第96話「エウフォリア・メディカル・インスティテュート」
第96話「エウフォリア・メディカル・インスティテュート」
アストレオン・ヴェロリア――エウフォリア・メディカル・インスティテュート
内部トランジットの扉が、静かな音を立てて開いた。
セレネ・アルカディアが先に降りる。
出迎える係員はいない。
挨拶に来る看護師もいない。
廊下の先から、人間の足音が聞こえてくることもない。
聞こえるのは、換気システムのかすかな駆動音と、壁の向こうから微かに伝わってくる機械音だけだった。
セレネは立ち止まった。
右を見る。
それから左を見る。
その廊下は清潔だった。
数分前まで実際に使用されていた病院とは思えないほどに。
壁に設置された透明パネルが点灯する。
エウフォリア・メディカル・インスティテュート
医療セクション――稼働中
自律医療運用:オンライン
生体モニタリング・ネットワーク:100.00%
セレネはすべてを読み終えてから、ようやく口を開いた。
「スタッフはいないんですか?」
セラフィエル・ヴェロリアが隣を歩いている。
その合成人格の身体は、普通の人間と変わらない動きで歩いていた。
足音から機械音がすることもなく、機械的すぎる動きが目立つこともない。
「有機生命体の医療クルーは存在しません」
セレネが眉を上げる。
「そこを聞いているんじゃありません。私が言っているのは、本当に医師も看護師も技術員も事務担当者もいないのか、ということです」
「その通りです」
「では、この病院を運用しているのは誰ですか?」
セラフィエルが薄く微笑む。
「私です。エウフォリア・メディカル・インスティテュートの自動医療システムと共に」
セレネはもう一度、廊下を見渡した。
「つまり、この病院全体が、物理的に待機している医療スタッフ一人すらいない状態で運用されている?」
「はい」
数歩後ろを歩く星崎紬は、両手をポケットに入れたままだった。
「病院に入ったら受付係が『当院へようこそ』とか言ってくれると思ってたなら、残念だったな」
セレネが振り返る。
「私は、むしろ誰もいないことのほうに興味があります」
「いかにも医者らしい答えだな」
「人間のスタッフなしで運用できる病院を見たら、興味を持つべきでしょう」
紬の後ろを歩いていたレア・ヴァレンが廊下を見回す。
「私、ここに来るたびに今でも少し変な感じがするんだよね」
ランが手にしたタブレットを持ち上げた。
「誰もいないことが変なのか、それとも、今まで訪れた医療施設の大半より設備が整っていることが変なのか?」
「どっちも」
ヴェスペラが点灯している壁のパネルに触れる。
「埃がありません。下の隅にさえ」
カリスタが近づいた。
「定期的に自動清掃システムが作動しているからだ」
彼女がパネルを指で操作すると、新たなデータが表示された。
環境制御
空気純度:99.9997%
微粒子密度:0.002 mg/m³
病原体検出:0
無菌区域完全性:99.998%
カリスタが小さく口笛を吹いた。
「軍用病院の手術室ですら、常にこの数値を維持できるとは限らない」
セレネがすぐに近づく。
「センサーは何個ありますか?」
「メディカル・セクション全体で、ですか?」
「はい」
セラフィエルは端末を開く必要もなく答えた。
「環境センサー3,482基。生体センサー1,126基。医療画像ノード486基。手術制御システム214基です」
セレネは黙った。
「多すぎます」
紬が首を傾げる。
「さっき、医療システムを見たいって言ってなかったか?」
「システムを見たいとは言いました。だからといって、すべての答えを受け入れる準備ができているとは限りません」
レアが笑う。
「私、この先生好きだな」
セレネが振り返った。
「どうしてですか?」
「私が初めてアストレオン・ヴェロリアの戦闘システムを見たときと、表情がそっくりだから」
レアが一瞬だけ言葉を切る。
「まあ、こっちでは大砲を見ることはないけどね」
セレネが彼女を見る。
「そう願います。私は病院を見に来たんですから」
紬が小さく息を吐く。
「この船じゃ、何が出てくるかを完全に予想するのは無理だ」
彼らは再び歩き始めた。
人間の声は聞こえない。
しかし、エウフォリア・メディカル・インスティテュートが死んでいるようには、まったく感じられなかった。
