第95話「最初の診察」
第95話「最初の診察」
公爵家医療レジデンス――メイン診察室――午後
セレネの前にある診断モニターには、オーレリアの回復結果が依然として表示されていた。
本来なら緩やかに上昇していくはずの曲線が、明らかに異なる推移を示している。
初期回復処置の直後、オーレリアの生体安定性は急速に上昇し、その後はほとんど水平に近い水準で停止していた。
低下はない。
大きな変動もない。
七か月間のクライオジェニック・サスペンションを経た身体が、失われた時間を取り戻そうとしている兆候すらない。
大半の医師にとって、それだけの結果が出れば十分に喜ばしいものとして扱えるだろう。
しかし、セレネにとっては逆だった。
データが安定していればいるほど、浮かび上がってくる疑問は増えていく。
「では、神経学的検査から始めましょう」
オーレリアは診察用の椅子に腰を下ろした。
「私は何をすればいいのでしょうか?」
「それほど難しいことはありません。いくつかの刺激に対して、あなたの神経系がどのように反応するのかを確認するだけです。良い結果を出そうとしないでください」
「分かりました。そのようなことはしません」
「それなら大丈夫です。検査に協力しようとしすぎる患者ほど、かえって検査結果を使いにくくしてしまうことがありますから」
星崎紬は二人から数メートル離れた場所に立っていた。
セラフィエルはメイン端末の隣にいる。
セレネが手を上げた。
「セラフィエル、ベースラインの神経学的スキャンを開始してください。データに対する自動補正は行わないでください。まずは生の状態を確認したいです」
「承知しました。今回の検査では自動補正を無効化します」
薄い光の輪がオーレリアの頭部を取り囲んだ。
針はない。
痛みもない。
ただ複数の方向から、生体活動を読み取るセンサーだけが作動している。
【神経学的評価】
【患者】オーレリア・ヴェイリエン
【年齢】18歳
【種族】人類
【神経反応】安定
【シナプス反応】安定
【運動信号伝達】98.7%
【感覚信号伝達】99.1%
【反応一貫性】97.9%
【異常神経活動】0
【急性神経損傷】0
【長期クライオジェニック神経損傷】最小限
セレネは最後の数値をもう一度読み直した。
「最小限……」
彼女はデータを拡大する。
「スリーピングポッドの中で七か月も過ごして、神経系の損傷がこの程度しかないのですか?」
「現在の検査結果です」
「それは分かっています。私が疑問に思っているのは、なぜこの結果になったのかということです」
オーレリアが紬を見る。
「これは、何か悪いことなのでしょうか?」
「まだ分からない」
紬が答えるより先に、セレネが口を挟んだ。
「医学的には、あなたの状態は非常に良好です。私が気になっているのは、身体がそこまでの状態へ到達した速度です」
「つまり、私は健康すぎるのでしょうか?」
「診断にそのような言葉はありません」
オーレリアが小さく笑った。
「残念ですね。響きは良さそうなのに」
セレネもわずかに笑う。
「検査が終わったら、その言葉を使うことを許可しましょう」
紬は二人の様子を見ていた。
セレネは、ただ数値だけを読み取る医師のように堅苦しくはない。
同時に、会話が冗談へ流れて診察を忘れることもない。
オーレリアが話すたびに、表情、声、呼吸、そして身体の小さな動きまで観察している。
いくつかの反射検査を終えると、セレネは代謝用の端末へ移動した。
「次は代謝です」
「分かりました」
「最後に食事をしたのはいつですか?」
「三時間ほど前です」
「何を食べましたか?」
「普通の食事です」
「誰にとっての普通ですか?」
オーレリアは少し考えた。
「私にとって、です」
「それでは医学報告書には使いにくい回答ですね」
紬の後ろに立っていたレアが笑った。
「オーレリアは本当にそういうところがあるんですよ。食事について聞くと、答えが長くなるんです」
「レア」
「何? ただ手伝ってるだけだよ」
セレネは気にした様子もない。
「分かりました。では、代謝データを使いましょう。セラフィエル、メタボリック・スキャンを開始してください」
【代謝評価】
【安静時代謝安定性】99.2%
【グルコース調節】正常
【脂質処理】正常
【タンパク質合成】最適
【細胞エネルギー変換】安定
【ホルモン調節】安定
