第127話 白狐神と三人の逃亡者
異世界生活93日目。
六の月22日。
休日二日目の朝だった。
「今日も作らないぞ」
「おっちゃん」
「何?」
「えらい」
「朝飯を作らないだけで褒められる生活にも慣れてきたな」
昨日ようやく休日の過ごし方が少しだけ上手になったとユキに認定された。だから今日は最初から頑張らない。
食堂タープの長机に腰を下ろし《四十の手習い》から《グルメ》を開いた。このスキルは料理が上手くなる技能じゃない。日本の飲食店や専門店で作られた完成料理を、そのままこちらへ取り寄せるための趣味スキルだ。
最近では休日に欠かせない定番スキルとなった。
「今日はこれにしよう」
画面へ出したのは某牛丼チェーンの朝定食だった。焼き鮭に牛皿。白飯、味噌汁、海苔、漬物。そして生卵。
「しゃけ」
ユキの耳がぴくりと動く。
「それと肉」
「にく」
「やっぱりそっちの反応が強いな」
「しゃけも、えらい」
「その通り」
こびゃっこが横から画面を覗き込んだ。
「朝から牛皿とは分かっておるのう」
「何が?」
「白飯へ牛肉。それから生卵じゃ」
「もう食べ方まで決めてる?」
「当然じゃ」
交代勤務の者もいるので時間をずらして食べる分まで含めて人数分を注文する。ポイントを支払うと収納側に受け取り可能の表示が出たので、一括で取り出す。
次の瞬間には長机の上へ店のトレイごと朝定食が並んでいた。
「おお……」
レオンが思わず声を漏らした。
「店ごと来たように見えるな」
「料理だけな」
長方形のトレイには茶碗の白飯と味噌汁。焼き鮭の皿。甘辛い汁をまとった牛肉と玉ねぎ。海苔、漬物、生卵。
日本なら何の変哲もない牛丼屋の朝定食だ。でもここでは、その器も盛り付けも一式まとめて異界から現れる。
ファビイがトレイへ顔を近づけた。
「これを今作ったわけではないのですよね?」
「作ってない」
「では異界の店で?」
「そう。向こうで作った料理だけがこっちへ来る」
ビオラが器の縁を指先で確かめる。
「器も店の物ですか?」
「ああ」
「返却は?」
「食べ終わったら全部収納へ戻す」
「洗わずに?」
「洗わずに」
「……便利すぎませんか」
「そこは俺もそう思う」
マルタはもう何度か見ているので驚き方が少し変わってきた。
「料理人殺しのスキルだね。私らの仕事がなくなっちゃうよ」
「その言い方は怖いって」
◇
「いただきます」
それぞれが朝食を始めた。俺はまず味噌汁を飲む。何ということもない味噌汁なのに、朝に飲むと妙に落ち着く。横ではユキが鮭を箸で小さくほぐしていた。
「ほね」
「そんなに入っていないけど、気をつけろよ」
「みる」
「ゆっくりな」
ニナも鮭の断面を観察している。
「骨、細い」
「工具は出さなくていいからな」
「む。出さないよ」
「すまん。冗談だ」
横では、こびゃっこが生卵をリリアに器へ割ってもらう。手のひらほどしかない身体で普通サイズの箸を操り黄身と白身を器用に混ぜ、醤油を数滴。そこへ牛皿から薄切り肉を一枚。溶き卵へ沈める。たっぷり卵をまとわせて口へ運んだ。
「うむ」
満足そうに目を細める。
「やはりこれじゃ」
向かい側にいたファビイの手が止まった。
「……神使様」
「何じゃ?」
「今その生卵に肉を?」
「つけたぞ」
「焼かないのですか?」
「卵をか?」
「はい」
「焼かぬ」
ビオラまで身を乗り出した。
「そのまま食べるのですか?」
「そのままじゃ」
二人の銀狐族が揃って俺を見る。
「ヒカルさん」
「大丈夫。前にも説明したけど生食を前提に衛生管理された卵だから」
「それは理解していますけど…」
ファビイの視線がまだこびゃっこの器に残っている。
「ですが、ご飯へかける以外にも生のまま使うとは思っていませんでした」
「ああ。日本にはこういう食べ方もある」
「この肉の料理も?」
「似た食べ方なら、すき焼きがあるな」
「すきやき?」
まずい。こびゃっこの耳が立った。
「……ヒカルよ」
「今日は出さないぞ」
「まだ何も言っておらぬ!」
「顔に書いてある」
◇
驚かれたのはこびゃっこだけではなかった。ガランも牛肉を溶き卵へつけた。ドランも続く。
「これは酒がす――」
「朝だぞ」
「分かっておる!」
リーファは牛皿を半分ほど食べたあと、残った卵へ醤油を落として白飯へかけた。リリアもアルノも同じ。ニナまで慣れた手つきで卵を溶いている。
近衛と特使組がその光景を黙って見ていた。
「……これは湖畔では普通なのですか?」
特使セレナが聞く。
「慣れた奴はな」
レオンが周囲を見る。
「かなりの人数が普通に食っているが」
「マリベルは焼いた方が好きだぞ」
「はい」
マリベルが即答した。
「私は今でも加熱した卵の方が好きです」
「よかった」
エレナが少しだけ安心した顔をした。