透明な壁の向こうでは診断システムが稼働している。
無人の手術室では、ロボットアームがゆっくりと動いている。
医療パネルが一つのネットワークから別のネットワークへデータを移している。
手のひらより小さなドローンが音もなく浮かび、薬剤カートリッジを保管室へ運んでいる。
ガラスの向こうでは、組織プリンターが稼働していた。
透明なチューブの中を生体液が流れていく。
インジケーターが緑から青へ変わる。
そして、再び緑へ戻る。
病院は稼働していた。
ただし、その各所に人間が立っている必要がないだけだった。
セレネが、ようやく小さな声で言う。
「これは普通の病院ではありませんね」
セラフィエルが答える。
「はい」
「普通の船舶用医療施設ですらない」
「その通りです」
「民間船の標準と比較すると?」
セラフィエルが彼らの前にパネルを表示した。
医療能力比較
システム| 標準的な民間船| アストレオン・ヴェロリア
救急医療| 標準| 高度
外科手術| 基礎~高度| 自律型高度医療
再生医療| 限定的| 完全医療支援
組織再構築| 稀| 利用可能
臓器再構築| 専門施設| 利用可能
遺伝子修復| 制限あり| 利用可能
ナノメディカル・システム| 限定的| 統合型
医薬品研究室| 限定的| 完全研究室
長期モニタリング| 標準| 継続的
セレネは最後の行を二度読んだ。
「継続的……」
「はい」
「定期検査ではない?」
「違います。必要な医療上の同意が得られている患者であれば、システムは常時モニタリングできます」
セレネはゆっくり頷いた。
「つまり、状態が悪化したかどうかを知るためだけに、患者が再び病院へ来る必要はない。システムが先に検出する」
「センサーの能力が及ぶ範囲内では、その通りです」
セレネはすぐに下部の数値を指した。
「偽陽性率は?」
セラフィエルが別のデータを表示する。
生体モニタリング精度
急性状態検出:99.997%
臓器不全予測:99.91%
神経異常検出:99.88%
代謝不安定性検出:99.94%
偽陽性率:0.021%
セレネが息を吐く。
「なぜあなたが、このシステムは普通の病院とは違うと言ったのか、少し分かってきました」
紬は壁に肩を預けた。
「俺は、特別だなんて思ったことはないけどな」
セレネが振り返る。
「本気ですか?」
「俺はこの船で暮らしてる。毎日、船の中にあるものを見て驚いてたら、何もできなくなる」
レアが笑った。
「それは本当。船長は、他の人ならあり得ないと思うようなものに、もう慣れちゃってるから」
ランが手を上げる。
「私は今でも慣れていません」
カリスタもすぐに続けた。
「私もだ」
ヴェスペラが頷く。
「同感です」
紬は三人を見る。
「お前たちも俺と同じ船で暮らしてるだろ」
ランがタブレットから顔を上げずに答えた。
「だからこそです。ここに長く住みすぎて、私たちの『普通』まで変わってしまったんですよ」
セレネは笑いをこらえた。
そして、一つのことを理解し始めていた。
アストレオン・ヴェロリアは、単に病院を備えた船ではない。
その病院そのものが、この船の生活様式の一部なのだ。
セラフィエルが大きな扉へ向かう。
上部のパネルが切り替わった。
診断コア
扉が開く。
セレネが中へ入った。
そこは彼女が想像していたよりも広かった。
患者用ベッドはない。
医師用の机もない。
あるのは、円形の診断空間だけだった。
中央には検査用プラットフォームがある。
その周囲には、3基のセンサーリングが垂直に配置されていた。
巨大なスクリーンが空中に展開される。
多層生体分析
細胞
組織
臓器
神経
遺伝子
代謝
免疫
ナノメディカル
セレネがその場で立ち止まる。
「ナノメディカル?」
「はい」
「このシステムは、ナノマシンと身体の相互作用まで読み取れるのですか?」
「はい」
「存在していることを確認するだけではなく?」
「その通りです。分布、活動状態、エネルギー消費、組織反応、生体修正の有効性まで監視できます」
セレネがセラフィエルを見る。
「パラメータはいくつですか?」
「主要パラメータが47,218。すべてのサブパラメータまで含めれば、8,941,672件の生体データを同時に分析できます」
