第114話 白狐神の里を商人が歩く
翌朝。目を覚ました瞬間、バーモントは一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
見慣れない材質の天井に白い壁。妙に平らな床。そして金属製とおぼしき枠に、王都でも見たことのない、大きな一枚ガラスがはめ込まれた窓の外から差し込む朝の光。
「……そうか」
湖畔だ。昨夜は職人用の二階建てプレハブ、その一階に泊めてもらった。建物や部屋そのものにも驚いたが、もっと驚いたのは、その後だった。
まず、ヒカル殿が出してきた寝具。床へ直に敷くのではなく、簡素だが身体を支える金属の骨組みで出来た寝台と、上等な柔らかな寝具。
さらに建物の壁に付いた小さな板へ触れると、天井の照明が点灯した。魔石はなく、魔力反応もない。それなのに、夜でも昼間のように明るい。
「電気……でしたか」
昨日ヒカル殿から聞いた言葉を思い出す。そして風呂。あれは、もっと意味が分からなかった。栓をひねれば水が出る。別の操作をすれば温かい湯が出る。大きな釜へ薪をくべる必要もなければ、火の魔石を管理する必要もない。ヒカル殿は、「ガス給湯器」と説明した。理解できたのは、燃料を燃やして水を温めているらしい、というところまでだ。だが、燃料そのものが見えない。
さらに水洗式のトイレ。用を足したあと、操作すると水が流れ、汚物がどこかへ消えていく。最初、本気で収納魔法か転送術を疑うと、ヒカル殿に笑われた。
「配管だよ」
と言われたが、むしろ配管だけであれを実現している方がおかしい。
最後に、厨房裏の洗面所。小さな洗面台。水やお湯の出る蛇口やガラスの鏡。歯ブラシと歯磨き粉。
「これを……歯へ?」
恐る恐る試すと白い練り粉が出て、少し驚いた。ブラシに付けて歯を磨き、口をゆすいだ。すると歯が妙につるつるし、口の中が清涼感と香草の様な香りで溢れた。
そこで、私は思った。この湖畔は危険だ。別の意味で。一度この便利さと快適さを覚えると、元の生活へ戻るのが面倒になる。
◇
外へ出ると、朝の空気は少し冷たかった。職人宿の前には、昨夜も見たソーラー式のポールライトが、まだ一部が淡く点灯している。
「ん?」
その近くを、小さな三輪自転車が走っていた。乗っている少女は、黄色いヘルメットと言う兜を被っている。赤い三つ編みが揺れていた。
「おはようございます」
声を掛けると、少女が止まった。彼女はドワーフのニナ。昨夜捜索依頼を受けたガルムの娘で、レイシス皇国から逃亡した元奴隷の少女だ。
「おはよう」
荷台には、いくつもの充電式ランタンが載っている。
「何をしているんです?」
「回収」
「ランタンを?」
「うん」
「毎朝集めるのですか?」
「充電するから」
ニナは当然という顔で答えた。
「それ、全部?」
「全部」
「一人で?」
「三輪、あるから」
そう言って荷台を軽く叩く。なるほど。重い物を抱えて運ぶのではなく、車輪付きの荷台へ載せる。しかも子供でも扱える。
「便利ですね」
「うん。べんり」
「売ってもら――」
そこまで言って止めた。昨日、ヒカル殿に何度も同じ顔を見抜かれた。ニナがじっとこちらを見る。
「なに?」
「何でもありません」
「しょうにん?」
「……よく分かりましたね」
「顔が、なんとなく」
「この湖畔、顔に書いてあるって言う人が多すぎませんか?」
「ヒカルもいう」
「やはり」
ニナはそれだけ言うと、また三輪自転車を漕ぎ出し、私に伝えた。
「朝ごはん、もうすぐだよ」
「ありがとうございます」
小さな荷運び車が、静かに遠ざかっていく。他の場所なら、あの仕事をするために子供へ何度も往復させるか、大人が籠を持って歩く。
ここでは異界の道具を使う。しかも、その道具を仕事へ合わせて使い分ける。たった朝の一場面だけでも、考え方が違う。
◇
食堂へ入ると、また理解しにくい光景が待っていた。
白飯が朝から普通に出る。味噌汁と呼ばれる、発酵調味料を使ったスープ。湖畔で釣れたという焼き魚。野菜の漬物。そして――。
「……生卵?」
何人かが小さな器へ卵を割り入れている。神使様が小さな手で、器用に卵を箸で溶いている。他にもアルノさんやリリアさん。そしてニナや白狐神ユキ様まで。スプーンやフォークではなく、皆んな器用に箸を使う。