「私もそちら側で」
「誰も生卵を強制してないから」
近衛炊事担当のアルバートは自分の卵をじっと見ていた。
「しかし牛肉を卵へつけるというのは……」
「試す?」
「……試します」
「炊事担当の好奇心が勝ったな」
慎重に肉を卵へつけ一口。しばらく噛んでからアルバートが頷いた。
「なるほど」
「どう?」
「肉の塩気や甘みが卵で少し丸くなります。味が薄くなるというより口当たりが変わる」
「料理する人間の感想だな」
横でミレイも試した。
「美味しい!」
「生卵派がまた増えた」
ビオラが小さく息を吐く。
「湖畔へ来てから食文化についての常識が何度も更新されています」
ファビイも頷いた。
「白い米を日常的に食べ、生卵を食べ、その卵へ肉までつける」
「次は納豆じゃな」
「こびゃっこ」
「予告しただけじゃ!」
「しなくていい」
◇
食後はトレイと食器をまとめて収納へ戻した。そのままスキル《グルメ》側で回収される。洗い物なし。
「休日向きだよなあ」
俺が言うとマルタが大きく頷いた。
「今日は厨房が本当に休める」
「そのために使う分には優秀だよな、このスキル」
お茶とコーヒーを用意し、それぞれ好きな場所へ座った。
俺はコーヒー。ユキは冷たい麦茶。こびゃっこは小さな湯呑みの緑茶。騎士も職人も特使組も、朝の静かな時間を思い思いに過ごしている。
「さて」
椅子へ身体を預ける。
「今日は何しようかな」
「昨日より進歩していますね」
セレナが少し笑った。
「昨日は休日に何をすればいいか分からないと言っていましたから」
「今日は一応考えてる」
「予定を考えるところから入るあたり、やはり仕事の癖が抜けていないような気もします」
「……」
痛いところを突かれた。
「じゃあ午前中は昼寝でもするか」
「まだ朝じゃぞ」
こびゃっこが言った。
「お前が昼寝しろって言ったんだろ」
「今なら朝寝じゃ」
「そこ細かくする必要ある?」
その時だった。ユキの耳が動いた。ほんのわずかな動きだった。でも俺には分かった。
麦茶のコップを持っていた小さな手が止まり、視線がゆっくり西へ向き、白い尻尾まで動かなくなった。
「ユキ?」
返事がない。こびゃっこもほぼ同時に顔を上げていた。
「……ヒカルよ」
いつもの軽い声ではなかった。
「どうした?」
「結界じゃ」
食堂の空気が一瞬で変わった。
「誰か入ったか?」
「うむ」
ユキが俺の袖を握る。
「おっちゃん」
「何が分かる?」
「ひと」
「一人?」
首を横へ振る。
「なんにんか」
湖畔の祠から半径五百メートルほど離れた結界の境界。ここまで距離があるとユキにも細かなことまでは分からない。
「嫌な感じ?」
ユキの顔が歪んだ。
「ちがう」
「違う?」
「くるしい」
小さな手が胸元を掴む。
「かなしい」
「ユキ」
「いたい……こわい」
俺はすぐに抱き上げた。
「無理に感じなくていい」
「でも、いる」
こびゃっこも西の森を見たまま動かない。
「びゃっこにも感じる。複数じゃ。境界を越えて結界の内へ入った」
「どの辺?」
「西側の森。ここから五百メートルほどじゃろう」
「動いてる?」
「ほとんど動いておらぬ」
その言葉で嫌な予感が形になった。
◇
無線機を取る。
「こちらヒカル。診療所、マリベル。聞こえる?」
短いノイズ。
『こちらマリベル。聞こえています』
「西側結界内に外部から複数人入った。負傷者の可能性あり。診療所で待機してくれ」
『了解しました。受け入れ準備をします』
「レオン。エレナを医療班として、同行してもらいたい」
「もちろん異論はない。エレナ」
「分かりました」
ガランも無線へ手を伸ばした。
「こちらガラン。湖岸巡回中のオルフェン、フィン。森側巡回のロク、ナージャ、セルド。西側結界内へ複数人侵入。敵性不明。巡回線を大きく崩さず西側周辺へ寄せろ。追跡者の有無を確認」
『こちらロク。了解っす』
『ナージャ了解』
『オルフェン。了解した』
レオンも無線で近衛側へ指示を出す。
「シルヴァン。森側別動班。西側結界境界付近に複数人。先に見つけても不用意に接触するな。周辺警戒と追跡者確認を優先」
『こちらシルヴァン。了解』
「騎馬班は森の外縁。MTB班は内側を回れ。派手に動くな」
今の湖畔には人がいる。俺が一人で飛び出す必要はない。
「こびゃっこ」
「うむ。現場へはびゃっこが先導する。皆ついて参れ」
「ユキは?」
「いく」
「無理するなよ」
「ユキもいく!」
短い言葉だった。でも抱いている俺には、ユキの身体が少し強張っているのが分かる。
「分かった。俺が抱っこしていくからな」
「うん」
◇
現地へ向かったのは俺とユキ、こびゃっこ。そしてガラン、レオン、リーファ、戦闘班長ハロルドと近衛戦闘班数名。更に医療班長エレナと衛生兵。
