【第84話】「家名を持たないオーレリア」
【第84話】「家名を持たないオーレリア」
メリディアン・ヴェイル――旧文化地区。
メリディアン・ヴェイルの朝は、静寂から始まるわけではなかった。
夜のフェスティバルが終わったあとでさえ、文化地区はすでに再び動き始めている。店の扉が一軒、また一軒と開き、何百年ものあいだ守られてきた石畳の道を荷物運搬用の車両が行き交い、その一方では公共交通機関から降りてきたばかりの観光客の群れの間を清掃ロボットが動き回っていた。
大通りの上では、デジタル案内板が夜のフェスティバルの予定から昼間のイベント案内へと表示を切り替えている。
歴史博物館が開館する。
伝統市場が商人たちを受け入れ始める。
古いオペラ劇場では、公演予定を知らせる投影システムが点灯する。
そして、そのすべての中を、誰一人として彼女を爵位で呼ばないまま、Aureliaは歩いていた。
身につけているのは、自分自身で選んだ簡素な服だった。
家紋はない。
貴族としての身分を示す装飾品もない。
護衛もいない。
使用人もいない。
肩に小さなバッグを掛け、ポケットの中には一時的なアクセスカードが入っているだけだった。
Aureliaは衣料品店の前で足を止めた。
ガラスに映った自分の姿を見る。
それからRheaへと顔を向けた。
「私の服、変に見えませんか?」
Rheaは首を傾げた。
「なんで俺に聞くんだ?」
「さっきからずっと私を見ているからです」
「俺は全員を見てる」
「それは答えになっていません」
Rheaが笑った。
「変じゃない。むしろ普通の観光客に見える」
Aureliaはもう一度、ガラスに映った自分を見る。
「普通の観光客……」
「そう」
「そんなふうに言われたこと、今まで一度もなかった気がします」
数歩後ろを歩いていたTsumugiは、ジャケットのポケットに両手を入れたまま口を開いた。
「いつまでもガラスの前に立ってたら、その服を売ってるのかと思われるぞ」
Aureliaが振り返る。
「Tsumugiは、どう思いますか?」
「いいんじゃないか」
「それだけですか?」
「何を言えばいいんだ?」
「例えば……私が普段と違って見えるか、とか」
Tsumugiは少しだけAureliaを見つめた。
「少しな」
Aureliaは待った。
「何が違うんですか?」
「いつもの君は、誰かが次に何をすればいいのか教えてくれるのを待ってるように見える」
Aureliaは黙った。
Rheaはすぐに口元を手で覆い、笑いをこらえた。
「船長、もう少し言い方ってものがあるだろ」
「俺は正直に言っただけだ」
けれど、Aureliaはむしろ微笑んだ。
「大丈夫です。言いたいことは分かります」
彼女は袖の端に触れる。
「今は?」
「今の君は、自分で服を選んだ人に見える」
その言葉は、単純なものだった。
それでもAureliaは、再び自分の姿を見つめた。
今度は、先ほどよりも長く。
服が特別だったからではない。
むしろ、何も特別ではなかったからだ。
初めて彼女は、自分にいつもまとわりついていた印を何一つ身につけていない自分を見た。
Aurelia Veyrienne。
Lady Aureliaではない。
公爵の娘でもない。
ただのAurelia。
「変ですね」
「何が?」
「自由って、もっと大きなものに感じると思っていました」
Tsumugiが眉を上げた。
「それで?」
Aureliaは小さく笑った。
「思ったより、普通なんですね」
「たぶん、そういうものなんだろ」
Tsumugiは先に歩き出した。
「自由がいつも劇的に感じられるものだったら、人間のほうが疲れる」
Rheaが後を追う。
「どういう理屈だよ」
「朝飯を食いたい人間の理屈だ」
「さっき食べたばかりだろ」
「だからって、もう食べられないわけじゃない」
Rheaはため息をついた。
「やっぱりな」
Aureliaも歩き出した。
そして数歩のあいだ、彼女はただ石畳の上に響く自分自身の靴音を楽しんでいた。
