24.虫
「……カ、カインを引き渡せば、命だけは助けてあげる」
エレノアがそう言い終えるか否か。
レイガルの体が、残像を残して動いた。
「な……っ!?」
エレノアの喉元に、冷たい鉄の感触が走る。
レイガルは剣を抜いていない。ただ、鞘に収まったままの剣の先端を、彼女の喉仏に正確に突き立てたのだ。
瞬き一つの間に間合いを詰められたエレノアは、悲鳴を上げることすら忘れて硬直した。
「……下がれ、汚らわしい」
レイガルの声は、氷の楔のように鋭かった。
彼は一言も「殺す」とは言わない。だが、その瞳に宿る暗い熱は、王女を「人間」としてではなく、排除すべき「障害物」としてのみ認識していた。
「騎士団……! 何をしているの、この無礼者を切り捨てなさい!」
エレノアが震える声で叫ぶ。
背後に控えていた王宮騎士たちが一斉に剣を抜こうとした――その瞬間、広間の床から漆黒の茨が噴き出した。
「動くな。主様の庭でこれ以上騒ぐなら、貴様らの心臓をこの茨の肥料にするぞ」
ゼノスが、冷ややかな笑みを浮かべて指を鳴らす。
漆黒の茨は騎士たちの足首を締め上げ、彼らをその場に縫い付けた。
一触即発の空気の中、当のルミナスは玉座に深く背を預け、退屈そうに自分の指先を眺めていた。
「ねえ、エレノア王女。僕、カインを返すつもりはないんだ。あの子、パンを焼くのが上手だし、何より……君のそばにいるより、僕の城で震えている方がずっと幸せそうだからね」
「貴様……! 正気なの!? 私を敵に回せば、この国が……」
「国? ……ああ、あっちの窓から見える、あの小さな街のことかな。僕にとっては、昨日の昼寝の邪魔をした羽虫の羽音よりも小さいことだよ」
ルミナスがふわりと微笑む。その無邪気な笑顔が、何よりも残酷にエレノアのプライドを粉砕した。
柱の影でカインを庇っていたアルフレッドは、もはや胃が痛むのを通り越して悟りの境地に達していた。
「(……だめだ。王女、逃げろ。今すぐ逃げろ。この二人は、ルミナス様が『嫌いだ』と言った時点で、貴女を生物学的なゴミだと定義したんだ。私の説得も、もう届かない……!)」
【追放の旋律】
「レイガル。その人たち、門の外まで放り出しちゃって。あ、怪我はさせなくていいよ。……死なれると、庭の掃除が大変になるからね」
「……御意」
レイガルは短く応じると、喉元に突き立てていた剣を引いた。
そして、逃げようとしたエレノアの手首を、逃がさぬよう冷徹に掴み上げる。
「……主に『嫌い』と言わしめた己の愚かさを、道中、泥水を啜りながら悔いるがいい」
「ひっ、離して……! 離しなさい!」
エレノアの叫びを無視し、レイガルは彼女を引きずるようにして出口へと歩き出した。ゼノスの茨に囚われた騎士たちも、魔力の波動によって城門の外へと一気に弾き飛ばされる。
「ふふ、やっと静かになった」
ルミナスが欠伸をしながら、レイガルの背中を見送る。
城から追い出されたエレノア王女。だが、彼女の瞳には、屈辱を上書きするほどの「恐ろしい美しさと力」への歪んだ欲望が、黒いシミのように広がり始めていた。