全員が徒歩で向かう。森の中では馬より小回りが利くからだ。ユキは俺の腕の中。こびゃっこが少し前を浮きながら進む。
「もう少し右じゃ」
「分かった」
ガランが周囲を見ながら隊列を変える。まだ相手が誰なのか分からない状況だ。リーファは弓へ手を添えているが矢は番えていない。レオンも剣は抜いていない。
「ユキ」
「ん」
「まだ苦しいか?」
「うん」
「強くなってる?」
ユキは俺の胸へ少し顔を寄せた。
「かなしい、いっぱい」
俺は背中を撫でる。
「もうすぐだ」
◇
森の空気が変わった。人が歩いた痕跡のある場所へ入ったからなのか、それとも気のせいなのか。
湿った土の匂いに折れた小枝。草の上に残る僅かな踏み跡。
こびゃっこが止まった。
「近いぞ」
リーファが片手を上げると、全員が足を止めた。長い耳がゆっくり動く。
「……声が聞こえる」
「どっち?」
「前。低い場所」
慎重に進む。木と木の間から暗い色が見える。人の服らしき布の色。その先に三つの人影が見えた。
「いた」
一歩前へ出かけた俺をガランの声が止めた。
「ヒカル」
「ああ」
まず周囲。ハロルドが戦闘班へ指を動かす。
「左右確認」
「了解」
数人が音を立てずに散った。リーファも森の奥を見渡す。
「今のところ、三人以外に動く気配はないわ」
「よし、行こう」
◇
そこにいたのは三人だった。一人は十歳ほどに見える犬族の少年。耳は力なく伏せられ、頬は痩せこけている。服は泥と汗で汚れ、靴もかなり擦れていた。唇は乾いている。それでも俺たちを見る目だけは死んでいない。怖がっているが警戒もしている。
その少し後ろで一人の男が木の根元へ身体を預けていた。三十歳前後の人族。左脚に布を巻き、その布は乾いた血と新しい血で色が変わっている。
服は破れ、泥に汚れている。けれど単なる旅人の服ではなかった。
厚手の布に腰回りを補強した作り。肩や肘には擦れた革。破損しているが乗馬用らしい長靴。腰には武器こそないが、ベルトには鞘や装具を吊っていた跡がある。
そして男の背中。そこに幼い狐族の女の子が括りつけるように背負われていた。
三歳くらいで赤茶色の狐耳。頬は白く、目を閉じたまま。身体にはほとんど力が入っていない。
「……」
胸の奥が冷えた。
「エレナ」
「はい」
その時ユキが俺の腕の中で身を固くした。
「おっちゃん」
「どうした?」
「ひも」
見ると三人の首には金属の輪。奴隷用の隷属首輪だ。少年にも、男にも。そして三歳程度にしか見えない狐族の少女にも。
「……こんな小さい子にまで」
腹の奥に何か熱いものが落ちた。レイシス皇国での鉄格子が蘇る。ミーシャ、トト、ニナ。あの時も三人の首にこれがあった。
怒りが一気に上がってくる。でもそのまま動けば駄目だ。一度息を吸い、ゆっくりと吐く。
「……後だ」
レオンが俺を見る。
「ヒカル?」
「怒るのは後だ。まず助ける」
それだけ言った。
◇
近づこうとした瞬間だった。男の右手が腰の方に動いた。何もないはずの場所へ、そこへ剣があるように手が伸びた。同時に身体をずらし、背中の少女を木側へ隠そうとする。
怪我をした脚ではまともに立てない。それでも自分を前へ出し、少年と少女を後ろへ置こうとする。
レオンの目が細くなった。
「待て」
俺たちに向けた言葉だった。誰も武器は抜いていない。
男の呼吸が荒い。目は俺ではなくガランとレオンの腰の剣を見ている。次にハロルド、リーファの弓。そして逃げ道。一瞬で順番に確認した。
「……兵士か」
レオンが低く言った。
「分かる?」
「動きがそうだ」
レオンは男の服を見る。破れた上着に泥の付いた革帯。乗馬用と思われる長靴。
「それに、この服……」
「知ってる?」
「似ている」
「何に?」
レオンは男から目を逸らさない。
「ロックパーム公国の騎馬兵装に」
「ロックパーム?」
「レイシス皇国の北側と国境を接している国だ」
「確かか?」
「いや」
すぐ否定した。
「汚れすぎている。それに徽章も外されている。確証はない」
男の目が僅かに動いた。その反応をレオンは見逃さなかった。だが追及しない。
「もしそうなら捕虜かもしれん」
「捕虜?」
「レイシスとロックパームは今は戦争をしていない。ただ三年前に国境線でかなり大きな紛争があった」
ガランも知っているらしく表情が硬くなる。
「北西国境紛争か」
「ああ」
レオンが短く頷く。
「国境そのものは大きく動かなかったが、ロックパーム側の村や街道沿いの住民が巻き込まれた。かなり被害が出たと聞いている」
「三年前の捕虜を今も奴隷に?」
「可能性の話だ」
レオンは言い切らない。
「戦場で捕まったのか、紛争後に別の経路で売られたのか。それすら分からん」
男は黙っている。俺たちの会話が聞こえているはずだ。それでも身分を明かそうとはしない。