「そのまま食べるんですか?」
私が聞くと、神使様が胸を張った。
「卵かけご飯じゃ!」
「卵を……生で?」
「うむ」
「危なくないのですか?」
今度はヒカル殿が答えた。
「普通の卵で真似しないでくれ。これは生食前提で衛生管理された卵だから食える」
「生で食べるために管理する?」
「そう」
「鶏から採った後に?」
「飼育環境、洗浄、温度管理、流通まで含めてな」
私は卵を見る。
「そこまでして、生で?」
「食べれば分かる」
マリベルさんが横から言った。
「私は焼いた方が好きですけどね」
「本人の好みもあるからな」
「でも食べられること自体は分かりました」
私は少し迷ってから、器へ卵を割った。
「そこへ醤油を少し」
「これですね」
黒っぽい液体。香りを確認する。
「……これも発酵調味料?」
「よく分かったな」
「商人ですから」
「専門外じゃない?」
「食べ物は大体商売になります」
「ぶれないな」
卵へ醤油を少量。使い慣れない箸で混ぜ、白飯へかける。
「全体を混ぜてもいいし、そのままでもいい」
「では……」
一口。
「……」
美味い。思わず止まってしまった。ヒカル殿が聞く。
「どう?」
「これは、まずいですね」
「あ、口に合わなかった?」
「逆です」
思わず真顔になった。
「米、卵、醤油をまとめて扱いたくなりました」
「そっちの『まずい』かよ」
「非常に商売になります」
「生卵は駄目だぞ」
「なぜです?」
「さっき言っただろ。衛生管理まで込みだからだ。卵だけ持って行って、同じように生で食べろって売るのは危ない」
「なるほど」
「冷蔵、流通、期限管理。それができる環境じゃないと無理」
私は箸を止めた。
「商品だけでは成立しない」
「そういうこと」
私は卵かけご飯をもう一口食べた。
「では、米と醤油だけでも」
「そこは後で相談」
「承知しました」
すると神使様が言った。
「次は納豆じゃな」
「初日にやめろ」
「卵を突破した男じゃぞ」
「段階ってものがある」
「未知の商品へ挑むのも商人の務めじゃ」
私は興味を覚え、聞いてみた。
「納豆とは?」
「聞くな」
「発酵食品じゃ」
「こびゃっこ!」
「商人として興味があります」
「二対一になった……」
ユキが卵かけご飯を食べながら言った。
「こびゃっこ、おいしいって」
「ユキまで援軍するな」
◇
朝食後、俺は今日の仕事をいくつか確認した。
ドラン、ボルガ、ニナは朝のうち、仮設鍛冶場でアーク溶接の練習。短時間の低電流。防炎装備をして、ニナの練習には大人が横につく。
終わったら厩舎工事へ合流してもらう。屋根工事が終わっているので、引き続き馬房仕切りと腰壁へ入る。
ガランたちはバギーで湖岸側を巡回。リーファ、ロク、ナージャたちはマウンテンバイクで森側を巡回する。
神務院が湖畔を把握していると分かったからといって、急に警備人数を倍にするような真似はしない。昨日話した通り、普段の形を崩さず、巡回経路や確認箇所を少しだけ変える。
「ヒカルさん」
食堂の外でバーモントが待っていた。
「今日は湖畔を案内していただけると」
「ああ。そのつもりだ」
隣にはこびゃっこ。
「びゃっこも同行するぞ」
「案内役?」
「歴史文化特別解説担当じゃ」
「また肩書き増やした?」
「本日は正当じゃ」
「まあ祠の説明はお前がいた方がいい」
「ほれ見ろ」
ユキは?と思って探すと、ミネットともう厩舎方向へ歩いている。
青ライン入りヘルメットを被り腰には小型無線。監督様は出勤らしい。
「ユキ」
「なに?」
「俺たちはバーモントさんを案内してくる」
「うん」
「厩舎、頼む」
「かんとくする」
「規制線から入るなよ」
「はいらない」
「双眼鏡使いながら歩かない」
「ユキ、とまる」
「私もいるから、大丈夫にゃ」
横にいるミネットが言った。
「大人として模範を示してな。不必要に屋根に登るな」
「必要ならいいのにゃ?」
「登る前提で聞くな」
◇
まず案内したのは、生活区画だ。五棟の住居ユニットハウスに、四棟の大型食堂タープテントを改めて説明する。そして厨房と診療所。洗濯ハウスに風呂、トイレ、手洗い場もガス給湯器や洗濯機、給排水の設備も含め、改めて説明した。
バーモントは、昨日ある程度見ている。それでも昼間に改めて見ると、また違うらしい。
「屋根の板は?」
「ソーラーパネルだ」
