【第179話】「戦姫の選択」
### 【第179話】「戦姫の選択」
場所: ASTRAEON VELORIA — グランドサロン、会議室、メインハンガー 主要
視点: セラフィナ・ヴァルクレイン・ヴェルドラコン → モード・ラン・ヴァレス → カリスタ・フェロ → 星崎紬
### 視点:セラフィナ・ヴァルクレイン・ヴェルドラコン
グランドサロンの窓の向こうに広がる星々は、静かに輝いていた。
まるで、つい先ほどまで私が通過してきた国境航路で、戦闘など一度も起きなかったかのように。
目の前のティーカップからは、まだかすかな湯気が立ち上っている。柔らかな香りが、清潔で温かな室内の空気に溶け込んでいた。
私は何度かカップを手に取ったものの、まだほとんど口をつけていない。
それよりも、頭の中では先ほどの会話が繰り返されていた。
ヴェルドラコンへ帰るか。
それとも、しばらくASTRAEON VELORIAに留まるか。
口にすれば単純に聞こえる二つの選択肢。しかし、考えれば考えるほど、検討しなければならないことが増えていく。
「さっきから、紅茶に手をつけていないな」
テーブルの向かい側から、紬の声が聞こえた。
私は彼に視線を向ける。
青年は個人端末に表示された何かを読んでいた。その手元には、小さな皿に盛られた軽食が置かれている。
「少し考え事をしていたの」
「紅茶が魅力的に見えなくなるくらい、深刻なことらしいな」
「紅茶に問題があるわけではないわ」
「それならよかった。厨房に新しいものを頼まなくて済む」
私はしばらく彼の顔を見つめた。
「心配していたのは、そこなの?」
「食べ物を無駄にしたくないからな」
「……」
紬は再び端末に視線を戻した。
まるで、それだけ答えれば会話は終わりだと言わんばかりに。
私はようやくカップを持ち上げ、紅茶を一口飲んだ。
味は変わらず美味しい。
不思議なものだ。これほど多くのことが起きているというのに、この青年は食べ物が無駄にならないかどうかを気にしている。
「紬」
「ん?」
「決めたわ」
紬の指が止まった。
彼は顔を上げ、個人端末をテーブルに置く。
「そうか」
大げさに驚く様子はない。
私が帰るのか、それとも残るのかと尋ねることもなかった。ただ、続きを待っている。
その態度が、かえって私を少し緊張させた。
「しばらくASTRAEON VELORIAと一緒に旅を続けたいの」
「分かった」
「理由を聞かないの?」
「君なら、そのうち話してくれるだろう」
私は小さく微笑んだ。
「本当に変わらないわね」
「それが褒め言葉なのかは分からないな」
「そう受け取っておいて」
私はティーカップを置き、部屋の側面にある大きな窓へ視線を移した。
外では、停泊中の船がほとんど動いていないため、星々がゆっくりと流れているように見える。
「私は、宮殿の外から国境地帯の実情を理解したいの。これまで私が受け取ってきた情報の大半は、軍の報告書や帝国の官僚、あるいは何らかの利害を持つ人々を通じたものだった」
「皇女にとっては、それが正式な情報経路だからな」
「ええ。でも、公式報告が必ずしも全体像を示しているとは限らないと、気づき始めたの。記録に残らないこともあれば、報告が遅れることもある。あるいは、そもそも私のところまで届いていない情報だってあるかもしれない」
「ASTRAEAへの襲撃も、その一つか?」
「そうよ」
私は視線を紅茶の表面に落とした。
「本当は何が起きていたのか、まだ分からないことがたくさんあるわ。なぜ私たちの船が標的になったのか。敵はどうやって私たちの移動経路を把握したのか。そして、襲撃が起きる前に、どのような情報が失われていたのか。私は、他人が出した結論を受け取るだけでは終わりたくないの」
「自分の目で確かめたい、ということか」
「ええ」
紬は椅子の背もたれに身体を預けた。
「かなり危険な話に聞こえるな」
「分かっているわ」
「俺たちの旅も、いつも快適な場所を通るわけじゃない。補給基地を出た後は、護衛契約を受けるかもしれないし、独立コロニーを訪れるかもしれない。医療設備すら十分に整っていない場所へ向かう可能性だってある」
「レアから説明を受けたわ」
「彼女の説明は分かりやすかったか?」
「この船で過ごす日々を、食事や豪華な設備を楽しむだけの時間だと思ってはいけないと言われたわ」
「それは、なかなかいい説明だな」
私は思わず笑いそうになった。
「それから、安全規則を守れないなら、危険な場所から自分が引きずってでも連れ出すとも言っていたわ」
「たぶん、本当にやるだろうな」
「疑っていないわ」
紬は皿から軽食を一つ取った。
「それで、家族のことはどうする?」
その質問で、室内の空気が少し変わった。
私は視線を逸らさなかった。
「家族を無視するつもりはないわ。報告もするし、状況も説明する。襲撃の後に何が起きたのかも調べなければならない。ただ、帰還することが、すべての疑問に蓋をする結末にはしたくないの」
「自分の決断を伝えればいい」
「そうするつもりよ」
