし」
前列の真ん中へ設置した。バギーの前列は三席。俺が運転席。ミナをチャイルドシート。その隣にユキ。もちろんユキも既存の安全装備とベルトを使う。後部座席にはラウルとテオ。
「ミナ」
「う?」
「乗るぞ」
「あい!」
抱き上げてチャイルドシートへ。
「ここ?」
「そう。今からぎゅって固定する」
「ぎゅ?」
5点式ハーネスを装着。胸元、肩、腰。緩みを確認。
「苦しくない?」
「う?」
「きつい?」
「へーき」
「手、入るな」
適度な余裕。
「よし」
ユキが横から見る。
「ミナ、かっこいいよ」
「ミナ、かっこいい?」
「うん!」
「ムフ…!?」
ミナが胸を張ろうとするがハーネスで動かない。
「う?」
「それが安全装備だ」
◇
テオも後ろへ乗る。
「うわ……」
「手すり握ってな」
「うん」
「ベルト」
「これ?」
「そう」
ラウルは乗り込むのに少し時間がかかった。
「脚大丈夫か?」
「ああ」
「無理なら止めるぞ」
「いや!乗る」
「子供みたいだな」
「三年間も捕虜だった男が、初めて見る乗り物を前にしているんだ。少しくらい許せ」
「それなら許す」
ラウルもベルト装着。
「これで身体を固定するのか」
「そう」
「騎兵には無い考えだな」
「馬から落ちそうになったら外れた方がいい場合もあるだろ」
「確かに」
「車は車体の中にいた方が安全だから」
「なるほど」
◇
「こびゃっこは?」
ユキが聞く。
「びゃっこも行くのかえ?」
こびゃっこは、ミミの背中へ戻っていた。
「びゃっこはここで留守番を――」
「こびゃこ!」
ミナが叫ぶ。
「……」
「いっしょ!」
「……」
こびゃっこが遠い目をする。
「こびゃっこ、一緒に行くってさ」
「こ、これヒカル!」
「神使様は人気ありますなあ」
「ぐぬぬ。断りづらい雰囲気を作りおって!」
結局。こびゃっこはユキの膝。ミナの横ではない。
「ここなら安全じゃ」
「何から?」
「分かっておるじゃろ!」
「こびゃこ!」
「ここにおるぞ!」
◇
「じゃあエンジンかけるぞ」
「えんじん、すたーと!」
ユキが言う。
「おっちゃ、だんどり!」
ミナが言った。
「そこまで覚えたか」
キーを回し、エンジン始動。ブルルルル。
「う!」
エンジン音にミナの狐耳が跳ね、少し身体が固まる。俺はミナに聞く。
「ミナ。大丈夫か?」
ユキもすぐ横から言う。
「ばぎー、おと、おおきいから」
「……おおきい」
「こわい?」
「……」
ミナがユキを見る。
「ちょっと」
「ユキ、いる」
「あい」
俺も振り返る。
「嫌なら止めるぞ」
「ヤッ!」
「どっちだ?」
「のゆ!」
乗るらしい。
「分かった。ゆっくりな」
◇
最初は時速十キロも出さない。駐車場所から鋼橋へ。
ゆっくり。
「動いた!」
テオが声を上げる。ラウルは黙っていたが、やがて呟く。
「馬なしで…本当に」
「まだ言うか」
少し速度を上げる。十五、二十…。
「おお……」
ラウルが周囲を見る。
「これは」
テオは完全にはしゃいでいる。
「速い!」
「まだ遅いぞ」
「これで!?」
「試走だからな」
前では。
「きゃー!」
ユキ。
「きゃあ!」
ミナ。二人とも笑い始めた。さっきまでエンジン音を怖がっていたミナの耳が立っている。
「ミナ」
「う?」
「大丈夫?」
「あい!」
「はやい?」
「はやい!」
尻尾がチャイルドシートの横でぶんぶん動いている。
◇
俺は、鋼橋を渡り、南側の砕石道路へ出た。今日は遠くまで行かない。畑の脇を抜けて、砕石で舗装された道路を進む。やがて道路の入口を抜けて湖岸を走る。路面状態を見ながら速度を上げる。時速は約三十キロ程度。
「……」
ラウルが黙った。
「どう?」
「待ってくれ」
「何?」
「これが普通なのか?」
「何が?」
「速度だ」
「今はかなり抑えてる」
「これで?」
「ああ」
最近のガランならもっとスピードを
出す。もちろん地形と安全が前提だが。
「では、昨日言っていた」
「前進基地まで三、四時間?」
「ああ」
