第93話「帝都」
第93話「帝都」
帝都軌道複合施設
昼がゆっくりと夕方へ移り変わる頃、アストレオン・ヴェロリアは主要トランジット航路を抜け、帝都の軌道区域へ入った。
航行遷移が完了すると、司令室のメインスクリーンは一気に大量のデータで埋め尽くされた。
一つのマップではない。
一つの航路でもない。
目の前に投影された三次元空間へ、数十もの航行レイヤーが重なっている。
民間航路。
商業航路。
外交航路。
軍用航路。
軌道サービス航路。
旅客船専用航路。
さらには、小型の保守作業艇にまで専用のコリドーが存在していた。
紬は、それらをしばらく見つめた。
「ここ、まだ外縁部なのか?」
セラフィエルが表示を拡大しながら答える。
「私たちは今、帝都軌道複合施設の第一層へ入ったところです」
「第一層?」
「はい」
「何層ある?」
「スペース・トラフィック・コントロールの分類によって異なります。運用上、現在いるのは外縁トランジット航路です。この先には検査区域、配送区域、行政区域、そしてそれぞれ異なる機能を持つ複数の軌道構造体があります」
紬はため息を吐いた。
「もう、この場所が嫌いになってきた」
後方の席に座っていたレアは、逆に画面へ近づいていく。
「待って。あそこを拡大して」
セラフィエルが要求に従う。
リング状の構造体の一つが拡大された。
レアが目を細める。
「あれは何?」
「旅客ターミナルです」
「その隣は?」
「商業貨物転送ステーションです」
「青く光ってるところは?」
「軌道飲食街区です」
レアがすぐに身体を起こした。
「飲食街区があるの?」
紬が振り返る。
「どうして目の色が変わった?」
「ようやく役に立つ情報が出てきたから」
ランが端末から笑う。
「出口への航路を覚える前に、レストランの名前を覚えられそうだな」
「出口の航路を覚える必要はないでしょ。セラフィエルがいるんだから」
セラフィエルが微笑む。
「今、責任が一つ増えた気がします」
「そういうこと」
紬は再びメインスクリーンへ目を戻した。
「検査までどれくらい?」
「現在の待機列に基づけば、三分四十二秒です」
「待機列?」
セラフィエルが新しいパネルを表示する。
そこには待機番号の一覧が表示されていた。
帝都軌道到着管制
現在の交通負荷
- 外交交通:184
- 貴族輸送:317
- 商業旅客船:1,426
- 民間輸送:3,817
- 軍用交通:229
- 軌道サービス艇:2,104
- 貨物交通:1,983
現在監視中の航行対象:10,060
紬は黙った。
「一万?」
「この監視網に登録されている現在稼働中の航行対象です。この数字は毎秒変動しています」
ランが立ち上がり、画面へ近づく。
「待て。商業旅客船が一、四二六、貨物が一、九八三、民間輸送が三、八一七……」
もう一度画面を読む。
「これ、このネットワーク上で現在稼働している対象だけなのか?」
「はい」
ランが笑った。
「これで、ここの交易が止まらない理由が分かった」
カリスタも画面を見る。
「それに、航路の分離を見て。船の機能ごとに本当に分けているわ」
ヴェスペラが一つの航路を拡大する。
「機能だけじゃない。大きさ、速度、優先度も違う」
一つのグラフが表示された。
軌道交通密度
00:00 ━━━━━━━━━ 71%
06:00 ━━━━━━━━━━━━━ 84%
12:00 ━━━━━━━━━━━━━━━ 93%
18:00 ━━━━━━━━━━━━━ 97%
24:00 ━━━━━━━━━━━ 78%
レアが瞬きをする。
「十八時は、ほとんど埋まってる」
「その通りです」
セラフィエルが答える。
「現在、交通密度が高くなる時間帯へ入っています」
紬はグラフを見る。
「つまり、夕方になるほど混雑する?」
「本日のパターンでは、はい。ただし、このグラフは私たちが現在利用しているネットワークから算出した予測です。帝都全域が同じパターンになるという意味ではありません」
紬はうなずく。
「それならいい。データ以上の結論を出すな」
セラフィエルが微笑む。
「とても紬らしい言葉ですね」
その会話が続く前に、通信回線が開いた。
「アストレオン・ヴェロリア、こちら帝都軌道管制。身元とトランジット目的を確認します」
