第107話 白狐神ともう一人の段取り男
レイシス皇国、奴隷管理局収容施設。
その地下にある神務院専用区画で、ロイドは息を殺していた。変幻した姿は、黒髪の人族女性。壁際の柱と柱の間、魔石灯の光が届きにくい位置へ身体を寄せている。
少し先には、シオンが収容されている部屋。さらに廊下の向こうから、神官兵たちの足音と共に、話し声が近づいていた。
「湖畔の調査隊については?」
「奴隷供給が揃い次第、術式試験へ移るそうです」
「足りていないのか」
「適正魔力を持った人間が、まだ足りないようです」
ロイドは動かない。
必要な情報は、かなり集まった。
シオンの所在地。
銀色の環。
奴隷供給。
術式試験。
湖畔調査隊。
本来なら、ここで引くべきだ。密偵は、情報を多く集めた者ではなく、生きて持ち帰った者が勝つ。
だが、その時だった。
「それにしても、オルガの報告が本当なら厄介ですね」
神官兵の一人が言った。ロイドの意識が、その名へ集中する。オルガ?聞き覚えはない。
「逃亡奴隷どもが、あの湖畔にいるという話か」
「はい」
ロイドの目がわずかに細くなる。
「ドワーフの子供、猫族の姉弟、それにエルフも確認したそうです」
「異界人もいたのだろう?」
「例のサコン・ヒカルと思われる人族男性も」
――なるほど。ロイドは頭の中で情報を組み替えた。神務院は、ただ白狐神が湖畔にいるかもしれないと疑っているだけではない。
すでに現地を見ている。しかも、砦から逃げた子供たちまで確認されている。
「白狐神らしき幼女も見たとか」
「狐耳は確認できなかったらしいが、白髪と白い尾、それに空を飛ぶ小さな白狐」
「守護神使か?」
「司祭たちはそう見ている」
これはまずい。ロイドの中で、任務の優先順位が変わった。シオンの居場所を確かめ、神務院の準備状況を探る。そこまでは情報収集だった。
だが湖畔がすでに監視されているとなれば、これは警告案件だ。ガラン大使と守護者ヒカルへ、できるだけ早く知らせる必要がある。
「結界を越えられなかったと聞いたが」
「ああ。拠点まで百メートルほど近づいたところで拒まれたらしい」
「そんな結界が?」
「魔力隠蔽をしても駄目だったそうだ」
ロイドは心の中で苦笑した。白狐神。初代王の記録にある存在の力が、どうやら本当に戻っている。そして、その結界は神務院の密偵すら通さない。王国側から見れば朗報だが、相手にその存在を知られたこと自体は、まったく朗報ではない。
「オルガ本人から聞いたのか?」
「いや。司祭補佐からだ」
「彼女は今どこに?」
「この施設にいるはずだ」
不意にロイドの眉が動いた。近い、危険な匂いがする。その直後だった。廊下の空気が、わずかに変わった。
魔力そのものではない。視線に似たものが、こちらを探している。ロイドは反射的に魔力循環をさらに落としたが遅かった。
「……誰かいるの?」
女の声がして、足音が止まった。神官兵が振り返る。
「オルガ殿?」
「しっ!静かに」
今度は別の足音が近づいてくる。ロイドは柱の影から、ほんの少しだけ覗いた。
灰色がかった焦げ茶の髪を後ろで束ねた、人族の女。年齢は二十代半ばほど。左目に黒革の眼帯。――あれがオルガ。ロイドは顔を覚える。服装。歩幅。右手の位置。腰の短剣。呼吸。すべて頭へ入れる。だが、観察している場合ではない。
「何か感じたのか?」
神官兵が尋ねる。
「……一瞬だけ」
オルガは周囲を見る。
「魔力が動いた」
「巡回兵では?」
「違う」
