第106話 白狐神も知らない銀狐の密偵
話は一カ月程前に遡る。ガランとドランが王都へ戻り、王城で長い報告を終えた日の夜。オリエント王国王城の執務室には、まだ灯りが残っていた。
銀狐王セイラムは机の上に並べられた報告書を、もう一度最初から読み直している。
白狐神ユキ。異界人サコン・ヒカル。守護神使こびゃっこ――かつて《びゃくや》と呼ばれていた存在。約420年前に消えた白狐神の里。
そして、レイシス皇国神務院へ連行された狐族少女、シオン。
「……シオン」
セイラムがその名を口にした。部屋には宰相と、軍務卿ゼビウスが残っている。ゼビウスはセイラムの実弟だ。
兄と同じ銀狐族で、銀灰色の髪。年齢は五十代前半。王よりやや大柄で、軍人らしく肩幅が広い。
「神務院が狐族の少女を確保した理由が、白狐神との繋がりならば放置できません」
「ああ」
「通常の情報網を使って、調査を命じますか?」
宰相の問いに、セイラムは少し考えた。
「いや」
「では?」
「鳥を飛ばす」
ゼビウスの眉がぴくりと動いた。
「兄上」
「何だ」
「本人へ直接、命を下すのですか?」
「そのつもりだ」
「……喜ぶでしょうな」
「そこが不安なのだ」
宰相が静かに目を閉じた。
「……あの方ですか」
「そうだ」
セイラムは机の横にある小さな銀鈴を鳴らした。しばらくして、扉が三度叩かれる。
「入れ」
「失礼いたします」
入ってきたのは、一見すると人族の青年だった。二十代後半。肩にかかるほどの銀髪を後ろで束ねている。耳は人族のもの。尾もない。
濃紺の上着に灰色のズボン。腰には細身の剣。見た目だけなら、王都で少し裕福な商人か、若い貴族にしか見えない。
青年は王の前で軽く頭を下げた。
「お呼びでしょうか、陛下」
「久しいな、バード」
「三日前にも会いましたが」
「密偵としては久しい」
「なるほど」
青年は笑った。
「今夜は商談でしょうか。それとも、面倒事でしょうか」
「後者だ」
「帰ってよろしいですか?」
「駄目だ」
「一応聞いてみただけです」
ゼビウスが額を押さえる。
「ロイド」
青年の顔から一瞬だけ笑みが消えた。
「父上。ここでその名前を出すんですか」
「この部屋には我々しかいない」
「気分の問題です」
彼の本当の名前は、ロイド・ゼビウス。オリエント王国軍務卿ゼビウス公爵の息子。そしてセイラム王の甥に当たる。
人族に見える今の姿は変幻魔法によるものだ。本来は銀狐族で、銀色の狐耳と尾を持つ。
さらに、セイラム王には子がいない。血統上、ロイドは王位継承候補の一人でもある。だが本人は、その立場へ恐ろしいほど興味がなかった。
「王位の話なら帰ります」
「まだ何も言っていない」
「陛下と父上と宰相が同時にいる時は、だいたい面倒です」
「今回は王位ではない」
「では商売?」
「密偵だ」
ロイドの表情が少しだけ明るくなった。
「それなら聞きます」
「お前、本当に順番がおかしいな」
父親であるゼビウスがため息をつく。
「一に商売。二に密偵。王族としての務めは?」
「四番目くらいです」
「三番目は何だ」
「美味いものを食べる…ですかね」
「兄上……」
「私を見るな」
セイラム王も頭が痛そうだった。
◇
ロイドには三つの顔がある。一つは、王直属の密偵。二つ目は、人族の商人。そして三つ目が、本来の銀狐族ロイド・ゼビウス。
密偵としてレイシス皇国へ入る時、多くの場合は商人バーモントを名乗る。王都に正式な店舗と倉庫を持つ《バーモント商会》の会頭だ。
扱う主力商品は香辛料。胡椒に似た乾燥実。香草。辛味のある種。薬用にも使われる樹皮。乾燥果実。塩漬けの保存食。南方から入る珍しい調味料まで扱う。
しかも商会そのものは偽物ではない。ちゃんと仕入れ、ちゃんと売り、ちゃんと利益を出している。従業員もいて帳簿もあり、税も払っている。また、レイシス皇国の商人たちとの取引実績も長い。
潜入用の身分を作った結果、本業になりかけている珍しい密偵だった。
「それで、何を探れば?」
ロイドが椅子へ腰を掛けると、セイラムは机の上の報告書を差し出した。
「神務院に囚われている狐族の少女、シオン」
ロイドの表情が変わった。