「名前は?」
聞いてみたが、男は答えなかった。代わりに少女を背負う紐を握り直した。敵地で何年も生き延びてきた人間なら、知らない武装集団へ簡単に名前を渡さないのも分かる。
「いい」
俺は手のひらを見せる。
「今は言わなくていい」
男の目が少しだけ動く。
「こっちも先に聞かない」
俺は男の前でしゃがみ、続けて話しかける。
「怪我を治す。子供も診る。それだけだ」
しばらくして男が掠れた声を出した。
「……何者だ」
「俺はヒカル。この湖畔で暮らしてる」
肩書きは言わない。白狐神の守護者だの異界人だの、今この男に必要な情報じゃない。
「この子はユキ」
「ユキ」
俺の腕の中からユキが言う。
「いたいの、なくす」
男の表情が初めて揺れた。
◇
俺はスキルの総合鑑定と医療身体鑑定を重ねる。
【鑑定結果】
犬族・男児
推定年齢:約10歳
状態:中等度脱水、栄養不足、疲労蓄積、擦過傷多数、意識清明、反応低下あり
狐族・女児
推定年齢:約3歳
状態:中等度以上の脱水、栄養不足
強い疲労、軽度発熱、傾眠傾向
人族・男性
推定年齢:約30歳
状態:左下腿外傷、足関節捻挫疑い
脱水、疲労、栄養不足、意識清明
今すぐ命が消える状態ではない。でも少女はかなり危ないところまで落ちている。
「エレナ」
「分かっています」
収納から医療用品を出す。経口補水液と紙コップ。清潔なガーゼ、医療用手袋、生理食塩水。体温計、パルスオキシメーター。エレナの目が一瞬だけ大きくなった。
「その器具は……」
「説明はあと」
「は、はい」
それ以上聞いてこなかった。患者の前で好奇心を優先しない、さすが近衛騎士団の医療班長だ。
◇
まず少女。男から降ろそうとすると、彼の腕に力が入った。
「大丈夫」
俺は急がない。
「取り上げない。治療するだけだ」
男がエレナを見る。次に俺。そして最後に、俺の腕の中にいるユキへ視線を向けた。
そこで男の目が止まった。さっきまで俺たちの人数、武器、立ち位置、逃げ道まで一つずつ確かめていた目が、初めて大きく揺れる。
白いおかっぱ頭。白い狐耳。俺の腕の横から垂れる、大きな白い尻尾。黒い瞳の中に浮かぶ金色の光彩。
男の唇がかすかに動いた。
「……白き神獣様」
「え?」
俺が男を見る。聞き間違いじゃない、男は確かにそう言った。ユキもぱちぱちと瞬きをする。
「ユキ?」
「……」
「ユキは、ユキ」
男の表情がさらに変わった。痛みで青ざめた顔の中に、驚きとは違う何かが浮かぶ。
畏れ、戸惑い。それから、長い間探していたものを突然目の前で見つけたような表情。男は背中の少女を庇ったまま、それでも無理に身体を起こそうとした。
「待て待て、動くな」
俺はすぐ止める。
「脚を怪我してるんだぞ」
「しかし……白き神獣様の御前で……」
「だからユキ」
ユキが少しむっとする。
「さま、いらない」
男が固まった。
「……は?」
「ユキは、ユキ」
聞いたことのあるやり取りだ。以前、廃村でリリアと初めて会った時もそうだった。
神獣様と呼ばれようが白狐神と呼ばれようが、ユキ本人にとっては関係ない。ユキはユキなのだ。
「お前、白狐神を知っているのか?」
俺が聞くと、男はすぐには答えなかった。口を閉ざし、また俺を見る。さっきまでより敵意は薄いが、警戒は消えていない。自分が何者なのかを明かす気も、まだないらしい。
レオンがその様子をじっと見ている。
「やはり、ロックパームかもしれんな」
「白狐神を知ってることも関係ある?」
「ああ」
答えたのはガランだった。
「ロックパーム公国は少し特殊な国だ」
「特殊?」
「元はレイシス皇国だった」
俺は思わず男を見る。男の表情は変わらないが、少なくとも、否定はしなかった。
「独立したのは三十年ほど前だ」
レオンが続ける。
「当時のレイシス皇王家に連なる公爵の一人が北部に広い領地を持っていた。その公爵は白狐神を敬う人物だったと聞いている」
「レイシスの王族なのに?」
「王族全部が同じ考えというわけではない」
そりゃそうか。国が人族至上主義だからといって、国民から王族まで全員が同じ思想になるわけじゃない。
ガランが森の奥を警戒しながら続ける。
「その公爵は亜人差別と奴隷制度に強く反対していた。それだけではない。神務院が白狐神や神獣を、自分たちの術式や権威へ都合よく組み込もうとする考えにも異を唱えていたらしい」
俺の腕の中でユキの耳が少し動いた。
「それで独立?」
「最初から独立を目指したのかは分からんが……」
レオンが首を振る。
「皇王へ何度も制度改正を求めたという記録はオリエントにもある。だが受け入れられなかった。そして約三十年前、北部領主の一部と軍人が公爵に賛同した」
「政変いや反乱か」
「ああ」