ロイドは内心で舌打ちした。かなり鋭い。通常の魔術師なら、今の自分を探知するのは難しい。変幻維持に必要な魔力まで抑えている。
それでもオルガは感じた。魔力感知が異常に優れている。女は一歩ずつ近づいてくる。ロイドとの距離、十数メートル。
「誰かいるなら出なさい」
当然、出ない。オルガの右目が廊下の暗がりをなぞる。さらに、左手が眼帯へ触れた。赤眼だ。先ほど聞いた言葉が頭へ浮かんだ。
あれを使われたら何が起きる?精神干渉か、探知か、自白術か。分からない以上、視線を合わせるのは危険だ。
ロイドは周囲を見る。右にシオンの個室。左は行き止まり。戻ればオルガの正面。上へ逃げる場所は――。あった。天井近くに、保守用の横梁。
人一人が伏せられる程度の幅しかない。ロイドはオルガが一瞬、別方向へ視線を向けた瞬間、音もなく壁へ足を掛けた。
手を伸ばし梁へ指を掛け、身体を引き上げる。その直後、オルガが振り向いた。
「そこ!」
短剣が飛んだ。ロイドは身体を捻る。刃が衣服の裾をかすめ、壁へ突き刺さった。
まずい。だが完全には見られていない。ロイドは梁の上を這うように進み、反対側の暗がりへ移る。
「侵入者!」
神官兵が声を上げる。
「静かに!」
オルガが即座に制した。
「逃げ道を塞ぐ。騒げば逆に逃げられる」
頭も切れる。ロイドはますます嫌になった。こういう相手は、密偵として一番面倒だ。
腕力だけの兵士なら撒ける。魔術だけの神官なら隙がある。だが、隠密を理解した相手は、自分ならどう動くかを考える。
廊下の出口へ神官兵が回る。ロイドは天井梁の途中で身体を止めた。このまま正規出口へ行けば待ち伏せされる。ならば別方向。
梁の先に小さな点検口がある。閉まっているが、金具は単純だ。ロイドは収納から細い工具を出し、留め具へ差し込む。
カチ。小さな音がした。
「上!」
オルガが気づく。
「ちっ」
ロイドは点検口を押し上げ、そのまま中へ身体を滑り込ませた。
狭い。埃臭い。配管と魔力導線のための保守空間らしい。すぐ後ろで点検口が開く音がした。
「追え!」
まずいな。そう思いながら、ロイドは四つん這いになって進む。
「密偵は格好よく屋根を走るものだと思っていたんだけどね」
小声で呟く。現実は埃まみれで狭い配管空間を這う。右側に縦穴があり、その下は倉庫らしい。ロイドは迷わず降りた。床へ着地する直前に身体を回し、音を殺す。
木箱の影があり、薬品臭が漂う。奴隷用の拘束具らしい物品も並んでいる。見ている暇はない。裏口は見取り図にあった。搬入口側だ。
ロイドは人族女性の姿を保ったまま、倉庫の作業員用外套を収納から取り出して羽織る。目の前の箱を一つ抱え、扉を開ける。
「何をしている!」
警備兵がいた。ロイドは面倒そうな顔をした。
「上で侵入者だそうです。薬品箱を移せと言われました」
「誰に?」
「神官兵の――」
そこで廊下の奥から叫び声。
「黒髪の女を探せ!」
警備兵の目がこちらを見る。ロイドは箱を投げた。
「悪いね」
「なっ――」
箱が相手の胸へ当たり、ロイドはその横を抜けつつ、警備兵の足を払う。すかさず、倒れた相手の顎へ軽く掌底を入れた。殺しはしない、気絶させるだけだ。そのまま搬入口を開ける。
外まだ暗い夜。塀まで三十メートルほどを全力で走る。背後で警報用の鐘が鳴った。
「結局騒ぎになったか」
塀際へ到達、助走して壁を蹴り上端へ手を掛ける。身体を引き上げたところで、背後から女の声。
「止まりなさい!」