「……」
ラウルが前方を見る。道路、景色、流れていく草地。
「冗談ではなかったのか」
「だから最初から本気だって」
「馬なら……」
「何日かかるんだ?」
「湖岸の地形を考えれば五日程度」
「そうか。バギーなら道次第だが、それでも数時間で着くだろう」
「……」
「もちろん、途中で地形確認とか休憩とかするから、実際はもう少し余裕見た方がいいけどな」
「それでも一日で十分着く?」
「場所が分かればな」
「そうか……」
ラウルの顔が変わる。遊びではなく、軍人の顔になっていた。
◇
「ヒカル」
「何?」
「これは何台ある?」
「今動かせるバギー?」
「ああ」
「二台だ。一台はガランが湖畔のパトロールに使っている」
「……」
「何を考えてる?」
「このバギーを、我が軍で使えたら……」
「だと思った」
「これが十台、二十台あれば」
「待て待て」
「分かっている」
ラウルが苦笑する。
「欲しいと言っているわけではない」
「ならいいけど」
「ただ、我々の常識で考えてはいけない手段だと分かった」
「そこはそうかもな」
「なんせ、馬を用意する必要がない」
「燃料は必要だぞ」
「餌ではなく?」
「液体の燃料だ」
「休ませる必要は?」
「機械だから休養はいらない。ただし点検と整備は必要」
「夜も走れる?」
「ライト…灯火のようなものがある」
「雨は?」
「雨除けを取り付けられる」
「積載は?」
「このバギーは大人六人が乗れるが、荷台は見ての通りそんなに大きくない」
「……」
「質問増えたな」
「当然だ!」
軍人としては興味が尽きないらしい。
◇
「ラウゆ!」
前からミナが振り返る。
「何だ、ミナ?」
「ばぎ、はやい!」
「ああ」
「ラウゆ、びっくり!」
「……そうだな」
「ムフー!」
「何でミナが得意になる」
「ばぎ、ミナの?」
「違う」
「ヤッ!」
「ヤッ!て言われてもな……」
ユキが言う。
「ミナ」
「う?」
「バギー、おっちゃん、うごかす」
「確かにそうだな」
「ばぎ、ユキねーちゃの?」
「そういう意味では、ユキのでもない」
「む」
いや、ユキも不満なのか。
◇
湖岸をしばらく走行して折り返し、南側砕石道路入口で、一度停車する。
「みんな大丈夫か?」
全員確認した。
「うん!」
テオ。
「あい!」
ミナ。
「だいじょうぶ」
ユキ。
「私は……」
ラウルが少し考える。
「いろいろ情報量が多い」
「身体じゃなくて頭か?」
「ああ」
「なら問題ないな」
「問題ないのか?」
「帰ったらゆっくり考えてくれ」
俺はミナのハーネスも確認する。緩みなし。ユキのベルトも、後部も。
「安全確認終わり」
「おっちゃん、だんどり」
「そう」
「おっちゃ、だんどり!」
「ミナにも完全に定着したな」
◇
帰り道の直線で、周囲を確認。人なし、動物なし、路面良好。
「ちょっとだけ速度上げるぞ」
「どれくらい?」
ラウルが聞く。
「まあ四十から五十キロくらい」
「ご、五十?」
「時速」
「……」
「嫌ならやめるが」
「いや」
ラウルの目が少し好奇心寄りになった。
「頼む」
「テオ?」
「乗る!」
「ユキ?」
「はやい?」
「さっきより」
「いく」
「ミナ?」
「いく!」
「よし」
ゆっくり加速して、時速五十キロになった。
「うおお!」
テオが声を上げる。
「きゃあああ!」
ユキ。
「きゃああ!」
ミナも声を上げる。ラウルはというと。
「……っ!」
手すりを強く握った。
「どう?」
「速い!」
「馬より?」
「比較にならん!」
「軍馬でも?」
「全力疾走をずっと続けられる馬などいない!」
「そりゃそうか」
「しかも荷物も人も積んでいる!」
「バギーだからな」
「その言葉で全部済ませるな!」
◇
数十秒だけ走り、鋼橋の手前ですぐ速度を落とす。
「もう終わり?」
テオが聞く。
「終わり」
「もっと!」
「今日は試走」
「えー」
「患者もいるしな」
ラウルを指す。
「私のせいか」
「「患者は医療判断優先。マリベルが強いからな」
