【第72話】「公爵令嬢」
【第72話】「公爵令嬢」
ASTRAEONにとって、夜は決して停止を意味しない。
これほど巨大な船では、常に何かが動いている。
航法システムは民間航路を監視し続け、船体外部ではメンテナンス・ユニットが作業を続ける。アグリカルチャー・デッキでは、人間が考える「夜」という概念を持たない植物のために照明サイクルが維持されていた。メディカル・インスティテュートでは、患者のモニタリングが継続している。
そして、そのすべての活動の中で、数時間前から準備されていたひとつの通信が、ついに使用される時を待っていた。
Aureliaは、まだ治療室にいた。
スリーピング・ポッドの中でほぼ七ヶ月を過ごした身体は完全には回復していないものの、通常の会話ができる程度には意識が戻っている。
彼女の前には、安全モードで待機している通信端末があった。
音はない。
顔も表示されていない。
ただ、接続の準備が完了していることを示すインジケーターだけが表示されていた。
Aureliaは、その画面を長い間見つめていた。
Tsumugiは、彼女から少し離れた場所に立っている。
Rheaは部屋の反対側にいて、意図的に距離を取っていた。
Seraphielも、必要のないデータは何ひとつ表示していない。
数秒が過ぎた。
やがてAureliaが口を開いた。
「つまり……あのボタンを押せば、家族に着信が届くのですか?」
「Seraphielが用意した回線が正しければ、そうなるわ」
「そして、私が生きていることを知っているのですね?」
Tsumugiは正直に答えた。
「保安機関には、AURELIS SERENAからひとりの生存者が発見されたことは伝わっている。でも、あなた自身が準備できるまでは、家族との個人的な会話はまだしていないわ」
Aureliaは俯いた。
「分かりました」
声は落ち着いている。
落ち着きすぎているほどだった。
Tsumugiは、人を知るということが、必ずしも相手が恐れていないという意味ではないことを、十分に知っていた。
時には、その逆なのだ。
Aureliaは毛布の端を握った。
「父は、すぐには信じてくれないかもしれません」
「どうして?」
「もう、ほぼ七ヶ月ですから」
彼女は小さく笑った。
そこに喜びはなかった。
「もし私が父の立場だったら、これほど長く行方不明になった人間が、突然、知らない人の船から電話をかけてくるなんて、私も信じられないと思います」
Rheaが、ようやく口を開いた。
「だったら、あなた自身を見てもらえばいいじゃない」
Aureliaが振り向く。
「そんなに簡単でしょうか?」
「簡単じゃないわ」
Rheaは壁に背を預けた。
「だから、全部を簡単に見せようとしなくていいのよ」
Aureliaは黙った。
その言葉が、かえって少しだけ彼女を楽にしたようだった。
Tsumugiは通信端末へ近づいた。
「まだ準備ができていないなら、延期してもいいわ」
Aureliaはすぐに首を横に振った。
「いいえ」
返事は早かった。
しかし、その直後に息を吸い、言葉を整える。
「すみません。拒否したいわけではありません」
「分かっているわ」
「私は、ただ……」
Aureliaは言葉を止めた。
再び画面を見る。
「もう、あまりにも多くの時間を失いました。たったひとつのボタンを押すのが怖いという理由だけで、その次の数分まで失いたくありません」
Tsumugiは何も言わなかった。
そこには恐怖があった。
家族への恋しさもある。
まだ形になっていない罪悪感もある。
そして、そのすべての上に、ただ家の声を聞きたいという単純な願いがあった。
Aureliaが手を上げる。
指先が、パネルから数センチのところで止まった。
そして、押した。
通信システムが起動する。
通常の通信端末のような呼び出し音はない。
Seraphielは、あらかじめ準備していた安全な通信経路を使用していた。
ひとつのインジケーターが動く。
一つ。
二つ。
三つ。
Aureliaは息を止めた。
Tsumugiには、彼女の肩がわずかに上がったのが分かった。
Rheaも、その表情を見つめている。
そして、接続が受け入れられた。
