第104話 白狐神、シオンの悲しみを知る
ある日、湖畔から南へ延びる森の中で、一人の女が太い木の幹へ身体を寄せていた。
年齢は二十代半ばほど。人族。灰色がかった焦げ茶の髪を後ろで短く束ね、目立たない濃緑色の外套をまとっている。左目には、黒革の眼帯。右目だけが、森の向こうを鋭く見ていた。
女の名は、オルガ。レイシス皇国神務院に属する密偵だった。手にしているのは、長さ30センチほどの筒状の魔道具。遠魔鏡。
普通の望遠鏡に似ているが、内部に薄い魔晶板が何枚も組み込まれ、遠距離の像を拡大するだけでなく、魔力反応を淡い色として重ねて見ることができる。
オルガは片膝をつき、ゆっくりと呼吸した。
「……遠い」
湖畔は見えているが、近づけない。正確には、これ以上近づくことを身体が拒んでいる。
森を抜けた先には、南から湖畔へ向かう草地が続いていた。そこから先へ一歩踏み出そうとすると、皮膚の上を細い針が走るような感覚がある。
さらに進もうとすれば、胸の奥が締めつけられた。何者かの攻撃とは違うが、明らかに誰かが警告する様にオルガを拒絶している。
「結界……」
オルガは呟く。彼女は魔力感知に優れ、自分自身の気配と魔力を極端に薄くする隠形術も、神務院では上位に入る。
実際、通常の魔術師なら近くを通っても、そこに人間が伏せているとは気づかない。
だが、それでも通れない。
結界は彼女を見つけている。
「何かに反応している……?」
試しに隠形術をさらに深め、呼吸を落とす。魔力循環を最小限へ抑え、森の魔素へ自分の気配を溶かす。
一歩、進む。さらに一歩。その瞬間――パチッ!指先へ弱い電撃のような感覚が走った。
「っ……!」
オルガは即座に後退した。痛みは少しだが意味は明確だった。
<ここから先へ入るな>
彼女は距離を測る。南側から湖畔へ続く道らしき場所まで、およそ百メートル。そこが限界だった。
「……神務院の探知結界より厄介ね」
普通の結界なら、魔力を隠せば抜けられるが、これは違う。魔力そのものではなく、何か別のものを見ている。
オルガは無理をしなかった。密偵の仕事は、侵入することが第一ではない。情報を持ち帰ることだ。
木陰へ戻り、遠魔鏡を覗くとその先で――。
「……何?」
グオオオオオ。
低い音が響き、黄色い巨大な何かが動いている。馬ではない。魔物でもない。
幅の広い金属の板を前に付け、二本の鉄の帯のようなものを回しながら、土を押している。
その近くには、さらに別の機械。丸い巨大な鉄の車輪を持つもの。少し離れた場所には、腕のようなものを伸ばして土を掘る小型の機械もあった。
「……魔導兵器?」
オルガの右目が細くなる。だが、魔力反応がない。
「違う……」
魔法陣もない。それなのに動いている。遠魔鏡を調整して覗くと、黄色い大型機械の上には、人族らしき男が乗っていた。
見たことのない形の青色系の服。白い兜から見えるのは黒髪で、この大陸の人族とは異なる顔立ち。見覚えはないが、報告書にあった特徴と一致する。
「異界人……サコン・ヒカル?」
オリエント王国使節団とともに国境砦へ来た男。そして、奴隷管理局の移送対象だった子供三名が消えた夜、同時に姿を消した人物。
さらに視線をずらす。
「……畑?」
緑の作物が並んでいる。その周囲には、見たことのない柵があった。細い金属管を組み、緑色の網を張っている。
入口には門。畑の脇には、四角い箱のような建物。石造りでも木造でもなく、表面が異様に均一だ。
「何なの、あれ……」
小屋なのか、倉庫なのか。だが窓も扉も、寸法が不自然なほど整っている。そしてその近く。
「……子供?」
赤い髪の小柄な子供。頭には黄色い兜のようなもの。ドワーフの少女だ。
オルガは遠魔鏡を下ろす。砦から消えた奴隷の記録が頭をよぎる。
ドワーフ少女。年齢七歳前後。赤毛。名前が確かニナ……?
さらに畑の場所には、猫族らしい子供が二人。姉弟。名前はミーシャとトト……。
偶然にしては多すぎる。エルフの男女も見えた。一人は若い男でもう一人は女性。女は不明だが、男の方は使節団に保護されていた人物か?
砦から姿を消した者たちなのか?