後ろから護衛の足音がついてくることはない。
予定を思い出させる使用人の声もない。
来客を迎える準備ができているかと尋ねる家令の声もない。
隣に誰かが立ち、
「Lady Aurelia、お車の準備ができております」
と言うこともない。
あるのは街の音だけだった。
人々の声。
そして、自分自身の足音。
一行は、より細い通りへ入っていった。
左右には小さな店が並び、その看板の一部には、銀河中のほとんどすべてでデジタルスクリーンが標準となっているにもかかわらず、いまだに手書きの文字が使われていた。
一人の年老いた商人が、木製の工芸品を並べている。
その隣では、小さな子供が宇宙船の形をした機械仕掛けのおもちゃを持って走っていた。
「見て! この船、飛ぶんだよ!」
「人の顔に向けちゃ駄目でしょ!」
後ろから母親の声が飛ぶ。
子供は慌てておもちゃを下げた。
「ごめんなさい!」
Aureliaはその親子を見つめていた。
Rheaが彼女の表情を見る。
「どうした?」
「いえ」
「珍しいものでも見てるみたいな顔してるぞ」
「私は、ただ……」
Aureliaは微笑んだ。
「こういう雰囲気が好きなんです」
前を歩いていたTsumugiが振り返った。
「市場の雰囲気か?」
「それだけではありません。ここにいる人たちは、隣に誰がいるのかをあまり気にしていないように見えます」
「それって普通じゃないのか?」
AureliaはTsumugiを見る。
「私にとっては、あまり普通ではありません」
Tsumugiはすぐには答えなかった。
それから一軒の屋台を指差す。
「だったら、そんなこと考えるな。見てればいい」
「何をですか?」
「食べ物の屋台」
Aureliaが笑った。
「Tsumugiは本当に、いつも食べ物に戻ってきますね」
「食べ物の話は、会話を難しくしないからな」
反対側を歩いていたLanがすぐに口を挟んだ。
「船長、それは正しくありません」
Tsumugiが振り返る。
「なんでだ?」
「値段、材料、品質、税金、販売利益まで考え始めれば、政治よりずっと複雑な話になります」
Calistaが手を上げた。
「Lanに同意します」
Vesperaも微笑む。
「私も」
Tsumugiは三人を見つめた。
「お前ら、真面目すぎるだろ」
Aureliaは笑った。
「あなたたちがこんなに長く一緒に旅をしてこられた理由が、少し分かってきた気がします」
「どういう意味だ?」
「何でもないようなことを、数分間話していても退屈しないんですね」
Rheaがポケットに手を入れながら答えた。
「それは、いつも重要なことを話す必要がないからだ」
Aureliaは少し黙った。
その言葉は単純だった。
けれど、またしても彼女が今まで持っていなかったものに触れていた。
目的のない会話。
決定を生まない会話。
結論を必要としない会話。
ただの会話。
一行はやがて、市場の端にある小さな店の前で足を止めた。
高級レストランではない。
自動ドアもない。
個室もない。
専属の給仕もいない。
木製のテーブルと簡素な椅子、そして店主が働く姿の見えるオープンキッチンがあるだけだった。
Aureliaはメニューを見る。
「何を選べばいいでしょう?」
Tsumugiが即答した。
「好きなもの」
「それでは参考になりません」
「俺が選ぶ仕事じゃないからな」
「では、いつも皆さんはどうやって選んでいるんですか?」
RheaがTsumugiを指差す。
「こいつは匂いで選ぶ」
Lanはメニューボードを指した。
「私は値段と品質で選びます」
Calistaは肩をすくめる。
「私は十分に腹が膨れるかどうか」
Vesperaは微笑んだ。
「私は好奇心で選びます」
AureliaはSeraphielを見る。
「Seraphielは?」
テーブルのそばに立っていたSeraphielが答える。
「私は通常、最初に材料一覧をすべて確認します」
Tsumugiが鼻を鳴らした。
「ほら。やっぱり真面目すぎる」
