第111話 白狐神と銀狐の商人
六の月13日、午後。午前中に厩舎のポリカ波板屋根が完成した。昼食を終えた職人たちは少し長めの休憩を取り、今度は馬房の工事へ入る予定になっている。
屋根ができたからといって、厩舎が完成したわけじゃない。
これから、馬房の仕切り。扉と壁。
ゴムマットに給水。照明や細かい金具。馬が身体をぶつけても危険の少ない納まりなど、まだまだ仕事は残っている。
俺は食堂の長机へ図面を広げ、午後の段取りを確認していた。
「馬房は全部同じ寸法に揃える。ただ、端の二つは少し広く取っておく」
隣でグレゴールが図面を見る。
「具合の悪い馬を分けたり、大きな馬が来た時のためか?」
「そう。二十頭来るって話だけど、馬の大きさまで全部同じとは限らないからな」
「なるほど」
ニナは工具箱の前で、午後に使うビットとソケットを確認している。
「木?」
「馬房の腰壁は木を使う。骨組みは一部金属」
「インパクト、使う?」
「地上作業ならな」
「うん」
ミネットはというと、屋根が終わってしまったため少し寂しそうだ。
「馬房も高いところ、あるにゃ?」
「ない」
「即答にゃ」
「今日は地上で働け」
「屋根職人から屋根を取ったら何が残るにゃ」
「職人が残るだろ」
「……それもそうにゃ!」
いや、それで納得するのか……そう思いつつ俺が図面へ視線を戻した、その時だった。食堂の端で稲荷寿司を食べていた白い毛玉が、突然ぴたりと止まった。
「……む?」
「どうした?」
こびゃっこの耳が立つ。正確にはぬいぐるみみたいな耳だが、それが南側へ向いた。
「誰か入ったぞ」
「何?」
俺は顔を上げた。
「どこに?」
「結界じゃ」
こびゃっこは稲荷寿司を皿へ戻し、ふわりと浮いた。
「南の方角。今、湖畔の結界を誰かが越えた」
「分かるようになったのか?」
「ここ二、三日ほどじゃな」
こびゃっこ自身も少し不思議そうに前足を見る。
「実体を取り戻してから、神力は少しずつ戻っておった。以前は結界が張られておることしか分からなんだが、今はどこに触れたか、どの辺りを誰かが通ったかくらいなら感じる」
「便利になってきたな」
「びゃっこは成長期じゃ」
「千歳超えてるだろ」
「神使に年齢で成長を語るでない」
その横で、ユキまで南を向いた。
「……きた」
「ユキも分かる?」
「うん。だれか、はいった」
「どんな奴か分かるか?」
ユキは鼻をくんくんさせる。
「まだ、わかんない」
こびゃっこが説明する。
「ユキも結界全体を以前より感じ取れるようになっておる。ただ、匂い――感情や敵意までは、さすがに本人へ近づかねば難しいようじゃ」
「なるほど」
結界へ誰かが入った。つまり――。
「追い返されなかったってことだよな?」
「そうじゃ」
こびゃっこが頷く。
「少なくとも、結界が明確な敵と判断した者ではない」
だから安全……とは限らない。悪意がないのと、危険がないのは別だ。俺が立ち上がろうとしたところで、食堂の固定無線が鳴った。
『こちらロク。ヒカル、ガラン、応答願う。どうぞ』
俺と少し離れた席にいたガランが同時に反応する。俺が無線機を取った。
「こちらヒカル。聞こえてる。どうぞ」
『畑南側を警備中。ナージャが湖岸沿いに接近する騎馬一名を確認したっす。男一名。現在、南の湖岸を西向きに移動中。こちらへ近づいてるっす。どうぞ』
「武装は?」
『腰に剣らしきものあり。ただし抜いてないっす。馬上から周囲を確認してるっすけど、敵対行動なし。どうぞ』
ガランが横から言う。
「俺も行く」
俺は無線へ返す。
「こちらヒカル。了解。こちらから南側道路入口へ向かう。ロクとナージャは距離を取って監視継続。接触は待ってくれ。以上」
『了解っす。以上』
無線機を戻す。
「俺はバギーを出す」
ガランが立ち上がった。
「俺も行く」
「おっちゃん、ユキも」
「びゃっこもじゃ」
「二人は――」
言いかけて止まる。当然、連れて行きたいとは思わない。正体不明の騎馬だ。だがこびゃっこが先に言った。
「ヒカル。結界が通した者じゃ」
「それでも絶対安全とは限らない」