「否定出来ない」
◇
食堂へ戻り、エンジン停止。みんな急に静かになった。
「……」
ラウルがしばらく座ったまま。
「降りられる?」
「ああ」
「目回った?」
「違う」
「なら?」
「昨日」
ラウルが言う。
「百五十から百七十キロを三、四時間と言われて、正直なところ誇張だと思っていた」
「うん」
「今は?」
「信じる」
「早いな」
「体験したからな」
ラウルがバギーを見る。
「これなら、本当に前進基地まで日帰りすら可能かもしれない」
「用事が済む時間次第だけどな」
「ただし」
ラウルの顔が真面目になる。
「湖岸をずっとこの道のように走れるわけではない」
「そこは分かってる」
「森が湖岸近くまで迫る場所もある」
「うん」
「岩場もある」
「そこもルート選定が必要」
「沢もある」
「通れなければ、一旦収納するから」
「バギーも収納出来るのか?」
「俺の収納、少し特殊――」
「少しどころじゃないだろう!」
ラウルが呆れて俺を見る。
◇
「おっちゃ!」
ミナ。
「ん?」
「おりゆ!」
「ああ」
ハーネスを外し、ミナを抱き上げバギーから降ろす。
「どうだった?」
「ばぎ!」
「うん」
「はやい!」
「うん」
「ミナ、のった!」
「乗ったな」
「ムフー!」
胸を張る。
「怖くなかった?」
「……」
少し考える。
「さいしょ、こわい」
「うん」
「となり、ユキねーちゃ、いた」
ユキを見る。
「うん」
「あと、みんないた、ミナ、だいじょぶ、なった」
その言葉に、ラウルが黙った。
「そうか」
そう言って俺はミナの頭を撫でる。
「よく乗れたな」
「ミナ、できゆ!」
「ああ」
◇
テオも降りると、そのままバギーの周囲を見始めた。
「ここ、何?」
「タイヤ」
「これは?」
「サスペンション」
「さす……?」
「地面のでこぼこの衝撃を減らす」
「これは?」
「荷台」
「これ六人乗れる?」
「ああ。大人が六人だ」
「馬車より速いのに?」
「うん」
「すご……」
ラウルが苦笑する。
「テオ」
「何?」
「まずヒカルを休ませろ」
「あ」
「俺は別にいいけど……」
「私も聞きたいことが山ほどある」
「お前もかい!」
「当然だ」
◇
その頃。
「こびゃこ!」
「ぬ?」
こびゃっこがユキの膝から降りていたのをミナが見ていた。
「だっこしゅゆ!」
「ミナよ、暫し待つのじゃ」
こびゃっこが周囲を見ると、少し離れたところにミミとクロメがいた。
「……」
すると、こびゃっこの目が光った。
「ミミ!」
こびゃっこが呼ぶと、ミミがこちらを見る。
「来るのじゃ!」
ミミが尻尾を振って近づく。
「まさか……」
俺が言う。
「大人気ないぞ」
「何のことじゃ」
ミミが来ると、こびゃっこがふわりと浮いて背中へ乗る。
「ふっ」
得意気な顔の白い毛玉。
「神使専用単車、再出発じゃ!」
ミナがその様子を見ている。
「……」
「どうじゃ幼子。ここまでは――」
「ミミ!」
「ぬ?」
ミナがミミへ走る。
「ミミ、なでなで!」
「ミミ!待つのじゃ!」
ミナがミミを撫でる。
「こびゃこ!」
両手を伸ばす。
「作戦が完全に逆効果だぞ」
「ぐぬぬ」
「ミミを怖がらなくなったからな」
「ヒカル! これは想定外じゃ!」
「お前が安全な動物だって証明したようなものだろ」
「策士、策に溺れるとはこのことか!」
「自分で言うな」
◇
ミナがミミを撫でながら。
「こびゃこ、おりゆ?」
「降りぬ!」
「だっこ」
「今は巡回中じゃ!」
「もう巡回終わっただろ」
「第二次巡回じゃ!」
「どこへ行く」
「……畑!」
「そろそろ夕飯だぞ」
「む」
こびゃっこが詰まった。ユキが言う。
「こびゃっこ」
「何じゃ?」
「ごはん」
「……」
「いく?」
「……行く」
「じゃあ、おりる」
「ぬう」
白い毛玉が敢えなく詰んだ。
◇
結局こびゃっこはミミから降りた。そしてミナに捕まった。
「ミナよ。ぎゅーは、ちょっとじゃぞ」
「あい!」
ぎゅ。
「……うむ」
「すりすり?」