Seraphielが振り返る。
「船長が昨日、自分で名前すら知らない料理を購入したあとですから。余計なリスクを取りたくないだけです」
Rheaが笑った。
「それ、本当にあったな」
Aureliaも笑った。
「分かりました。それなら自分で選びます」
彼女はもう一度、メニューを見る。
今度は誰も手を出さなかった。
宮廷の使用人が身分に相応しい料理を勧めることもない。
料理長が許可を待つこともない。
公爵令嬢に相応しい料理はこれだと誰かに言われることもない。
Aureliaはメニューの一つを指差した。
「これにします」
店主が注文を書き留める。
「分かりました。飲み物は?」
Aureliaは並んだ選択肢を見る。
「それを」
「温かいのと冷たいの、どちらにします?」
Aureliaは止まった。
そしてTsumugiを見る。
Tsumugiは何も言わなかった。
ただ微笑んでいる。
Aureliaは再び店主へ向き直った。
「温かいもので」
「分かりました。少々お待ちください」
それだけだった。
たったそれだけのこと。
なのにAureliaは、とても大きな決断を一つ終えたような気がした。
Rheaが彼女を見る。
「大丈夫か?」
「はい」
「飲み物を選ぶだけなのに、ずいぶん真剣な顔してるぞ」
Aureliaは小さく笑った。
「今、勉強しているんです」
「何を?」
Aureliaはテーブルの上で両手を重ねた。
「選ぶことを」
誰も笑わなかった。
Tsumugiもただ頷いた。
「いいじゃないか」
料理が運ばれてきたのは、それから数分後だった。
貴族の晩餐のように飾り付けられてはいない。
量も決して多くない。
Aureliaはしばらくそれを見つめていた。
Tsumugiはすでに食べ始めている。
「どうした?」
「何でもありません」
「冷めたら美味しくなくなるぞ」
Aureliaは食器を手に取った。
最初の一口を食べる。
そして黙った。
Rheaが待つ。
Lanも待つ。
Calistaも待っている。
Vesperaは微笑んでいた。
全員が同じ答えを待っていることを分かっているようだった。
やがてAureliaが顔を上げる。
「美味しいです」
Tsumugiが頷いた。
「よかったな」
「それだけですか?」
「何が?」
Aureliaは笑った。
「いえ。ただ……」
もう一度、料理を口に運ぶ。
「私、今になって気づきました」
「何に?」
「この料理が、公爵令嬢に相応しいものなのかどうか、私は知らないんです」
Tsumugiは気にする様子もなく料理を噛んでいた。
「今のお前はAureliaとして食べてるんだ。だったら、なんで公爵令嬢に相応しいかどうかなんて考える必要がある?」
Aureliaの手が止まった。
その言葉は、Tsumugi自身が思っている以上に深いところへ届いた。
彼女は視線を落とす。
「Aureliaとして……」
「そう」
「それなら、家族の食卓には出ないような料理を好きになってもいいんですか?」
「もちろん」
「家族から勧められない場所を、自分で選んでも?」
「いい」
「護衛なしで歩いても?」
「状況が安全ならな」
「嫌だと言っても?」
Tsumugiの手が止まった。
彼はAureliaを見る。
「やりたくないことなら、嫌だと言っていい」
Aureliaは唾を飲み込んだ。
「家族に対しても?」
その問いによって、テーブルが少しだけ静かになった。
空気が張り詰めたわけではない。
ただ、今度のAureliaの質問が料理についてではないことを、全員が理解したからだった。
Tsumugiは食器を置いた。
「君の家族との関係を、俺は全部知っているわけじゃない。だから、全部分かってるみたいな顔で助言するつもりはない」
Aureliaはゆっくり頷いた。
「でも?」
「でも、家族のもとへ帰ることと、自分で選ぶ権利を失うことは同じじゃないと思う」
Aureliaは彼を見つめる。
Tsumugiは静かな声で続けた。