「神務院……ですか」
「そうだ」
「詳しくお聞かせください」
ガランから受けた報告を、セイラムが説明する。シオンは神務院へ連行された。守護神使が実体を得る以前、夢の中で接触していた可能性がある。白狐神との縁を持つ少女かもしれない。そして現在、神務院が白狐神を探している。
「なるほど」
ロイドが報告書をめくる。
「少なくとも現段階では、シオン本人そのものより、白狐神へ繋がる糸として確保している可能性が高い……という事ですね」
「私もそう考えている」
「処分される可能性は?」
「分からぬ」
「なら、急いだ方がいいです」
ロイドは即答した。
「殺される可能性より、研究対象へ回される方が厄介です」
ゼビウスが頷く。
「同感だ」
「場所が分かれば救出しますか?」
「待て」
セイラムが止めた。
「今回のお前の任務は、まず情報収集だ」
「救出は?」
「状況次第だ」
「歯切れが悪いですね」
「敵国領内だぞ」
「分かっています」
「お前一人で神務院へ殴り込むな」
「私はそんなことしません」
ゼビウスが即座に言った。
「お前ならやりかねん」
「父上、息子を信用してくださいよ」
「幼い頃、王城厨房へ忍び込むために三日かけて使用人の勤務交代表を調べた男を信用できるか」
「焼き菓子が食べたかったんです」
「密偵の才能の開眼が菓子とはな」
セイラムが遠い目をした。
「成功しましたけどね」
「自慢するな」
◇
セイラムがもう一枚、書面を机へ置いた。
「今回、お前にはもう一つ任務がある」
「何でしょう」
「レイシスでの調査が終わったあと、湖畔へ向かえ」
「白狐神ユキ様の?」
「そうだ」
ロイドの目が光った。
「行っていいんですか?」
「仕事だ」
「分かっています」
「今、楽しそうな顔をしたな」
「商人として興味があるだけです」
「密偵任務だぞ」
「両立できます」
セイラムは嫌な予感を覚えながら続けた。
「湖畔へ入る時は、まず王国の商人としてガラン大使へ接触しろ」
「バーモント商会会頭として?」
「そうだ。王室御用達の商会として、紹介されたと言うんだ」
「その後は?」
「ガランへ、お前の正体を明かせ」
ロイドの表情が止まった。
「……本当に?」
「ああ」
「密偵の正体を?」
「ガランだけではない」
セイラムは指を折る。
「守護者サコン・ヒカル殿。白狐神ユキ様。そして守護神使様にも明かせ」
「かなりの人数ですね」
「必要だ」
「理由は?」
「初代王の記録にもある」
宰相が古い写本を開いた。
「白狐神は、人の感情や敵意を匂いとして感じ取ることがある、とあります」
「匂い?」
「虚偽や悪意そのものを嗅ぎ分けるというより、感情の変化を感じ取るらしい」
「つまり」
ロイドが苦笑する。
「変幻したまま『普通の商人です』と近づけば、初対面で怪しまれる可能性がある?」
「高い」
セイラムが頷いた。
「そして守護神使様は千年以上生きておられる」
「そちらも誤魔化せない?」
「少なくとも王族を隠して近づく理由はない」
「確かに」
「だから先に明かせ」
「陛下の甥であることまで?」
「全部だ」
ロイドが椅子の背へ身体を預けた。
「密偵としては、とても嫌な命令ですね」
「王族として受けろ」
「もっと嫌になりました」
「お前な」
ゼビウスが低い声を出す。
「冗談です」
「半分は本気だろう」
「三割です」
◇
「湖畔到着後は、ガラン大使付きの情報担当として働け」
セイラムが続ける。
「常駐ですか?」
「当面な」
「商会は?」
「部下へ任せろ」
「私がいないと新しい仕入れ先の判断が」
「密偵任務と商売、どちらが本業なのだ」
「両方です」
「即答するな」
「それと」
セイラムが少し声を落とした。
「私とガラン大使との連絡員も兼務してもらう」
ロイドが真顔になる。
「なるほど」
「湖畔側も急速に人が増えている。特使、近衛、職人。今後は商人も必要になる」
「そこへ私ですか」
「情報と商流の両方を見られる者がいた方がよい」
「つまり、かなり長期案件?」
「そう思え」
「面白そうですね」
「やはり楽しんでいるだろう」
「密偵は適性が大事です」
ゼビウスがため息をついた。