「もちろんじゃ。ただ、びゃっことユキがおれば、近くで相手の匂いも確認できる」
「……それはありか」
ガランも頷いた。
「距離を取らせればいい。俺たちが先に立つ」
ユキが俺の服を掴む。
「ユキ、うしろ、いる」
「勝手に前へ出ない?」
「でない」
「何かあったら?」
「おっちゃんの、うしろ」
「よし」
結局、俺、ガラン、ユキ、こびゃっこの四人でバギーへ乗った。午後の馬房工事はグレゴールに一旦任せる。
「状況が分かるまで作業を止める必要はない。ただし何かあれば無線する」
「了解」
グレゴールが答えた。ニナもこちらを見る。
「知らない人?」
「そうみたいだ」
「気をつけて」
「ああ」
◇
湖畔南側。男は馬上から、遠くに見える建物を眺めていた。
商人バーモント。それが今の彼の名だ。本当の名は、ロイド・ゼビウス。オリエント王国軍務卿ゼビウスの息子。
セイラム王の甥。そして王直属の密偵。
「……思ったより早く着いたな」
ロイドは馬の首筋を撫でた。
「よく頑張ってくれた」
荷馬車を引いていないこともあり、道中は順調だった。無茶に走らせたつもりはない。途中で何度も水を飲ませ、休ませた。
天候にも恵まれ、結果として予定より早く目的地へ到着した。
白狐神の湖畔。レイシス皇国で情報を集めていた時には、その場所が本当にどうなっているのか想像できなかった。
神務院の密偵オルガの報告によれば、湖畔には異界人や逃亡奴隷。白狐神らしき幼女。そして空を飛ぶ小さな白狐。そして、侵入を拒む結界が確認されている。
「……これか」
少し前。ある場所を越えた瞬間、ロイドは奇妙な感覚を覚えた。
膜を一枚くぐったような感触。魔力探知術式とは違う。身体の表面だけではなく、自分の内側を静かに見られたような感覚だった。
反射的に馬を止めたが攻撃はない。警告もなく先へ進めた。
「オルガはここで拒まれたのか……」
自分は通れた。敵意を判別しているのか。目的まで見られているのか。それとも別の条件なのか。
「王家の血で通してくれた……なんて都合のいい話じゃないよな」
ロイドは苦笑する。初代国王と白狐神の縁は深い。だが四百年以上前の縁故で、現代の結界が身内判定してくれるとは考えにくい。
「少なくとも、殺しに来たと思われてはいないらしい」
それだけで十分だった。そのまま湖岸沿いを進むと、やがて視界が開けた。
「……道?」
草地の先に、明らかに人の手で作られた幅広い道路がある。表面には均一に砕石が敷かれている。
「広いな」
荷馬車二台どころか、それ以上がすれ違えそうだ。さらに向こうには畑。柵や倉庫。灯り用らしい柱。遠くには、角の揃った建物がいくつも見える。聞いていた以上だ。
「村……いや」
普通の村ではない。建物も道も設備も、今まで見た開拓地とは考え方が違う。その時。遠くから低い音が近づいてきた。
「何だ?」
馬が耳を動かす。ロイドは手綱を引き、落ち着かせた。
「大丈夫だ」
音は急速に大きくなる。そして砕石道路の向こうから――。
「……は?」
見たことのない車が現れた。四つの太い車輪。人が四人乗っている。馬はいない。魔力反応もほとんどない。なのに走っている。
「これが……異界の乗り物?」
王都では、魔力を使わず走る二輪車の噂は聞いていた。だがこれは四輪だ。
「報告書にないんだけど」
密偵として、少し腹が立った。知らない物が多すぎる。車は少し手前で速度を落とし、止まった。
先に降りてきたのは黒髪の男。異界人、サコン・ヒカルか?その隣には人族の大柄な男。
「……ガラン大使」
そして、小さな白髪の幼女。白い狐耳に大きな白い尻尾。さらにその肩近くへ、白い毛玉が浮いている。
ロイドは一瞬だけ息を止めた。
「本当に……いた」
記録の中だけだった存在。白狐神。そして守護神使。王家に伝わる古い文書が、急に目の前へ歩いてきたようなものだった。
◇
俺とガランはバギーから降りる。男は馬から降り、こちらへ向かって軽く頭を下げた。二十代後半くらい。銀色に近い髪を後ろで束ねているが、耳は普通の人族だ。
商人らしい服装。腰には細身の剣。今のところ妙な動きはない。