画面が切り替わる。
ひとりの男性が映った。
Tsumugiよりはるかに年上だ。
顔には疲労が見える。
しかし、最初に現れたのは怒りではなかった。
安堵でもない。
不信だった。
男性は、画面に映るものが映像を操作したものではないのか確かめようとするかのように、じっと見つめている。
Aureliaは、すぐには話さなかった。
唇がわずかに開く。
しかし、また閉じる。
やがて男性が口を開いた。
「……Aurelia?」
その声を聞いた瞬間、Aureliaの表情が変わった。
七ヶ月。
時間として数えれば、たった七ヶ月。
しかし、彼女がよく知るひとつの声が、その距離をはるかに遠いものとして感じさせた。
「お父さん……」
その一言で、声が震えた。
Tsumugiは、Aureliaが顔を俯けるのを見た。
画面の向こうの男性も黙っている。
すると、別の女性の声が聞こえた。
「Aurelia?」
ひとりの女性が視界へ入ってくる。
男性の隣に、女性の顔が映った。
Aureliaは彼女を見つめた。
「お母さん……」
女性はすぐに口元を覆った。
目が大きく見開かれる。
数秒間、誰も一言も発しなかった。
説明など必要なかった。
彼らは互いを認識していた。
それが家族だった。
必ずしも名前を必要としない。
必ずしも書類を必要としない。
七ヶ月間、何の連絡も取れなかったとしても、声と顔には、記憶の中でそれぞれの居場所が残っている。
Aureliaの父が、ようやく口を開いた。
「どこにいる?」
Aureliaは目尻を拭った。
「私は……ASTRAEONにいます」
「ASTRAEON?」
「はい」
「誰が我々に連絡している?」
AureliaはTsumugiを見る。
「船長です」
Tsumugiが少し近づいた。
「Hoshizaki Tsumugiです。ASTRAEONの船長をしています」
Aureliaの父はTsumugiを見つめた。
その表情が、より警戒したものへ変わる。
信じていないからではない。
七ヶ月ぶりに娘が発見されたと知った父親が、慎重になるのは当然だった。
「どうすれば、娘が本当にあなたの船にいると確認できますか?」
Tsumugiは、気分を害することなく答えた。
「私がそう言ったからといって、信じる必要はありません。Seraphielから、必要な医療データと本人確認情報を、検証済みの通信経路を通じて送ることができます。それと、保安機関からAURELIS SERENAをASTRAEONとともに運び、さらに調査するよう要請も受けています」
Aureliaの父は黙った。
その隣で、母親が娘を見る。
「Aurelia、怪我はないの?」
「ひどくはありません」
「それは答えになっていないわ」
Aureliaは薄く笑った。
「まだ身体は弱いです。でも、意識は戻っています。こちらの人たちが、きちんと治療してくれています」
母親は、長い間娘を見つめた。
「食事はした?」
Aureliaが黙った。
Rheaは笑いをこらえた。
Tsumugiも、危うく笑いそうになる。
七ヶ月ぶりに聞く最初の質問。
帝国のことでもない。
船のことでもない。
事故の原因でもない。
食事だった。
Aureliaは答えた。
「しました」
「どれくらい?」
「……お母さん」
「あなたは、ほぼ七ヶ月ぶりに目を覚ましたばかりなのよ。聞く権利はあるでしょう」
「分かっています」
Aureliaの声に、わずかな変化があった。
目を覚ましてから初めて、彼女は普通の娘のように聞こえた。
公爵令嬢ではない。
行方不明になった船の乗客でもない。
政治的な問題に巻き込まれた人物でもない。
ただ、母親と話している娘だった。
Tsumugiは、その変化を邪魔することなく見守った。
やがてAureliaの父が尋ねた。
「スリーピング・ポッドには、どれくらい入っていた?」
Aureliaは息を吸った。
「ほぼ七ヶ月です」
母親は目を閉じた。
父親は俯く。
「本当だったのか」
「はい」
「私たちは、お前を探した」
Aureliaは画面を見つめた。
「分かっています」
「分かっていない」
父親の声は強くなかった。
だからこそ、その言葉は重かった。