北部の領主と兵士、領民、そこへ皇王家の血を引く公爵。レイシス皇国北部で反乱を起こし、そのまま地域を押さえて独立し成立したのがロックパーム公国。
「当然、皇国は独立を認めていない」
ガランが言う。
「だから今も?」
「数年おきに国境で衝突している」
レオンが頷く。
「全面戦争と呼べるほどではない。ただし小さな紛争という言葉で片づけられる規模でもない。三年前の衝突ではロックパーム側の国境集落がいくつも巻き込まれたらしい」
「住民も?」
「ああ。避難が間に合わなかった村もあると聞いた」
俺はもう一度、男を見る。騎馬兵らしい服に武器を吊っていた跡。獣人の子供二人を守ろうとする動き。そして首輪。
「その時の捕虜が奴隷にされた可能性もあるのか」
「ある」
ただしレオンはすぐに付け加えた。
「だが彼がそうだと言う確信はないが」
「ああ」
「服も装具も似ているが、三年前に捕虜になったのか、もっと後で捕まったのか。それともまったく別の経緯なのか分からん」
「ロックパームとオリエントの関係は?」
「国交はない」
「敵対しているのか?」
「いや。敵でもない」
今度はガランが答えた。
「単純に遠すぎる」
「地図だと近くないの?」
「直線なら、それほどでもない」
ガランが北を示す。
「この大湖の北岸。そのさらに北側には大森林が広がっている」
「ああ」
「魔物が多い。かなりな」
レオンが苦笑する。
「街道を通せるような土地ではない。普通の商隊が横断する場所でもないな」
「つまりロックパームとオリエントの間に、その森がある?」
「そういうことだ」
国同士が互いの存在を知らないわけではない。でも整備された街道がなく頻繁な交易もない。外交使節が普通に往来できる道もない。大森林そのものが巨大な壁になっているわけだ。
「だから正式な国交も結ばれていない」
「なるほどな」
俺は男を見る。
「でも、白狐神を知っていた」
男は答えない。ただユキを見る目だけが、さっきまでとは明らかに違っていた。
◇
ユキが俺の腕の中でもぞっと動いた。
「おろして」
「ユキ?」
「だいじょうぶ」
ユキを地面へ下ろす。彼女は俺の脚のすぐ横から離れず、それでも三人の方をじっと見た。
まず男。次に犬族の少年。そしてぐったりしている狐族の女の子。白い狐耳が小さく動く。
「ラウル」
その場の空気が止まり、男の目が見開かれる。
「……何?」
ユキは今度は犬族の少年を見る。
「テオ」
少年まで固まった。そして最後に狐族の幼女を見た。
「ミナ」
「……!」
ラウルという名の男の顔から血の気が引いた。怪我や疲労のせいじゃない。
「なぜ……」
掠れた声。
「なぜ、その名を」
テオもラウルを見る。
「ラウル……俺、名前、言ってないよ」
「ああ」
「この子も」
ラウルがユキを見る。
「ミナの名まで……」
ユキは不思議そうに首を傾げた。
「?」
「どうして知っている」
「ラウルは、ラウル」
「……」
「テオは、テオ」
少年を見る。
「ミナは、ミナ」
そして小さく頷く。
「なまえ、ある」
俺は頭を掻いた。
「またか」
レオンがこっちを見る。
「また?」
「以前もあった」
「どういうことだ?」
「ユキは、相手が名乗る前に名前が分かることがある」
「読心ですか?」
エレナが聞く。
「いや、たぶん違う」
俺にも正確には説明できない。すると横から、ふわりと白い毛玉が降りてきた。
「心を読むなどという大層なものではないぞ」
こびゃっこだ。ラウルとテオが同時にそちらを見る。白いぬいぐるみみたいな狐が空中に浮いている。しかも喋っている。
「……」
「……」
二人とも今までとは違う意味で固まった。テオが目を丸くする。
「……毛玉が」
「む?」
「毛玉が喋った」
「誰が毛玉じゃ!」
森にこびゃっこの声が響いた。
「落ち着け!」
「びゃっこは毛玉ではない!」
「声を抑えろ!」
「そこは重要じゃ!」
ラウルまで唖然としている。
「……魔物?」
「失礼な!」
こびゃっこが空中で前足を腰へ当てる。
「よいか若人よ。心して聞くがよい」
「今それやる?」
「自己紹介は第一印象が肝心じゃ」
胸を張る。
「びゃっこは、由緒正しき白狐の守護神使。名をこびゃっこと申す!」
一拍。
「旧名、白夜。地球の宇迦之御魂神より遣わされ、千年以上の神使歴を誇り、白狐神を補佐し、湖畔を守り、映像記録を担い、畑守り隊隊長を務め――」
「長い長い、後半いらない」
「重要じゃ!」
「肩書きが多すぎる」
テオがぽかんとしている。
「……こびゃっこ?」
「うむ!」
「白き神使様?」
「うむ。こびゃっこじゃ!」
「白き毛玉……」
「そこから離れぬか!」
少年の顔にほんの一瞬だけ笑顔が浮かんだ。それを見て、俺は少しだけ安心した。笑えるなら、まだ大丈夫だ。一方、ラウルはそこまで余裕がない。
「守護神使様……?」