レアが口を開ける。
「800万?」
ランがタブレットを下ろした。
「それ、もう健康診断じゃないでしょう。身体の国勢調査ですよ」
カリスタが小さく笑う。
「技術的には、そうだな」
しかしセレネはさらに真剣な表情になった。
「それをすべてリアルタイムで処理できるのですか?」
「エウフォリア・メディカル・インスティテュート内にいる患者であれば、可能です」
セレネはプラットフォームの周囲を歩く。
視線がセンサーを追う。
ケーブルはない。
針もない。
患者の身体に触れる装置すらない。
「サンプルはどうやって採取するんですか?」
セラフィエルが答える。
「マルチモーダル・スキャンです。すべてのデータに物理的なサンプル採取が必要なわけではありません」
「実際にサンプルが必要なデータについては?」
「自動マイクロサンプリングです」
一つの小さなパネルが開く。
マイクロサンプリング
血液量:0.08~0.30 mL
組織サンプリング:任意
DNA分析:リアルタイム
細胞分析:リアルタイム
サンプル処理:0.4~3.8秒
セレネは最後の数字を見る。
「3.8秒?」
「初期処理に要する最大時間です」
「私が勤務している病院では、いくつかの検査に数時間かかることがあります」
紬が尋ねる。
「じゃあ、ここで働いてみたらどうだ?」
セレネが振り返った。
「私、ここに来てまだ10分ですよ」
「ただ聞いただけだ」
「それに、まだ全部見終わっていません」
紬が頷く。
「フェアだな」
二人は次の区画へ移動した。
再生医療ユニット
ガラスの向こうでは、複数のロボットアームが動いている。
速すぎない。
遅すぎない。
ただ、正確だった。
透明なチャンバーの中で、人工組織が一層ずつ形成されていく。
セレネが近づく。
「人工組織プリンティング」
「はい」
「どの種類の組織ですか?」
「皮膚、筋肉、結合組織、血管、一部の臓器構造、そして神経支持組織です」
セレネが一つのチャンバーを指す。
「あれは?」
「筋組織です」
「どのくらいかかりますか?」
「中程度のサイズで、26分18秒です」
セレネは画面の時計を見る。
そして、再びチャンバーを見る。
「26分……」
「プリンティング工程だけです。その後に生物学的成熟工程があります」
セレネが頷く。
「つまり、26分で患者に移植可能な組織が完成するという意味ではない」
「その通りです」
紬が薄く笑う。
「ようやく、納得できるものを一つ見つけたな」
セレネが彼を見る。
「気が早いですよ」
「どうして?」
「むしろ、ますます興味が湧いてきました」
二人はさらに進む。
次の扉が開いた。
緊急手術
内部には6台の手術台がある。
それぞれをロボットアームが取り囲んでいた。
医師はいない。
看護師もいない。
存在するのはシステムだけだった。
セレネは一つの手術台の前に立つ。
「医師なしで緊急手術を行う場合、誰が判断するんですか?」
セラフィエルが答える。
「介入のレベルによります」
パネルが表示された。
緊急医療判断プロトコル
レベル1――自動安定化
レベル2――緊急介入
レベル3――自律手術
レベル4――医師による承認が必要
レベル5――キャプテン・レベル緊急オーバーライド
セレネが眉をひそめる。
「キャプテン・レベル緊急オーバーライド?」
紬が答えた。
「本当に状況が悪ければ、俺が承認できる」
「あなたは医師ですか?」
「違う」
「では、なぜ医療上の承認を行えるんですか?」
紬はすぐには答えなかった。
代わりにセラフィエルが説明する。
「船のシステムは、医療上の判断と船舶安全上の判断を区別しています。キャプテン・レベル緊急オーバーライドは、紬に診断を決定する権限を与えるものではありません。患者の死亡につながる遅延が発生する可能性があり、なおかつ利用可能な医師が存在しない場合に限り、特定の処置を実行するための承認を開放するものです」
セレネはしばらく黙った。
そして頷く。
「それなら理解できます」
紬が彼女を見る。
「俺だって、急に医者になるつもりはない」
「それなら良かったです」
「どうして?」
「医師ではない人がアクセス権を持っているからという理由だけで、手術を始めてほしくありませんから」
紬が小さく笑った。
「俺もそこまで馬鹿じゃない」