それどころか――。
「ここで、働かされている……?」
最初はそう考えたが、すぐに違和感を覚えた。子供たちは鎖で繋がれていない。首輪もない。兵に監視されてもいない。
猫族の少年は地面に座り、何かを描いている。少女は畑から何かを運んでいて、赤毛のドワーフ少女は男の横で道具を触っている。三人とも表情から、強制的に働かされている様には見えない。
「……奴隷ではない?」
その時だった。遠魔鏡の視界を、白いものが横切った。
「!」
オルガは素早く追う。白い毛玉の様なもので、大きさは大人の手ほどしかない。それが、空中をふわふわ飛んでいる。
「……何?」
鳥……? いや、羽がない。小さな白狐の形――いや、布玩具のようにも見える。それが大型機械の周囲を飛んでいる。
「神獣……?」
さらに、別の子供が見えた。小さな身体に白い兜のようなものを被っている。遠すぎてよく見えないが、髪は白い。そして大きな白い尾が見えた。
その子供は、柵の外側から工事を眺めている。時折、手に持った何かを口元へ近づける。すると離れた場所にいる男が反応する。
「通信魔道具……?」
それにも明確な魔力反応がない。理解できない物ばかりだった。だが、一つだけ、オルガにも理解できる可能性があった。
「白い髪に大きな白い尾の子供……」
神務院が四百年以上探し続けている存在、白狐神。伝承では白髪に白狐の耳と尾。幼い姿で生まれると言う。
「まさか……」
確信はない。遠見鏡では耳は確認できないが、大きな白い尾は見えた。そして空を飛ぶ小さな白狐の様な存在。侵入者を拒む強力な結界に砦から逃げた者たちと異界人。偶然では済ませられない。
◇
オルガは、そのまま日没まで森に潜んだ。大型の機械は夕方になると止まった。作業していた者たちが何かを点検し、泥を落とし、道具を片づける。
「……撤収が統率されている」
軍隊とは違う。どちらと言うと職人の現場に近い。
やがて人々が湖畔方向へ戻っていくが、オルガは追うことが出来ない。結界を越えられないからだ。
日が沈み、森が暗くなる。そして――。
「……灯り?」
一つ。二つ。三つ。湖畔の方角に、点々と光が灯り始めた。魔石灯よりも白く、安定した光だ。畑の近くや道沿い。さらに奥。木々に遮られて全体は見えないが、かつて無人だったはずの湖畔に、人が暮らしていることだけは分かる。
オルガは遠魔鏡を下ろした。白狐神と断定はできないが、何もないとは言えない。翌朝、彼女はレイシス皇国へ向かった。神務院へ報告するために。
◇
それから、数週間後。ここは、レイシス皇国の奴隷管理局収容施設――神務院専用区画。
窓のない部屋で、狐族の少女が寝台に座っていた。彼女の名前はシオン。今年十二歳になる。首には、奴隷首輪とは形の違う細い銀色の環。
神務院は「保護具」と呼ぶ。
シオンは一度も、その名前を信じたことがない。そんな彼女は、眠ることが唯一の救いだった。
夢の中なら、びゃっこが来てくれたから。大きな白い狐で、触れると暖かい毛。怖い時には隣へ座ってくれた。どんなに孤独な夜でも、
『ここにおるぞ』
そう言っている様に感じさせてくれた。だが、一か月ほど前から――びゃっこは夢へ来なくなった。
最初、シオンは怖かった。見捨てられたのかと思った。また、死んだのかとも思った。でも、代わりに別の夢を見るようになった。
◇
白い狐耳に白い髪の小さな女の子。大きな白い尻尾。そして側には、優しく女の子を見守る男。周りを小さな白い毛玉がふわふわ浮いている。
湖のそばの明るい食卓。笑い声が聞こえる。見たことのない料理。赤い髪のドワーフの少女が工具を握っている。そして猫族の姉弟が、手を繋ぎ畑を歩いている。
エルフの女性が、笑顔で洗濯物を干している。白い女の子が男の腕へ抱きついて眠っている。
夢はいつも断片的だった。話している言葉も、全部は聞こえない。自分がそこへいるわけでもない。遠くから覗いているような夢。
それでも。目覚めると胸が少し温かかった。
「……ユキ」
いつからか、その名前だけは分かるようになった白い女の子。そして小さな白い毛玉は――。
「びゃっこ」
姿は違う、でも分かる。あれは、びゃっこだ。夢の中じゃない、本当にいる。誰かと一緒にいる。
私もひとりじゃない。それだけで、シオンは耐えられた。
◇
一方。湖畔で実体を得たこびゃっこも、異変は感じていた。覚醒前のように、自分からシオンの夢へ入ることはできない。シオンの意識を通して周囲を感じることも。声を聞くことも。
今どこにいるかを知ることもできない。だが時折、ユキとヒカルと共に眠った夜。どこか遠くから、自分たちを見ている気配を感じた。