「そうじゃ」
「白き神獣様の……?」
「今はユキの補佐をしておる」
ユキがこびゃっこを見る。
「こびゃっこ、しゃべりすぎ」
「む」
「ユキにも言われたぞ」
「手短に説明するとじゃ」
こびゃっこが咳払いして続ける。
「つまりじゃ。ユキは時折、相手の名を感じ取る」
「感じ取る?」
レオンが聞く。
「本人が強く自分の中へ持っておるものじゃな」
こびゃっこが説明する。
「名というものは単なる音ではない。特に長く呼ばれ、自分自身もそれを自分だと認識しておれば、魂や神気に近いところへ馴染む」
「魂を読んでいるのか?」
「そこまで大仰にするでない。びゃっこにも正確な仕組みは分からぬ」
「結局分からないのかよ」
「神にも分からぬことはある!」
堂々と言った。
「ただし心の中を勝手に覗いているわけではない。考えていることも秘密も分からぬ」
「名前だけ?」
「主にの。相手が強く持つ自己認識が、ユキには匂いや感覚のように伝わることがある」
ユキが頷く。
「ラウル、ラウルのにおい」
「ほれ」
「説明が幼児語になった」
「それが一番正確なのかもしれぬ」
以前リリアの名前が分かった時もそうだった。ユキ自身は、どうして分かるのか理解していない。
ただ分かる。それだけだ。
ラウルはユキを見つめたまま、しばらく何も言えなかった。やがて低く呟く。
「……伝承通り」
「伝承?」
俺が聞くとラウルは口を閉ざした。やっぱりそこから先は話す気がないらしい。
「まあいいよ」
「……」
「今は聞かない」
俺はミナを見る。
「まずこの子だ」
ラウルの目が動いた。一瞬だけ警戒が戻る。
ユキが言う。
「ミナ、だいじょうぶ」
小さな手が毛布の上の少女へ伸びる。
「テオも」
少年を見る。
「ラウルも」
最後に男。
「いたいの、なくす」
ラウルの喉が動いた。彼はようやく背中からミナを降ろすことを許した。
◇
エレナと衛生兵が毛布を広げる。俺も手伝いながら、ラウルの背中に括られていた布をゆっくり外す。
「ミナをこちらへ」
ラウルの腕が最後まで離れない。
「取り上げない」
俺はもう一度言う。
「治療するだけだ」
「……」
「お前もすぐ横にいろ」
そこでようやく手が離れた。ミナを毛布へ寝かせる。軽い。三歳くらいならもっと身体に重みがあっていい。抱き上げた時の軽さが嫌だった。
「水からだ」
少量の経口補水液をカップへ入れる。無理に起こさず唇を湿らせる。
反応がある。少し、時間を置いてもう少しずつ。
「飲み込めてる」
エレナが頷く。
「回復術を使います」
「頼む」
淡い緑色の光がミナを包んだ。細い胸が上下する。浅かった呼吸が少しずつ深くなる。ラウルとテオは一言も発さず、その光を見つめていた。
◇
「ひも、まだある」
ユキが言った。三人の首には、まだ奴隷首輪がある。
「そうだったな」
ユキがミナの横へしゃがむ。
「ユキ、とる」
ラウルが何か言おうとしたが、声にならない。白い小さな指先が首輪へ触れる。
「ミナ、ちょっと、ぱち」
白い火花。ぱち。乾いた小さな音がして首輪内部の術式が切れた。金属の輪が開き、毛布の上へ落ちる。
ミナの細い首から重そうな金属が消えた。ラウルの顔が動かない。いや違う、動かせないんだ。目だけが首輪を追っている。
「……本当に」
声が震えた。
「外れた……」
ユキが頷く。
「ひも、ない」
次はテオ。こびゃっこが前へ出た。
「こちらはびゃっこに任せよ」
テオが少し後ろへ下がる。
「毛玉が?」
「神使じゃと言うておろうが!」
「こびゃっこ、こえ」
「む。すまぬ」
こびゃっこが声量を落とす。
「痛くはせぬ。少し光るだけじゃ」
テオはまだ不安そうだったが、ミナの外れた首輪を見る。
「……ほんと?」
「神使は嘘をつかぬ」
テオが俺を見る。俺が『この毛玉は時々嘘つくけどな』と喉まで出掛かっていると、こびゃっこは間髪を入れずに言う。
「ヒカル……余計な事を言うのではないぞ」
テオの口元がほんの少し動いた。
「……やって」
「うむ」
前足が首輪へ触れる。ぱち。白い火花と共に二つ目の首輪が外れた。テオは自分の首を両手で触る。
一度、二度。何度も確かめる。
「ない」
「ないぞ」
「……痛くない」
「もう首輪からは痛くされぬ」
最後はラウル。こびゃっこが近づくが、ラウルは拒まなかった。
「外すぞ」
「……お願いします」
初めて自分から頼んだ。
「承った」
白い神力が走る。ぱち。白い火花が散って三つ目の金属輪が地面へ落ちた。
ラウルの右手が首へ上がる。そこにあるはずだったものを探すように指が皮膚をなぞる。ほんの一瞬、目を閉じた。次に開いた時にはまた兵士の顔へ戻っていた。
「……感謝します」
ユキがすぐ言う。
「どういらしまして」
「そこまだ直ってないのか」
「む?」
「いや、いい」