「そこで止まってください」
俺が声を掛ける。
「もちろんです」
男は素直に止まった。ガランが俺の少し前へ出る。
「名を聞こう」
「バーモントと申します」
「バーモント?」
ガランの表情が少し変わった。
「バーモント商会の?」
「ご存じでしたか」
「王都では有名な商会だ。香辛料を扱っているな」
「ええ。主に香辛料、乾燥果実、薬草、保存食などを」
男――バーモントが笑みを浮かべる。
「今回は商談だけで来たわけではありません。オリエント王国より、ガラン大使にお会いするよう紹介を受けています」
「王国から?」
「書簡もあります」
バーモントは両手を見える位置に置いたまま言う。
「王室からの紹介状を兼ねた、ガラン大使宛の書簡。それと白狐神ユキ殿、守護者サコン・ヒカル殿、守護神使殿宛の書簡をお預かりしています」
俺を見る。
「あなたがサコン・ヒカル殿で?」
「そうです」
「では間違いないですね」
妙に落ち着いている。俺は少し後ろのユキを見る。
「どうだ?」
ユキは鼻をくんくんさせた。
「わるい、におい、ない」
「敵意は?」
「ない」
こびゃっこも頷く。
「殺気も敵意も感じぬ。少なくとも今、ここで我らへ害をなそうとしておる匂いではないのう」
「それなら……」
そこでユキが首を傾げた。
「でも、このひと――」
「ユキ」
こびゃっこが突然止めた。
「なに?」
「それは後でよい」
「でも、きつ――」
「後でじゃ」
「?」
ユキは不思議そうにしたが口を閉じた。俺はそのやり取りが気になった。ただ、今ここで聞くことでもなさそうだ。
ガランがバーモントへ言う。
「書簡の確認もしたい。事務所まで来てもらえるか?」
「お願いします」
「馬は俺が預かるっす」
いつの間にかロクとナージャも近くまで来ていた。
「助かります」
バーモントは馬の首を撫でる。
「かなり長く走ってもらいました。水を多めに。ただ、一気飲みさせないようお願いします」
「分かったっす」
「今いる職人の荷馬車用の馬と一緒に休ませるわ」
ナージャも言う。
「ありがとうございます」
俺たちは彼をバギーへ乗せ、工事事務所へ戻った。初めて乗ったバギーに彼は落ち着かない様子だ。
「……これは魔力を使っていないんですか?」
走り出してすぐ聞かれた。
「使ってない。燃料を使っている」
「燃料?」
「そう」
「王都で聞いた二輪車と同じ系統?」
おそらく、ガランとドランが乗っていたマウンテンバイクの事だろう。
「あれは人力だな」
「つまり、誰でも乗れる……」
やけに目が商人っぽくなった。
「売り物じゃないぞ」
「まだ何も言ってませんよ」
「顔に書いてある」
「商人は商品を見ると考えるものです」
「本当に商人なんだな」
「本業ですから」
なぜか、そこだけ妙に強く言った。
◇
工事事務所へ入る。中には俺、ユキ、こびゃっこ、ガラン、そしてバーモントさん。扉を閉めると、バーモントは窓の外を確認した。
「少しだけ、外へ魔法を使ってもよろしいですか?」
「何の魔法?」
「認識阻害です」
俺はガランを見る。ガランも警戒しながら聞く。
「範囲は?」
「この事務所の周囲だけ。外から見た時に、中で重要な話をしているとは認識しにくくします。音も少しぼかします」
「攻撃魔法ではない?」
「違います。ここにいる皆さんの認識には触れません」
こびゃっこが相手を見る。
「嘘ではなさそうじゃ」
「なら、いいでしょう」
俺が頷くとバーモントが小さく指を動かした。するとユキの耳が少し動いた。
「できた?」
「はい」
男の雰囲気が変わった。笑みが消えたわけではない。ただ、商人として客へ向ける顔から、別の顔になった。
「まず、こちらを」
収納魔法から二通の封書を取り出す。王家の印章。ガランが見た瞬間、表情を引き締めた。一通を受け取り、封を確認する。
「本物だ」
そして開封。数行読み進めたところで、ガランの顔が固まった。
「……まさか」
バーモントさんが静かに言う。
「改めて名乗ります」
一瞬、男の周囲を淡い光が包んだ。次の瞬間。
「おお」