弱く細いが、間違いなくあの子だ。シオン。そうではないかと、こびゃっこは思っていた。
◇
その日の午後、神務院専用区画の扉が開いた。司祭が一人、その後ろに司祭補佐。シオンは身体を硬くした。
「シオン」
返事をしない。
「また夢を見たか」
「……」
「白狐は現れたか」
「……びゃっこは、もう来ません」
「いつからだ」
「分かりません」
「嘘をつくな」
「本当です」
司祭補佐が机を叩いた。
「白狐神はどこにいる!」
「知りません」
「お前は繋がっていた!」
「もう、びゃっこの夢は見てません!」
それだけは本当だ。
「では、今は何の夢を見る」
シオンの耳が動いた。しまったと思った。司祭はそれを見逃さなかった。
「何か見ているな」
「……見てません」
「誰だ」
「知らない」
「白い狐か」
「違う」
「白い髪の子供か?」
シオンの肩が小さく震えた。司祭補佐が笑う。
「やはりな」
「……」
「もういい」
司祭が扉へ声をかけた。
「オルガ」
足音が響く。部屋へ若い女が入ってきた。灰色がかった焦げ茶の髪に、黒い服。そして左目の黒革の眼帯。
シオンは初めて見る女だった。
「この子の前で、改めて報告してくれるか?」
司祭が尋ねる。
「はい」
オルガは淡々と答えた。
「湖畔南側に新しい集落らしきものを確認。侵入は不可能。結界があります。砦から逃亡した者と思われる複数名を確認」
シオンの心臓が大きく鳴った。
「白髪で白い尾の幼女一名。空中浮遊する小型の白狐らしき存在も確認しました」
「白狐神の可能性は?」
「高いと思われます。ただし狐耳は確認できませんでした」
「異界人らしき男は?」
「特徴の一致する人族男性を確認」
「設備は」
オルガがわずかに眉を寄せた。
「未知のものが多数。魔力を使わず動く大型機械。箱型の建物。金属管と網による柵。通信手段と思われる小型器具」
司祭補佐が低く言った。
「やはり、砦に来たあの男か」
シオンは下を向いた。聞いてはいけない。反応してはいけない。
「神務院は湖畔調査隊の編成を進めている」
司祭は続けた。
「必要な人員と魔力源も集める」
シオンの指が震えた。魔力源。その言葉が何を意味するか、知っている。
奴隷だ。最近、収容施設へ運び込まれる人間が増えている。
そして噂も聞いた。死の森周辺で行われる、非公式な奴隷狩り。村から離れたエルフ、獣人や行商人に逃亡奴隷。身元を確認されない者を捕らえ、記録へ載せず神務院へ回す。
「知らない……」
シオンが呟いた。
「何も知らない」
「そうか」
司祭がオルガを見る。
「ならば確認してもらおう」
オルガは無言で、左目の眼帯へ手を掛けた。
「やめて」
シオンが初めて強く反応した。理由は分からないが、身体が危険だと叫んでいる。
革紐が外れ眼帯が取れた。その下にあった左目は――赤かった。
充血ではない。瞳そのものが、鮮やかな赤。魔力がゆっくりと渦を巻いている様だった。
「こちらを見なさい」
「いや」
「シオン」
「いや!」
顔を背けるが、司祭補佐が肩を押さえた。
「離して!」
「オルガ、やれ!」
赤い瞳が光る。
「シオン」
声が耳ではなく、頭の中へ落ちた。
「こちらを見なさい」
「……いや」
「見るの」
シオンの視線が動いてしまい、赤い目と合う。すると頭の奥が熱くなった。
「っ……!」
何かが押し入ってくる。考えを読む魔法ではない。もっと単純で、もっと卑怯だ。質問されたことへ、答えたくなる。隠そうとすると胸が苦しくなり、舌が自分のものではなくなる。
「白い髪の子供を見た?」
「……」
言うな。
「見た?」
「……み、た」
涙が滲む。
「名前は?」
「……ユキ」
「白狐神?」
「……わから、ない」
これは本当だった。夢の中では、そんな言葉をはっきり聞いていない。
「白狐は?」
「……びゃっこ」
「同じ白狐か?」
「……うん」
「湖畔にいる?」
「……いる」
シオンは歯を食いしばった。
「やめ……て……」
「人は何人いる?」
「わからない……いっぱい……」
「砦から逃げた子供は?」
「……いる」
「ドワーフの少女」
「ニナ……」
「猫族の姉弟」
「ミーシャ……トト……」
涙が頬を落ちる。言いたくない、あの暖かい場所を、自分を支えてくれた夢を。この人たちへ渡したくない。
「異界人は?」
「……おっちゃん」
オルガの眉が動いた。
「名前は」
「ヒカル……」
「何をしている?」
断片が浮かぶ。ユキの隣、食事風景、工事現場、道を作る大きな機械。そして子供たち。
「……みんなと、暮らしてる」