セラフィエルがすぐに答える。
「帝都軌道管制、こちらアストレオン・ヴェロリア。登録は有効です。キャプテン・ホシザキ・ツムギ。トランジット目的は、ヴェイリエン公爵家からの招待への出席です。船舶区分は豪華プライベート宇宙船です」
数秒が過ぎる。
「アストレオン・ヴェロリア、船舶登録情報、船長身元情報、クルー名簿、乗客名簿、武器申告、貨物申告、ドッキング申請を送信してください」
「了解。送信します」
メインパネルが切り替わった。
一つずつデータが送信されていく。
宇宙船登録情報
船名: アストレオン・ヴェロリア
法的区分: 豪華プライベート宇宙船
全長: 8,600m
船長: 星崎 紬
職業上の身分: 独立系宇宙傭兵
登録: 有効
保険: 有効
FTL状態: 民間トランジット基準適合
武器申告: 登録済み/申告済み
ドッキング状態: 当局承認待ち
紬は、すべてのデータを読む。
「何も変わってないか?」
セラフィエルが首を横に振る。
「はい」
「俺の身分は?」
「独立系宇宙傭兵です」
「船の区分は?」
「豪華プライベート宇宙船です」
「分類変更の要求は?」
「ありません」
紬は身体を背もたれへ預けた。
「よし」
カリスタがデータを見る。
「船の大きさについては何も言われないの?」
セラフィエルが一つの数字を指す。
「確認されています」
「何?」
「アストレオン・ヴェロリアの全長が、この航路へ進入する民間船の平均を大幅に上回っているため、自動システムが追加検査のフラグを立てています」
カリスタが小さく笑う。
「八千六百メートルなら、平均とは言いにくいわね」
レアも画面を見る。
「平均はどれくらい?」
セラフィエルが統計データを開く。
民間宇宙船全長――現在の交通サンプル
- 80~150m:41.2%
- 150~300m:27.8%
- 300~600m:18.6%
- 600~1,000m:8.9%
- 1,000~2,000m:3.1%
- 2,000m超:0.4%
アストレオン・ヴェロリア:8,600m
レアが最後まで読む。
「0.4パーセント?」
「現在この航路を通過している民間交通サンプルにおける割合です」
カリスタは画面に表示された自分たちの船の全長を見る。
「追加検査の対象になるのも当然ね」
紬が最後の数字を指す。
「0.4パーセントって、何隻くらいだ?」
セラフィエルが計算する。
「現在稼働している一万六十の対象へ、そのまま掛けることはできません。統計サンプルと交通分類は異なるためです。ただし、該当する民間トランジット船に限定すれば、数は非常に少ないでしょう」
紬はうなずいた。
「つまり、俺たちは例外ってことか」
「はい」
「例外になるのは好きじゃない」
ヴェスペラが薄く笑う。
「残念ながら、船の大きさを考えると避けるのは難しいですね」
再び通信が開く。
「アストレオン・ヴェロリア、登録を確認しました。続いて税関検査へ移行します。速度を軌道標準0.04に維持してください。指示なく航路を変更しないでください」
セラフィエルが答える。
「了解しました」
船体の外側では、二機の検査ドローンが接近してきた。
軍用ドローンではない。
武装もない。
形状は、いくつかの短いアームにスキャン装置を備えたセンサー・カプセルに近かった。
レアが画面を見る。
「乗り込んでくるの?」
「必要ありません」
セラフィエルが答える。
「初期検査は外部から行われます」
「何を調べるの?」
セラフィエルが一覧を表示する。
税関検査
カテゴリーA――武器
- 違法兵器システム
- 未申告軍用装備
- 規制対象武器
- 無許可弾薬
カテゴリーB――貨物
- 未申告貨物
- 盗品
- 規制対象技術
- 生物学的物質
- 危険生物
カテゴリーC――法的管理対象
- 奴隷関連貨物
- 禁制品
- 規制対象AI
- 未登録軍用装備
紬はゆっくり読む。
「AIまで検査するのか?」
セラフィエルがうなずく。
「いくつかの管轄区域では、AIの法的身分も法的検査の対象になります」
レアが振り返る。
「じゃあ、あなたは?」
セラフィエルが微笑む。
