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ASTRAEON VELORIA――銀河を旅する自由傭兵――  作者: Ren Hazumi


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【第85話】「帰ることは、諦めることではない」

【第85話】「帰ることは、諦めることではない」


メリディアン・ヴェイル――旧文化地区。


16:00。


メリディアン・ヴェイルの旧市街を覆う空の色が、少しずつ変わり始めていた。


それまで歴史ある建物の間へまっすぐ差し込んでいた午後の光が、今ではガラス張りの屋根や店の窓、そして昼から観光客で賑わっていた石畳の道へと柔らかく触れている。


フェスティバルは、まだ完全には終わっていない。


何人かの商人はまだ店のテーブルを片付けており、食料品店では昼のメニューから夜の料理へと切り替える準備が始まっていた。


焼きたてのパンの香り。


香辛料の匂い。


地元のソースと一緒に焼かれた合成肉の香ばしい匂い。


そして、一般的な食事よりも遥かに高価な、いくつかのオーガニック食品の香り。


それらが混ざり合い、通りの空気を満たしている。


公共交通機関の駅へ戻る道の一つを、AureliaはTsumugiと並んで歩いていた。


後ろに護衛はいない。


荷物を持つ使用人もいない。


服には家紋も付いていない。


いるのは、自分で購入した品物を入れた小さな袋を持つ、十八歳の少女だけだった。


数歩後ろには、Lan、Vespera、CalistaとともにRheaが歩いている。


SeraphielはTsumugiの隣にいた。


その肉体は、メリディアン・ヴェイルに滞在しているあいだに自分で選んだ簡素な服を身につけている。


外から見れば、彼女がASTRAEON VELORIAの全システムを管理するSovereign AIだと考える者はいないだろう。


だからこそ、Aureliaは何度かSeraphielへ視線を向けていた。


奇妙だからではない。


ここ数日のあいだに、Seraphielの存在が少しずつ自分たちのグループの自然な一部になっていることを感じていたからだった。


やがてAureliaが足を止めた。


Tsumugiも足を止める。


「どうした?」


Aureliaはすぐには答えなかった。


ただ、前方の通りを見つめている。


一人の母親が、食料品店の前で何度も立ち止まる子供の手を引いている。


店員がメニューの看板を片付けている。


二人の観光客が、オペラ地区へ向かう道について小さな言い争いをしている。


一人のSynthetic Personが、レストランから配達用の車両へ食事の箱を運んでいる。


誰もAureliaを見ていない。


誰も彼女の父親が誰なのか気にしていない。


ここに立っている少女が、Veldrakon Galactic Empireの公爵令嬢だと知る者もいない。


Aureliaは薄く微笑んだ。


「Tsumugiさん」


「ん?」


「私、帰りたいです」


数歩後ろにいたRheaの狐耳が、すっと持ち上がった。


Lanも足を止める。


Calistaが振り返る。


Vesperaは何も言わなかったが、視線をAureliaへ向けた。


一方、Seraphielは小さく微笑んだ。


Tsumugiに驚いた様子はない。


「そう言うと思ってた」


Aureliaが瞬きをする。


「本当ですか?」


「今日一日のお前の顔を見てればな」


「私、どんな顔をしていました?」


「何かを真剣に考えすぎてる人間の顔」


Aureliaは少しだけ俯いた。


「それでは、あまり参考になりませんね」


「分かってる」


「Tsumugiさん」


「ん?」


「がっかりしませんか?」


Tsumugiはジャケットのポケットに両手を入れた。


「なんで俺が?」


「私が帰りたいと言ったからです」


「最初から、いつかは帰るって分かってただろ?」


Aureliaは黙った。


Tsumugiは変わらない調子で続ける。


「お前は突然、帰る場所を失った乗客じゃない。家族がいる。帰る場所もある。俺が知らなかったのは、お前がそれを口にできるようになるのがいつなのかってことだけだ」


Aureliaは手にしていた小さな袋の紐を握った。


「私にも分かりませんでした」


「今は分かったのか?」


「はい」


答えは単純だった。


けれど、そこにはもう迷いがなかった。


Aureliaが顔を上げる。


「父と母に会いたいです」


声は落ち着いていた。


「もう一度、家を見たい。遠距離通信ではなく、メッセージでもなく、直接二人の前に座って、二人の声を聞きたいです」


Rheaが小さく笑った。


「それなら、帰る理由としては十分だな」


AureliaがRheaを見る。


「Rheaさん」


「何?」


「まさか、『まだ帰らないで。観光できる場所が残ってるだろ』なんて言いませんよね?」


Rheaが笑った。


「実は言おうと思ってた」


「Rhea」


Lanがすぐに割って入る。


「罪悪感を持たせるな」


「冗談だって」


「問題を起こしたあと、いつもそう言う」


「Lan、それは誹謗中傷だ」


「過去の記録が反証している」


Calistaが鼻を鳴らす。


「二人とも船に戻ってから喧嘩しろ」


重くなりかけていた空気が、少しずつほどけていく。


Aureliaは口元を手で覆った。


小さな笑い声が漏れる。


長くは続かなかった。


それでも、それだけで、ずっと力の入っていた肩が少しだけ緩んだ。


Tsumugiが彼女を見る。


「帰りたいと思ったことに、罪悪感を持つ必要はない」


Aureliaが再び彼を見る。


「分かっています」


「いや。まだ本当には分かってない」


Tsumugiの声は強くない。


むしろ、あまりにも静かだった。


「本当に分かってるなら、俺ががっかりするかなんて聞かないだろ」


Aureliaは答えなかった。


Tsumugiは、少しずつ街灯が灯り始めた通りへ視線を向ける。


「帰ることは、諦めることじゃない」


その言葉に、Aureliaはしばらく黙り込んだ。


「では、どういう意味なんですか?」


「人によるだろ」


Tsumugiは肩をすくめる。


「お前にとっては、まだ家だと思える場所へ戻るってことなのかもしれない」


Aureliaは石畳へ視線を落とした。


「でも、全部が前と同じに戻ってしまうのが怖いです」


そこでSeraphielが口を開いた。


「それは自然な心配だと思います」


Aureliaが振り向く。


「Seraphielさんも、そう思いますか?」


「あなたが帰ったあと、ご家族がどのような態度を取るのか、私は知りません。ですから、すべて上手くいくと断言するつもりはありません」


Seraphielは一度言葉を止めた。


「ですが、一つだけ変わったものがあります」


「何ですか?」


「あなたです」


Aureliaが黙った。


Seraphielは柔らかく微笑む。


「この旅に出る前のあなたは、公爵令嬢なら何をするべきなのかを、いつも考えていました。でも今は、Aurelia Veyrienneなら何をしたいのかを考え始めている」