「どれだけ多くの人間に連絡したか。どれだけの航路を調べたか。何隻の船に捜索を依頼したか。AURELIS SERENAについて何か情報が入るたびに、そこにお前がいることを願った」
Aureliaは唇を噛んだ。
「ごめんなさい」
父親はすぐに答えた。
「謝るな」
Aureliaは黙った。
「お前がしたことではないことを、謝る必要はない」
その言葉によって、Aureliaは顔を俯けた。
それまで抑えていた罪悪感が、ようやく外へ出る場所を見つけた。
「それでも、罪悪感があります」
「なぜ?」
「私は、いなかったから」
父親は娘を見る。
「お前が自分で消えたわけではない」
「でも、みんなは私がいないまま七ヶ月を過ごした」
母親が優しく口を挟んだ。
「そして、あなたも私たちがいないまま七ヶ月を過ごしたのよ」
Aureliaが顔を上げた。
その言葉は単純だった。
しかし、これまで彼女が考えることを恐れていた何かに、正確に触れた。
彼女は七ヶ月間、家族を失っていた。
家族もまた、彼女を失っていた。
待っていたのは、一方だけではない。
傷ついていたのも、一方だけではない。
彼らは同じ時間を、それぞれ違う形で生きていた。
Aureliaは長く息を吐いた。
「ごめんなさい」
母親は悲しそうに微笑んだ。
「まだそう言いたいなら、今はしまっておきなさい。帰ってきてから話しましょう」
Aureliaは頷いた。
「はい」
会話は続いた。
大きな質問ではなかった。
むしろ、小さなことばかりだった。
最後に何を覚えているのか。
最後に健康だと感じたのはいつなのか。
旅のことを覚えているのか。
今いる船を認識しているのか。
Aureliaは、一つずつ答えた。
時には滑らかに。
時には言葉を止めながら。
時には遠く感じられる記憶の断片を探すために、目を閉じなければならなかった。
Tsumugiは口を挟まなかった。
Rheaも同じだった。
数ヶ月にわたって途絶えていた通信を取り戻した家族に、話すための時間を与えた。
しかし、やがて会話は私的な領域だけでは済まなくなった。
Aureliaの父がTsumugiを見る。
「Hoshizaki船長」
「はい」
「ありがとう」
Tsumugiは頷いた。
「偶然、あなた方の船を見つけただけです」
「それだけではありません」
男性は息を吸った。
「あなたが船を調べると決めたからこそ、私の娘は生きています」
Tsumugiは静かに答えた。
「放棄された船の中に生存者がいるなら、救助するのは称賛されるようなことではないと思います」
Aureliaの父は黙った。
それから言った。
「あなたは傭兵ですか?」
Tsumugiは頷いた。
「Independent Space Mercenaryです」
「分かりました」
声の調子が、わずかに変わる。
何かを思い出したようだった。
「それなら、救助費用について尋ねなければなりません」
Rheaが素早く振り向いた。
Tsumugiも、一瞬黙った。
Aureliaは、少し恥ずかしそうな表情で父親を見る。
「お父さん……」
「何だ?」
「今、私を助けてくれたばかりですよ」
「分かっている」
「なのに、すぐ費用の話をするのですか?」
「だからこそだ」
男性は息を吐いた。
「これほど大きな船を運用する傭兵が、無料の食事だけで動いているわけではない」
Tsumugiは笑いをこらえた。
Rheaは口元を手で覆う。
そして、これまで通信システムとして会話を見守っていたSeraphielが、ついに口を挟んだ。
「その発言は、財務上かなり正確です」
Aureliaが端末を見る。
「Seraphiel……」
「私は事実を伝えただけです」
Aureliaの父は少し困惑した。
「それは誰だ?」
「船のAIです」
「Sovereign AIです」
Tsumugiがパネルを横目で見る。
「Seraphiel」
「支援しています」
Rheaはとうとう笑い出した。
重かった空気が、少しだけ和らぐ。
Aureliaの父親でさえ、小さく笑みを見せた。
「分かった。娘の状況が明確になった後で、管理上の問題はこちらで処理しよう」
Tsumugiは頷いた。
「そのほうがいいでしょう」