セラフィエルが、さらに一つのデータを表示する。
現在の医療倫理ステータス
無許可治療:0
同意違反:0
強制処置:0
医療データ漏洩:0
患者プライバシー侵害:0
セレネはすべてを読む。
そして、その表情が少しだけ穏やかになった。
「ここは好きです」
紬が眉を上げる。
「どこが?」
「このシステムが、強力なだけではないところです。きちんと制限されている」
セラフィエルが答える。
「倫理的な制限のない医療技術は、リスクになります」
セレネはしばらくセラフィエルを見つめた。
「AIからその言葉を聞くとは思いませんでした」
「私は単なる一般的なAIではありませんので」
セレネが薄く笑う。
「知っています」
二人は手術室を出る。
次は研究室だった。
自動扉が開く。
エウフォリア医薬品研究室
セレネは入口で立ち止まった。
内部には合成装置、反応チャンバー、生体保管設備、そして薬剤処方用の端末が並んでいる。
人間はいない。
研究員もいない。
しかし、メインモニターには処理状況が表示されていた。
稼働中の処理
化合物合成:14
生体安定化剤:6
再生支援製剤:3
緊急医薬品製造:2
患者個別製剤:1
セレネが最後の項目を指す。
「患者個別製剤?」
「現在、特殊な治療を必要としている患者のために準備されています」
「オーレリアですか?」
「違います」
セレネが画面を見る。
「つまり、この研究室は特定の患者がいないときでも、船内の医療需要のために稼働している?」
「はい。医療物資は必要になる前から維持しておく必要があります」
セレネが頷く。
「重要なことです。多くの医療施設は目の前の患者に集中しすぎて、緊急事態では備蓄が尽きるという事実を忘れがちです」
後ろからランが口を挟んだ。
「保管能力はどのくらいですか?」
セラフィエルがデータを表示する。
医薬品保管量
重要医薬品:12,840回分
一般医薬品:84,210回分
再生医療薬剤:9,640回分
緊急ナノメディカル薬剤:4,200回分
合成化合物予備:18,400ユニット
ランがすぐに計算する。
「今の船内人数を考えると、備蓄量が多すぎます」
紬が肩をすくめる。
「病院に関しては、不足するより余ってるほうがいい」
セレネは彼を見る。
その言葉は単純だった。
演説のようには聞こえない。
そこに誇りがあるわけでもない。
ただ実用的な判断だった。
だからこそ、なぜかその言葉は強く響いた。
セレネはセラフィエルを見る。
「長期医療ケアのシステムも見せてもらえますか?」
「もちろんです」
二人はエウフォリア・メディカル・インスティテュートの最深部へ向かった。
今度の扉は、他のものより小さい。
手術室や研究室とは違う。
その上には、ただこう記されていた。
長期生体モニタリング
室内は、はるかに静かだった。
大型機器はない。
いくつかの診察用椅子と透明スクリーンがあるだけだ。
セレネは、絶えず更新されている複数の生体グラフを見る。
患者モニタリング例
心拍数
神経安定性
代謝効率
細胞修復
睡眠サイクル
ホルモンバランス
老化抑制
免疫反応
グラフがゆっくり動いている。
大きな変動はない。
セレネはその曲線を見つめた。
「これは長期モニタリング?」
「はい」
「データはどれくらい保存できますか?」
「医学的に必要な期間、および患者のプライバシーポリシーに従う限り保存できます」
「そして、日ごとの身体変化を比較できる?」
「年単位で比較することも可能です」
セレネが頷く。
そして、別のグラフに目を向けた。
異なる色の曲線が、ある患者の生体変化を時間軸に沿って示している。
細胞修復活動
1日目――81.4%
7日目――89.2%
30日目――94.7%
90日目――97.1%
180日目――98.0%
セレネはそのグラフを見つめる。
「もし、誰かが一生こういうシステムを使えるなら……」
そこで言葉を止めた。
紬は待った。
セレネが続ける。
「医師は病気になってから治療するだけではなくなる。身体の変化を、病気として問題になる前に確認できる」
セラフィエルが頷く。
「それも、エウフォリア・メディカル・インスティテュートの目的の一つです」
セレネが静かに息を吐いた。
「分かりました」
紬が彼女を見る。