オルガだ。ロイドは振り返らない。だが、視界の端で彼女が眼帯へ手を掛けるのが見えた。赤い目を見るのは御免だ、そのまま塀の外へ飛び降り、着地して路地へ走り込む。
最初の角を曲がった瞬間、変幻を解除。黒髪女性から、銀髪の人族商人バーモントへ戻る。
外套を替え、歩調も変える。数秒後には、夜中に騒ぎを聞いて店から出てきた商人の顔をしていた。
追ってきた神官兵たちが通り過ぎる。
「何かあったんですか?」
ロイドが聞く。
「見ていないか! 黒髪の女だ!」
「黒髪? いえ」
「怪しい者を見たら知らせろ!」
「もちろんです」
兵たちが走り去る。ロイドは商人らしく肩をすくめて呟く。
「夜中に物騒だなあ」
そして反対方向へ歩き出した。今夜は十分だ。いや、十分すぎる。これ以上は欲張りになる。
◇
ククレ商店へ戻った時には、夜明け前だった。裏口を二度、間を置いて一度叩く。しばらくして扉が少し開いた。
「遅い」
ククレだった。
「ただいま」
「怪我は?」
「ないよ」
「……入れ」
店内へ入る。ククレはロイドの服を見た。
「裾が切れてるぞ」
「ちょっと刃物が飛んできた」
「見るだけじゃなかったのか」
「見ただけだよ。向こうが投げてきた」
「屁理屈だ」
「商人だからね」
「密偵だろ」
「それは秘密」
「知っとるわ」
二階の隠し部屋へ移動する。ロイドは椅子へ座ると、紙を広げた。
「シオン、いたよ」
「間違いないか」
「狐族、十二歳前後、銀の環。本人と見ていい」
「生きてる?」
「ああ」
ククレはわずかに息を吐く。
「それから」
ロイドは続けた。
「湖畔へ神務院の密偵が入っている」
「もう?」
「ひと月くらい前らしい」
「何を見たと?」
「砦から逃げた子供たち。異界人。白髪で白い尾の幼女。飛ぶ白狐」
ククレの顔から眠気が消えた。
「白き神獣?」
「相手はそう疑っている」
「結界は?」
「密偵は越えられなかった」
「ならまだましか」
「いや」
ロイドは首を振る。
「居場所を知られた時点で、かなり悪い」
「そうだな」
「調査隊も準備中。奴隷を集めている。術式試験という言葉も聞いた」
「……急ぐ話だな」
「ああ」
「王国へ戻るのか?」
「そのつもり」
これは嘘ではない。正確には、王国へ戻る方向へ向かい、その途中から湖畔へ向かう。だがククレには、湖畔という目的地を伝えない方がいい。協力者が知る情報は、少ない方が安全だ。
「朝になったら出る」
「荷は?」
「商会の荷は置いていく」
「馬は?」
「一頭借りたい」
「一番速いのを出す」
「助かる」
「二週間で着くか?」
「馬車を引かないから、そのくらい」
ククレはロイドをじっと見た。
「何?」
「いや」
「言いたいことがあるなら……」
「ない」
明らかにある顔だった。
「本当に?」
「商人は相手が言わないことまで聞かん」
「昨日まで値段の理由を全部聞いてたけど」
「商売と密偵は別だ」
「なるほど」
ククレはたぶん気づいている。おそらく湖畔へ行く事を。でも彼は聞かない。こういうところが信用できる理由の一つだった。
「取り敢えず寝ろ」
ククレが言った。
「二時間でも寝た方がいい」
「そうするよ」
「それと」
「何?」
「馬、潰すなよ」
「分かってる」
「お前、自分より馬を酷使しそうだからな」
「失礼な、人も馬も使い方は荒くないよ」
「早く寝ろ、バーモント会頭」
「おやすみ、ククレ店主」
◇
翌朝。ロイドは軽装で馬へ乗った。
商人用の大きな荷はない。収納には食料、水、替えの衣服、王から預かった二通の書簡。そしてシオンと神務院についての記録。