【代謝ストレス】低
【クライオジェニック後遺効果】最小限
セレネが目を細める。
「タンパク質合成が最適」
「その通りです」
「そして、細胞エネルギー変換も安定」
「その通りです」
「七か月後なのに?」
「その通りです」
「あなた、『その通りです』と言うのに飽きませんか?」
セラフィエルが微笑んだ。
「医師が望まれるのであれば、より長い回答をお出しすることも可能です」
「必要ありません。データを読み間違えていないことを確認しているだけです」
セレネがグラフを切り替える。
比較データが表示された。
【代謝回復曲線】
クライオジェニック標準
1日目 42%
3日目 57%
7日目 71%
14日目 83%
30日目 92%
オーレリア・ヴェイリエン
1日目 88%
3日目 94%
7日目 97%
14日目 98%
現在 99.2%
セレネは黙った。
紬も画面を見る。
「そこまで違うのか?」
「はい」
「少しどころじゃないな」
「その通りです」
セレネはさらにグラフを切り替えた。
「次は臓器を確認します」
オーレリアが息を吸う。
「何か問題がある可能性は?」
「ないことを願っています。ただ、良い検査というのは問題を探すことではありません。問題があるのかないのかを確実に知ることです」
「分かりました」
臓器スキャンが開始された。
【臓器機能】
【心臓】安定
【肺】安定
【肝臓】安定
【腎臓】安定
【膵臓】安定
【消化器系】安定
【免疫系】安定
【細胞修復活動】上昇――安定
【有機組織完全性】99.6%
セレネは最後の項目を拡大した。
「99.6%……」
「何か問題があるのか?」
紬が尋ねる。
「いいえ。むしろ、そこが妙なんです」
「またか?」
「今日は、この言葉を使いすぎている気がします」
レアが手を上げる。
「じゃあ、『すごい』でいいんじゃない?」
「すべてのデータが揃う前に、評価的な表現は使いません」
「先生、真面目すぎるよ」
「患者の身体を、感覚だけで判断するわけにはいきませんから」
レアは両手を上げた。
「分かった。黙ってる」
セレネは続いて神経反応と筋肉反応の検査へ移った。
「オーレリア、次は右手を動かしてください。ゆっくりで構いません」
オーレリアは指示に従った。
「次は左手です」
彼女が動かす。
「立ってください」
オーレリアが立ち上がった。
「前へ五歩歩いて、それから戻ってきてください」
オーレリアは歩いた。
バランスの乱れはない。
補正動作もない。
長期間の回復後に通常なら見られる筋肉のこわばりもない。
セレネはその動きを観察していた。
「止まってください」
オーレリアが止まる。
「もう一度。今度は少し速く」
オーレリアは再び歩いた。
今度は少し速い。
セレネはグラフを見る。
【運動反応】
【平衡感覚】99.8%
【協調性】99.4%
【反応遅延】0.08秒
【筋反応】98.9%
【筋回復】安定
セレネはすぐには口を開かなかった。
比較データを開く。
「セラフィエル、合法的にアクセス可能なヴェルドラコンの標準的な医療強化データベースを表示してください」
「いくつかのカテゴリーがあります」
「貴族階級が使用しているものを」
「帝国貴族用ナノメディカル強化のカテゴリーでしょうか?」
「はい。成人男性の一般的な基準値を表示してください」
一つの表が表示された。
【ヴェルドラコン帝国貴族用ナノメディカル強化】
【一般男性基準値】
【筋回復】92.1%
【細胞修復】91.8%
【反応速度】89.7%
【代謝効率】90.6%
【生物学的老化抑制】88.4%
【骨格ストレス耐性】91.3%
【平均強化安定性】93.2%
セレネがデータを切り替える。
「次にオーレリアを」
【オーレリア・ヴェイリエン】
【筋回復】98.9%
【細胞修復】99.6%
【反応速度】97.9%
【代謝効率】99.2%
【生物学的老化抑制】97.4%
【骨格ストレス耐性】98.7%
【現在の生体安定性】99.3%
室内が静まり返った。
それまで部屋の端から様子を見ていたランが、ようやく近づいてくる。
「それ……貴族の強化処置との比較?」
「はい」
「それで、オーレリアのほうが高い?」
「総合的に見れば、そうです」
セレネがグラフを拡大する。
【筋回復比較】