「こいつだけは捕まっても『ここで店を出せそうだ』とか考えるぞ」
「父上、それは誤解です」
「違うのか」
「牢の立地も確認した上で判断します」
「もっと酷い」
◇
「ところで」
ロイドが報告書をもう一度見る。
「サコン・ヒカルという異界人」
「気になるか」
「かなり」
「何を聞いた」
「王都で噂になっていますよ」
「どの程度だ」
「魔力を使わず走る二輪車。腕に巻いて使う小型時計や酒、加工肉、チョコレート、建築資材とか……」
「情報が早いな」
「商人ですから」
「そこへ密偵能力を使ってないだろうな」
「市場調査です」
「怪しいな」
「それと、白い米」
セイラム王の耳がぴくりと動いた。
「米か」
「陛下」
宰相が苦笑する。
「耳が前へ向いております」
「今は関係ない」
ロイドがそれを見逃さなかった。
「文献にある稲荷寿司もあるとか」
「……あるらしい」
「食べました?」
「まだだ」
「それは残念ですね」
「煽るな」
ロイドは笑う。
「どうせなら、商人としても取引したいのですが」
「ヒカル殿と?」
「はい」
「私は構わぬぞ」
「密偵任務中ですよ。本当に良いんですか?」
「だからといって、商売を禁止する理由もない」
セイラムは少し考える。
「むしろヒカル殿は、湖畔の拠点に利益があるなら歓迎するだろう」
「それは商売になりますね」
「目が完全に会頭になったぞ」
「大事な話です」
「密偵の顔へ戻れ」
「はい」
返事だけは素直だった。
◇
セイラムは封蝋された書簡を取り出した。
「これを預ける」
ロイドが書簡を二通受け取る。封には王家の印章。
「宛先は?」
「一通はガラン大使宛の紹介状、もう一通は白狐神ユキ様、および守護者サコン・ヒカル殿宛だ」
「もう一通の内容は?」
「お前が読む必要はない」
「分かっています」
「ガラン大使付きになることも記してある」
「つまり身分証明も兼ねる?」
「ああ」
「私が偽物ではないと」
「それでも疑われたら、ガランへ確認させろ」
「変幻を解けば?」
「それでもよい」
「銀狐族の姿を見せると目立ちますよ」
「湖畔内なら構わぬ」
ロイドは書簡を収納魔法へ入れた。彼の収納魔法は荷馬車一台分程度。ヒカルの異空間収納と比べれば小さいが、この世界の旅商人としては十分に反則級だ。
「では準備します」
「何日で出る」
「商会の荷を整えれば二日」
「レイシスでは?」
「いつもの店を使います」
「ククレ……と言ったか」
「はい」
ロイドが少し笑う。
「信用できます」
「我が国への協力者である以前に、お前の商売相手だったな」
「私より値切りが上手い男です」
「それで信用するのか」
「商人としては重要です」
◇
二日後。ロイドは、人族の商人バーモントとして、香辛料を積んだ荷馬車とともに王都を出た。
表向きはいつもの交易だ。従業員二名と御者一名。荷には香辛料、乾燥果実、薬草、染料。
だが貴重品の一部は、ロイド自身の収納魔法へ入れてある。国境を越える際も、大きな問題はなかった。バーモント商会はレイシス側にも取引記録がある。
検査官が帳簿を確認する。
「また香辛料か」
「また、とは酷いですね」
「お前の荷は匂いが強い」
「商人として最高の褒め言葉です」
「胡椒に似たやつはあるか?」
「ありますよ。ただし今回は少し値上がりしました」
「なぜだ」
「南方の街道で雨が続いて、入荷出来ないんです」
「本当か?」
「商売の話は嘘をつきません」
「他は?」
「場合によります」
検査官が笑った。
「相変わらずだな、バーモント」
そのまま通された。密偵として完璧な潜入とは、誰にも怪しまれないことではない。昔からそこにいる人間として扱われることだ。
◇
数週間後。レイシス皇国西部の交易都市。表通りから一本入った場所に、《ククレ商店》はあった。
看板には香辛料、乾燥肉、薬草、酒。店内には鼻を刺激する香りが混ざっている。
「今回の納品分、やっぱり高くないか?」
店主ククレが袋を開けながら言った。四十代の人族男性。頭髪はかなり後退しているが、商売に関しては抜け目がない。
「今更ですか」
バーモント姿のロイドが笑う。彼は一週間前に到着していた。