「戻ってこいよ」
ククレが店先で言う。
「もちろん」
「次は香辛料、六分値引きな」
「旅立つ前に値切る?」
「約束は早い方がいい」
「三分では?」
「五分だ」
「じゃあ四分」
「よし。それで決まりだ」
「ちょっと、勝手に決めないでよ」
「早く行け」
冷たい口調とは対照的な笑顔で見送るククレに、ロイドは笑った。
「じゃあ、また」
馬を進め、交易都市を抜け、東へ向かう。目的地は、オリエント王都ではない、白狐神の湖畔だ。順調なら三日ほどで着く。
ただし馬を潰さない様、途中で休ませ、水を与え、必要なら乗り換えも考える。急ぐことと、無茶をすることは違う。
「商売でも密偵でも、やっぱり段取りだよな。もうすっかり日常の一部だけど」
誰かの口癖のような言葉を、ロイドは呟いた。
◇
同じ日。異世界生活82日目。六の月11日。湖畔拠点の朝は、いつもの朝食から始まる。それを終えると、俺たちは《群れの鍛冶場》へ移動した。
「今日も一時間位やろう」
俺が言う。
「分かっとる」
ドラン。
「ああ。始めよう」
ボルガ。
「うん」
ニナ。
三人とも防炎服を着ている。ニナは革エプロン。自動遮光面に手袋。足元も確認済み。ドランとボルガも同様の格好だ。
発電機は屋外の所定位置。溶接機や消火器、遮光防火カーテンなど全部確認する。
「毎朝やってるが、省略しないでな」
「分かっとる」
「昨日も聞いたよ」
ボルガが笑う。
「じゃあ質問。発電機を止める前に何する?」
俺が聞く。
「溶接機の負荷を切るんだろ」
ボルガ。
「ケーブル確認」
ニナ。
「燃料コックと運転後点検じゃ」
ドラン。
「よし。皆んな正解」
だいぶ身についている。最初の頃は、アークを出すことだけで精一杯だった。今は準備、停止、片付けまで含めて一連の作業として考えている。
「今日はドランから」
「任せろ」
ドランが遮光面を下ろす。火花を起こす……バチッ! 短いアークが安定して続く。まだプロの溶接工というわけではないが、最初の頃みたいに棒を盛大に固着させて、
「ぬおおお、取れん!」
と叫ぶことは減った。
「長さ、一定になってきたな」
「鍛冶屋を舐めるでない」
「でもアーク溶接は初心者だろ」
「鍛冶屋としては初心者ではないぞ」
「まあ、そこは否定してない」
次はボルガ。
「行くよ」
バチッ! 短いビード。少し止めて、また進む。ボルガは金属の溶け方を見るのがうまい。鍛冶師だから当然だが、アーク距離と進行速度は、まだ意識して調整している。
「今のどう?」
「少し近い。でも昨日よりいい」
「分かった」
「次はニナ」
「うん」
ニナは無通電で一度動きを確認する。姿勢と棒の角度。手首と距離を確認。それから通電する。
バチッ! 短い仮付けをして止める。
「もう一回」
「一回だけな」
「分かった」
二回目。バチッ!今度も成功。ニナは遮光面を上げた。
「まだできる」
「だから今日はここまで」
「うん」
即答だった。そこが一番成長した部分かもしれない。最初なら、もう少しやりたいと顔に出ていた。今では、まだできる時に止める。明日もできるから。それを覚えた。
「ニナ、片付けまでな」
「分かった」
溶接棒を戻し、ケーブルを確認。端材を分類して、作業台の火花やスラグを掃除する。
俺は三人を見ながら考えた。
「ドラン」
「何じゃ?」
「あと二、三日、今と同じ内容で安定してできたら、朝練の責任者を任せたいんだが」
ドランが止まった。
「ワシに?」
「ああ」
「ヒカルが毎回立ち会わんのか?」