ユキが思わず声を出した。人族に見えていた耳が消え、その代わり頭の上に銀色の狐耳が現れる。背後には銀色の尾。顔立ちも、わずかに変わった。
「ロイド・ゼビウスと申します」
ガランが勢いよく立った。
「ロイド殿下!?」
「声を下げてください」
「あ――」
ガランがすぐ口を押さえる。
「失礼しました!」
「だから大声を……」
ガランが今度は姿勢を正し、深く頭を下げた。
「殿下とは知らず、先ほどまで――」
「やめてください」
「しかし」
「そのために商人として来たんです」
「ですが――」
「ガラン大使」
ロイドが苦笑する。
「私はここへ王族として威張りに来たわけではありません。むしろ、その態度をされると困ります」
「……承知しました」
「それに私は、あなたが王都近衛にいた頃から名前を知っています」
「それは光栄ですが……」
「父からも色々」
ガランの顔が少し嫌そうになった。
「軍務卿から?」
「はい」
「……何を」
「それは内緒です」
ユキがロイドの狐耳を見る。
「やっぱり」
「気づいてたのか?」
「きつねの、におい、した」
「ああ、それを言おうとしたのか」
こびゃっこが腕を組む。
「だから止めたのじゃ。変幻で隠しておるなら、理由があると思うてな」
ロイドがこびゃっこを見る。
「さすが守護神使殿」
「もっと褒めてもよいぞ」
「調子に乗るな」
「ヒカルは厳しいのう」
ロイドが少し笑った。
「そして、もう一つの名があります」
「もう一つ?」
「王直属密偵」
ガランが今度こそ絶句した。
「……バード」
「知ってるのか?」
「名前だけだ」
ガランが小声で答える。
「王直属に、そう呼ばれる密偵がいるという噂は聞いたことがある。だが正体は……」
「基本的には陛下、父、宰相くらいしか知りません」
「私にまで明かしていいのですか?」
「陛下の命令です」
ガランが書簡をもう一度見た。
「……確かに」
俺は頭の中を整理する。
「つまり」
「はい」
ロイドが指を一本立てる。
「本名、ロイド・ゼビウス」
二本目。
「密偵としては《バード》」
三本目。
「商人としてはバーモント商会会頭、バーモント」
「三重生活か」
「慣れれば楽ですよ」
「絶対楽じゃないだろ」
「商会は本物ですから」
「そこ重要なの?」
「重要です」
また強く言った。
◇
「それで」
ガランが座り直す。
「殿下――」
「バードで」
「……バード殿」
「殿もいりません。口調もいつも通りで」
「それは無理です」
「ではバードで妥協しましょう。但し、私への敬語は不要です」
「……承知した」
妙な交渉が成立した。ロイド――今ここではバードと呼ぶらしい――彼は、表情を改めた。
「急いで湖畔へ来た理由は、神務院です」
空気が変わった。
「シオンか?」
俺が聞く。
「はい」
「見つかったのか?」
「生きています」
俺は息を吐いた。ユキの耳が立つ。
「シオン、いる?」
「います」
「げんき?」
バードが少し言葉を選んだ。
「生きています。ただ、自由ではありません」
ユキの耳が少し下がった。
「どこに?」
「レイシス皇国の奴隷管理局収容施設。その中にある神務院専用区画です」
「やっぱり神務院か」
「はい」
バードは収納から小さな記録帳を出した。
「私は施設内部へ潜入し、本人を確認しました」
「直接?」
「ええ」
「救出は?」
聞いた俺に、バードは首を横へ振る。
「しませんでした」
ガランが先に頷いた。
「状況が分からないままでは危険か」
「その通りです」
バードが報告を続ける。シオンの首に付けられている銀色の環。警備。術式。追跡手段。どれも詳細は掴めなかったらしい。
「無理に連れ出して失敗すれば、警備強化、移送、最悪の場合は処分される可能性もあります」
「……分かった」
助けてきて欲しかった。そんな気持ちがないわけじゃない。でも判断としては正しい。俺だって、状況も分からず重機を動かすようなことはしない。
「急ぐ。でも焦らない、か」
「え?」
「いや。こっちの話」
この男。考え方が少し俺に似ている。
◇
「もう一つ、重要な報告があります」
バードが続けた。
「神務院は、この湖畔をすでに確認しています」