「私は登録された法的身分を持つシンセティック・パーソンです。身元を隠す理由はありません」
紬がうなずく。
「聞かれたら、データどおりに答えろ。何も変更するな」
「承知しました」
検査ドローンが船体表面のスキャンを開始する。
画面上のグラフが動く。
税関スキャン――リアルタイム
船体完全性:100.00%
外部貨物異常:0
生物学的汚染:0
無許可接続艇:0
外部武器反応:0
放射線異常:0
未登録脱出艇:0
レアが画面を指差す。
「外部武器反応が0?」
カリスタが彼女を見る。
「船の兵装システムが現在、稼働構成になっていないからよ」
紬がすぐにカリスタを見る。
「必要以上に説明するな」
カリスタは両手を上げた。
「レアに聞かれたから答えただけ」
セラフィエルが穏やかに付け加える。
「税関へ送信された状態は、船舶の法的申告内容と一致しています」
紬はうなずく。
「それが重要だ」
しばらくすると、軌道管制から再び声が届いた。
「アストレオン・ヴェロリア、税関スキャン完了。外部検査において異常は確認されませんでした。続いて船舶登録確認へ移行します」
表示が再び切り替わる。
船舶登録確認
システムがアストレオン・ヴェロリアのデータをヴェルドラコンのデータベースと照合する。
一つのインジケーターが回転する。
そして、緑色へ変わった。
船名:一致
法的区分:一致
船長身元:一致
登録機関:一致
保険記録:一致
FTL認証:一致
登録状態:有効
ランが処理を眺める。
「検証レイヤーはいくつある?」
セラフィエルが答える。
「主要検査が六つ。それに複数の相互検証があります」
「どれくらいかかる?」
「データに矛盾がなければ、二分未満です」
紬がカウンターを見る。
00:42。
00:31。
00:19。
00:07。
検証完了
レアが一度だけ拍手した。
「終わった」
紬が彼女を見る。
「学校の試験じゃないぞ」
「それでも合格した感じがする」
セラフィエルが小さく笑った。
その後、新しいパネルが表示される。
入国・クルー登録
アストレオン・ヴェロリアに乗船している人物の一覧が表示された。
1.星崎 紬
国籍:地球/日本
銀河居住資格:独立銀河居住者
職業上の身分:独立系宇宙傭兵
2.レア・ヴァレン
クルー身分:登録済み
担当:モビルフレーム/戦闘運用
3.モード・ラン・ヴァレス
クルー身分:登録済み
担当:商業/契約運用
4.ヴェスペラ・ノクス・オーレル
クルー身分:登録済み
担当:航行
5.カリスタ・フェロ
クルー身分:登録済み
担当:機関・技術
6.セラフィエル・ヴェロリア
法的分類:シンセティック・パーソン
役割:エグゼクティブ/キャプテン・パートナー
船舶権限:エグゼクティブ級
レアが自分の名前を読む。
「この部分、好き」
ランが振り返る。
「どこ?」
「登録済み」
「どうして?」
「正式な感じがするから」
ヴェスペラが小さく笑う。
「自分たちが登録されていること、今さら気づいたの?」
「知ってる。でも画面で見ると、ちょっと違う」
カリスタがセラフィエルの名前を見る。
「シンセティック・パーソンって、ちゃんと明記されているわね」
セラフィエルがうなずく。
「この登録上、ヴェルドラコンは私の法的身分を認めています」
紬が画面を見る。
「問題は?」
「ありません」
「よし」
それ以上は言わなかった。
しかし、レアはまだそのパネルを見ていた。
「もし、ある国がAIを所有物として扱っていたら、データも変わるの?」
セラフィエルは迷わず答える。
「はい」
「ヴェルドラコンは?」
「私の身分はシンセティック・パーソンとして記録されています」
「じゃあ、法的には物じゃないんだ」
セラフィエルが微笑む。
「この区域においては、その通りです」
レアは満足そうにうなずいた。
「よかった」
紬が振り返る。
「なんでお前が喜ぶんだ?」
「だって、セラフィエルは私たちの仲間だから」
室内が、少しだけ静かになった。
セラフィエルはすぐには答えなかった。
ただ、小さく微笑む。
「ありがとう、レア」
レアは頬を掻いた。
「変な空気にしないで。事実を言っただけ」
紬は笑いをこらえた。
その後、新しい通知が表示された。
入国審査完了
登録クルー/登録人物:6名
