呪いより先に、鍋が煮えます
辺境の朝は、鍋の底から始まる。
井戸水を汲み、干し茸を戻し、刻んだ月光草をひとつまみ。火にかけた鍋が小さく歌い出すころ、店の扉に掛けた札を裏返す。
『本日三十食。無理な注文、お断り』
私の店《リナの匙》は、街道の端にある小さな食堂だ。客は主に冒険者、猟師、たまに迷子の商人。看板料理は薬草スープ。効能は、疲労回復、軽い解毒、気持ちが少し前向きになること。
聖女の奇跡ではない。
毎朝ちゃんと刻んで、ちゃんと煮る、薬師の仕事である。
「リナ、今日も三十食だけか?」
常連の斧使いガドが、開店と同時に椅子へ沈んだ。肩には新しい切り傷。私は黙ってスープを置く。
「四十食にすれば儲かるのに」
「四十食作ると昼寝が短くなる」
「理由が強いな」
ガドは笑い、木匙でスープをすくった。湯気に混じって、月光草の青い香りが立つ。
平和な朝だった。
少なくとも、銀鎧の騎士が店の扉を壊しかけるまでは。
「医者を……聖女を……」
倒れ込んできた男は、肩から黒い霧を流していた。呪いだ。しかも王都式の派手で面倒なやつ。後ろから駆け込んできた従騎士たちが悲鳴を上げる。
「団長! しっかりしてください!」
「王都まで馬を飛ばせ! 聖女様でなければ――」
「その前に、床を汚さないで」
私は布巾を投げ、騎士団長と呼ばれた男の脈を取った。命に別状はない。ただし呪いが胃のあたりで暴れている。空腹と疲労で抵抗力が落ち、呪いの通り道ができたのだ。
「朝ごはん、食べてませんね」
「今それを聞く状況ですか!?」
「大事です」
私は鍋から一杯分をよそい、砕いた陽だまり豆を足した。呪いを祓うのではなく、体の熱を戻して追い出す。王都の神殿は光で殴るのが好きだが、辺境では薪も薬草も有限だ。効率よくいく。
「飲めますか」
騎士団長は薄く目を開けた。灰色の瞳が、湯気の向こうで揺れる。
「……いい匂いだ」
「感想は後で」
ひと匙、ふた匙。
黒い霧が、嫌そうに縮む。三口目で肩の紋様が薄れ、五口目で従騎士が泣き出し、七口目で騎士団長は自力で椅子に座った。
「治った……?」
「治ったのではなく、体が勝ちました。今日は走らない、剣を振らない、書類を見ない」
騎士団長は真剣な顔でうなずいた。
「君は、聖女なのか」
「薬師です」
「王都に来てほしい。君の力があれば、多くの民が救われる」
店内の常連たちが、ああ言った、という顔をした。
私は壁の札を指さす。
「本日三十食。王都でも三十食。昼寝つき。無理な注文、お断り」
騎士団長は数秒黙り、それからなぜか少し笑った。
「では、三十一人目にならないよう通うことにする」
こうして私の静かな店に、王都で一番面倒そうな常連が増えた。
なお、壊しかけた扉の修理代は、きっちり請求した。
騎士団長の名はアルベルトというらしい。彼は空になった器を両手で持ち、まるで聖遺物でも眺めるように底を見つめていた。
「もう一杯」
「二杯目は普通の豆スープです。薬効は強すぎると眠れなくなります」
「では普通ので」
従騎士たちまで手を挙げたので、店内はたちまち満席になった。常連のガドが席を詰め、猟師の婆様が笑いながらパンを分ける。王都の鎧は場違いだったが、腹が鳴れば誰でも客だ。
「リナ殿、この味はどうやって」
「畑です」
「秘伝ではなく?」
「草を見て、水を見て、寝不足の人を寝かせます」
アルベルトは真面目にうなずき、手帳へ書きつけた。たぶん王都では役に立たない。王都の偉い人たちは、畑より会議室を信じるから。
昼過ぎ、店の外には噂を聞いた人々が列を作り始めた。
私は札を裏返す。
『本日完売。明日は早起きしてください』
扉の向こうで悲鳴が上がったが、私は鍋を洗った。
世界を救う前に、鍋底を焦がさない。
それが辺境薬師の一番大切な掟である。




