分断⑤
「ソフィアさん!」
アイルは反射的にしゃがみ込み、地面に伏したソフィアの容態を調べる。
「うぅ……」
息はあった。
生きていたことに、まずは一時の安堵が生まれるが、すぐにそれも一陣の風にかき消される。その青ざめた苦悶の表情と弱りきった声。そして、衣服に滲んだ赤黒い斑点は、予断を許さない状況だということを強く明示していた。
心臓がいやにうるさく脈打つ。
「ほう、咄嗟に体外を氷の膜で覆うとは。さすがは、氷晶の薔薇のリーダー。おかげで致命傷を避けられてしまいましたが…… まあ、どのみちその様子では長くは持たないでしょうな」
嘲りを含んだ冷静な見解を下すウィリアム。
「お前…… !」
射抜くような目をウィリアムに向け、アイルは立ち上がる。目の前で仲間に危害を加え、その上あれほどまでにけろりとしている彼の非情さに、アイルは言いようのない怒りがほとばしるのを覚えた。
しかし、一歩踏み出そうとしたアイルは、その場でふらつき、終いには近くの壁に手をついてしまう。突然心臓辺りが強く痛み、加えて激しい目眩が襲ってきたのだ。そうえいば似たような症例が、タレスと戦った時にもあった。だが、今回はそれだけではない。
「ぐっ…… なんだ、これ……」
何か囁くような小さな音。それも耳からではなく、頭の中で直接反響していると表現すれば良いのか。おそらく外界から聞こえてくるものではない。何と言っているのか意識を集中してみるが、わかるのはそれが全く聞いたことのない言語ということだけ。それが今もひそひそとやかましく話しかけてくる。
「なんなんだ、こんな時に……」
「おや、どうされました?」
ウィリアムの呆れたような声が聞こえる。
ここで弱みを見せるわけにはいかない。アイルはぶんぶんと頭を振った。
「アイル、逃げて…… みんなを助けて……」
「あなたを置き去りにするなんてできません。もう少しだけ耐えてください。すぐに助けます」
ソフィアは何か言いたげに口を動かすが、すぐに苦しそうにうずくまった。その間に、多少痛みの方は和らぎ、謎の声も小さくなっていた。
「大丈夫ですか、アイル様? お加減がよろしくないように見えますが」
「あなたに心配される筋合いなんてない」
「これは。どうやら、アイル様の気分を害してしまったようで。ですが、遅かれ早かれあなたと接触した人間は殺すつもりでしたので、どうかご容赦を」
「くっ…… 法を破ってまで、あなたは一体何が目的なんだ!」
アイルはついに声を荒らげる。
「まあまあ、落ち着いてください。色々積もる話はあるでしょうが、それらは全てアリスフィア教皇の御前で詳らかになることです」
「アリスフィア教皇…… ?」
意外な名称が飛び出し、アイルは少したじろぐ。
「ええ。これは全て教皇様の思し召しなのです。そして、ご安心を。あなたの命は奪いません。むしろ、教皇様は宝玉のごとく細心の注意を払った上、丁重にあなたを扱ってくださるでしょう」
「…… ふざけるな! そんな話、信じられるわけがない! というか、黒魔術の適性者へのふざけた法を定めたのは、その教皇の祖先なんじゃないのか!」
「それも全て教皇様が明らかにしてくださいます。そもそも、あなたに拒否権などありません。その上で、どうしても連行を拒むと言うのでしたら、こちらも相応の手段を持ってあなたを懐柔させなければならない。余計な血は流したくはないでしょう? そちらの可哀想なお嬢さんのように」
ウィリアムの頭上に、あの黒い球体が出現する。
「…… さっきから聞いていれば!」
アイルは身体強化を瞬時に纏い、地面に踏み込んだ。一歩めで横の壁に跳び、そこから斜め前にある反対側の壁へ飛び移る。縦横無尽に狭い通路内を駆け巡り、相手に狙いを定めさせない算段だ。
「なるほど、これが黒魔術の力。初めて目にしましたが、それは通常の強化魔法の類を模しているのですか。いや、むしろこちらが真の強化魔法か。まだ本領発揮とはいっていないようですが…… うん、大変興味深い」
ウィリアムは余裕綽々として口だけを絶え間なく動かしている。魔法を行使する兆候すら見せない。何か魂胆があるのか。