外した三つの首輪は俺の収納へ入れた。追跡や再接続に利用されるかもしれない以上、この場へ残す理由はない。
◇
次はラウルの脚だ。
「脚を見るぞ」
「……ああ」
巻かれていた布へ手を掛ける。血で張りついたところを生理食塩水で湿らせながら、ゆっくり剥がした。
「これは……」
エレナの声が低くなる。左のふくらはぎ外側に矢傷があった。矢柄はすでに折られているが、傷の形と触診の反応から考えて、矢尻か破片が内部へ残っている可能性が高い。
周囲は腫れ、長く歩き続けたせいで再出血した跡もある。
「矢を受けたのか」
ラウルは短く頷いた。
「いつ?」
「……昨日」
「それでここまで歩いた?」
「歩くしかなかった」
目がミナへ向く。説明はそれだけで十分だった。
「抜こうとした?」
「矢柄は折った」
「矢尻は?」
「残っていると思う」
「じゃあ、ここでは抜かない」
ラウルが俺を見る。
「抜かぬのか?」
「ああ」
エレナも傷を覗き込む。
「この場で?」
「中でどう刺さってるか分からない。無理に抜いて血管を傷つける方が危ない」
俺は傷の周囲を洗浄する。血と泥が薄く流れていく。
「表面だけきれいにする。矢尻は診療所で位置を確認してから処置する」
エレナの目が真剣になる。
「回復術も傷を完全には閉じない方がいいですね」
「頼む。異物が残ってる状態で閉じたくない」
「同意します」
エレナはすぐ治療方針を切り替えた。回復魔法は万能じゃない。矢尻を体内へ残したまま傷口だけ塞げば、むしろ面倒なことになる。
傷の周囲を保護し、矢傷へ厚めのガーゼを貼る。圧迫しすぎず、脚全体を動かさないよう固定する。
「その布の巻き方は?」
エレナが俺の手元を見る。
「傷を押し潰さずに固定する。歩かせない前提でな」
「この後の処置も見せていただけますか?」
「診療所で一緒にやろう」
「ぜひ」
こういう状況なのに少し目が輝いている。でも患者より自分の技術を優先してはいない。そこは信頼できる。
◇
テオにも経口補水液を渡す。
「ゆっくりな」
「もっと飲みたい」
「分かる。でも一気には駄目」
「なくならない?」
「なくならない」
「本当に?」
「湖畔へ行けばもっとある」
テオはラウルを見る。許可を求める癖なのかもしれない。ラウルが小さく頷いた。
「飲め」
「うん」
そこでユキが言う。
「テオ、いっぱいある」
少年がユキを見る。
「水?」
「みずも。ごはんも」
「……ごはん」
「にくもある」
「ユキ。今それを言う」
「だいじ」
「何が大事なんだ」
「にく、げんきになる」
テオが本当に少しだけ笑った。緊張で固まっていた犬耳が、ほんの少し上がる。
◇
無線が入った。
『こちらロク。周囲確認。今のところ結界内に入った人以外の匂いはないっす』
続いてシルヴァン。
『北西側、追跡者らしい動きなし』
『こちらオルフェン。湖岸側も異常なし』
ここはガランがまとめて応答する。
「了解。警戒継続。深追いするな」
レオンが森を見る。
「今のところ追手はいないらしい」
ラウルの目が動いた。やはり追手という言葉には敏感だ。
「ここまで追われていたのか?」
レオンが聞く。ラウルは答えない。口を閉ざしたままだ。それ以上レオンも追及しなかった。
「まあいい。今はな」
俺はラウルを見る。
「名前はユキにばれたけど、所属まで言えとは言わない」
「……」
「ただ治療には必要なことを聞く。薬で問題が起きたことがあるとか、持病とか。それ以外は後だ」
ラウルが俺を見る。
「捕虜として扱わないのか」
「何で?」
「……」
「ここはレイシスじゃないし、オリエント王国領でもない」
レオンが横で苦笑する。
「そこは私が保証する。私はオリエント王国の者だが、今いるのは白き神獣の湖畔だ」
ラウルの視線が再びユキへ行く。
「……やはり」
小さく何か呟いた。でもそれ以上は話さなかった。
◇
「この三人は歩かせない方がいいです」
エレナが言う。
「ミナとテオは衰弱しています。ラウルは矢傷。特にラウルは絶対に歩かせるべきではありません」
「同感だ」
俺は収納を開く。森でも使えて、三人をまとめて運べ、軽くて丈夫な太いタイヤの付いた荷車。
「これだな」
━━━━
【購入内容】
アルミ製折り畳みリヤカー
・大型空気入りタイヤ
・耐荷重150kg
・折り畳み式
・荷台用クッションマット付属
必要魔石ポイント:198pt
━━━━
「購入」
収納から出す。銀色のアルミフレームが現れ、折り畳まれた荷台を開く。
ラウルとテオがまた固まった。今日は驚くことばかりと思ってるだろうな。
「……今、どこから……まさか収納の」
「後で説明するよ」
俺が言うとレオンが近づく。
「金属製の荷車か?」
「人力のな」
「俺が引く」
「即決?」
「負傷者を運ぶのだろう」
