12.忠誠と執着(レイガル視点)
俺の人生は、絶え間ない「痛み」と「無」で構成されていた。
獣人として生まれ、物心つく前に鉄格子の向こう側へ売られたその日から、俺にとっての触れ合いとは、鞭の打撃か、所有者の下劣な笑い声だけだった。
「心」なんて、邪魔なだけだ。
痛みを感じないよう、絶望さえ抱かないよう、俺は自分という存在を深い闇の底へ沈めた。感情を殺し、ただ命じられるままに動く肉の塊。それが俺のすべてだった。
あの日、森の茂みで泥にまみれ、力尽きた時も、俺はただ無機質な死を待っていた。
だが、視界を塞ぐ暗闇を、誰かが強引にこじ開けた。
「……ひどいな。前世の僕を見てるみたいだ」
それは、鈴を転がすような、あまりにも清浄な少年の声。
気づけば俺は、白亜の城の清潔な寝床に横たわっていた。意識を取り戻した俺は、反射的に牙を剥こうとしたが――次の瞬間、その少年、ルミナス様の細い腕が、俺の巨大な体を正面から強く抱きしめてきたのだ。
(……っ!? な、んだ……これは……)
驚愕で全身が硬直した。俺のような汚らわしい獣を、人間が「抱きしめる」なんてあり得ない。
だが、彼の体温は驚くほど高く、俺の強張った心を強引に解かしていく。
「よしよし。もう大丈夫だよ、レイガル」
彼の手が、俺の背中にある忌々しい「奴隷印」をそっと撫でた。
その瞬間、焼けるような熱が走った。一生消えないはずの、魂を縛る呪いの烙印。それがルミナス様の魔力によって、さらさらと灰のように崩れ、消え去っていく。
さらに彼は、俺の喉元――皮膚に食い込み、呼吸さえ支配していた「呪具の首輪」に指をかけた。
「これでもう、君を縛るものはないよ」
パキ、と乾いた音がした。
一国の軍隊が束になっても解けないと言われた絶望の鎖が、彼の手の中で小さな「鉄の犬の置物」へと作り替えられた。
喉の圧迫感が消え、生まれて初めて、俺の肺に自分の意志による空気が流れ込んできた。
(……ああ。ああ、この人だ)
感情を殺していた俺の奥底で、何かが激しく産声を上げた。
自由を与えられたんじゃない。俺は、この瞬間に「彼」という新しい支配者に、魂ごと叩き落とされたのだ。
俺の傷を癒やし、名前をくれ、一度も触れられたことのない「心」をその手で直接掴み出した人。
彼がいなければ、俺は二度と息ができない。彼に触れられていなければ、俺は自分が何者であるかさえ分からない。
「恩義」なんて言葉じゃ足りない。俺にとって彼は、呼吸そのものになってしまった。
(……あの温もりは、俺だけのものだったはずだ)
静まり返った食堂で、俺は影のように控えている。
視線の先では、ルミナス様があの金髪の小僧――カインにスープを飲ませている。かつて俺の背中を、喉を、そして心を救い出したその御手が、今は別の誰かのために動いている。
「レイガル、そんなに怖い顔をしてどうしたの?」
ルミナス様が、屈託のない笑みを浮かべてこちらを見る。
俺は一瞬だけ目を伏せ、内側から溢れ出そうになる黒い嫉妬を押し殺した。
「……いいえ。主様。カイン殿が、お口に合っているようで何よりだと……そう思っていただけです」
嘘だ。
俺は、あの日貴方に抱きしめられた瞬間に、狂ってしまったのだ。
貴方が「自由」をくれたその瞬間、俺には「貴方以外の光では生きていけない」という、奴隷の首輪よりも重く、一生解けない鎖がかけられた。
カインを撫でるその指先を、今すぐ奪い取りたい。
もう一度だけ、あの日と同じように、俺だけをその腕の中に閉じ込めてほしい。
俺は言葉を持たぬ騎士の振りをしながら、心の奥で、獰猛な獣の牙を研ぎ続けている。
いつか、あの小僧がいなくなった静寂の中で、主のすべてを独占するその時を。