「……何?」
ガランの声が低くなった。俺も一瞬、意味を理解できなかった。
「いつ?」
「およそ一か月前。神務院の密偵が湖畔近くまで来ています」
こびゃっこが浮いたまま固まる。
「結界を?」
「越えられなかったそうです」
「誰じゃ」
「オルガという人族女性です」
バードは特徴を説明した。二十代半ばほど。灰色がかった焦げ茶色の髪。左目に黒革の眼帯。高い隠形能力と魔力感知能力。
「彼女は拠点に接近し、結界に拒まれたそうです。ですが遠距離の観測用魔道具を使ったのか、かなりのものを見ています」
「どこまで?」
「ドワーフの少女。猫族の姉弟。エルフ。異界人と思われる男性」
「……俺たちか」
俺の背筋が冷える。
「ユキは?」
「白髪と白い尾を持つ幼女を確認したと」
ユキが俺の服を掴んだ。
「こびゃっこも?」
「空を飛ぶ小さな白狐のようなもの、と」
「誰が小さいのじゃ」
「そこじゃないだろ」
思わず突っ込んだが笑えない。神務院はここを知っている。しかも、砦から救出した子供たちがここにいることまで把握している。
「逃亡奴隷だと?」
「そう認識しています」
「もう奴隷じゃない」
俺の声が少し強くなった。
「分かっています」
バードは静かに答える。
「ですが神務院側はそう扱うでしょう」
ガランが険しい顔で腕を組む。
「調査隊という話は?」
「準備されています」
「目的は?」
「完全には分かっていません。ただし、私は施設内部で《奴隷供給》《術式試験》《湖畔調査隊》という言葉を確認しています」
「奴隷を使う?」
「その可能性が高い」
こびゃっこの顔から、いつものふざけた雰囲気が消えた。
「四百年前と、同じ匂いがするのう」
短い言葉だった。でも重い。
「何の術式かは?」
「まだ特定できていません」
「シオンの銀色の首輪……いや、環も関係ある?」
「可能性はあります」
バードはさらに言う。
「それとオルガの左目」
「眼帯の下?」
「赤いそうです」
ユキが首を傾げる。
「あかい、め?」
「《赤眼》と呼ばれているようです。精神へ影響を与える魔力を出せるらしい」
「読心?」
「そこまでは確認できていません」
バードが首を振る。
「ただ、相手の精神へ干渉する能力と考えた方がいい。私は本人と一度接触しかけましたが、眼帯へ手を掛けた時点で視線を避けました」
「会ったのか?」
「追いかけられました」
「大丈夫だった?」
「少し埃まみれになっただけです」
「何したんだ」
「天井裏を這いました」
「密偵ってもっと格好いい仕事じゃないのか?」
「現実は地味ですよ」
妙なところで親近感が湧く。工事だって完成写真だけ見れば格好いいが、その前には泥と埃と片付けがある。職種は違っても同じらしい。
◇
報告が一段落したところで、ガランが深く息を吐いた。
「まず陛下へ感謝を」
「その陛下からもう一つ命を受けています」
バードがガランを見る。
「今後、私はガラン大使付きの情報担当として、この湖畔で動きます」
「俺付きの密偵として?」
「はい。レイシス皇国、神務院、それ以外の周辺情報も含めて、必要な情報を集め、大使へ報告します」
ガランが少し考えてから頷いた。
「それは助かる。俺一人では外交と警備まで手が回らないからな」
「もう一つあります」
「まだあるのか?」
「私は陛下と、この湖畔との直接連絡員も兼ねます」
俺が聞き返す。
「直接?」
「はい。通常の外交文書とは別に、急ぎの情報や表へ出しにくい話を、私が王城と湖畔の間で運びます」
「なるほど」
「もちろん正式な外交窓口はガラン大使のままです。私はその裏側を早く繋ぐ役目です」
「了解した」
ガランも納得したように頷いた。
「公式には俺から。裏の情報と急ぎの連絡はバードが王へ繋ぐ」
「そう考えてください」
「近衛騎士団が到着後、俺が王都へ向かう予定だった。こちらでも陛下に早急に伝えたい情報がある」
「私が持ってきた情報と合わせて、私が王都へ向かいます」
「助かる。後でまとめた報告書を渡す」
俺はバードを見る。
「シオンを助けるには、次に何が必要になると思う?」