「二つの極端な選択肢しかないわけじゃない。家族を愛しているからって、すべての決定を家族に預けなきゃいけないわけじゃない。逆に、自分の人生を自分で決めたいからって、家族を嫌いになる必要もない」
Aureliaは答えなかった。
Rheaは自分の料理へ視線を落とす。
Lanも口を挟まない。
Seraphielはただテーブルのそばに立ち、Aureliaがその言葉を受け止めるための時間を作っていた。
やがてAureliaは薄く笑った。
「そういうことを言えるのは、経験があるからですか?」
Tsumugiは頬を掻いた。
「いや」
「では?」
「俺は、そういうものだと思ってるから」
「ずいぶん簡単ですね」
「正しいことって、いつも複雑にしなきゃいけないわけじゃないだろ」
Aureliaが小さく笑う。
「あなたは、簡単なことを言うのに、答えるのが難しいことが多いですね」
「俺が難しくするのが苦手なだけかもしれない」
Rheaがすぐに笑った。
「お、それは正直だな」
TsumugiがRheaを指差す。
「お前は口を挟むな」
「俺は事実を言っただけだ」
その会話が始まってから初めて、Aureliaは遠慮なく笑った。
貴族として礼儀を示すための笑いではない。
相手に好印象を与えるための笑いでもない。
ただの笑いだった。
十八歳の少女が見せる、ごく普通の笑い。
食事を終えた一行は、歴史地区へ向かって歩き始めた。
メリディアン・ヴェイルには、多くのシステムが標準化されたモジュール建築を採用する以前に建てられた建物が数多く残されている。
いくつかの壁には、今も本物の石が使われていた。
窓には現代の透明強化素材が取り付けられているものの、形そのものは昔のまま残されている。
頭上では最新式の反重力交通路が走り、古い道路に沿って小型車両が行き交っていた。
過去と未来は、互いを押し退けているわけではない。
ただ、同じ場所で共存している。
Aureliaは古い建物の前で足を止めた。
「この建物は、どれくらい古いんですか?」
Vesperaが案内板を読む。
「900年以上です」
「900年……」
Aureliaは石壁に触れた。
表面は冷たい。
少しざらついている。
確かな感触がある。
「私の家にも古い建物があります」
「でも?」
Aureliaは微笑んだ。
「私は一度も、その壁に触れたことがありません」
Rheaが眉を寄せる。
「なんで?」
「規則があるからです」
「壁に触るなって規則?」
「そういう意味ではありません。でも、特定の区域にいるときに何をしていいのかについて、いろいろ決まりがあります」
Tsumugiが眉を上げた。
「それは疲れそうだな」
「ええ」
Aureliaはもう一度、石に手を滑らせた。
「でも、理由も分かります。宮殿は守らなければならない場所ですから。歴史的な価値を持つものもたくさんあります」
Calistaが腰に手を当てる。
「何かを守ることと、そこに住んでいる人が何にも触れられないようにすることは、同じじゃないだろ」
Aureliaが振り向く。
Calistaは微笑んだ。
「私はそう思うだけ」
Aureliaは頷いた。
「分かります」
そして再び建物へ目を向ける。
胸の奥に、不思議な感覚があった。
悲しいわけではない。
嬉しいわけでもない。
もっと別のものだった。
これまで自分は、多くのものをガラス越しに見ていたのだという気づき。
世界のことは知っていた。
けれど、実際に触れることはほとんどなかった。
昼が近づくころ、一行は古い公園地区へ入った。
何組かの家族が芝生に座っている。
子供たちは速度制限のかかった小型ドローンで遊んでいた。
一人の老人が紙の本を読んでいる。
二人のSynthetic Personが池の近くで話をしている。
一人の女性が家族のために食べ物を運んでいる。
何も特別なことはない。
だからこそ、Aureliaはずっと見ていた。
「Tsumugi」
「ん?」
「ここにいる人たちは、いつもこんなふうに暮らしているんですか?」