「どう計算しても、前回より八分高い」
「七分です」
「運賃込みなら八分だ」
「計算が細かいですね」
「だから店が潰れん」
「では七分五厘」
「六分だ」
店の奥で、若い店員が笑いを堪えている。こういう会話も演技ではない。半分は本気の商談だ。商品の確認を終えると、ククレは店員へ言った。
「裏の在庫を数えてこい」
「はい」
店員が離れた。客もいない。ククレは店の入口を確認してから、声を落とした。
「鳥が探してる娘の件……」
ロイドの表情から商人の笑みが消える。
「もう分かったの?」
「元々、神務院の動きは探っていただろ。お前さんの話の内容からすると、たぶんな」
「場所は」
「ちょっと待て」
ククレが香辛料袋を棚へ戻す。
「最近、神務院の動きが妙だ」
「どう妙?」
「奴隷の買い上げが増えた」
「正式な?」
「表向きはな」
「裏も?」
「ああ」
ククレの声がさらに低くなる。
「死の森側で、人が消えている」
「奴隷狩り?」
「たぶん」
「証拠は?」
「ない」
「噂だけ?」
「商人の噂を軽く見るな」
「見てないよ」
ククレが続ける。
「獣人、エルフ、それに借金奴隷。最近は身元の確認が甘い連中まで拾われている」
「神務院にか?嫌な流れだな」
「だろ」
「魔力源としてか?」
「そこまでは分からん」
ロイドは頭の中で情報を組み立てる。神務院、白狐神、隷属術式に魔力源としての奴隷。そしてシオン。
「娘の話へ戻ろう」
「ああ」
ククレが店奥の古い地図を広げる。
「奴隷管理局の収容施設がある」
「知ってる」
「普通の奴隷区画とは別に、神務院専用区画が増設されている」
「いつ?」
「昔から一部はあったが、最近、警備が増えた」
「狐族の少女は?」
「直接見た者がいる」
ロイドが顔を上げる。
「誰?」
「食料を納める業者」
「信用度は?」
「そこそこ」
「特徴は」
「十二歳前後。狐族。女。首に細い銀環」
ロイドの目が細くなった。
「奴隷首輪じゃない?」
「違うそうだ」
「神務院の管理具か」
「可能性はある」
「部屋は?」
「専用区画の奥」
「入口は何か所?」
「正面は一つ。ただし搬入口が裏にある」
「地下?」
「一部が地下」
「見取り図は?」
「ある」
ロイドがククレを見る。
「何であるの」
「商人をなめるな」
「どうやって?」
「改修した石工が酒好きだった」
「最高だね」
「酒代は高かった」
「経費にする?」
「八割でいいぞ」
「五割」
「おい、七割くらいだせ」
「今それやる?」
「商売はいつでも商売だ」
「……六割」
「まあいいだろ。成立」
ロイドは思わず笑った。
「あなた、本当に協力者?」
「商売相手だ」
「王国への協力は?」
「それは別勘定、いや……別の感情だ」
「好きだよ、そういうところ」
「気持ち悪いこと言うな」
◇
その夜。ククレ商店二階の隠し部屋で、ロイドは収容施設の見取り図を広げた。通常区画、管理棟、倉庫、搬入口、神務院専用区画、地下通路が記されている。
「ここか」
専用区画は建物北側で、警備が集中している。正面から商人として入る方法もある。だが、シオン本人を確認するには難しい。
ロイドは立ち上がった。
「行くのか」
ククレが聞く。
「見るだけ」
「密偵の『見るだけ』は信用してない」
「私も商人の『原価ギリギリ』は信用してない」
「お互い様だな」
「夜明けまでには戻る」
「戻らなかったら?」
「バーモント商会の帳簿を王都へ送って」
「お前、本当に商売の方を心配してるな」
「大事だからね」
◇
真夜中。収容施設から数百メートル離れた路地。銀髪の人族商人バーモントは、もういなかった。代わりに、黒髪の人族女性が壁際に立っている。
二十代後半ほど。背格好はロイドとほぼ同じだが、顔立ちも声も違う。
変幻魔法。ロイドは小型動物へ変わることはできないし、巨体にもなれない。だが、同じ程度の体格なら男女どちらにも姿を変えられる。もちろん狐耳と尾も消せる。
「さて」
女の声で呟く。腰の小刀を確認する。収納には短剣、縄、薬、簡単な工具、偽造通行札。
殺しに来たわけではない。必要なのは確認だ。シオンが本当にいるのかどの程度の警備か。どんな術式が使われているか。救出するなら、どこから出せるか。