「銀環の解析。警備配置。移送経路。神務院の調査隊がいつ動くのか。それから、救出後にどこへ逃がすか」
「ここじゃ駄目?」
「最終的には有力です」
「最終的?」
「神務院がこの湖畔を知っています」
「……そうか」
「救出した直後に真っ直ぐここへ向かえば、追跡される可能性があります。途中で痕跡を切る必要がある」
「なるほど」
やっぱり段取り男だ。必ず助けると、その一言で終わらない。助けたあとまで考えている。
「俺にできることは?」
「まずは湖畔の防備を変えすぎないこと」
「変えすぎない?」
「急に警戒態勢を大幅に変えると、神務院側に『偵察へ気づいた』と教える可能性があります」
ガランが頷いた。
「通常警備の範囲で強化する方がいいな」
「はい。見張りの人数をいきなり倍にするより、巡回経路を少し変える。情報共有先を限定する」
「分かった」
俺はこびゃっこを見る。
「結界は?」
「びゃっことユキで様子を見る。今まで通りでよかろう」
「強化しなくてもいいのか?」
「相手が入れぬなら、まずはそのままでよい」
ユキも頷いた。
「わるいひと、いれない」
「頼む」
◇
そこでバードが少し姿勢を正した。
「もう一つ、お願いがあります」
「何?」
「私の身分についてです」
銀色の狐耳を指差す。
「湖畔では、基本的に商人バーモントとして扱ってください」
「王族なのは?」
「伏せてください」
ガランが驚く。
「しかし特使や近衛が来れば――」
「特使と近衛はレオン副団長と副官、必要な範囲でしか知らせません。王族として歩き回ると、色々と面倒なので」
「大使としては非常に扱いづらいのだが」
「そこを何とか」
バードが苦笑した。
「皆さんの前では《バーモント》でお願いします」
「じゃあ、ここにいるメンバーだけで重要な話をする時は?」
「《バード》で」
「ロイドは?」
「本名で呼ばれると、王族と繋がると気付く者がいるかもしれません」
「なるほど」
その時。
「……それ、うそ?」
ユキが言った。バードがユキを見る。
「どの部分です?」
「バーモント、でも、ロイド」
「ああ」
「みんなに、ほんとのこと、いわない?」
「言いません」
ユキの耳が少し下がる。
「うそ、みたい」
子供らしい反応だった。俺も一瞬、どう説明するか迷う。ところがバードはしゃがみ、ユキと目線を近づけた。
「ユキ殿」
「ユキ」
「では、ユキ」
「うん」
「私は本当にバーモント商会というお店の会頭なんです」
「ほんと?」
「本当です。香辛料を買って、売って、お金を稼いでいます」
「しょうばい?」
「はい」
「ほんとに?」
「本気です」
「見たところ本気すぎるくらいじゃ」
こびゃっこが横から言う。バードが少し笑う。
「だから、バーモントという名前で商人をしていること自体は嘘ではありません。ただ、他にも名前と仕事がある。それを皆には内緒にしてほしいんです」
「ないしょ……」
「ユキにも、人へ言わない内緒はありませんか?」
ユキが考える。
「……ある」
「あるのか?」
俺が聞く。ユキは俺の顔を見て、それから口元を両手で隠した。
「ラムネのときの」
「ラムネ?」
「……けぷ」
「ああ!」
思い出した。前にラムネを飲んだ時、口元を両手で隠しながらげっぷをして、ユキが真っ赤になりながら俺の耳元で、
「ないしょのためいき」
と命名したやつだ。
「それ、まだ内緒だったのか」
「ないしょ」
「今ここで言っちゃったけど」
ユキがはっとする。
「……」
俺。こびゃっこ。ガラン。バード。四人を順番に見る。
「ふえた……」
「内緒を自分で増員したな」
「しーっ」
ユキが慌てて人差し指を口元へ当てる。こびゃっこが頷いた。
「安心せい。白狐神のげっ――」
「こびゃっこ!」
「ためいきじゃ! ためいき!」
バードが小さく笑った。
「では私も、その『ないしょのためいき』と同じ扱いでお願いします」
ユキがバードを見る。
「バードも、ないしょ?」
「はい」
「げっぷ?」
「そこは違います」
「よかったな。分類されたぞ」
「できれば別分類でお願いしたいですね」