「どういう意味だ?」
「自由に歩いて、食べる場所を選んで、服を選んで、見たいものを選んで……」
「全員がそういう生活をしてるわけじゃない」
Tsumugiの答えにAureliaが振り向く。
「そうなんですか?」
「もちろん。誰だって、それぞれの問題を抱えてる。金が足りない人もいる。働きすぎる人もいる。難しい家族関係を抱えてる人もいる。他の人ほど多くの選択肢を持てない人だっている」
Aureliaは黙った。
Tsumugiが続ける。
「自由だからって、人生が楽になるわけじゃない」
彼は遠くの家族を指差した。
「あの人たちは今、自分たちの一日を楽しんでるのかもしれない。でも明日になれば、また働かなきゃならない。家賃を払って、食べ物を買って、子供の面倒を見て、親のことも考える。俺たちだって同じだ」
「では、自由とは責任がないことではないんですね」
「むしろ逆だ」
Aureliaは彼を見る。
「自分で選ぶ自由があるからこそ、その選択の結果も受け入れなければならない」
Tsumugiが頷く。
「そういうことだ」
Aureliaは微笑んだ。
「その考え方、好きです」
隣を歩くRheaが口を開く。
「ここへ来てから、ずいぶん考えるようになったな」
「それは悪いことですか?」
「いや。ただ……」
RheaはAureliaを見る。
「最初に俺たちが君を起こしたときとは、ずいぶん違って見える」
Aureliaは黙った。
「どう違うんですか?」
Rheaは少し考えた。
「前のお前は、いつも何かを待ってるように見えた」
「待っていた?」
「そう。自分の人生が進んでるのに、誰かが『ここから一緒に歩いていい』って言ってくれるのを待ってるみたいだった」
Aureliaは俯いた。
その言葉は鋭かった。
けれど、痛くはなかった。
なぜなら、その中にある真実を自分でも分かっていたからだ。
「今は?」
Rheaが微笑んだ。
「今は、自分から先に歩き始めてる」
Aureliaは自分の足元を見る。
そして小さく笑った。
「自分では気づきませんでした」
「そういうもんだろ」
夕方が近づく。
一行はASTRAEON VELORIAへ戻る前に、再び商業地区へ向かっていた。
Aureliaは、自分で購入した小さなものを一つ持っている。
高級品ではない。
歴史的な遺物でもない。
地元の職人が作った、惑星を模した小さなチャームだった。
Tsumugiがそれを見る。
「買ったのか?」
「はい」
「なんで?」
Aureliaは指先でチャームを回す。
「好きだからです」
Tsumugiが頷く。
「いい答えだ」
Aureliaはその小さな品を見つめる。
「今までは、もっとちゃんとした理由が必要でした」
「買い物をするのに?」
「ほとんど何をするにもです」
Tsumugiはポケットに手を入れた。
「じゃあ、これからはいつもそうじゃなくてもいい」
Aureliaが彼を見る。
「言うのは簡単ですね」
「そうだな」
「でも、実際にやるのは難しいです」
「分かってる」
Aureliaは微笑んだ。
「簡単そうに聞こえるようには言わないんですね」
「簡単じゃないからな」
数歩のあいだ、二人は何も話さずに歩いた。
そしてAureliaが足を止める。
Tsumugiも止まった。
「どうした?」
Aureliaは、もう一度文化地区のほうを振り返った。
博物館。
市場。
公園。
石畳の道。
小さな食堂。
自分のことを知らない人々。
そして、自分のために決められた公式な予定が一つもない一日。
彼女は息を吸った。
「Tsumugi」
「ん?」
「私、答えが見つかった気がします」
Tsumugiは、すぐには何も聞かなかった。
ただ待った。
Aureliaは惑星型の小さなチャームを握る。
「どうして、もっとここにいたいと思ったのか、今なら分かります」
「どうして?」
「私はずっと、家を離れるということは、家族を捨てることだと思っていたんです」
彼女は空を見上げた。
夕方の光が、都市上空に広がる人工大気層に反射している。