「基本はな」
ボルガもこちらを見る。
「次の段階へ進める時は俺が立ち会う。電流を上げるとか、練習材を変えるとか、新しい姿勢をやる時も」
「普段の反復はドランが見るってことかい?」
「そう」
「ニナは?」
「今までと同じ短時間。ドランかボルガ、どちらかの大人が必ず横につく」
「分かった」
ニナは普通に頷いた。ドランは髭を撫でる。
「責任者か」
「酒が残ってたら即解任」
「そこを最初に言うか!」
「一番重要だから」
「前夜の酒量に気を付けないとね」
マリベルの声がした。
「うおっ」
振り返ると、鍛冶場の外に立っている。
「どこから出た!」
「人を魔物見たいに言わないでよ。」
「現れる頃合いが、良過ぎるじゃろ」
マリベルがドランを見る。
「責任者になるなら、前夜の酒量も今まで以上に自分で管理しないと」
「分かっとる」
「本当に?」
「分かっとる!」
「二回言う人は少し怪しいわね」
「信用が薄い!」
ボルガが笑う。
「酒に関しては仕方ないね」
「おぬしまで!」
ニナが淡々と言った。
「責任者、酒くさいと、だめ」
「ニナまで敵に回った!」
「敵じゃない。安全」
「正論が一番痛い!」
朝から元気だ。
◇
鍛冶場の練習が終わる頃、警備組も出発準備をしていた。
ロク、リーファ、オルフェン、ナージャはマウンテンバイク。
ガラン、セルド、フィンは今日はバギー側へ回る。
片方が森側の巡回。片方が湖岸をパトロールする。シフトに合わせ交代する体制だ。
「ナージャ、今日は決めた経路以上に走るなよ」
ガランが言う。
「分かってますって」
「昨日もそう言って、帰ってきたら『もう一周行ける』って言っただろ」
「行けましたよ?」
「行けるかどうかじゃない」
「まだできる時に止める、ですね」
そう言ってナージャが、通りかかったニナに聞く。
「最近これ、湖畔の流行語じゃない?」
「安全標語、だいじ」
ニナが答える。
「そういうところ、あなた本当は何歳?」
「七歳」
「即答された」
現場に向かうユキは、双眼鏡を首から下げながら手を振る。
「ガラン、いってらっしゃい」
「ああ。行ってくる」
「ころばないで」
「ああ。気をつける」
「ナージャも」
「はい、監督さま」
「セルド、ばぎーから、でない」
「ぐっ……了解です!!」
「こえ、おおきい」
「すみません!」
「また、おおきい」
セルドは朝からセルドだった。
◇
警備組が出たあと、厩舎現場では職人たちが資材を準備していた。
単管パイプとクランプ。親綱に足場用の板。ポリカ波板に固定金具。今日も引き続き、屋根側骨組みを行う。
「グレゴール」
「何だ」
「午前中、昨日の続きを頼む。片流れ勾配を崩さず、残りの屋根骨組みを進めてくれ」
「ああ。分かった」
「ミネットは高所側な」
「待ってましたにゃ!」
「だから張り切りすぎるな」
「昨日も言われたにゃ」
「今日も言う」
「明日も?」
「必要なら言う」
「しつこい男は嫌われるにゃ」
「安全については嫌われても言う」
ミネットが笑った。
「そういうのは嫌いじゃないにゃ」
「どっちだよ」
ドランがラチェットを持つ。
「ワシは下と上を行ったり来たりじゃな」
「高所で転がるなよ」
「転がらん!」
「屋根で酒の話するな」
「まだ何も言っておらん!」
「先に封じた」
「横暴じゃ!」
ニナは地上で単管の長さとクランプ数を確認している。
「ニナ」
「うん」
「下側の組み立てと材料確認。今日も頼むぞ」
「うん。分かった」