ユキは少し考えた。
「バーモント、しょうにん、ほんと」
「はい」
「バードも、ほんと?」
「はい」
「ロイドも?」
「本当です」
「でも、みんなには、バーモント」
「お願いします」
ユキはしばらく銀色の狐耳を見た。
「……なら、よし」
認可が下り、バードがほっとした顔をする。
「白狐神の許可をいただけたなら安心です」
「ユキはユキ」
「失礼。ユキ」
「うん」
この男、順応が早い。
◇
「そういえば」
俺は別のことを思い出した。
「本当に商人なんだよな?」
「まだ疑っていたんですか?」
「いや。むしろ商売の相談がある」
バードの表情が変わった。密偵の顔から、さっきバギーを見た時と同じ商人の顔へ。
「伺いましょう」
「早いな」
「商談ですから」
「さっきまで神務院の話してただろ」
「それとこれは別です」
切り替えがすごい。
「俺は今まで、湖畔で王国の金をほとんど使ってない」
「でしょうね」
「必要な物の多くは、俺のスキルで別の世界から買える」
「聞いています」
「職人たちにも今のところ給料みたいな形では払ってない」
グレゴールたち七人は、王都から三か月の予定で来ている。彼らに対して湖畔では、食事や酒。宿泊。異界の工具や工具の使い方。建築技術と新しい工法を見る機会。そういったものを互いに提供している。彼ら自身も、それを承知で来ている。でも。
「三か月後には王都へ戻る」
「彼らにも工房がありますからね」
「ああ。引き留めるつもりもない」
家も仕事も、弟子も客もいるだろう。湖畔が便利だからといって、ここへ住めとは言えない。
「その後、何か作って欲しくなったら、王都の工房へ正式に仕事を発注したい」
「なるほど」
「その時はちゃんと王国通貨で払いたい」
バードが頷く。
「それなら、湖畔に現金収入が必要になる」
「そう」
今までは必要性が低かった。ポイントはある。物も買える。でも、この世界の人間へ仕事を頼むなら、この世界の金が必要だ。
異界の商品で物々交換を続ける方法もある。だが何でもそれで済ませるのは違う気がする。
「工具一本と屋根工事一日を、毎回どう交換するか考えるのも面倒だしな」
「商人としては同意します」
バードが笑う。
「貨幣は、その面倒を減らすための道具でもあります」
「だよな」
「では湖畔の品を、私の商会が買い取る?」
「まずはそれを考えてる」
「何があります?」
「色々」
「例えば?」
「酒」
「興味あります」
「加工肉」
「あります」
「チョコレート」
「非常にあります」
「工具」
「かなりあります」
「米」
「……」
「どうした?」
「陛下が聞いたら私より先に買いそうです」
「王様、そんなに米好きなの?」
「王家に伝わる伝承にもあります。まだ食べてもいないのに興味だけ育っています」
「誰のせいだ」
「ガラン大使では?」
ガランが目を逸らした。
「稲荷寿司の報告は必要だった」
「王様に飯テロしたのか」
「何だ、飯テロって?」
「いや知らなくていい」
バードが笑う。
「商売としては面白い。ですが一つ条件があります」
「何?」
「最初から大量に売らないこと」
「理由は?」
「市場を壊すからです」
即答だった。
「異界の商品は品質が良すぎる物が多いと聞いています。大量に流せば既存の職人や商人を潰しかねない」
「ああ……」
「だから、希少品として少量。あるいは既存の商売と競合しにくい物から始める」
「その方がいいな」
「それにヒカルさんが王国通貨を得ることだけが目的なら、無理に大量販売する必要はありません」
「確かに」
「まずは私が王都で需要を見ます」
「任せていいか?」
「もちろん」
差し出された手を握る。
「じゃあ、よろしく。バーモントさん」
「こちらこそ。ヒカルさん」
商談成立。……たぶん。
「契約書は後で作ります」
「やっぱり商人だな」
「口約束だけで商会をやっていたら潰れますよ」
「それもそうだ」
この世界の公的文書に詳しいアルノにも相談しよう。俺一人で契約書まで作る必要はない。
◇
「ヒカル」
こびゃっこが急に言った。
「何だ?」
「重要な案件を忘れておる」