その場で支払いの約束が交わされたわけではない。
金額も決まっていない。
契約も存在しない。
AURELIS SERENAそのものも、まだ正式な調査と法的責任に関する手続きの途中にある。
Tsumugiには、ひとつだけ明確なことが分かっていた。
誰かを助けることは、その後に発生するすべての問題を消すことではない。
しかし、ひとりの娘が家族に自分が生きていると伝える前に、その問題を話し合う必要もない。
救助に関する話が終わると、Aureliaの父親は再び真剣な表情になった。
「Aurelia」
「はい?」
「これから、どうしたい?」
その質問に、少女は黙り込んだ。
Tsumugiを見る。
それからRheaを見る。
そして再び画面へ向き直る。
「まだ、分かりません」
父親はゆっくりと頷いた。
「それでいい」
「七ヶ月の間に、何が変わったのかも、まだ分かりません」
「私たちが説明する」
「全部?」
「できる限り」
Aureliaは薄く笑った。
「時間がかかりそうですね」
母親が答えた。
「それなら、時間はあるわ」
Aureliaは息を止めた。
安堵が生まれる。
しかし、それと同時に新しい恐怖も生まれていた。
帰るということは、すべてに再び向き合うことだ。
家族。
名前。
地位。
自分が戻るのを待ちながら止まることなく続いていた人生。
そして、おそらく避けることのできない責任。
Aureliaは画面を見つめた。
「お母さん」
「何?」
「……全部、まだ同じですか?」
母親は、すぐには答えなかった。
その質問は、あまりにも広すぎた。
やがて彼女は答える。
「いいえ」
Aureliaは俯いた。
「でも、だからといって、すべてが悪くなったわけではないわ」
その答えに、Aureliaは再び顔を上げた。
「そうですか」
父親が続ける。
「以前出発したときと、まったく同じ人間として戻る必要はない」
Aureliaは黙った。
単純な言葉だった。
しかし、幼い頃から規則の多い環境で生きてきた彼女にとって、その言葉は、おそらく受け入れることが難しいもののひとつだった。
「もし帰ったら」と、Aureliaはゆっくり言った。「すぐに、以前の予定へ戻らなければいけませんか?」
父親は答えなかった。
代わりに、母親が微笑む。
「あなた、まだ治っていないでしょう」
「分かっています」
「それなら、明日の朝には二十件の会議に出席しなければならないような話し方をしないの」
Aureliaは小さく笑った。
「ただ、知りたいだけです」
父親が息を吐く。
「調整する」
Aureliaは父親を見る。
「本当ですか?」
「本当だ」
通信が始まってから初めて、父親の声が公爵のものではなくなった。
父親の声になっていた。
しばらく家族との会話が続いた後、Aureliaはそれまで伝えていなかったことを口にした。
「お父さん」
「何だ?」
「ひとつ、許可をお願いしたいことがあります」
「言ってみなさい」
「私は、すぐには帰りたくありません」
部屋が静まり返った。
RheaがTsumugiを見る。
Tsumugi自身は、大きな反応を示さなかった。
その可能性は、すでに考えていた。
Aureliaの父親が尋ねる。
「まだ治療を受けたいからか?」
「それだけではありません」
Aureliaは画面を見つめる。
「何が起きたのか理解したいのです。今、自分がいる場所を見たい。私が眠っている間に、銀河がどのように変わったのか知りたい」
父親は黙った。
Aureliaは続ける。
「そして、すべてが家族会議になってしまう前に、あなたたちと話したいのです」
母親が小さく微笑む。
「時間が欲しいのね」
「はい」
「自分のために?」
Aureliaは頷いた。
「たぶん、初めて」
最後の言葉は、意図せずこぼれた告白のようだった。
Tsumugiは彼女を見つめていた。
そこには恐怖がある。
Aureliaは帰りたくないわけではない。
帰った瞬間、すべての人間が、かつて彼女が離れた場所へ引き戻そうとすることを恐れているのだ。
彼女はAureliaとして帰りたい。
称号としてではなく。
家族の象徴としてでもなく。
政治的な計画の一部としてでもなく。