未登録人物検出:0
査証情報の矛盾:0
国籍情報の矛盾:0
クルー登録:有効
セラフィエルがパネルを閉じる。
「入国関連に問題はありません」
紬がうなずく。
「次は?」
「民間船舶武器申告です」
レアがすぐに姿勢を正した。
「来た」
紬が彼女を見る。
「何も言うなよ」
「まだ何も言ってない」
「顔が言いすぎてる」
新しいパネルが開く。
民間船舶武器申告
船舶: アストレオン・ヴェロリア
法的区分: 豪華プライベート宇宙船
申告状態: 有効
申告カテゴリー:
- 防御システム
- 近接防御システム
- 緊急保安装備
- 登録モビルフレーム搭載能力
- 艦内保安システム
未申告の兵装展開:0
現在の外部兵装展開:0
軍事交戦状態:なし
紬は最後まで読む。
「モビルフレームの搭載能力まで確認するのか?」
セラフィエルが答える。
「搭載能力の身分は登録されています。ただし、特定区域でのユニット使用には現地法が適用されます」
カリスタが画面を見る。
「二千四百機全部を一機ずつ検査するわけじゃないの?」
「現段階ではありません。申告内容と運用状態を確認しているだけです。必要と判断された場合、物理検査が行われる可能性があります」
紬がうなずく。
「今は?」
「物理検査の命令はありません」
「よし」
ランが搭載能力の数字を見る。
「民間船にモビルフレーム二千四百機っていうのも、やっぱり普通じゃないな」
紬が振り返る。
「それは向こうの問題か、俺たちの問題か?」
ランは少し考える。
「登録情報を読むだけなら、向こうの問題。質問を始めたら、俺たちの問題になるかもしれない」
「正しい答えだ」
レアが笑う。
「その答え、好き」
カリスタが一部分を指差す。
「見て。『軍用兵器』じゃなくて、『登録モビルフレーム搭載能力』って書いてある」
ヴェスペラがうなずく。
「船の法的身分が民間のままだからでしょうね」
紬は身体を背もたれへ預ける。
「この区域の規則に従っている限り、問題を起こす理由はない」
セラフィエルが次のパネルを開く。
傭兵ライセンス確認
氏名: 星崎 紬
職業: 独立系宇宙傭兵
ライセンス状態: 有効
傭兵ランク: E
ライセンス区域: 星間
現在の法的制限: なし
賞金停止状態: なし
有効な逮捕状: なし
軍務状態: 独立
契約状態: 有効なヴェルドラコン帝国契約なし
紬は最後の部分を二度読む。
「よし」
ランが笑う。
「逮捕状がないことより、『有効な契約なし』を見て安心してるように見えるぞ」
「契約のほうが面倒だ」
「そこなのか?」
「逮捕状なら法律と向き合えばいい。望んでいない契約があったら、断る前に長い説明を聞かされる」
レアが笑う。
「本当に紬らしい」
セラフィエルがパネルを閉じる。
「ライセンス確認完了です」
そして、次の文書が表示された。
保険確認
紬がすぐに目を向ける。
「これは興味深い」
ランが近づく。
「どうして?」
「これだけ大きな船を、単純な一つの金額で保険に入れられるとは思えない」
セラフィエルが詳細を開く。
宇宙船保険
船舶: アストレオン・ヴェロリア
法的区分: 豪華プライベート宇宙船
保険状態: 有効
補償カテゴリー:
船体
クルー
乗客
貨物
ドッキング責任
民間トランジット
第三者責任
緊急回収
いくつかの数値が表示される。
補償確認
船体補償:有効
クルー補償:有効
乗客補償:有効
貨物補償:有効
第三者責任:有効
緊急回収:有効
ランが小さく口笛を吹く。
「少なくとも、ここのシステムはかなりしっかりしてるな」
紬は別の欄を見る。
「備考は?」
セラフィエルが下部を開く。
特記事項:
船舶規模が標準的な民間交通プロファイルを超過。
指定されたドッキング当局について、追加リスク審査が必要。
紬がその文章を指差す。
「これはどういう意味だ?」
セラフィエルが答える。
「一部のドッキング当局は、船舶の規模、使用する施設の価値、そしてドッキング事故が発生した場合の影響を基準に、追加のリスク評価を行うことがあります」
カリスタがすぐに興味を示す。
「それは合理的ね。八千六百メートルを三百メートルの旅客船と同じように扱うわけにはいかないもの」
紬がうなずく。