帝国貴族用ナノメディカル強化 ██████████████████████ 92.1%
オーレリア・ヴェイリエン █████████████████████████ 98.9%
カリスタも近づいた。
「これは小さな差じゃない」
「分かっています」
「帝国のナノマシンなら、すでに高度な医療技術に分類されているはず」
「その通りです」
「それなのに、彼女の身体はその標準的な強化を受けずに、この数値を出しているの?」
セレネがオーレリアを見る。
「ご家族からナノメディカル強化を受けたことはありますか?」
「一部の貴族が使用しているようなものは、受けていません」
「身体能力を強化する注射は?」
「通常の医療処置は受けたことがあります。ただ、そのような身体強化パッケージは受けていません」
セレネは再び画面を見る。
「それは重要です」
紬がデータを見つめる。
「どれくらい重要なんだ?」
「データを二回確認する程度には」
セレネはスキャンを再確認した。
さらに手動による追加検査を行う。
結果はほとんど変わらなかった。
「98.8%」
数値を更新する。
「それでも非常に高い」
セラフィエルが静かに告げる。
「0.1%の変動は、二回目の検査中に発生した筋肉反応の変化によるものです」
「分かっています」
セレネはセラフィエルを見る。
「だからこそ、そこを見ています。あなたのシステムはデータの変動を隠していない」
「その必要がありませんので」
「それなら良いです」
セレネは再びオーレリアを見る。
「少し個人的なことを聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「アストレオン・ヴェロリアにいる間、特別な身体訓練をしていましたか?」
「特には」
「戦闘訓練は?」
「していません」
「筋力強化プログラムは?」
「ありません」
「薬剤は?」
「ありません」
「ナノメディカル注射は?」
「ありません」
セレネは一瞬だけ目を閉じた。
「分かりました。それなら、ますますこのデータを説明するのが難しくなります」
紬が口を挟む。
「身体はアストレオン・ヴェロリアの医療システムで修復されたんだろ?」
「はい。ただし、損傷を修復することと、身体全体をここまでの水準へ引き上げることは同じではありません」
「どういう意味だ?」
「骨折した骨を治療した場合、理想的な結果は元の状態に戻ることです。損傷した組織を修復した場合も、理想的には機能が正常へ戻ることです。しかし、オーレリアのデータは、それとは少し違います」
セレネがグラフを拡大する。
「彼女の身体は、クライオジェニック・サスペンション以前の状態へ戻っただけではありません。いくつかの指標が、通常の人間における回復基準を大きく上回っています」
オーレリアは自分の手を見る。
「つまり、私の身体は変わったのでしょうか?」
「正確には、まだ分かりません。身体が変化したのか、それとも、以前から存在していたものの測定されていなかった状態を維持しているのか、判断できません」
「その二つには、どんな違いがあるのですか?」
「非常に大きな違いがあります」
セレネはグラフを指した。
「もしこれが回復技術による変化なら、アストレオン・ヴェロリアのシステムが身体を強化したことになります。逆に、これが元々あなたに備わっていた生体状態なら、アストレオン・ヴェロリアは身体をその状態へ戻しただけです。今の私たちには、その二つを区別するだけのデータがありません」
紬が頷く。
「つまり、前後のデータが必要なんだな」
「その通りです」
「事故前のデータはない」
「ご家族の担当医なら、一部を持っている可能性があります。ただ、私は管理記録だけではなく、直接検査から得られたデータが欲しいです」
オーレリアが頷いた。
「それなら、私も協力します」
「ありがとうございます」
セレネは端末の時計を見る。
「もう一つあります」
「何でしょう?」
「睡眠サイクルです」
オーレリアは再び椅子に座った。
「スリーピングポッドから戻ってからの睡眠パターンを確認したいです」
「かなり普通に眠れていると思います」
「それは信じています。ただ、身体というものは、ときどき本人とは違うことを伝えてくるんです」
センサーが取り付けられる。
数秒後、グラフが表示された。
【睡眠サイクル観察】
【平均睡眠時間】7時間21分