「兵士か?」
「ちがう……」
「白狐神を支配している?」
「ちがう!」
そこだけは、はっきり声が出た。
「じゃあ何だ」
「おっちゃんは……おっちゃん……」
司祭補佐が苛立つ。
「意味が分からん」
だがシオンには、それ以上の言葉がなかった。ユキがそう呼んでいる。だから、おっちゃん。
「湖畔には何がある?」
「おうち……」
「他には」
「はたけ……みち……はし……」
「武器は?」
「知らない……」
「結界は?」
「分からない……」
「白狐神の力は?」
「知らない……!」
赤い目の魔力がさらに強くなる。
「夢で見たものを全部話しなさい」
「いや……!」
「話すの」
「いや!」
「話しなさい」
「やめて!」
泣きながら、シオンはそれでもいくつかを口にしてしまった。
光る灯り。白い建物。畑。大きな機械。笑って食事をする人々。白い女の子。小さなびゃっこ。
シオンが知っているのは、それだけだった。軍事情報でも、地図でもない。
ただ――。自分が行きたかった場所。シオンは、それを奪われた気がした。
◇
夜。シオンは毛布へ潜り込んでいた。食事にはほとんど手をつけられなかった。
「ごめんなさい……」
誰に謝っているのか、自分でも分からない。
「ユキ……」
会ったこともない、白い女の子。
「びゃっこ……」
夢でしか会っていない、白狐。
「ごめんなさい……」
守れなかった、話してしまった。神務院が湖畔へ行き、あの場所を壊すかもしれない。
シオンは毛布の中で声を殺して泣いた。そして、疲れ切ったまま眠りに落ちた。
◇
同じ頃。遠く離れた湖畔。
その夜、俺は眠っていた。右腕には、いつものようにユキ。布団の中では、腹から左脚へ、大きな白い尻尾。籐カゴでは、こびゃっこも眠っている。
そして俺は夢を見た。夢の中では、何かが泣いているような気がした。
姿は見えない。暗く冷たく、ただ悲しみと恐怖、そしてごめんなさいと謝罪する……そんな感情だけが、細い糸の向こうから流れてきた様だ。
「……いや」
ユキが寝言を漏らす。
「やめて……」
頬に涙が流れた。
「シオン……」
こびゃっこの耳が跳ねた。
「シオン!」
「うっ……いや……」
「ユキ?」
俺は目を覚ました。右腕に抱きついたユキが、泣いていた。
「ユキ!」
身体を起こす。
「どうした!」
「おっちゃん……」
ユキが目を開くと、涙で濡れていた。
「こわい……」
「夢か?」
「シオン……ないてた」
「シオン?」
俺はすぐにユキを抱き寄せた。
「大丈夫。俺はここにいる」
「かなしい……いっぱい」
「分かった」
背中をゆっくり撫でる。
「今はここだ」
「うん……」
その時、籐カゴからこびゃっこが浮かび上がった。いつもの寝ぼけた顔ではない。
「ヒカル」
「お前も見たのか」
「全部ではない」
こびゃっこの声が低い。
「じゃが――シオンじゃ」
「分かるのか?」
「分かる」
白い前足が小さく震えていた。
「覚醒してから、びゃっこはシオンの夢へ直接入れなくなった。向こうの状況を感じることもできぬのじゃ」
「ああ」
「じゃが、あの子が時折こちらの夢を見ておる気配は感じていた」
「今のは?」
「今までとは違う」
こびゃっこが俺を見る。
「強い悲しみと恐怖じゃ」
俺はユキを抱いたまま、黙った。
「シオンの身に、何かあったのかもしれん」
「……神務院か」
「分からぬ」
「でも可能性は高い」
「うむ」
ユキが俺の服を握った。
「おっちゃん」
「何だ」
「シオン、たすける?」
俺はすぐには答えなかった。もちろん怒りはある。今すぐ飛び出したい気持ちもあるが場所すら分からない。ましてや相手の状況も分からない。
それで動けば、助けるどころか全員を危険へ巻き込む。だから……。
「ああ」
俺はユキの頭を撫でた。
「助ける」
「うん」
「ただし、まず何が起きたか調べる」
「だんどり?」
「そうだ」
こびゃっこも頷く。
「ガランへ話すべきじゃ」
「ああ。王国側の情報も確認してもらう」
「ヒカル」
「何だ」
「神務院の最終目的は、この湖畔じゃ。そして…」
こびゃっこが、俺に抱きついているユキに視線を移した。その声には、いつものふざけた調子がなかった。
「ああ。分かってる」
窓の外。湖畔の空が、少しずつ明るくなり始めていた。昨日まで、この場所にはしらゆきたちとの再会という希望があった。
そして今。遠く離れた場所から、別の白い狐の少女の悲しみが届いた。
湖畔で俺たちが道を作っている間にも。向こうでは、向こうの時間が進んでいる。シオンを巡る何かが動き始めている。
続く