「俺たちがステーションにぶつかったら、ステーションのほうが壊れる」
「私たちも壊れるわ」
カリスタが言う。
「そうだな」
表示が切り替わる。
ドッキング当局
現在割り当てられた区域: 帝都外縁軌道複合施設
ドッキング種別: 大型船一時待機
ドッキングベイ: 未割り当て
接近状態: 管制下
軌道安全許可: 条件付き
紬が眉を寄せる。
「まだドッキングベイが決まってない?」
セラフィエルがうなずく。
「はい」
「帝都まで来て、まだどこに停めるか分からないのか?」
「正確には、まだドッキング手順へ入っていません」
「なぜ?」
「すべての検査の最終結果を、ドッキング当局が待っているためです」
紬は画面を見る。
「つまり、税関、登録、入国、武器申告、傭兵ライセンス、保険……」
「そして、今はドッキング当局を待っています」
紬は黙った。
レアが手を上げる。
「質問していい?」
「何だ?」
「まだ停める場所が決まってないなら、いつ降りて食事できるの?」
紬はしばらく彼女を見つめた。
「もう諦めた」
ランが笑う。
ヴェスペラは笑いをこらえる。
カリスタも笑っていることを悟られないよう顔を背けた。
セラフィエルが、ついに口を開く。
「ドッキング許可が下りたら、クルーが利用できるレストランを探しておきます」
レアがすぐに笑顔になる。
「ありがとう、セラフィエル」
「どういたしまして」
紬は首を振った。
「お前たち二人、本当にもう別の組織を作ってるな」
再び通信が入る。
「アストレオン・ヴェロリア、こちら帝都ドッキング当局。主要検証はすべて完了しました。一時待機軌道を付与します。指示があるまでドッキング構造体へ進入しないでください」
セラフィエルが答える。
「承知しました。座標を送信してください」
座標が送られてくる。
一時待機軌道――IC-OUTER-07
軌道半径: 18,420km
相対速度: 0.021軌道標準
安全離隔距離: 48km
次回管制窓: 00:12:40
ヴェスペラがすぐに操作を引き継ぐ。
「座標を入力した」
紬がデータを見る。
「安全距離が四十八キロ?」
「私たちの船の大きさなら、そうなります」
カリスタが付け加える。
「交通状況が変化した場合の余裕も含まれているわ」
ヴェスペラがグラフを表示する。
局所軌道交通密度
現在:68%
10分後予測:73%
30分後予測:81%
60分後予測:89%
紬が見る。
「つまり、勝手に動いちゃいけない」
「その通り」
ヴェスペラが答える。
「許可なく位置を変更すれば、他の船だけではなく、複数の航路を同時に再計算させることになります」
紬はうなずく。
「指定航路どおりに行け」
「了解」
アストレオン・ヴェロリアが待機軌道へ向けて移動を開始する。
観測窓の外では、帝都の姿が徐々に明確になっていく。
軌道構造体が視界の大部分を埋めている。
巨大なリングがゆっくりと回転している。
輸送用ブリッジが複数の施設を接続している。
外交船が、より狭いコリドーを移動している。
豪華旅客船が一隻ずつターミナルへ入っていく。
貴族輸送船には、それぞれ独自の護衛パターンがある。
軍艦は高速で移動しているが、それでも専用航路から外れることはない。
民間船が、より広い航路を埋めている。
そのすべての下で、軌道都市の構造体が、終わりのない光の網のように広がっていた。
カリスタが窓の近くに立つ。
「ここのドッキング技術を近くで見てみたい」
ランは商業ターミナルを観察している。
「俺は市場を見たいな」
ヴェスペラは軌道構造体から目を離さない。
「これほど巨大な垂直交通網を、どうやって構築しているのか見てみたい」
レアが手を上げる。
「私はレストラン」
紬は一人ずつ見た。
「誰一人、早く帰りたいと言わないな」
ランが笑う。
「まだ帰る理由がないからな」
紬が答えようとしたところで、セラフィエルが割り込む。
「紬」
「ん?」
「待機軌道への移行が完了しました」
メインスクリーンが変わる。
アストレオン・ヴェロリア
位置: IC-OUTER-07
状態: 安定
ドッキング: 一時待機
税関: 完了
登録: 確認済み
入国審査: 完了
武器申告: 受理済み
傭兵ライセンス: 確認済み