【深睡眠】24.8%
【REM相当活動】21.3%
【睡眠断片化】低
【異常覚醒】0
【概日リズム安定性】98.6%
セレネはそのデータを見つめた。
「これまで安定していますね」
「それは良いことですか?」
「非常に良いことです」
「それなのに、どうしてそんな顔をしているんですか?」
セレネが薄く笑う。
「良い結果が増えれば増えるほど、その仕組みを理解するのが難しくなるからです」
紬は壁に身体を預けた。
「つまり、今の問題はオーレリアが病気だってことじゃない」
「はい」
「オーレリアが、本来なら長い回復期間を必要とするような経験をしたあとで、あまりにも健康な状態にあることが問題なんだな」
「まさに、その通りです」
セレネが紬を見る。
「あなたは問題の核心を理解するのが早いですね」
「聞いているだけだ」
セレネは少し黙った。
「それも納得できます」
彼女は再びオーレリアを見る。
「それでは、最初の診察はここまでです」
しかし、セレネの手はまだ端末を閉じていなかった。
そこには一つのデータが開いたままだった。
【細胞回復パターン】
【標準値からの逸脱】顕著
セレネはそのグラフを拡大する。
その眼差しが、さらに真剣なものへ変わった。
「セラフィエル」
「はい」
「次回、アストレオン・ヴェロリアの医療システムを直接見せてください」
「そうおっしゃるだろうと予想していました」
「そして、もう一つ知りたいことがあります」
「どうぞ」
セレネはオーレリアのグラフを指した。
「あなたのナノマシンは、回復が始まったとき、患者の身体に具体的に何をしているのですか?」
セラフィエルはすぐには答えなかった。
知らないからではない。
むしろ、その答えが一つの文章で説明するには長すぎるからだった。
紬はセレネを見る。
セレネはセラフィエルを見る。
オーレリアは二人を見つめていた。
そして、最後の検査を待ちながら椅子に座っていたレアは、ただため息をついた。
「次の検査、もっと長くなりそうな気がする」
カリスタが腕を組む。
「気のせいじゃない。確実に長くなる」
ランが小さく笑った。
「私もそう思います」
ヴェスペラは医療パネルを見つめる。
「少なくとも、最初の結果が良かったからといって、そこで止める医師ではないことは分かりました」
紬は両手をポケットに入れた。
「セレネ」
「はい?」
「アストレオン・ヴェロリアを調べたいなら、貴族として来るな。役人でも、ヴェイリエン公爵家の使者でもない」
セレネが眉を上げる。
「では、何として?」
「医師としてだ」
セレネは微笑んだ。
「それが、私がここへ来る唯一の理由です」
セラフィエルが端末を閉じる。
最後に表示された画面には、オーレリアの検査結果が残っていた。
身体は健康だった。
安定している。
大きな損傷も見られない。
しかし、だからこそ、その安定性は一人の専門医が疑問を止められない理由になっていた。
セレネは、これらの数値の裏にある答えをまだ知らない。
そして、推測するつもりもなかった。
彼女は自分の手で確かめる。
一つのデータを、また一つ。
一つの検査を、また一つ。
そして最後には、オーレリアがスリーピングポッドの中で七か月間眠ったあと、身体に何が起きたのかを理解するまで。
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【次話予告――第96話「エウフォリア・メディカル・インスティテュート」】
セレネはアストレオン・ヴェロリアの医療区画を訪れる許可を得る。そこで彼女は、診断システム、再生医療技術、生体モニタリング、緊急手術、医薬品合成、人工組織、細胞修復、長期医療ケアを目の当たりにする。
セレネは、それらの技術をすぐに不可能だと断定するのではなく、自分が知る医療基準と一つずつ比較していく。
その観察を通じて、彼女はアストレオン・ヴェロリアの医療能力が、一般的な民間船の水準をはるかに上回っていることを理解する。
しかし、セレネが知りたいのは、単純にその技術がどのように機能しているのかだけではない。
その技術が、患者に対してどのような倫理観のもとで使用されているのか。
それこそが、彼女にとって新たな疑問となる。
【第96話へ続く――「エウフォリア・メディカル・インスティテュート」】