「俺は途中で抜けるから、分からなくなったら止めて……」
「グレゴールに聞く」
「うん。それでいい」
ユキは今日も規制線外で、青ライン入りヘルメットを被り、無線を膝に乗せて監督椅子に座る。こびゃっこは三脚横でカメラ撮影をスタンバイ。
「本日も撮影任務開始じゃ!」
「手際良くなってきたな」
「もちろんなのじゃ。主任復帰も近いかの?」
「その質問で一段遠のいた」
「何でなのじゃ!」
ユキがこびゃっこを見る。
「こびゃっこ、まだ、みならい」
「ユキまで言うのかえ……」
白い毛玉がしょんぼりした。
◇
作業開始。俺は最初の数本をグレゴールと確認しながら組む。昨日作った部分との通りや高さ。勾配と支持。仮締めから本締めまでを説明しながら行う。
「ここまで同じ要領だ」
俺が言う。
「ああ」
「ただし最後の一列は波板幅との納まりを見るから、勝手に決めないで一度止めてくれ」
「了解」
「ミネット」
「はいにゃ」
「屋根側は親綱確認してな」
「確認済みにゃ」
「二丁掛けのフック、掛け替え時に片方残す」
「分かってるにゃ」
「昨日より説明短いだろ」
「ヒカルも少し成長したにゃ」
「俺が?」
「ヒカルが人へ任せる能力」
「そこかよ」
グレゴールが笑った。
「確かに最初よりましだ」
「職人二人に評価されてる」
ユキが安全区域から言う。
「おっちゃん、ひとり、してない」
「監督にも評価された」
「なら、よし」
最近それが合格印になっている。
◇
しばらく厩舎側を見たあと、俺はグレゴールへ声を掛けた。
「予定通り抜ける」
「祠か?」
「ああ。午前中は材料加工を始める」
「昼から俺も行く」
「頼む」
「エリオットにも言ってある」
「じゃあこっちは?」
「ドランを作業責任者にする」
ドランが振り返る。
「おお?」
「午前の溶接責任者候補に続いて、今日は厩舎側の現場責任者」
「ワシ、急に偉くなりすぎではないか?」
「Sランクハンターの前衛で、鍛冶と石工もできる人間が何言ってる」
「ドワーフじゃ」
「そこじゃないが、こりゃ失礼」
「責任者になったから、今夜は祝杯――」
「なし」
「まだ言い終わってない!」
「言い終わる前に分かった」
「以心伝心じゃな」
「嫌な方向だけな」
◇
俺は倉庫内の作業場へ移った。昨日仕上げた《始マリノ祠》の図面を作業台へ広げる。今日はまず材料出し。
白木材、柱材、梁、屋根下地、床板と内部化粧材。固定金具と仮組み用の木工ネジ。収納から取り出し、種類ごとに並べる。
購入品だからといって、全部完成寸法で出てくるわけではない。今回は職人たちと作るため、ある程度の規格材を選んでいる。
まず木取り。どの材からどの部品を切り出すか。節、反りと木目。俺一人で決めるより、グレゴールが来てから重要部分は見てもらった方がいい。
なので午前中は、寸法が確定している下地材と、仮組み用の部材から始める。
「墨付け」
差し金とスケールを使い、切断位置を書く。卓上丸ノコの作業区域を確保して、集塵機を接続。保護メガネと耳栓をして、刃の状態を確認する。
「よし」
切る。ウィーン! 一本、二本、三本。切断したら寸法確認して番号を書き、図面と対応させる。ちょっと前の俺なら、とにかく切って積んでいたかもしれないが今は違う。誰かへ仕事を渡すなら、部材番号と図面が対応している方がいい。
「A1。A2。B1……」
そこへ、白い毛玉がふわりと入ってきた。
「ヒカル」
「撮影は?」
「ミネットの屋根作業を固定撮影へ切り替えてきたのじゃ。許可も取った」
「で?」