保険: 確認済み
軌道管制: 稼働中
その下に、最後の一行が表示された。
次の管轄:帝都ドッキング当局
紬は、その一覧をすべて読む。
ヴェルドラコンへ入って以来、初めてだった。
それまで単なる機関名として聞こえていた行政手続きの一つ一つが、相互に接続された現実のシステムとして目の前に表示されている。
登録情報の一つの間違いが、旅を止める。
身元情報の一つの矛盾が、クルーを拘束する。
武器申告の一つの不一致が、より深い検査を引き起こす。
保険の一つの問題が、ドッキングを拒否させる。
そして、許可なく航路を変更すれば、何千もの船に影響を与える。
これは、単に巨大な帝都というだけではない。
一つのシステムだ。
船、人間、物資、情報、法律、交易、安全、そして日常生活を、フロンティアからでは想像することも難しい規模で動かしているシステム。
紬は、ようやく背もたれへ身体を預けた。
「俺は、やっぱりフロンティアのほうがいい」
ランが笑う。
「そう言うと思ってた」
レアがうなずく。
「私は違う。ここ、好き」
紬が振り返る。
「レストランがあるからか?」
「レストランがたくさんあるから」
「同じじゃないか」
セラフィエルが微笑む。
しかし、ドッキング後に何をするかを決める前に、彼女の個人画面へ新しい通知が表示された。
ドッキング当局からではない。
税関からでもない。
入国審査からでもない。
通知の色が違っていた。
セラフィエルが、そのメッセージを読む。
その表情が、わずかに変化した。
紬はすぐに気づく。
「何だ?」
セラフィエルは一秒だけ答えなかった。
そして、メインスクリーンが切り替わった。
緊急医療要請
対象:オーレリア・ヴェイリエン
要請機関:ヴェルドラコン帝国医療行政局
状態:皇室級優先
紬が画面を見る。
「……皇室級優先?」
セラフィエルがうなずく。
「はい」
さっきまでレストランを探していたレアが立ち上がる。
「オーレリアって、もう帰ったんじゃないの?」
「帰った」
紬が答える。
「じゃあ、どうして医療要請が来るの?」
セラフィエルが新たに開いた詳細を読む。
「オーレリアの医療検査が、皇室級の優先案件へ引き上げられたためです」
室内が再び静かになった。
紬は画面を見つめる。
彼らは、つい今しがた帝都への入域手続きを終えたばかりだった。
まだドッキング区域からすら出ていない。
それなのに、再びオーレリアの名前が現れた。
今回は護衛リストではない。
旅の報告でもない。
最高優先度が設定された医療要請だった。
紬はため息を吐いた。
「着いたばかりだぞ」
セラフィエルが薄く微笑む。
「そうですね」
紬は窓いっぱいに広がる帝都を見つめた。
「……それで、もう始まったのか」
誰も否定しなかった。
アストレオン・ヴェロリアは待機軌道に留まり、帝都の光が遠くで絶えず動き続けている。
彼らは、オーレリアの護衛リストの変更が、何かより大きなものと関係しているのかを知るためだけに来た。
だが今、デューク家と会う前から、新たな要請が別の扉を開いている。
そして今回、その扉の先にあるのは――医療の世界だった。
【次回 第94話――「姫君を診る者」】
アストレオン・ヴェロリアはデューク家の居住区域へのアクセスを受ける。
紬は帰還したオーレリアと再び対面することになる。
しかし、彼が目にするのは、船内や観光惑星で自由に歩いていた少女とは異なる姿だった。
オーレリアは再び貴族令嬢としての衣装を身につけ、護衛、儀礼、そして家族によって組まれた予定のもとに置かれている。
七か月間のスリーピングポッドによる影響、代謝の変化、神経学的状態、低温睡眠による身体への影響、そして通常とは異なる身体回復について検査が行われる中、デューク家はこの症例を担当する専門医を紹介する。
その名は――セレネ・アルカディア。
ヒューマン。
星間医師。
医療部門所属。
セレネが最初に関心を向けるのは、紬ではない。
オーレリアの医療データと、アストレオン・ヴェロリアの回復技術だった。
彼女にスキャン結果が提示されたとき、専門医としてのセレネの表情が、初めて変化する。
「これは、単なる回復技術ではない」
【第94話――「姫君を診る者」へ続く……】