「ああ」
「なら俺がやる」
ハロルドが後ろへ回る。
「戦闘班で押します」
「頼む」
クッションマットと、その上に毛布を荷台に敷き、まずミナを横に寝かせる。次にテオ。最後にラウルを乗せようとするが……。
「俺は歩ける」
やっぱり言った。
「歩けるのと歩かせていいのは別だ」
「この程度の矢傷なら――」
「矢尻が残ってるかもしれない脚で何百メートル歩くな」
「だが……」
「お前が悪化したら誰がこの二人守るんだ?」
ラウルが止まる。やっぱりそこだった。自分の身体を理由にしても聞かないが、子供を理由にすると止まる。
兵士というより、もう癖になっているのかもしれない。
「……分かった」
「よし」
ラウルを乗せ、負傷した脚をまっすぐ伸ばし、毛布を丸めて揺れを減らす。エレナが固定を確認。
「これなら大丈夫です」
◇
レオンが前で取っ手を握る。
「行くぞ」
「ゆっくりな」
「分かっている」
ハロルドと戦闘班員が後ろ。エレナと衛生兵は左右。ガランとリーファが前後を警戒する。
ユキが俺を見上げながら、ぴょんぴょん飛び跳ねる。
「おっちゃん。だっこ」
普段、あまり抱っこを要求しないユキが今日は珍しく甘えてくる。さっきまで三人の痛みや悲しみを感じていたからだろうか。
「はいよ」
俺はユキを抱き上げた。こびゃっこはリヤカーの上をふわふわ浮いている。
テオがまだ気になるらしく、ちらちら見ている。
「……神使様」
「何じゃ?こびゃっこと呼んで良いぞ」
「ずっと浮いてる」
「神使じゃからの」
「羽がないのに」
「神力じゃ」
「落ちない?」
「落ちぬ!」
こびゃっこが胸を張った直後、低い枝が額へ当たった。
「むぎゃ」
「落ちはしないけどぶつかるんだな」
「枝が悪いのじゃ!」
テオが小さく吹き出した。それを見たラウルが少年へ顔を向け少しだけ表情が緩んだ。良かった。彼もまだ笑える。
◇
太いタイヤが湿った土を踏み、ゆっくり湖畔へ向かう。
「おっちゃん」
「ん?」
「ラウル、テオ、ミナ」
「ああ」
「ひも、ない」
「もうない」
「もう、いたくない?」
「首輪ではな」
「なら、よし」
ユキが俺の肩へ頬を乗せる。さっきまで感じていた苦しさや悲しさが、少し薄くなったのかもしれない。
後ろを見ると、ラウルは横になったまま、それでも周囲を見ている。
樹木の間や騎士たちの位置。前を歩くガランと弓を持つリーファ。まだ警戒はしている。俺たちはミナへ水を飲ませ、首輪を外し怪我を手当てしたが、三人にとって、俺たちが本当に安全な相手なのかはまだ分からない。
信用は首輪みたいに、ぱちっと一瞬では外れない。
その男がロックパーム公国の騎馬兵なのか。三十年前にレイシスから分かれた国で何が起きているのか。三年前の国境紛争と関係があるのか。
テオとミナは誰なのか、どうしてこの三人が一緒に逃げているのか、何から逃げてきたのか、今は何も分かっていない。
ただ一つだけ分かったことがある。ラウルはユキを見た瞬間に言った『白き神獣様』これは偶然じゃない。
ロックパームという国と白狐神。そこには俺たちがまだ知らない何かがある。でもそれを聞くのは今じゃない。
「まず診療所だ」
「うん」
ユキが頷く。
「ミナ、ねる」
「ああ」
「テオ、たべる」
「ああ」
「ラウル、あし、なおす」
「そうだな」
「それから?」
「それから話す」
ユキが考え、俺の言葉をいつもの一言にまとめた。
「だんどり」
「ああ。段取りだ」
休日二日目。休み方を覚えようとしていた朝に、俺たちの結界へ三人の逃亡者が入ってきた。
名前は分かったが、それ以外はまだ何も分からない。
分からないなら、まず身体を治し、水を飲ませ、飯を食わせ、充分な睡眠を取らせる。話はそれからだ。
木々の向こうに、湖畔の建物が少しずつ見えてきた。診療所ではマリベルが待っている。レオンが引くリヤカーの上で、ラウルがその景色を黙って見つめていた。
白き神獣のいる場所へ。三人を乗せたリヤカーが、ゆっくり帰っていった。
続く。
◇
【第127話・収支報告】
異世界生活93日目
日付:六の月22日
オリエント王国歴952年
開始残高:
3,123,513pt
今回の購入:
・《グルメ》による牛丼チェーン朝定食一式
焼き鮭、牛皿、白飯、味噌汁、海苔、漬物、生卵
交代勤務者分を含む人数分
360pt(約36,000円)
・アルミ製折り畳みリヤカー
大型空気入りタイヤ
耐荷重150kg
折り畳み式
荷台用クッションマット付属
198pt(約19,800円)
今回支出合計:
558pt(約55,800円)
現在残高:
3,123,513pt − 558pt
= 3,122,955pt
円換算目安:
3,122,955pt × 100円
= 約312,295,500円相当