「それで、帰ってくるように言われたら?」
私は少し黙った。
その可能性については、最初から考えていた。
「彼らの言い分には耳を傾けるわ。家族からの要請だからといって、何もかも拒絶するつもりはない。でも、何をすべきか決める前に、私の考えも聞いてほしいと思っている」
紬は小さく頷いた。
「何も言わずに姿を消すよりは、そのほうがずっといい」
「そんなつもりはないわ」
「よかった。行方不明者の件をまた処理することになったら、ランに小言を言われそうだからな」
「この部屋にランがいなくても、今の言葉を聞いたら何と言うか想像できるわ」
「そういう能力があるからな、あいつは」
私たちは小さく笑い合った。
けれど、まだ伝えていないことが一つあった。
「紬、私に普段から付き添っている人たちのことなのだけれど……」
「帝国の屋敷にいる人たちか?」
「ええ。補佐官や、私付きの侍女たちよ。本人たちが応じてくれるかはまだ分からないけれど、旅がかなり長くなるのなら、同行をお願いしたいと思う可能性があるわ」
紬はすぐには答えなかった。
彼は軽食の皿をテーブルの中央へ少し寄せてから、私を見た。
「今はヴェルドラコンにいるのか?」
「ほとんどは皇族の屋敷にいるわ。ASTRAEAでの旅には同行していなかったから」
「そうか」
「まだ誰にも頼んでいないわ。まずは、その可能性について話しておきたかったの」
「なら、家族と相談すればいい」
返事は簡潔だった。
私は彼の表情を観察した。質問を避けているのか、それとも本当に問題ないと思っているのかを確かめるために。
「反対はしないの?」
「まだ、彼らを同行させてほしいという正式な依頼を受けていないからな」
「でも、私が頼んだら?」
「それでも、まずは君の家族と話し合う必要がある。彼らは皇族に仕えていて、その責任は皇族側にある。俺が一方的に、任務を離れてもいいと決めることはできない。まして、必ずしも安全とは限らない旅に連れていくんだからな」
彼は少し間を置いてから、続けた。
「君が許可を求めることまで止めるつもりはない。俺が船長だからといって、そういうことを一存で決められるわけじゃない。父親と母親には知らせるべきだし、祖父母にも、彼らの配置を決める権限がまだあるのなら確認しておいたほうがいい」
「つまり、私が申し出ること自体には問題ないのね?」
「彼らが必ず同行できるとは言っていない。君が許可を求めるのは構わないと言ったんだ。家族が認めて、本人たちも望んでいて、さらにランが旅の準備を整えられるなら、その時点で改めて話し合おう」
私はゆっくりと頷いた。
どうやら、紬が引く境界線は明確らしい。
彼は私の家族の決定を横取りしようとはしない。かといって、自分の権限を越えることを安易に約束するわけでもなかった。
「ありがとう」
「礼を言うのはまだ早い。書類を作るのはランだからな」
「それは警告に聞こえるわ」
「少しだけな」
私は微笑んだ。
窓の外では、遠くの停泊位置を物流船の光が横切っていく。
久しぶりに、自分自身が望む旅について考えている気がした。
宮殿の予定表によって決められた航路ではない。
背負っている称号ゆえに遂行しなければならない命令でもない。
ただ、一つの旅。
もちろん、そんな旅にも代償と責任が伴うことは分かっている。
「会議の後で、あなたの家族に正式な申し出を伝えるわ」
紬がちらりと私を見た。
「俺の家族に?」
「自分の家族、という意味よ」
「ああ」
「何度も言い間違えさせないで」
「俺は何もしていないぞ」
「ただ座って、何気なく返事をしているだけ。それだけで十分に調子を狂わされるのよ」
「なら、もっと真剣な顔で座るように努力する」
「その必要はないわ」
私はようやく紅茶を飲み干した。
数分後、通信端末から通知音が鳴り、ランが会議室を準備したことを知らせてきた。
私たちの個人的な話し合いも、ここまでだ。
今度は、自分の決断を正式に伝える番だった。
### 視点:モード・ラン・ヴァレス
一時的な旅行契約書の草案は、会議室のメインスクリーンに表示されていた。
私は各条項をもう一度確認していた。
護衛契約ではない。
船の所有権移転もない。
ASTRAEON VELORIAがヴェルドラコン帝国の名義で運用される船になるわけでもない。
その点は、意図的に明記してある。
セラフィナ様が皇族としての立場を悪用すると考えているわけではない。
ただ、皇女と独立船舶の関係を、曖昧な認識に委ねるわけにはいかなかった。
たった一文の不適切な表現が、外交問題へと発展する可能性もある。
そんな事態を許すつもりはなかった。
「ラン、まだ確認することがあるの?」
会議室の入り口から、セラフィナ様の声が聞こえた。
私は顔を上げる。
「いくつか、直接確認させていただきたい項目がございます。どうぞお入りください、セラフィナ様」
その後ろから紬も入ってきた。
グランドサロンでの個人的な話し合いを終えたところなのだろう。
私は文書の表示位置を調整し、読みやすいように画面を切り替えた。