「……」


「その変化は、家に戻ったからといって消えるものではありません」


Aureliaは数秒間、Seraphielを見つめた。


それからTsumugiへ視線を移す。


「二人とも、本当に意地悪ですね」


Rheaが笑った。


「お、そっちのほうが普通になってきたな」


「どうしてですか?」


「俺たちを『意地悪』って呼べるようになったってことは、それだけ気を許してるってことだから」


「変な結論ですね」


「でも合ってる」


Aureliaはため息をついた。


「そうかもしれません」


一行は再び歩き始めた。


今度のAureliaの足取りは、少しだけ軽かった。


道の脇では、小さな食堂が夜の営業を始めていた。


電子メニューには、二つの主要カテゴリーが表示されている。


SYNTHETIC MENU


表示されている価格は、かなり安い。


その下には、


ORGANIC MENU ― LIMITED DAILY SUPPLY


と表示されている。


オーガニック食品の価格は、数倍に跳ね上がっていた。


Aureliaが少し足を止める。


「まだ、あんなに高い値段でオーガニック食品を売っているんですね」


Tsumugiが看板を見る。


「観光地区なら、まあ納得できる範囲だろ」


「私の家では、ああいう食事が毎日のように出ていました」


Rheaがすぐに口を挟んだ。


「それで今、普通の人たちがどうして合成食品を選ぶことが多いのか分かっただろ」


Aureliaは微笑んだ。


「ここで、そのこともたくさん学びました」


Seraphielが静かに補足する。


「合成食品が安価だからといって、必ずしも品質が低いわけではありません。生産工程を標準化しやすく、保存期間も長く、流通も生物学的な状態にそれほど左右されません」


Calistaが腕を組む。


「その一方で、オーガニック食品は生産、保存、輸送、品質管理のコストが高くなる」


Aureliaが頷く。


「以前の私は、それを理論として知っていました」


「今は?」


Tsumugiが尋ねる。


Aureliaは、レストランの従業員が運び出している料理の皿を見る。


「今は、それがどんなものなのかを実際に知っています」


Tsumugiが小さく笑う。


「本より高い授業だな」


「そういう意味ではありません」


「分かってる」


Aureliaも微笑んだ。


「ただ、知識として知っていることと、自分で経験することは、二つの違うものなんだと初めて分かりました」


それまで黙っていたVesperaが口を開く。


「それは、船の外にあるほとんどすべてのことに当てはまります」


Aureliaが頷く。


「はい」


彼女は長く続く道の先を見る。


「帰ることも含めて」


一行の足が再び止まった。


Aureliaは息を吸う。


「私は家族を愛しています。それは、今まで一度も変わっていません」


今度の声は、少しだけ小さかった。


「私は、家族が私の人生を管理しすぎることに腹を立てました。護衛にも疲れました。予定にも疲れました。いつも肩書きで話しかけられることにも疲れました」


彼女の指が、小さな袋の紐をゆっくりと握り締める。


「でも、それは家族を捨てたいという意味ではありません」


Tsumugiが頷く。


「分かってる」


「帰りたいです」


「そうだな」


「でも、同じ人間として戻りたくはありません」


Tsumugiが微笑む。


「そう。そこが本当の問題だ」


Aureliaが彼を見る。


「問題?」


「お前は、今のお前自身を連れて帰ることになる。家族はまだお前を公爵令嬢として見るかもしれない。同じ爵位で呼ばれるかもしれない。家の規則だって変わってないかもしれない」