「祠の材料を見に来た」
「仕事中じゃないのか」
「歴史監修じゃ」
「今日は撮影見習いだろ」
「兼務!」
「増やすなよ。まあ良いけど」
こびゃっこが作業台へ降り、図面を覗く。
「この柱材はよいの」
「分かるのか?」
「昔の祠を見ておったからの」
「木材の種類まで?」
「そこまでは知らぬ」
「今の発言、雰囲気だけかよ」
「太さじゃよ! 太さ!」
「本当か?」
「疑い深い男じゃ」
「お前、自称の役職が多すぎるからな」
こびゃっこは前足を腰へ当てた。
「びゃっこは千年の実績がある」
「王城の落書きも実績に入ってそうだな」
「言うでない。それは黒歴史じゃ」
「歴史監修が歴史を選ぶな」
◇
昼前。厩舎側へ一度戻ると、屋根骨組みは順調に進んでいた。
「おっちゃん!」
ユキが手を振る。
「どう?」
「ドラン、ちゃんとしてる」
「本人に聞こえるぞ」
「聞こえておる!」
ドランが上から叫ぶ。
「ちゃんとしてるならいいだろ」
「褒められているのに、なぜか納得できん!」
ミネットは足場上で単管の通りを確認している。
「こっち、あと二列にゃ」
「予定通りだな」
「午後には波板へ入れるかもしれないにゃ」
「焦らなくていい。骨組み終わってから一回全体確認」
「分かってるにゃ」
ニナが下から測定値を読む。
「高さ、こっち、予定どおり」
「記録した?」
「した」
「よし」
ドランが胸を張る。
「どうじゃ。ワシが責任者でも問題なかろう」
「今のところ」
「今のところを付けるな!」
「昼飯で酒飲まなければ評価上げる」
「だから飲まん!」
「よし」
「子供扱いされとる気がする!」
ボルガが笑った。
「確かに酒の時は手が掛かるね」
「おぬしまで!」
◇
昼食。今日は簡単に、おにぎり、稲荷寿司、卵焼き、ソーセージ、朝の残りのコールスロー。それと味噌汁。
ユキがおにぎりを持ちながら言う。
「おっちゃん、ほこら、きった?」
「材料を少しな」
「おうち、できた?」
「まだ木の棒だ」
「む」
「家も祠も最初は材料なんだよ」
「でも、ずめんは、おうち」
「図面の中ではな」
こびゃっこが稲荷寿司を食べながら頷く。
「図面はあるべき未来の姿じゃ。人も斯くあるべきじゃのう」
「珍しく模範的なことを言ってる」
「びゃっこは常に模範となる様――」
「稲荷寿司あと何個食べる?」
「三個じゃ」
「食い過ぎだ。前言撤回」
「食欲と模範とは別じゃ!」
◇
昼食後。俺は職人たちを集めた。
「午後の分担を変える」
グレゴールとエリオットがこちらへ来る。
「予定通りだな」
「ああ」
「厩舎側は?」
「ドランは責任者。ミネットは屋根。ボルガ、カイル、レイル、バドルは必要なところへ」
ドランが腕を組む。
「任された」
「波板まで入るなら、最初の一枚を合わせたところで一度呼んでくれ」
「分かった」
「勝手に全部貼るなよ」
「信用が薄いのう」
「ミネットが張り切りすぎる可能性もある」
「否定できん」
「聞こえてるにゃ!」
「ユキは?」
本人が聞く。
「厩舎監督続行」
「うん」
「こびゃっこは?」
「午後は祠側の撮影じゃ!」
「台帳書いといてな」
「切り替え記入済みじゃ!」
「ならいい」
「これで主任――」
「それを言わなきゃ、考える」
「むぐ」
口を前足で押さえた。
◇
倉庫の作業場へ、俺、グレゴール、エリオットが入る。作業台には午前中に切った部材、図面と工具。グレゴールが材料を一本ずつ見る。
「なるほど」
「どう?」
「悪くない。ただ、この柱はこっちへ回そう」