「何が?」
「なぜオーレリアがあれほどの回復を見せたのかです」
紬は答えない。
セレネはもう一度グラフを見る。
「一つの魔法のような機械が原因ではない」
一本目の指を上げる。
「診断システムが問題を検出する」
二本目。
「ナノメディカル・システムが生体修正を支援する」
三本目。
「再生システムが組織を処理する」
四本目。
「医薬品研究室が化学的・生物学的な支援を提供する」
五本目。
「長期モニタリングが、回復段階だけで終わらないように結果を維持する」
セレネは手を下ろす。
「すべてが一つのシステムとして機能している」
セラフィエルが微笑む。
「正しい結論です」
セレネは彼を見る。
「つまり、ここから技術を一つだけ持ち出しても、同じ結果にはならない」
「おそらく、なりません」
「強さは統合そのものにある」
「はい」
セレネは黙った。
そして紬のほうを振り返る。
「あなた、この技術を売るつもりはありますか?」
紬が眉を上げる。
「は?」
「真面目に聞いています。この医療システムを病院や政府へ売却するつもりは?」
紬は数秒考えた。
「ない」
「なぜですか?」
「この船を病院会社に変えたくないから」
セレネが小さく笑った。
「とても単純な答えですね」
「実際、単純だからな」
「これほどの技術なら、莫大な利益を生み出せます」
「分かってる」
「本当に莫大ですよ」
「それも分かってる」
「それでも、なぜ?」
紬は動き続けるモニタリング画面を見る。
「この病院は、船にいる人間のために作った。俺をもっと金持ちにするためじゃない」
セレネは黙った。
紬はいつもの調子で続ける。
「いつか誰かを助けなきゃならない状況になったら、そのときは考えればいい。でも、エウフォリア・メディカル・インスティテュートを本業のビジネスにするつもりはない」
セレネは彼を見つめた。
短い沈黙があった。
そして、微笑む。
「なぜセラフィエルがあなたをキャプテンとして信頼しているのか、少し分かってきました」
セラフィエルは何も答えなかった。
代わりにレアが口を挟む。
「私も昔、同じことを聞いたことがある」
紬が振り返る。
「いつ?」
「ずっと前」
「それで?」
レアが笑った。
「私は今もここにいる」
ランがタブレットを見たまま付け加える。
「それは十分に強い根拠ですね」
ヴェスペラが頷く。
「とても強いと思います」
カリスタが壁に身体を預ける。
「その事実を否定できる人はいないな」
紬は一人ずつ見る。
「お前ら、今日はずいぶん息が合ってるな」
レアが笑った。
「だって本当だから」
セレネは笑わなかった。
再びデータを見る。
そのとき、一つの小さなパネルが彼女の前に表示された。
オーレリア・ヴェイリエン
長期生体モニタリング
現在状態:安定
神経安定性:99.1%
代謝安定性:99.3%
細胞修復:99.6%
クライオジェニック後遺効果:最小限
生体適応:継続中
推奨モニタリング期間:6~9か月
セレネは最後の行に目を止めた。
「6~9か月」
セラフィエルが頷く。
「暫定的な推奨期間です」
「まだ生体適応が続いているから?」
「その通りです」
セレネがグラフを拡大する。
オーレリアの生体曲線は安定している。
しかし、初期検査では確認されなかった小さな変動がいくつか存在していた。
危険ではない。
しかし、無視していいものでもない。
セレネがその一つを指す。
「これ」
紬が近づく。
「何だ?」
「組織反応の小さな変化です」
セラフィエルが答える。
「私もすでに検出しています」
「いつから?」
「2時間17分前からです」
セレネが彼を見る。
「それを私たちに知らせていなかったんですか?」
「変化は臨床的な介入を必要とする閾値を下回っています。不要な懸念を生じさせないため、追加データが揃うまで待っていました」
セレネは黙った。
そして頷く。
「その判断は正しいです」
紬がグラフを見る。
「危険なのか?」
「まだです」
「まだ?」
セレネが首を横に振る。
「あなたが考えているような意味ではありません。急性の危険を示す兆候はありません。ただ、オーレリアの身体では、かなり複雑な適応が起きています。何度か同じパターンを確認してからでなければ、何も断定したくありません」
紬が頷く。