「昨夜の電気を作る?」
「そう」
「湖畔全部を?」
「施設ごとに分けてるものが多い」
「一か所壊れても全部止まらない?」
「そういう利点もある」
バーモントが小さく頷いた。密偵として記録している顔だ。
「商品として考えています?」
「それは難しいかも。メンテナンス…つまり、整備や使用上の注意や安全を徹底させないと、事故に繋がる可能性がある」
「電気の力ですか?」
「ああ。基本的に雷の力と同じ危険性がある」
◇
そのまま畑方面の南側へ進むと、赤い鳥居が見えてきた。
「ここです」
バーモントの足が自然に止まった。鳥居。手水舎。小さな祠。祠そのものは大きくない。およそ一メートル四方。石材の台座に、祠の中には三社造りの神棚。真鍮の鈴と鈴緒がある。神棚脇には、小さな白木寝台があり、こびゃっこの昼寝場所でもある。
「……これが」
「今の湖畔の祠」
こびゃっこが少し前へ出る。
「ユキがこの地で正式に白狐神として祀られた場所でもある」
「そして」
俺が続ける。
「こびゃっこが実体を取り戻した場所」
バーモントがこびゃっこを見る。
「ここで?」
「うむ」
「それまでは?」
「夢の中や、残留思念。僅かな神力だけの存在じゃった」
こびゃっこが祠を見る。
「ユキがここへ参り、祈り、びゃっこを呼んだ」
「その時、ユキの神格も上がったんだ」
「幼神三段じゃな」
バーモントはしばらく無言だった。商人の顔でも、密偵の顔でもない。銀狐族として、王家の人間として見ている。
「王家の記録には」
ようやく言った。
「白狐神の祠について、断片的な記述しか残っていません」
「昔の祠とは違うぞ」
「はい」
「これは俺たちが今ここで作った祠」
「それでも」
バーモントは鳥居を見る。
「白狐神が今ここにいる。そのための場所であることに違いはない」
「そうだな」
俺は鳥居へ目を向けた。
「それと、この鳥居」
「何か?」
「結界の中心でもある」
バーモントさんの目が変わった。
「昨日、私が越えた?」
「そう」
こびゃっこが浮かぶ。
「正確には、この鳥居を中心にユキとびゃっこが神力を流し、湖畔一帯を覆っておる」
「二人で?」
「うむ」
「白狐神ユキの力だけではない?」
「今は二人で支えてる」
俺が答える。
「ユキが主。こびゃっこが補助」
「なるほど」
バーモントは鳥居を見上げる。
「オルガはこれに拒まれた」
「そういうことになる」
「私は通れた」
「結界が敵と判断しなかったんだと思う」
「判断基準は?」
「完全には分からない」
これは正直に答えるしかない。
「敵意だけかもしれないし、害意、目的、何か別のものも見てるかもしれない」
「王家の血は?」
「可能性を否定はしないけど、それだけとは思ってない」
こびゃっこも頷く。
「銀狐王家だから通した、と決めつけるのは早いのう」
「分かりました」
バーモントは手帳と羽ペンを出しかけた――。
「あ。バーモントさん。後でいいもの貸すよ」
「いいもの?」
「午後に」
バーモントの目が輝いた。
◇
祠へ一礼してから、俺たちは厩舎方面へ向かった。道の途中で、工事区画が見える。大型ガレージの建設予定地だ。現在そこには重機を停めてブルーシートを被せていた。
俺はバーモントに見せるため、ブルーシートを取る。ブルドーザー、マカダムローラー、ミニバックホー。三台が並んでいる。整備・待機状態だ。
バーモントが止まった。
「……」
「これ見たかったんだろ?」
「……」
「バーモントさん?」
「少し待ってください」
「昨日と同じ反応だな」
「情報で知っているのと、実物を見るのは違います」
ブルドーザーへ近づく。
「これは?」
「ブルドーザー」
「何をするんですか?」
「土を押し地面をならす。盛土を広げて、大きな力で前へ押す仕事」
こびゃっこが横から言う。
「グイグイじゃ」
「正式名称で説明してるんだから邪魔するな」
「ユキ命名じゃぞ」
「そっちは愛称」
バーモントがブルドーザーの大きな排土板を見る。
「これを一人で操作?」
「基本は一人」
「人夫何人分です?」
「現場次第」
「十人?」
「もっと働くこともある」
「二十?」
「単純換算はできないって」
目が完全に商人だ。
「売る予定はないよ」
「まだ値段を聞いていません」
「その顔は値段を聞く顔」