母親は、父親よりも早くその気持ちを理解した。
「私たちで話し合うわ」
Aureliaの父親は、まだ黙っていた。
やがて言う。
「分かった」
Aureliaは少し驚いた。
「本当に?」
「そうだ」
父親は娘を見つめる。
「ただし、もう消えるな」
Aureliaは小さく笑った。
「ちゃんと連絡します」
「そういう意味ではない」
「分かっています」
二人は画面越しに見つめ合う。
やがて父親が息を吐いた。
「身体を大切にしなさい」
Aureliaは頷いた。
「ありがとう、お父さん」
母親が画面へ近づく。
「それから、ちゃんと食べるのよ」
Aureliaは小さく笑った。
「お母さん、まだそれを気にしているの?」
「あなたが私の娘である限り、気にするわ」
「もう十八歳ですよ」
「母親にとって、その数字はあまり意味がないの」
Aureliaは笑みをこらえた。
「分かりました」
家族との接続は、すぐには切られなかった。
彼らはさらに数分間、小さなことについて話した。
食事。
睡眠。
身体の状態。
次に通信する時期。
その夜、大きな決定が何かひとつ解決したわけではない。
それでも、ひとつだけ変わった。
Aureliaは、もうひとりではなかった。
通信が終了すると、画面が再び暗くなった。
Aureliaはその場に座ったままだった。
両手は膝の上にある。
泣いてはいない。
しかし、目は少し赤くなっていた。
Tsumugiは、すぐに「大丈夫?」とは聞かなかった。
そういう質問は、時として相手に「正しい答え」を返さなければならないと思わせてしまう。
だから、別の言葉を選んだ。
「疲れた?」
Aureliaは弱々しく笑った。
「少し」
「それなら、休みましょう」
Aureliaは首を横に振った。
「まだです」
「どうして?」
「今、家族の声を取り戻したばかりなので」
Tsumugiは黙った。
Aureliaは暗くなった画面を見つめる。
「変な感じです」
「どう変なの?」
「家族の声を聞くのが怖かったんです」
「どうして?」
「変わってしまっているのが怖かったから」
Aureliaは一度言葉を止めた。
「でも、実際に聞いてみたら、今度は私のほうが変わってしまったのではないかと思いました」
Tsumugiは腰を下ろした。
「それは自然なことよ」
AureliaがTsumugiを見る。
「あなたも、そう感じたことがありますか?」
Tsumugiは少し考えた。
「変わることが怖いと感じたこと?」
「はい」
「長い旅をすれば、変わらずにいるほうが難しいわ」
Aureliaは小さく笑った。
「落ち着いた答えですね」
「私だって答えは分からないわ」
「本当ですか?」
「本当よ」
Aureliaは小さく笑った。
「それなら、私が知っている人たちの多くより、ずっと正直ですね」
Tsumugiは肩をすくめた。
「分からないなら、分からないと言えばいい。それだけのほうが簡単よ」
Aureliaは、しばらくTsumugiを見つめていた。
その答えの何かを、気に入ったようだった。
美しく飾られていない。
立派に見せようともしていない。
早く元気になれとも求めていない。
ただ、正直だった。
しばらくして、TsumugiはAureliaを治療室の外へ連れ出した。
Seraphielは、短い距離であれば補助を受けながら歩ける程度まで状態が安定していることを確認していた。
Euphoria Medical Instituteの廊下は、数時間前とは違っていた。
夜間照明によって、光はより暗く落とされている。
医療ドローンの移動も少ない。
いくつかの治療室の扉は閉じられている。
Aureliaはゆっくり歩いた。
一歩。
そして、もう一歩。
Rheaが少し離れて後ろをついてくる。
「急がないで」
「急いでいません」
「歩き方がそう言っているわ」
Aureliaは立ち止まった。
「本当ですか?」
Rheaは笑った。
「少しだけね」
Aureliaは息を吸った。
それから歩く速度を落とした。
二人は医療区画を出る。
目の前の景色が変わった。
ASTRAEONは、もう病院のようには感じられない。
より広い廊下が、Euphoria Medical Instituteと居住区画をつないでいる。