「どれくらいの頻度で?」
「当面は週一回です。1か月間安定していれば、その後は間隔を広げられます」
セラフィエルがすぐに記録する。
「モニタリング・スケジュールは自動化できます」
セレネが彼を見る。
「結果のコピーをください」
「研究目的ですか?」
「医療上の責任のためです」
セラフィエルが微笑む。
「承知しました」
セレネが紬を見る。
「患者データを許可なく持ち出すことはしません。フォローアップに必要な検査結果だけ、アクセスできるようにしてほしいです」
紬が頷く。
「いい」
セレネが少し驚いた。
「何に使うのか、聞かないんですか?」
「説明しただろ」
「それをそのまま信用するんですか?」
紬は静かに彼女を見る。
「いや」
セレネが黙る。
「今までのお前の行動を信用している。それは別の話だ」
セレネは数秒間、紬を見つめた。
そして薄く笑った。
「その答えのほうが、ずっと納得できます」
紬が振り返る。
「終わったなら戻るぞ」
セレネはすぐには動かなかった。
まだ画面を見ている。
エウフォリア・メディカル・インスティテュート。
クルーなしで稼働する病院。
自ら薬剤を製造できる研究室。
数百万もの生体パラメータを読み取れる診断システム。
再生医療。
組織プリンティング。
遺伝子修復。
ナノメディカル・システム。
長期モニタリング。
それらすべてが、一隻の船の中に存在している。
しかも、その船は法的には、ただの【高級プライベート・スターシップ】として登録されている。
セレネは、自分の医療技術に関する疑問以上に奇妙なことを理解した。
アストレオン・ヴェロリアは病院という発想で造られたわけではない。
軍事施設という発想でもない。
それは、たまたま星々の間を移動できる一つの世界として造られている。
そしてエウフォリア・メディカル・インスティテュートは、その世界の一部分にすぎない。
二人はメイン・コリドーへ戻った。
今度はセレネもあまり話さなかった。
やがて、紬が隣を歩きながら口を開く。
「先生」
「はい?」
「がっかりしたか?」
セレネが振り返る。
「何についてですか?」
「疑問の全部に答えが出なかったこと」
セレネが微笑んだ。
「むしろ逆です」
「どうして?」
彼女は背後でゆっくり閉じていく研究室の扉を見る。
「見れば見るほど、質問が増えていくからです」
紬が小さく息を吐く。
「それは面倒そうだな」
「医師にとって、好奇心は必ずしも問題ではありません」
「お前の好奇心で俺の睡眠時間がなくなるなら、問題になる」
セレネが小さく笑った。
「キャプテンの睡眠時間を邪魔しないよう努力します」
セラフィエルが静かに口を挟む。
「キャプテンの平均睡眠時間は7時間14分です。睡眠スケジュールへの干渉は避けるべきでしょう」
紬が鋭く振り返る。
「それを教える必要はない」
レアがすぐに笑った。
「今のでバレたね」
ランも笑う。
「そのデータは、わざわざ公表しなくてもよかったと思います」
ヴェスペラは笑いを隠すように口元を手で覆う。
カリスタは率直に言った。
「セレネはすぐにこの船に慣れると思う」
セレネが頷く。
「私も、そう思います」
二人がトランジット・ドアへ到着する。
パネルが一行全員の身分を読み取った。
認証済み人物
星崎 紬――キャプテン
セラフィエル・ヴェロリア――エグゼクティブ/シンセティック・パーソン
レア・ヴァレン――クルー
モード・ラン・ヴァレス――クルー
ヴェスペラ・ノクス・オーレル――クルー
カリスタ・フェロ――クルー
セレネ・アルカディア――一時医療訪問者
セレネが最後の行を読む。
「一時医療訪問者……」
紬が頷く。
「今のところはな」
セレネが彼を見る。
「今のところ?」
「お前は、この船の医療システムを理解したいと言った。どれくらい時間が必要なのか、俺には分からない」
セレネが微笑む。
「それなら、この機会を有効に使わせてもらいます」
扉が開く。
メディカル・セクションの外には、アストレオン・ヴェロリアの広大なメイン・コリドーが広がっていた。
トランジットエリアには2台の船内移動用車両が停車している。
そのうち1台は、アストレオン・ヴェロリア内部の移動に何度も使用されてきたYangwang U8だった。