「……皆さん本当に顔を読む」
次。
「これは?」
「マカダムローラー」
「ゴロゴロじゃ」
「こびゃっこ」
「正式愛称じゃ」
「どっちなんだ」
俺は前後の鉄輪を示す。
「砕石や路面を締め固める。上から振動や圧力を掛けて地面を丈夫にする」
「道路用?」
「主に」
バーモントが、ローラーをじっくりと見る。
「南側の道も?」
「使った」
「……なるほど」
次。
ミニバックホー。
「これは掘る機械」
「ツチノコじゃ」
「愛称な」
「ガラン大使から王都への報告書にあった機械ですね。これで土を?」
「側溝。基礎。穴。掘削全般」
バケットを指す。
「この先を交換して別作業にも使える」
「一人で?」
「一人で動かせる」
「……」
また黙った。
「これも魔力は?」
「使わない」
「魔石も?」
「使わない」
「何で動くんです?」
「燃料を燃やして動かす」
「燃料が切れると?」
「止まる」
「壊れたら?」
「修理」
「部品がなかったら?」
「動かせない」
バーモントがそこで初めて、商人ではなく考える顔になった。
「つまり」
「うん」
「この機械だけを王国へ持っていっても、完全には使えない」
「そういうこと」
「燃料。整備。交換部品。操作する人間」
「全部いる」
「技術一式ですね」
「道具だけあっても駄目」
バーモントはしばらく機械を見た。
「……面白い」
「商売?」
「それもあります」
「それ以外は?」
「国としてです」
声が少し低くなる。
「神務院がこれを見たら、兵器だと思うでしょう」
「兵器じゃないぞ」
「分かっています」
「道路を作る道具だ」
「ですが、彼らから見れば」
ブルドーザーを見る。
「魔力を使わず、巨大な鉄の塊が一人の操作で土を押し、道を作る」
「そう見えるか」
「軍事利用できるかどうかを考える人間は必ずいます」
「……それはそうだな」
「だから余計に、技術の扱いは慎重にした方がいいでしょう」
俺は頷いた。バーモントは、やっぱり商人だけじゃない。
◇
そのまま厩舎へ向かう。現場では、すでに馬房の腰壁作業が始まっていた。
「おっちゃん!」
ユキが規制線の外から手を振る。
「どう?」
「かんとくしてる」
「現場は?」
「だいじょうぶ」
ドラン、ボルガ、ニナも溶接練習を終えて合流している。ニナは地上で材料寸法を確認。グレゴールとエリオットが木製腰壁を組む。ミネットも地上で作業している。
「高いところが恋しいにゃ」
「昨日言っただろ」
「分かってるにゃ」
バーモントが厩舎を見回す。
「これが二十頭以上?」
「そう」
「近衛騎士団の馬も含めて」
「含めてる」
「本当に作ったんですね」
「まだ途中」
「屋根だけでも十分大きいです」
「馬房、扉、給水、照明まで終わって完成」
ユキが言う。
「まだ、できてない」
「そういうこと」
「完成の基準が厳しいですね」
「普通だろ」
バーモントは笑った。
「湖畔では、それが普通なんでしょうね」
◇
午前中は全く驚きの連続だった。午後。ヒカル殿と工事事務所に移動する。商人バーモントではなく、《密偵バード》としての時間が始まる。
机の上には王への報告書。シオンと神務院。赤眼の密偵オルガ。銀環。奴隷供給。術式試験。しらゆき。宗一郎。白狐の里自治区。始マリノ祠。ガルム。湖畔交易。報告項目は多い。
「これ、使って」
ヒカル殿が机へ何か置いた。
「何です?」
「ノートとボールペン」
「……ノート?」
薄い冊子。紙が均一で罫線まで全部同じ。それを開いてみると。
「紙が……」
「どう?」
「薄い」
「書ける?」
「もちろん」
今度はペン。
「これは?」
「ボールペン」
「インク壺は?」
「いらない」
「……」
「また止まった」
「どうやってインクを?」
「中に入ってる」
「先端から?」
「そう」
試しに線を引いてみた。
「……」
もう一度。するすると書ける。
「乾かす必要は?」
「ほぼない」
「羽根を削る必要は?」
「ない」
「インクを付け直す?」
「ない」
「売り――」
「言うと思った」
ヒカル殿が笑った。
「これ、商人だけじゃなく役人が欲しがります」
「だろうな」
「軍も」
「たぶん」
「学校も」
「そうだろうな」
「筆記具の市場壊れますね」
「だから昨日の話になる」
「少量から」
「そう」