Tsumugiはそこで言葉を止めた。


「でも、お前はもう、自分の人生がそれだけじゃないって知ってる」


Aureliaはしばらく彼を見つめた。


「では、家族と戦わなければいけないんですか?」


「そんなことは言ってない」


「すべての規則を拒否するべきですか?」


「それも違う」


「では、私は何をすればいいんですか?」


Tsumugiは両手を上げた。


「それはお前の人生だ。俺に聞くな」


Aureliaが目を見開く。


「本当に何も助けてくれないんですね」


「そうだな」


「Tsumugiさん」


「お前は自分の人生を自分で決めたいんだろ?」


Aureliaは黙った。


Tsumugiが続ける。


「だったら、最初から他人に何をすればいいのか決めてもらおうとするな」


今度はRheaさえ口を挟まなかった。


Lanは小さく笑っている。


Calistaは、まるで自分は関係ないと言うように顔をそらしていた。


Vesperaは静かな眼差しでAureliaを見ている。


SeraphielはTsumugiの隣に立ったまま、何も言わなかった。


Aureliaは俯いた。


そして、ゆっくりと笑った。


「Tsumugiが船長になれた理由が、少し分かってきた気がします」


Tsumugiが眉をひそめる。


「何の関係があるんだ?」


「意地悪です」


「それは答えになってないだろ」


「それが答えです」


Rheaが大声で笑った。


「俺、その答え好きだ!」


「Rhea!」


「何だよ、俺も同意見だ!」


「みんな、息が合いすぎです」


「それが健全なクルーってやつだ」Lanが口を挟む。


「私はクルーではありません」


Aureliaがすぐに答えた。


Lanが微笑んだ。


「分かっています」


Aureliaは一瞬黙った。


そして微笑む。


「今のところは」


Rheaが眉を上げる。


Tsumugiはただため息をついた。


Seraphielは笑いをこらえている。


誰も、その言葉の意味を尋ねなかった。


Aurelia自身にも、まだ分かっていないのかもしれない。


そして初めて、彼女はすぐに答えを出す必要があるとは思わなかった。


一行が旧地区を離れるころには、街灯が一つ、また一つと灯り始めていた。


低空の航行路を公共交通機関が通過していく。


観光用の車両がホテル地区へ向かっている。


労働者たちは夕食用の食べ物を運んでいる。


疲れた観光客たちは、買い物袋を手に帰路についていた。


一日が終わろうとしていても、メリディアン・ヴェイルは変わらず動き続けている。


Aureliaにとって、その光景は初めて訪れたときよりも、ずっと大きな意味を持っていた。


あのときの彼女は、この街を訪れたい場所として見ていた。


今は違う。


この街から、自分は何かを受け取ったのだと思う。


答えではない。


新しい人生でもない。


自分自身で答えを決めるための勇気だった。


ASTRAEON VELORIAへ戻ると、船内の活動はいつも通りに続いていた。


いくつかのシステムは軽度航行モードに入っている。


グランド・サロンでは、メリディアン・ヴェイルの文化に関するニュースがスクリーンに表示されていた。


ギャレーでは、Seraphielが夜の食料の在庫を確認している。


Rheaはすでに食べ物を探していた。


「Seraphiel、まだ何か食べられるものあるか?」


「もちろんです」


「美味いやつ」


「あなたの『美味しい』の定義は、お腹が空くたびに変わりますね」


「じゃあ、全部美味しいってことだ」


「あなたにとって非常に都合のいい理論ですね」


Calistaがテーブルから一皿を取る。


「全部食べるなよ」


「一つしか取ってない」


「一皿じゃなくて、一つのトレーだろ」


「細かいことだ」


Aureliaは扉のところに立ち、笑っていた。


その光景は単純だった。


貴族の礼儀作法に囲まれて何年も生きてきた彼女にとっては、あまりにも単純すぎる光景だった。


けれど、その単純さこそが心地よかった。


Tsumugiが椅子の一つに座る。


「それで、家族にはいつ連絡する?」


Aureliaは向かい側に座った。


「メリディアン・ヴェイルを離れてからにします」


「今じゃ駄目なのか?」


「本当に自分で決めたのか、もう一度確認しておきたいんです」


Tsumugiが頷く。


「それなら納得できる」


Aureliaはグランド・サロンの大型スクリーンを見る。


そこには旅行情報、リゾートの広告、民間航行便の予定、そして星系間経済ニュースが表示されていた。