グランド・サロンへ続くアクセスがある。
グランド・ダイニングへ向かう通路もある。
娯楽施設へ通じる扉もある。
それらすべてが、ひとつの船の中に存在していた。
Aureliaは周囲を見回した。
「これも、本当に船の一部なのですか?」
Tsumugiは頷いた。
「そうよ」
「この船は、実際にはどれほど大きいのですか?」
Rheaが答えた。
「八千六百メートル」
Aureliaは立ち止まった。
ゆっくりと振り向く。
「……八千六百?」
「だいたいね」
AureliaはTsumugiを見る。
「それを、船と呼んでいるのですか?」
Tsumugiは笑った。
「ほかに何と呼べばいいの?」
Aureliaが笑う。
今度は、よりはっきりとした笑いだった。
その小さな笑いによって、歩みがわずかによろめく。
Tsumugiはすぐに手を差し出した。
Aureliaは、その手を取る。
「すみません」
「気にしなくていいわ」
彼女が再び安定して立つ。
それから、また歩き始めた。
ハンガー区画へ近づいた時、Aureliaは目を覚ましてから一度も見ていなかったものを目にした。
大きな観測パネル越しに、AURELIS SERENAがASTRAEONのハンガー区域に収容されている。
かつて自分が最後に乗っていた旅客船が、はるかに巨大な船の内部にある。
船体は固定用の構造によって保持されていた。
いくつもの地点でエンジニアリング・ユニットが作業している。
Calistaはドッキング区域にいて、補助システムとともに船体の状態を確認していた。
Aureliaが立ち止まる。
「あれは……」
「AURELIS SERENAよ」
彼女は、その船を見つめた。
そこにあったのは、感嘆ではない。
誇りでもない。
胸が締めつけられるような感覚だった。
そこは、彼女が人生の七ヶ月を失った場所。
多くの人間が二度と外へ出ることのなかった場所。
家族が彼女の消息を失った場所。
Tsumugiが隣に立つ。
「証拠として保存する必要があるものには、何も手を加えないわ」
Aureliaは頷いた。
「分かっています」
「保安機関も、その船を私たちと一緒に運ぶよう求めているわ」
Aureliaが振り向く。
「なぜですか?」
「検査のため。それから、次の手続きが終わるまで証拠を安全に保つためよ」
Aureliaは再びAURELIS SERENAを見る。
「では、あの船の旅は、まだ本当には終わっていないのですね」
「まだよ」
Aureliaは黙った。
そして、言った。
「たぶん、私も同じですね」
Tsumugiは答えなかった。
ただ、その言葉をそのまま残した。
朝が近づく頃、Aureliaは再び治療室へ戻った。
長い距離を歩けるほどには、まだ回復していない。
しかし、その夜は医療機器では与えられないものを、彼女にもたらした。
確信。
家族は、自分が生きていることを知った。
そして自分も、家族がまだ自分を待っていることを知った。
しかし、その確信によって、別の問題が消えるわけではない。
七ヶ月を経た後の人生と向き合わなければならない。
中断された教育。
決して完全に消えることのない礼儀作法。
組み直さなければならないかもしれない予定。
幼い頃から常に周囲に存在していた警護。
家族としての責任。
そして、簡単には切り離せない名前とともに訪れる政治的な期待。
Aureliaはベッドの端に座った。
Tsumugiは扉の近くにいる。
「ひとつ、聞いてもいいですか?」
「いいわ」
AureliaがTsumugiを見る。
「私が公爵の娘だと分かったら、私への接し方は変わりますか?」
Tsumugiはすぐには答えなかった。
そして言った。
「あまり変わらないわ」
Aureliaは驚いたように見えた。
「あまり?」
「あなたは、七ヶ月ぶりに目を覚ましたばかりの患者であることに変わりはないから」
Aureliaは笑った。
「とても単純な答えですね」
「そのままよ」
Tsumugiは近づいた。
「あなたの称号が理由で、私たちの責任になるわけじゃない。生きているあなたを見つけて、救助することを決めたから、私たちの責任になったのよ」