私はボールペンを見つめた。重機より小さいが、社会へ与える影響はむしろこちらの方が広いかもしれない。兵士や役人。商人や教師。職人。誰でも使う。
「これは、かなり慎重に扱った方がいいと思います」
「同感だな」
ノートとボールペンを手元へ置く。
「もらっていいんですか?」
「報告書作る間だけじゃなく、そのまま使っていいよ」
「……本当に?」
「消耗品だから」
「湖畔の『消耗品』は怖いですね」
◇
私は、報告書の最後へ新しい項目を作った。表題は《白狐神の湖畔・現地所感》
ペンを少し止める。何と書くべきか。神務院側が掴んでいる情報では、この場所は奇妙な土地だった。異界人に逃亡奴隷。白狐神と空飛ぶ神使。侵入を拒む結界。文字だけを読めば、正体不明の危険な勢力にすら見える。
だが実際に歩き見て回るとまるで違う。朝。赤毛のドワーフ少女が三輪自転車でランタンを回収し、食堂では、皆が一緒に朝食を食べ、生卵を白飯へかけていた。職人は仕事へ向かい、警備担当は巡回へ出る。
白狐神は青い線の入った白いヘルメットを被り、厩舎工事を監督している。守護神使は、妙な肩書きを増やしている。異界人は、仕事を一人で抱え込まず、職人へ仕事を渡している。
祠があり、そこから結界が広がっている。しかし、結界の内側にあるのは軍事施設ではない。普通の暮らしがある居住地だ。私は書いた。
『湖畔は、現時点において軍事拠点として形成された共同体ではない。』
次。
『防衛能力は高い。特に白狐神および守護神使による結界、元高位ハンター、異界由来の技術は、外部勢力から見れば大きな脅威となり得る。』
少し考える。
『しかし、これらの大半は生活・建設・医療・農業・安全確保を目的として運用されている。』
さらに。
『異界技術の価値は、個々の物品だけで評価すべきではない。重機には燃料・整備・部品・教育が必要であり、生食用卵には衛生管理と流通が必要である。単純な模倣・輸入は危険。』
ここで少し笑う。朝の卵かけご飯が、王への報告書に入った。だが重要だ。技術とは物ではない。使い方。維持。管理。人。全部込みだ。
さらに書く。
『ヒカル殿は、自身がすべてを行うことを避け、現地職人・湖畔住民へ役割を分担し始めている。異界技術が一個人の能力に留まらず、湖畔内部で部分的に共有されつつある。』
これは密偵として重要な評価だ。そして最後。少し迷ったが書いた。
『白狐神ユキ様は、やはり人々が想像するような祭壇上の神ではない。』
ペンが止まり、昨日の言葉を思い出す。
「ここ、おうち」
今日の姿は、白いヘルメットで厩舎を見ていた、小さな白狐神。また書く。
『現在の白狐神は、この湖畔で人々と食事をし、働く者を見守り、子供として笑い、同時に自らの群れを守ろうとしている。』
そして。
『王国が友好を望むならば、白狐神だけを見るべきではない。この湖畔で暮らす人々と、その生活全体を相手として考える必要がある。』
バードはペンを置いた。
「……こんなところですかね」
工事事務所の窓の外を見ると遠くに厩舎。その向こうには湖。白いヘルメットの小さな白狐神が、まだ規制線の外から現場を見ている。
横には白い毛玉が浮かんでいる。そして、ヒカル殿が職人たちと何か話していた。
神と守護者。そして守護神使。
肩書きだけ見れば、とても遠い存在に思える。実際に来てみれば、朝は卵かけご飯を食べ、昼は工事をし、夜になれば、同じ食堂へ帰る。
「……なるほど」
バードは小さく呟いた。王が、なぜこの湖畔を領地にしようとしないのか、少し分かった気がした。
ここは、誰かが所有するための場所ではない。すでにここで暮らしている者たちの家なのだ。
続く
⸻
【収支報告】
異世界生活85日目
日付:六の月14日
オリエント王国歴952年
開始残高:3,127,873pt
円換算目安:約312,787,300円相当
今回の購入:
・なし 0pt
※バーモント用寝具、歯ブラシ・歯磨き粉等は既存在庫品を使用。
※朝食用の生食対応卵、米、醤油等も既存在庫を使用。
※ノート、ボールペンは文具類の既存在庫からバーモントへ提供。
※厩舎工事、アーク溶接練習、重機等は既存資材・設備を使用。
今回支出合計:0pt
現在残高:3,127,873pt
円換算目安:3,127,873pt × 100円 = 約312,787,300円相当