不気味だが、すぐ側ではソフィアが、上ではライラたちが待っている。長々と分析している暇などない。ここでインフェルノを使えば、安全かつ正確に相手を葬り去ることも可能だが。しかし、アイルには、人を殺すという禁忌を破るにたり得る気概というか残忍さというか。そういったものは未だに持ち合わせていない。ならば、視覚強化も併用し、最大限の警戒をするだけだ。
「ですがね、アイル様。黒魔術の適性者ーー 古の種族の生き残りであるあなたならわかっているはずです。あなた方は、私たち人間を攻撃することなどできない」
アイルはギリギリまで狙いを乱し、ついにウィリアムの懐へと飛び込む。何やら雄弁に語っているウィリアムの腹部に、アイルの足裏が届いた。
「あら…… ?」
「はあっ!」
アイルは曲げた膝をそのまま、力の限り伸ばす。ウィリアムの喉からタンでも吐くような音を発せられ、その身体はいとも簡単に十数メートル先へ吹っ飛んでいった。
「なんだ? 何も…… してこなかった?」
惰性で地面を転がり続けるウィリアムを見て、アイルは拍子抜の気味だった。ウィリアムはついに直立のまま、アイルの渾身の蹴りをもろに喰らったのだ。防御の構えさえ取っていなかった。
一体全体、あの余裕は何を意味していたのか。その答えと思しきものを、ウィリアム自身が仄かしていたことを思い出す。
「古の種族の生き残り…… 人間に攻撃できない……」
「おかしい、奇怪だ、到底理解しえない…… そうか、あの報告に偽りはなかったのか…… アイル様、あなたは黒魔術の適性者ではないのですか?」
腹這いの状態でどうにか頭を上げるウィリアムは、苦しげな顔に驚愕の色を滲ませていた。アイルはウィリアムに近づくと、片足を軽く上げた。
「すみませんが、ここで少し寝ててもらいます」
「お、お待ちください! 私のような老骨、これ以上痛めつければ命に関わります! 既に身体中の骨がいくつも折れていて…… どうか、命だけはお助けください!」
この期に及んで、まさかの命乞い。
だが、見てみると、ウィリアムの腕はあらぬ方向に曲がり、露出している肌からは擦り傷やら痣が散見される。アイルは刹那の苦々しい表情の後、思い切り足を振り下ろした。ウィリアムの頭部近くの地面に。
「……黒魔術について色々知っているみたいですが」
気絶させる代わりにアイルは一つ聞いてみる。
ウィリアムはきつく閉ざしていた目をゆっくりと開けた。
「ええ。それはもう、ほぼ真相とでも言って差し支えないくらいには心得ております。 知りたいのですよね? ならば、私と共に参りましょう。さすれば、全てを知る事ができる」
咳き込みながらもながらも、ウィリアムは我が意を得たりという風に言う。だが、よほどアイルの一撃が効いているらしく、一向に立ち上がろうとはしない。
「…… 確かに知りたいです」
そう言いながらも、アイルの顔は後方に倒れるソフィアに向いていた。
「でも、今はそれどころではないので。あなたの処罰も含め、全てはみんなを助け後です」
身体ごとウィリアムに背を向ける。
「お待ちください! その女はあなたの真の価値を知らず、ただ純粋な労働力として利用することしか考えていない! そんな赤の他人を助けてどうするのです! 黒魔術のことを知られているのですよ!?」
説得の趣向が変わった。
「黒魔術のことに関してはあなたのせいでしょうに。それに、赤の他人なんかじゃありません」
「あなたは自分の置かれている境遇を理解していないのです! いずれ、世界があなたのことを血眼になって欲することになるでしょう! あなたが世界を大きくかき乱す要因となりうる! まだ誰もあなたの存在に気づいていない今しか、チャンスはありません!」
アイルは全く取り合わず、ソフィアの元へ急ぐ。
「…… あくまで従わない気ですか。なら、仕方ない。こちらも強硬手段を取らせていただきます!」
その声を聞き、アイルはすぐに振り向いた。
距離は二、三メートルほど。ウィリアムはいつの間にか立ち上がり、例の黒い魔法は微振動しながら今にも放たれようとしていた。ここまで早く復帰するなんて、想定外だった。しかし、何の準備もしてなかったわけではない。