「まだ何かあった?」
「あるとも」
こびゃっこが机の上へ降り、バーモントを前足で指した。
「遠路はるばる、我らへ重要な知らせを届けてくれた客人じゃ」
「そうだな」
「歓迎せねばならぬ」
「夕飯?」
「当然じゃ」
ユキも反応する。
「ごはん?」
「そこだけ聞こえるの早いな」
こびゃっこが胸を張った。
「そしてヒカル。今日の献立は分かっておろうな?」
「献立って?」
「相手の名前を考えるのじゃ」
「名前?」
俺はバーモントを見る。バーモント。バーモント……。
「……まさかあれか?」
「そうじゃ!」
こびゃっこが勢いよく前足を上げた。
「りんごとハチミツも隠し味に入れるのじゃ!」
「いやベタすぎるだろ……」
ガランとバーモントが同時に首を傾げる。
「何の話だ?」
「私の名前と料理に何か関係が?」
「俺の世界だけの話だから気にしなくていい」
「商人としては非常に気になります」
「気にするな」
「商品名ですか?」
「それ以上掘るな」
こびゃっこが楽しそうに宙を回る。
「甘口! 中辛! 辛口!」
「種類まで言うな!」
ユキの目が輝く。雰囲気で察した様だ
「おうちカレー?」
「ああ。今日はカレーにするか」
「やった!」
「ユキは甘口な」
「おにく、いっぱい?」
「入れる」
「じゃがいも?」
「入れる」
「にんじん?」
「入れる」
「たまねぎ?」
「入れる」
「りんご?」
「……少しな」
「はちみつ?」
「もう好きにしろ」
「うんみゃあ、よやく」
「まだ食ってない」
バーモントが真剣な顔をしている。
「そのカレーという料理」
「はい」
「商売になります?」
「もう商談か!」
「本業ですから」
ガランが小さくため息をつく。
「殿――」
「バーモントで」
「……バーモントさん。あなた、本当に昔からこうなのか?」
「昔からです」
「軍務卿も苦労されているのだろうな」
「父は少し心配性なんですよ」
「たぶん原因はあなただ」
俺は立ち上がった。
「じゃあ、夕食の準備をしてくる」
「ヒカル」
こびゃっこが呼ぶ。
「何だ?」
「りんごとハチミツを忘れるでないぞ」
「くどい!」
「にくも」
ユキ。
「分かってる」
「ごはん、おおめ」
「はいはい」
「びゃっこは大盛りじゃ」
「お前まで増えるな」
工事事務所の扉へ手を掛ける。その前に、一度振り返った。商人バーモント。王直属密偵バード。銀狐族ロイド・ゼビウス。三つの名前を持つ男が、今日この湖畔へ来た。
そして俺たちは初めて知った。神務院が、もうこちらを見ていることを。
シオンが生きていることを。敵が動き始めていることを。心配事は増えたがやるべきことも増えた。それは前へ進んだということでもある。助けるために動いている人間もいる。俺一人じゃない。
「おっちゃん」
「ん?」
ユキがこちらへ来た。
「シオン、ひとり?」
「いや」
俺は答える。
「バードも見つけてくれた。王様も動いてる。ガランもいる。俺たちもいる」
「じゃあ」
「ああ」
「ひとりじゃない」
「そういうこと」
ユキは小さく頷いた。
「なら、よし」
まだ何も解決していない。だからこそ、まずは今日できることからだ。情報を整理して。警備を見直して。商売の相談をして。馬房も作る。そして――。
「おっちゃん」
「今度は何だ?」
「カレー、はやく」
「分かってるって」
「おなか、すいた」
「シリアスな締めを返せ」
ユキの大きな白い尻尾が、ぱたんと揺れた。まあ、いい。今日の夕食は――おうちカレーだ。
続く
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【収支報告】
異世界生活84日目
日付:六の月13日
オリエント王国歴952年
開始残高:3,127,873pt
今回の購入:
・なし 0pt
※午後の馬房工事準備には既購入の資材・工具を使用。
※夕食用のカレー材料については既存在庫を使用予定。
今回支出合計:0pt
現在残高:3,127,873pt
円換算目安:3,127,873pt × 100円 = 約312,787,300円相当