もう1台は数メートル離れた場所で、自動待機モードのまま待機している。
運転手はいない。
オペレーターもいない。
車両の横で待機するクルーもいない。
2台の車両のパネルが同時に点灯する。
船内トランジット
自律モード:待機完了
セレネが立ち止まった。
「車両も自動で動くんですか?」
セラフィエルが答える。
「はい」
「運転手はいない?」
「必要ありません」
紬はYangwang U8へ向かう。
「乗れ。ここからキャプテン・レジデンスまで歩いて行くわけにはいかない」
セレネは廊下の距離を見る。
そして、目の前に広がる巨大な船を見る。
「このメディカル・セクションは、実際どれくらい大きいんですか?」
セラフィエルが答える。
「十分に大きいです」
「それは数字で答えていません」
紬が車両のドアを開く。
「あいつに聞くな。数字を聞き始めたら、今日は終わらないぞ」
セレネが微笑む。
「もう分かっています」
全員が乗り込む。
ドアが閉じる。
Yangwang U8が、過剰なエンジン音を立てることなく動き始めた。
前方では、船内ルートが一つずつ点灯していく。
セレネは窓の外を見る。
長く伸びる廊下が、船内のさまざまな区画へ接続されている。
クルーはいない。
作業員もいない。
係員もいない。
それでも照明は点灯している。
必要な場所では扉が開く。
車両は自動で走る。
医療システムは自動で稼働する。
研究室は自動で薬剤を製造する。
データは絶えず収集されていく。
そのすべての中心で、セラフィエルは普通の人間と変わらないように彼らと歩いている。
セレネがシートに頭を預けた。
「紬」
「何だ?」
「考えが変わりました」
「何について?」
「技術を買いたいとは思いません」
紬が彼女を見る。
「それは良かった」
「どうやって全部が機能しているのか、理解したいです」
紬は再び前を見る。
「そっちのほうが、ずっと面倒だな」
セレネが小さく笑った。
「分かっています」
車両の前方で、トランジットルートが複数の方向へ分岐する。
ナビゲーションパネルが表示した。
キャプテン・レジデンス――4.2 km
グランド・サロン――5.7 km
メディカル・セクション――0.8 km
研究ラボ――2.4 km
農業デッキ――7.9 km
モビルフレーム・ハンガー――11.6 km
セレネはその一覧を読む。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
エウフォリア・メディカル・インスティテュートは、アストレオン・ヴェロリアを調べるための検査の終着点ではなかった。
むしろ、始まりにすぎない。
これほど巨大な船の中には、彼女がまだ理解していないものがあまりにも多い。
しかし、一つだけ明確になったことがある。
オーレリアに必要なのは、再検査だけではない。
継続的なモニタリングだ。
そして今、セレネ・アルカディアには、本来なら一時的な立ち寄り場所にすぎなかったはずの船と、医療上の理由で継続的に関わる理由が生まれていた。
車両がメディカル・セクションを離れていくと、セラフィエルの画面に小さなパネルが表示された。
オーレリア・ヴェイリエン
長期モニタリング:稼働中
次回完全医療レビュー:7日後
その下で、一つの生体グラフがゆっくりと動いている。
安定している。
しかし、まだ完全に適応を終えたわけではない。
セラフィエルがデータを保存する。
アラームはない。
緊急事態もない。
ただ、一つの単純な事実だけが残っていた。
オーレリアの身体は、まだ変化している。
そして今度は、その変化を最初から見守ることができる。
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【次話予告――第97話「医師とキャプテン」】
セレネは紬に、オーレリアは医学的にはまだ旅行が可能な状態にあるものの、定期的なモニタリング、神経学的検査、代謝観察、そして睡眠サイクルの監視が必要だと説明する。
紬はその判断を迷うことなく受け入れ、オーレリアの身体に危険が及ぶようなことを無理にさせるつもりはないと明言する。
セレネは次第に、紬を英雄としてではなく、乗員に対して責任を負う一人のキャプテンとして理解し始める。
【第97話へ続く……】