「一に商売」
ロイドは塀を見上げた。
「二に密偵」
足場のわずかな凹凸へ指を掛ける。
「三に美味いもの」
身体を引き上げる。
「四は王族」
塀の上へ音もなく上がった。
「優先順位、やっぱりこれでいいな」
ロイドが呟く。警備兵の巡回が遠ざかる。そのまま気配を落とし、屋根の影へ滑り込んだ。ここから先は商人ではない。王直属密偵の仕事だ。
◇
北側の神務院専用区画へ近づくほど、警備が濃くなった。
通常の兵だけではない。神官兵。魔力感知用の術式。廊下の角には小さな魔石灯。
面倒だと思いつつ、術式の間隔を見る。完全な探知網ではない。一定周期で魔力を走査する方式。ロイドは、自身の魔力循環を極端に落とした。
変幻を維持する最低限だけ残し、次の走査までの間に廊下を移動する。
一度止まる。警備兵が横を通過した。また動く。収納魔法があるおかげで、装備を身体の外へぶら下げなくていい。
荷物が擦れる音すらない。そのまま階段を下ると地下には鉄扉があった。おそらくその先に、専用区画がある。ククレから入手した情報どおりだった。
ロイドは物陰に伏せ、巡回を数える。二人が通り過ぎて、三十秒ほど空く。その次までが長いのを確認。
「……行ける」
巡回が角を曲がった。ロイドは動いた。そして、鉄扉横の施錠具へ細い工具を差し込む。魔法鍵ではない。機械式の補助錠だ。
「これは助かる」
数秒。小さく音がして扉が開く。すぐ中へ入り、扉を閉める。
呼吸を止め、辺りを見ると、廊下の先に個室が並んでいる。
どこだ。一つずつ覗く余裕はない。ロイドは魔力感知を広げる。成人、成人、神官。そして――。
「……子供」
一番奥に小さい魔力反応。ただし、その周囲に妙な波がある。何かの拘束具か。ロイドは壁沿いに進み、扉の小窓へ近づいた。中を見ると薄暗い室内に寝台と毛布がある。そこには、小さな狐族の少女がいた。十二歳前後。髪は乱れ、身体を丸くして眠っている。
狐耳。そして首には――細い銀色の環。ロイドの目が細くなる。
「……見つけた」
シオン。ガラン大使が王へ報告した少女。白狐神へ繋がる可能性のある子。少なくとも、生きている。だが……。
ロイドは扉の向こうを見たまま動かなかった。少女の頬には、乾いた涙の跡が残っていた。そして銀環からは、ごく弱いが複雑な魔力が流れている。ただの拘束具ではない。
「これは……」
その時。廊下の向こうから足音がした。ロイドは即座に影へ身体を引いた。三人のうち一人は神官兵、もう一人も同じ。そして中央にいる者だけ、魔力の質が違う。
ロイドは息を殺す。
「例の少女は?」
「眠っています」
「明日、再度聞き取りを行う」
「赤眼を使いますか?」
「必要ならな」
ロイドの眉がわずかに動いた。赤眼? 聞き覚えがない。
「湖畔の調査隊については?」
「奴隷供給が揃い次第、術式試験へ移るそうです」
「足りていないのか」
「適正魔力を持った人間が、まだ足りないようです」
足音が近づいてくる。ロイドは廊下の柱の影で、静かに拳を握った。シオンの場所は分かった。だが、それだけではなかった。
湖畔への調査隊。そして魔力源としての奴隷供給に術式試験。全部、一本の線へ繋がり始めている。
今ここでシオンを連れ出すことも、不可能とは限らない。だが、情報が足りない。相手の人数に銀環の術式。外部警備や追跡手段。湖畔へ向けて何を準備しているのか。
何より、ここで無理をして失敗すれば、シオンの警備はさらに強くなる。ロイドは目を閉じ、息を一度だけ整えた。
商売でも密偵でも同じだ。欲しいものを見つけたからといって、準備なしに手を出せば損をする。
まして今回は、損失が人の命だ。なるべく急ぐが、焦らない。まず情報を持ち帰る。
そして――白狐神の湖畔へ届ける。王から預かった書簡とともに。
王直属密偵。商人。銀狐族ロイド・ゼビウス。三つの名を持つ男は、暗い地下で静かにシオンの部屋を見つめた。
彼の次の目的地は、すでに決まっていた。白狐神ユキと、守護者サコン・ヒカルが暮らす湖畔。
だがその前に。この神務院が何をしようとしているのか。もう少しだけ、探らなければならない。
続く