黒い球がアイルの高速で飛来する。その軌道は彼の手足を狙っているらしい。あくまで生け捕りが目的のようだ。
「いい加減に……」
念のため先ほどから身体、視覚強化ともに発動状態を維持していた。これで、一秒未満のロスを防ぐことができる。
アイルは身体を縦に半回転させながら飛び上がり、天井に着地する。二つの黒い弾丸がすぐ真下を細く貫いた。硬い地面のはずが、まるでパン生地に針を通すようだ。
「ほう、素晴らしい!」
ウィリアムが唸る。
彼の周りにはまだいくつもの残弾が。だが、アイルは構わず次の壁面へと飛び移った。先ほど同様、狙いを狂わせられれば、避けるのはわけない。そして、アイルの勘は正しかった。
二発、三発。射出される弾を悉くかわしていく。
あとは本体を叩くだけ。次の着地の後、一気に距離を詰め、今度こそ確実に気絶させる。
「さすがは黒魔術の適性者。ですが、まだまだ戦略がなっていませんね」
ウィリアムの視線が意味深にアイルの背後を捉える。つられて、アイルは尻目に後ろを見た。そして、驚愕する。
後ろからツルのような黒い線が、数十本。多方向からアイルの後を追っているのだ。先ほどの放たれた弾は、これらの球根であったらしい。さらに、前方からは残りの弾が全弾掃射されていた。
前後の逃げ場を封じた挟撃。
「さっきのはこのためのお膳立てだったのか!」
「今頃気づいてももう遅いです。さあ、観念してください」
どうすればこれを乗り切れるか。答えは案外すぐに出た。
アイルはそのまま猛進することを選択した。敵地に突っ込みながら、前後左右にデタラメに身体を回転する。すると、視界の中で黒い線が、彼を避けるように湾曲したのがわかった。
「くそ、私が殺せないことをわかって…… !」
予想通りだ。
ウィリアムの狙いはアイルを行動不能にすること。殺すことではない。それなら、誤ってアイルを殺すような真似はできない、という読みは当たっていたようだ。
「これで!」
アイルの拳がウィリアムの腹を捉える。
「ぐはっ!」
ウィリアムは先ほど同様、後ろへと吹っ飛んでいく。
だが、彼は倒れることなく軽やかに身体を捻り、地面に両足をついた。
「な、なんで……」
「残念ですが、私、こう見えて強化魔法と回復魔法にも精通してまして」
そうやって嘲笑するウィリアム。
「一体いくつ魔法の適性があるんだ…… それに、さっきのは演技だったということか…… ?」
「いえ、先ほどは本当に何の対策もなく、あなたの攻撃を受けましたから。治癒するのに時間が必要でした」
まんまと時間稼ぎをさせられてしまっていたらしい。
再び両側から行軍を開始する漆黒。次はほとんど隙間なく展開されている。その進行は避ける暇もないほど速い。片側を燃やし尽くすことはできるが、もう片方の処理には間に合わない。
「それでは、少し痛いですがご辛抱を」
「くそ、どうする…… !」
アイルは必死に考えを巡らす。未熟に組み立てられた案がひしめく中、一つだけ良案が存在しているのを彼は見つけた。
彼は腕を伸ばした。狙いを一点に定める。"力"が一ヶ所に圧縮し、無慈悲な殺戮の兵器へと姿を変えるのが体感できた。
「これなら……」
インフェルノ。
この絶体絶命の状況を打破できるただ一つの光明。眼前の障害物を消し去ることにおいて、無類の効力を発揮する呪物。それが先ほどから手の届く位置にあるではないか。
だが、胸の内ではアイルの良心が激しく抗議する。手足をもぐのか。人を殺してしまうのか。そして、最後には片腕を失ったタレスの光景を頭に射影するのだ。
すると、先ほどまでなりを潜めていたあの謎の声が、またざわつき始める。相変わらず理解できない言語だ。しかし、今はそれがまるでアイルを咎めているよう意のように感じられた。
「だめだ。ここであいつをやらなきゃ、みんなが……」
訪れる混乱。その間も周りの攻撃が停滞することなどない。
どうするのだ。殺すのか。違う、どちらを生かすかだ。それなら、答えは決まっているだろう。
「俺は……」
通路全体が大きく揺れたのは、ちょうどその時だった。