「理由は?」
「木目」
指差されて見る。
「見た目?」
「それもある。祠の正面に来るなら、こちらの方が素直だ」
「分かった」
エリオットも内部材を見る。
「内側は、この木目を揃えたい」
「そこまで見る?」
「小さい建物ほど目につく」
「内装職人だな」
「そのために呼んだんだろ?」
「まあ、その通り」
俺は笑った。グレゴールが腰道具から支給されたインパクトドライバーを取り出す。
「で」
「何だ」
「いよいよ仕事で使えるな」
「昨日から楽しみにしすぎだろ」
「大工だぞ。新しい道具を使いたいに決まってる」
「手回しドライバーもあるぞ」
「今さら戻す気か?」
「ない」
「ならいい」
「ただし仮組みだから締めすぎるなよ」
「分かってる」
「トルク強いから」
「分かってる」
「材料割るなよ」
「ヒカル」
「何だ」
「少し黙って、任せろ」
「はい」
完全に親方へ怒られた。こびゃっこが三脚横で小声で言う。
「ヒカル、子離れならぬ職人離れの時じゃ」
「誰が子供だ」
「過保護親方」
「黙れ、撮影見習い」
「ぐぬぬ」
グレゴールがインパクトを当てる。ギュイン。短く止める。
「……やっぱりいいな、これ」
「ほらな」
「速い」
「だろ」
「でも止める感覚は必要だな」
「そう。押しっぱなしだとネジ頭飛ばすし、木も痛める」
「道具が速い分、手が雑だと速く失敗する」
「それ」
エリオットが笑う。
「ヒカルがいつも言ってるやつだな」
「機械は人を不要にしない」
「速く失敗できるだけだ」
「そこまで言ってないぞ」
「だいたい同じだ」
三人で最初の枠材を組む。仮締めに対角測定。直角確認と修正。そして再固定。
「よし」
グレゴールが枠を叩く。
「始まったな」
「ああ」
まだ祠には見えない。ただの四角い木枠。それでも、昨日まで図面の中にしかなかった《始マリノ祠》が、初めて現実の形になった瞬間だった。
こびゃっこのカメラが静かに回っている。
「ちゃんと撮れてる?」
「任せるのじゃ」
「信用回復中だからな」
「今日は大事な記録じゃ。ふざけぬ」
こびゃっこの声は、珍しく落ち着いていた。四百年以上前、しらゆきと宗一郎と、あの湖畔の人々が祈った祠。その形を、今の湖畔で作り直す。
まだ森へ置いてはいないし、まだ大木の前にも立っていない。でも、最初の一本は組まれた。
その頃。湖畔の誰も知らないレイシス皇国を出た一人の銀狐族が、馬を東へ走らせている。
シオンの居場所。神務院の動き。湖畔がすでに敵の密偵へ見つかっているという情報。そしてセイラム王から俺たちへ宛てた書簡を持って。
彼が湖畔へ着くまで、あと三日ほど。群れの外から、新たな足音が近づいていた。
続く
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【収支報告】
異世界生活82日目
日付:六の月11日
オリエント王国歴952年
開始残高:3,127,873pt
今回の購入
・なし 0pt
※《始マリノ祠》制作に使用した白木材、柱材、梁材、屋根下地材、床板、内部化粧材、固定金具、木工ネジ等は事前購入済みの在庫品を使用。
※卓上丸ノコ、集塵機、インパクトドライバー、差し金、スケール等も既購入工具のため、今回の支出には計上しない。
今回支出合計:0pt
現在残高
3,127,873pt − 0pt = 3,127,873pt
円換算目安
3,127,873pt × 100円 = 約312,787,300円相当