Aureliaは俯いた。
「私が回復した後は?」
「その後は、自分で決めればいい」
「帰ることも?」
「帰ることも」
「ここに残ることも?」
TsumugiはAureliaを見る。
「当面、乗客としてなら話し合うことはできる。でも、混乱しているからという理由だけで、大きな決断をしないほうがいいわ」
Aureliaは小さく笑った。
「つまり、『公爵令嬢なのだから、すぐに帰りなさい』とは言わないのですね?」
「言わない」
「どうして?」
「私はあなたの父親じゃないから」
Aureliaは黙った。
そして、小さく笑った。
「それも、そうですね」
扉の外に立っていたRheaも笑った。
「船長、たまに正論すぎるのよ」
Tsumugiが振り向く。
「それって問題なの?」
「いいえ。ただ、少し腹が立つだけ」
Aureliaは笑いをこらえるように口元を覆った。
重かった空気が、再び軽くなる。
ほんの短い間だけ。
それでも十分だった。
朝が近づいていた。
ASTRAEONの反対側では、ハンガーシステムがAURELIS SERENAの最終固定を完了させていた。
Calistaが技術報告を送信する。
Seraphielがデータを受信する。
追加の船体損傷は確認されていない。
旅客船は運搬可能な状態にある。
しかし、正式な検査はまだ終わっていない。
Medical Instituteでは、Aureliaが再び横になる。
まだ完全には眠くなっていない。
Tsumugiは立ち上がり、部屋を出ようとしていた。
「Aurelia」
「はい?」
「ひとつ、聞きたいことがあるの」
AureliaがTsumugiを見る。
「何でしょう?」
「あなたは、帰りたい?」
その質問は単純だった。
圧力はない。
家名もない。
義務もない。
ただ、選択だけがある。
Aureliaは、しばらく答えを考えた。
「まだ、分かりません」
Tsumugiは頷いた。
「それで十分よ」
Aureliaは天井を見つめた。
それから言った。
「子供の頃から初めて、自分がどこへ行くのかを、自分自身で決めたいと思っています」
Tsumugiは、その願いが簡単なものだとは言わなかった。
そんなことではないと分かっている。
それでも、人は必ずしも他人に道を決めてもらう必要はない。
時には、選ぶ機会さえあればいい。
Aureliaは毛布を少しだけ高く引き上げた。
「おやすみなさい、Tsumugi-san」
「おやすみ」
Tsumugiが扉へ向かう。
その前に、Aureliaがもう一度呼び止めた。
「Tsumugi-san」
「何?」
AureliaはTsumugiを見る。
「私が帰る前に……」
そこで一度、言葉を止めた。
まるで、心の中で少しずつ膨らんでいた願いを、今になって初めて口に出す覚悟ができたようだった。
「銀河を見てもいいですか?」
Tsumugiが立ち止まった。
廊下から聞いていたRheaも、黙った。
Aureliaは小さく微笑んだ。
公爵令嬢の笑顔ではない。
家を継ぐ者の笑顔でもない。
ただ、自分の時間を取り戻したばかりの十八歳の少女の笑顔だった。
そして、目を覚ましてから初めて――
彼女は、以前の人生へ戻してほしいとは願わなかった。
自分が七ヶ月間眠っている間も進み続けていた世界を、自分の目で見る機会を求めたのだった。
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【次話 第73話 — 「一つの願い」】
日本語タイトル: 「一つの願い」
あらすじ: Aureliaが銀河を見たいと願ったことで、TsumugiはASTRAEONの旅の当初の目的だった「休暇」というものの意味を、改めて考えることになる。Tsumugiは、Aureliaが公爵の娘だからという理由だけで旅の計画全体を変更したくはない。しかし、その願いは実に単純なものだった。家族の人生と再び向き合う前に、自分自身の目で世界を見たい。Aureliaもまた、ASTRAEONとともに旅をすることで、これまで経験したことのなかったものを得られるかもしれないと、少しずつ理解し始める。
【第73話へ続く……】