数週間前まで、銀河とは画面越しにしか見ることのできないものだった。


今は、それが目の前にある。


人工海洋を持つペラジア・ノーヴェを見た。


メリディアン・ヴェイルの古い道を歩いた。


宮殿の食卓には出てこなかった料理を食べた。


公共交通機関にも乗った。


護衛なしで歩いた。


そして今、帰りたいと思っている。


旅が失敗したからではない。


むしろ、その逆だった。


旅は成功した。


自分が本当に何を探していたのかを、ようやく知ることができたのだから。


Aureliaはポケットから緊急通信機を取り出した。


指が、その表面の上で一瞬止まる。


Tsumugiは急かさない。


Seraphielも何も言わない。


Aureliaはついに画面を押した。


「連絡します」


暗号化された通信チャンネルが開く。


Aureliaが家族用の通信回線を選択するよりも前に、通信コンソールの近くに立っていたSeraphielが突然動きを止めた。


その表情が変わる。


ほんのわずかに。


一瞬にも満たないほどの変化だった。


しかしTsumugiはすぐに気づいた。


「Seraphiel?」


Seraphielはすぐには答えなかった。


視線は通信パネルへ向けられている。


セキュリティ通知が表示された。


通常のメッセージではない。


家族からの通信でもない。


個人的な連絡でもない。


そのヘッダーには、外交当局の権限が使用されている。


アクセスレベルは、通常の民間通信よりも高い。


Aureliaが立ち上がる。


「どうしたんですか?」


Seraphielがパネルに触れる。


「公式通信を受信しました」


Tsumugiも椅子から立ち上がる。


「誰から?」


Seraphielが届いたデータを読み取る。


表情は落ち着いていた。


しかし、今度の声には冗談めいた響きが一切なかった。


「Veldrakon Galactic Empireです」


Aureliaの身体が固まった。


「……え?」


グランド・サロンのメインパネルが切り替わる。


一枚の公式文書が表示された。


OFFICIAL IMPERIAL SEARCH NOTICE


その下には、彼らがすでに知っている名前が記載されている。


AURELIA VEYRIENNE


Status:


MISSING


Jurisdiction:


VELDRAKON GALACTIC EMPIRE


捜索要請が、銀河文明圏に接続された公式ネットワークへ配信されている。


Tsumugiは画面に触れず、その文書全体を読み取った。


Rheaは、先ほどまで手にしていた食べ物をゆっくりと下ろす。


Lanが近づく。


Vesperaは認証経路を確認する。


Calistaは通信パネルを見つめる。


Aureliaは動かなかった。


Seraphielが沈黙を破る。


「Tsumugi」


「分かった」


「Veldrakon帝国政府が、Aurelia Veyrienneを正式に捜索しています」


Aureliaはゆっくりと息を吸った。


手の中の通信機を握る。


数秒間、彼女はただ画面に表示された自分の名前を見つめていた。


ここ数日のあいだ、彼女が意図的に肩書きを付けずに呼ばせていた名前。


Ladyという呼び方もない。


公爵令嬢という身分もない。


ただ、Aurelia。


その名前が今、銀河帝国の公式ネットワークの中心に再び現れている。


Tsumugiは彼女の隣に立っていた。


彼女を引き戻そうとはしない。


前へ押し出そうともしない。


ただ、そこにいる。


Aureliaがようやく口を開いた。


「つまり……その時が来たんですね」


Tsumugiは静かに答えた。


「そうみたいだな」


画面には、捜索ステータスが表示されたままだった。


そして、AURELIS SERENAの中で彼女を発見してから初めて、彼らの旅は単なる銀河観光を望む一人の乗客だけに関わるものではなくなった。


今度は、一つの帝国がその娘を探し始めている。


【次の第86話――「ヴェルドラコンは娘を探す」】


「ヴェルドラコンは娘を探す」


ヴェルドラコン銀河帝国政府が、Aureliaを正式に捜索する。


Tsumugiはすぐに彼女を引き渡すことをせず、まず身元、法的権限、家族としての請求権、そして外交上の資格を確認する。


そして、二つの異なる要求が届く。


一つは帝国政府から。


もう一つは公爵家から。


そして、その二つの要求は、どうやら同一のものではなかった。


【第86話へ続く……】

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