「一回じゃ」
すり。
「なでなで?」
「毛並みに沿ってじゃ」
なでなで。
「おっ、上手くなったな」
俺が言うと、ミナが得意げに胸を張る。
「ミナ、できゆ!」
「うむ。今日は本当に上手じゃぞ」
こびゃっこも認めると、ミナの耳がぴんと立つ。
「こびゃこ、しゅき!」
「……うむ」
少し間があった。
「びゃっこも、おぬしを嫌いではないぞ」
「しゅき?」
「嫌いではない」
「しゅき?」
「……」
「こびゃこ、ミナ、しゅき?」
「幼子はしつこいのう!」
「しゅき?」
「好きじゃ!」
「あい!」
ぎゅ。
「強い! 強いのじゃ!」
「このやり取り、もう定番化してきたな」
◇
俺は笑いながら食堂を見る。夕食の準備が始まっている。マルタとリリアは厨房で、ミーシャも手伝いに戻る。
トトは赤ワゴンを片付けようとしていた。テオはミミとクロメから離れず、ラウルはバギーをまだ見ている。ユキはミナとこびゃっこの間で、
「ミナ、やさしく」
とお姉ちゃんをしている。
昨日、白狐の里自治領を作ろうと決め、今朝は自分たちの権利について話をした。
主権、象徴君主、人権、友好条約と親書。そしてロックパーム公国軍の前進基地。
話だけ聞けば随分大きなことを始めた気がする。でも、実際に俺の目の前にいるのは、赤いワゴンで遊ぶ子供たちと、初めて魔犬を撫でて喜ぶ三歳児。
更に、その三歳児から逃げようとして失敗する神使と、初めてバギーへ乗って驚く軍人と夕飯の匂いだ。
たぶん、それでいい。自治領を作る理由だって突き詰めれば、こういう夕方を守るためなんだから。
◇
「ヒカル」
「ん?」
ラウルが近づいてくる。
「前進基地へ行く話だが」
「ああ」
「今ので考えが変わった」
「同行していい?」
「そこはまだ即答出来ない」
「やっぱり?」
「そりゃ軍事機密だからな。俺の一存で簡単には決められない」
「うん」
「ただ……」
ラウルはバギーを見る。
「ヒカルが親書を持って直接行く意味は分かった」
「そうなのか?」
「この乗り物を公国軍に見せろという意味ではないぞ」
「分かってるさ」
「白狐神を象徴として立てた自治領が、ロックパームと友好を望んでいる。その代表が自ら来る」
「ああ」
「それなら基地司令官も、軽く扱うことは出来ない」
「そうなるといいけど」
「それに」
ラウルが少し笑う。
「私は、これで五日歩かずに済むかもしれない」
「そこ大事なところ?」
「当然だ!」
「軍人らしくないな」
「まあ怪我人だからな。今度こそ患者の権利を使わせてもらう」
「便利な言葉だな」
◇
「おっちゃ!」
ミナが呼ぶ。
「何?」
「ごはん!」
「はいはい」
「ユキねーちゃも!」
「いる」
「ラウゆも!」
「ああ」
「テオも!」
「いるよ」
「こびゃこも!」
「びゃっこも食べるぞ!」
「ミミ!クロメ!」
「ワフッ!」「ウォン!」
ミミとクロメも尻尾を振る。ミナは嬉しそうに全員を見た。
「みんな、いっしょ!」
それだけ言って、笑った。ラウルがその姿を見て、静かに息を吐く。
「……ここまで来て、本当によかった」
俺は何も答えなかった。答えなくてもいい気がした。
夕食の匂いが漂ってきた。ミナはユキの手を握り、もう片方の手には、少し毛並みの乱れたこびゃっこを抱いている。後ろからミミとクロメ。テオ、ラウル、そして俺。
白狐の里自治領。まだ看板すらないが、そこに何を守りたいのかだけは、もう随分前から決まっていた様な気がした。
続く。
◇
【第134話・収支報告】
異世界生活95日目
日付:六の月24日・夕方
オリエント王国歴952年
開始残高:3,122,585pt
今回の新規購入:
・幼児用チャイルドシート
5点式ハーネス/車両固定対応
220pt(約22,000円相当)
今回支出合計:220pt
現在残高:
3,122,585pt − 220pt
= 3,122,365pt
円換算目安:
3,122,365pt × 100円
= 約312,236,500円相当