「でも、違ったんですね」
Tsumugiは黙っている。
Aureliaが続けた。
「私は家族を愛しています。家族のもとへ帰りたいとも思っています」
数歩後ろにいたRheaが彼女を見る。
LanとVesperaも足を止める。
Calistaは何も言わずAureliaを見つめている。
Seraphielも口を挟まなかった。
Aureliaはもう一度、息を吸った。
「でも、私は自分のために用意された役割を、ただ演じるだけの人間として帰りたくはありません」
Tsumugiがようやく尋ねる。
「じゃあ、誰として帰りたい?」
Aureliaは彼を見る。
数秒のあいだ、その瞳に迷いはなかった。
「Aureliaとして」
声は小さかった。
けれど、はっきりしていた。
「Lady Aureliaではなく」
彼女は少しだけ俯く。
「ただ公爵の娘というだけでもなく」
握っていた小さなチャームに、さらに力を込める。
「そして、いつも政治的な資産として扱われる誰かでもなく」
Tsumugiはゆっくりと頷いた。
「分かった」
Aureliaが微笑む。
「本当に?」
「ああ」
「私のことを、わがままだとは言いませんか?」
「言わない」
「たとえ、家族が反対しても?」
「それは君が家族と話すことだ。俺が決めることじゃない」
Aureliaが小さく笑う。
「Tsumugiは、いつも決定を私に返してくれますね」
「君の人生だからな」
その言葉に、Aureliaは黙った。
そして前方の道を見る。
彼女は、もう十分なものを見てきた。
最初にスリーピングポッドの中で目を開けたときには想像もしていなかったほど、多くのものを。
観光惑星。
海。
市場。
フェスティバル。
素朴な料理。
普通の人々。
そして、誰かに一歩一歩を監視されることなく歩くとは、どういうことなのかさえ。
けれど、歩けば歩くほど、一つのことがはっきりしてきた。
自分は家の代わりになる場所を探していたわけではない。
自分自身として家へ帰るための方法を探していたのだ。
Aureliaは一度だけ目を閉じた。
そして、再び目を開く。
「Tsumugi」
「ん?」
今度の笑顔は、これまでとは違っていた。
迷いがない。
許可を求めるものでもない。
「私、帰りたいです」
Tsumugiは彼女を見る。
驚いた表情はなかった。
ただ頷いた。
「分かった」
Aureliaが瞬きをする。
「それだけですか?」
「何が?」
「私は今、帰りたいと言ったんですよ」
「聞いた」
「何も聞かないんですか?」
「君が決めたなら、今は聞く必要がないだろ」
Aureliaは俯いた。
小さな笑みが浮かぶ。
「ありがとうございます」
Tsumugiが再び歩き始める。
「まず船に戻ろう。そのあとで、次に何をするか考える」
Aureliaも彼の後を追った。
今度は、その足取りが少しだけ軽かった。
その背後で、メリディアン・ヴェイルは変わらず、自分自身の生活を続けていた。
誰も知らない。
一人の公爵令嬢が、小さな通りで重要な決断をしたことを。
記者もいない。
貴族もいない。
役人もいない。
儀式もない。
ただ一人の十八歳の少女が、初めて自分自身の言葉で、自分の望みを口にしただけだった。
そして初めて、彼女が故郷へ持ち帰りたいと願った名前は、爵位ではなかった。
自分自身の名前だった。
Aurelia。
【次の第85話――「帰ることは、諦めることではない」】
「帰ることは、諦めることではない」
Aureliaが帰ることを決めたあと、彼女はTsumugiに、自分が帰りたいと思ったことは、新しく見つけた自由を諦めるという意味ではないと説明する。
家族のもとへ戻りたい。
しかし、それは自分の人生における選択を、自分自身で決められるAureliaとして帰るということだった。
Tsumugiはその決断を尊重し、Aureliaの意思を奪うことなく、彼女が帰るための手助けをする準備を始める。
【第85話へ続く……】




