騎士団長、列の最後尾に並ぶ
翌朝、リナの店の前には、開店前から人の列ができていた。
パン屋の角を曲がり、井戸の横を通り、薬草干しの棚の前まで続いている。見慣れた村人もいる。見慣れない旅装の人もいる。昨日、呪いで倒れていた騎士団長アルベルトの部下らしき騎士まで、鎧の音を控えめに鳴らして並んでいた。
リナは戸口に立ち、しばらく列を眺めた。
「……鍋はひとつなんだけど」
店の中では、朝から煮込んだ薬草スープが湯気を上げている。
白豆、根菜、眠り草をほんの少し。胃を温め、魔力の流れを整え、昨夜の疲れをゆっくりほどく配合だ。よく効く。よく効くからこそ、作りすぎてはいけない。
効くものは、雑に増やすと荒れる。
リナは棚から木札を取り出した。一から三十まで、小さな数字が焼き印で入っている。
「本日、三十食です。整理券をお配りします。三十一番目以降の方は、明日また早起きしてください」
列の前の方で、村の粉屋のおばさんが笑った。
「リナちゃん、昨日あんなことがあったんだから、今日は五十食くらい作ればいいのに」
「五十食作ったら、昼寝ができません」
「昼寝かい」
「昼寝しない薬師は、分量を間違えます」
おばさんは「あんたらしいねえ」と肩を揺らした。
その笑いで、列の空気が少し緩む。
リナは整理券を一枚ずつ配った。常連にも、旅人にも、騎士にも同じ木札だ。
「一番、粉屋さん。二番、井戸番さん。三番、昨日から胃が痛いって言っていた羊飼いさん。四番――」
「待ちなさい」
聞き慣れない硬い声がした。
列の横から、紺色の外套を着た男が二人、店の前へ進み出る。胸元には王都神殿の銀糸紋。後ろには荷馬車まで止まっている。
「王都聖女院からの使いです。こちらに、騎士団長閣下の呪いを解いた薬師がいると聞きました。至急、同行願いたい」
列がざわめいた。
リナは木札の束を胸に抱えたまま、男を見上げる。
「整理券はお持ちですか」
「は?」
「スープを召し上がるなら、整理券が必要です」
「そうではない。我々は王都から正式に――」
「王都から来ても、鍋はひとつです」
男の眉が吊り上がる。
「無礼な。あなたの力は、聖女様の代替として国のために用いられるべきものです。辺境の小店で三十食などと――」
「代替ではありません」
リナは静かに言った。
「私は薬師です。聖女様ではありません。鍋係です」
「鍋係などと卑下している場合では――」
「卑下ではありません。大事な係です」
その時、列の最後尾から低い声が届いた。
「その通りだ」
人々が振り返る。
騎士団長アルベルトが、外套のフードを下ろして立っていた。
昨日より顔色は良い。まだ片腕に包帯を巻いているが、背筋はまっすぐ伸びている。
王都の使者たちは慌てて頭を下げた。
「アルベルト閣下! なぜ列のそのような場所に」
「最後に来たからだ」
「しかし閣下は急患で――」
「昨日、急患として助けられた。今日は朝食を食べに来た客だ」
アルベルトは列の最後尾から動かなかった。
「この店では、店主の決めた札が順番だ。騎士団長の肩書きで鍋の順番は早くならない」
村人たちが目を丸くする。
リナも少しだけ驚いた。
偉い人は、たいてい自分が偉いことを忘れない。けれどこの騎士団長は、どうやら最後尾の意味を知っているらしい。
「閣下、本日の整理券はもう二十九番まで配っています」
リナが言うと、アルベルトは真面目な顔でうなずいた。
「では三十番をいただけるだろうか」
「はい。最後の一枚です」
リナは三十番の木札を渡した。
アルベルトはそれを両手で受け取る。
王都の使者の顔が、さらに険しくなった。
「閣下まで、そのような……。我々は聖女院の命で来ています。呪いに苦しむ者は王都にも多い。薬師殿を連れ帰れば、より多くを救えるのです」
より多く。
その言葉に、列の何人かが気まずそうにリナを見た。
リナは少し考えて、店の奥から小さな布包みを持ってきた。乾燥させた眠り草と、胃を守る根を混ぜた応急薬だ。
「急患なら、これを煎じてください。馬車で運ぶ間の痛みは抑えられます。代金は銅貨二枚。食事ではないので、整理券はいりません」
「ならばスープも持ち帰りで――」
「できません」
即答だった。
「このスープは、ここで座って、湯気を吸って、ゆっくり飲むものです。急いで飲ませたら、効き目が荒れます。冷めたら味も落ちます。何より、私が倒れたら明日の三十食もなくなります」
リナは使者の目をまっすぐ見た。
「多くを救うために、私を壊す話なら、お断りします」
風が止まったような沈黙が落ちた。
最初に手を叩いたのは、粉屋のおばさんだった。
「そうだそうだ。リナちゃんが倒れたら、うちの亭主の胃もまた荒れるよ」
「井戸番の腰痛も困る」
「騎士様も並んでるんだから、王都の人も並べばいい」
列のあちこちから声が上がる。
アルベルトは王都の使者へ歩み寄った。ただし、列からは出ない。最後尾の位置を守ったままだ。
「聖女院へ伝えろ。薬師リナは王都へ連行する対象ではない。協力を求めるなら、まずこの店の規則を尊重しろ」
「閣下、それでは聖女様のお立場が」
「聖女様の立場を守るために、辺境の薬師を壊すな」
その一言で、使者たちは黙った。
リナは少しだけアルベルトを見直した。
ただ守るのではなく、店の規則を守らせる人なのだと思った。
やがて店が開き、一番の粉屋のおばさんから順に、温かなスープが出ていく。
途中、旅人の子どもが青い顔で座り込んだ。神殿の強い薬で胃を荒らしていたらしい。
リナは食数を増やさなかった。
代わりに、三番の羊飼いが「今日は胃が半分痛いだけだから」と笑って席を譲り、リナは子ども用に薄めた半量のスープを作った。羊飼いには応急茶を渡す。
「人命は見捨てません。でも、鍋の数は増えません」
リナが言うと、羊飼いは腹を抱えて笑った。
「そこがリナちゃんのいいところだよ」
子どもは半分のスープを飲み終える頃には、頬に少し赤みを戻していた。
「おいしい」
その小さな声だけで、店の中は十分に満たされた。
昼過ぎ、三十番のアルベルトが最後の一杯を食べ終えた。
「昨日より、穏やかな味がする」
「昨日は呪い用です。今日は胃用です」
「毎日違うのか」
「人が毎日違いますから」
アルベルトはしばらく黙って、それから深く頭を下げた。
「王都が正式な招聘状を出すかもしれない」
「行きません」
「だろうな」
なぜか少し嬉しそうに言う。
「その時は、私も証言しよう。この店は、動かすより守る価値があると」
リナは鍋を洗いながら、戸口の札を裏返した。
本日完売。
その下に、昨日より一行だけ書き足す。
『王都命令でも、三十一食目はありません』
さらに少し考えて、もう一行。
『聖女の代役はしません。薬師なので、昼寝します』
外で札を読んだ誰かが吹き出した。
リナは満足して、店の奥の小さな寝椅子へ向かった。
多くを救うのは、きっと大切だ。
けれど明日も鍋を火にかけるためには、今日ちゃんと眠ることも、同じくらい大切だった。