「一時的な旅行契約の草案を用意いたしました。内容は複雑ではありませんが、船長の決定を正式に適用する前に、合意していただきたい境界線がいくつかございます」
「説明してちょうだい」
「まず、一つ目はセラフィナ様の身分についてです」
私は文書の冒頭部分を表示した。
旅行上の身分――セラフィナ・ヴァルクレイン・ヴェルドラコン
* 身分:一時的な旅の同行者
* 中核クルーへの所属:なし
* 指揮権限:なし
* 運航上の意思決定権:なし
* 身分の再評価:状況または旅の目的が変更された場合に実施
セラフィナ様は、表示された項目を一つずつ落ち着いて読んでいた。
「つまり、私はクルーではないのね?」
「はい。ASTRAEON VELORIAの正規クルーである六名の所属に変更はございません。セラフィナ様の身分は、一時的な旅の同行者となります」
「クルーに命令することもできない?」
「ご要望やご意見を伝えることは可能です。ただし、運航上の決定は船長と、それぞれの担当分野に責任を持つ者が行います」
「分かったわ」
私は説明を続けた。
「二つ目は、アクセス権限です。居住者や船の来客に開放されている施設はご利用いただけます。ただし、基幹システム、中央制御室、一部の保安施設、技術エリアなどへの立ち入りには、引き続き許可が必要となります」
「航法システムも?」
「もちろんです」
「この船がどう動いているのか、見てみたいと思ったら?」
私が口を開く前に、紬が答えた。
「担当者に聞けばいい。カリスタが忙しくなければ、説明できる範囲で教えてくれるだろう」
「範囲で?」
「全員が知る必要のないこともあるからな」
私は頷いた。
「船長のおっしゃる通りです。共有可能な範囲で学んでいただくことはできますが、同行者になったからといって、自動的にアクセス権限が付与されるわけではございません」
セラフィナ様は不満を示さなかった。
「続けて」
「三つ目は、安全管理です。緊急事態が発生した場合、その状況に対応しているクルーの指示に従っていただきます。許可なく危険区域へ立ち入ることや、安全手順を妨げる行動は禁止です」
「私は戦闘状況で人員を指揮した経験があるわ。緊急時の指示を無視してはいけないことくらい理解している」
「その能力を疑っているわけではございません。ただし、船ごとに手順は異なります。ASTRAEAでの経験が、必ずしもASTRAEONでそのまま通用するとは限りません」
「それは当然ね」
「四つ目は、個人的な責任です。ご自身の私的な用件、所持品、そしてご自身の判断によって生じた義務については、引き続きご本人に責任を負っていただきます。船の規定に従って宿泊設備と基本的な生活必需品は提供いたしますが、この契約は無制限のサービスを保証するものではございません」
紬が頷いた。
「何でも頼めば船の義務になる、なんて思われても困るからな」
「そのために明記いたしました」
「分かっている」
私は次の項目へ移った。
「五つ目は、情報共有です。皇族、軍、その他の関係者から正式な連絡を受け、その内容が航行上のリスクに影響する可能性がある場合は、船長にお知らせください。個人的なメッセージをすべて私たちに見せていただく必要はございません。しかし、船全体の安全に関わる情報を独断で伏せることは認められません」
セラフィナ様は、その項目を少し長く読んでいた。
「例えば、家族から帰還命令が届いた場合?」
「はい。また、新たな脅威に関する通知や、警備体制の変更、ASTRAEONを帝国の問題に巻き込む可能性のある要請なども該当します。判断を下す前に、船への影響を把握しておく必要がございます」
「そのような情報を隠すつもりはないわ」
「それなら結構です」
私は一度画面を閉じ、セラフィナ様の表情を確認した。
「もう一つ、この文書にはまだ含めていない事項がございます」
「私の補佐官や侍女たちのことね?」
「はい。現時点では、皇族の屋敷から追加で同行する人員は登録されておりません。ご家族に同行の許可を求める場合は、正式な回答を待つ必要がございます」
「まだ許可は得ていないわ」
「でしたら、現状では個人的な計画として扱います。船の追加居住者として人数に含めることはいたしません」
セラフィナ様は頷いた。
「私も家族の返事を先取りするつもりはないわ」
「それから、同行する方々ご本人の意思確認も必要です。家族の許可が、そのまま本人たちの意思に代わるものだとは考えるべきではございません」
「本人たちとも話すわ」
私はその内容を記録した。
今回の話し合いで好ましく感じたことの一つは、セラフィナ様が皇女という立場を理由に、私たちへ規則の変更を要求してこないことだった。
とはいえ、まだ話し合うべき問題が残っている。
「最後に、期間についてです。この契約では、セラフィナ様に永続的な同行を義務づけることはありません。旅の目的が変わった場合、ご家族の状況が変化した場合、あるいはご自身が帰還を決断された場合には、旅行上の身分を改めて評価いたします」
「この旅を終わりのない義務にするつもりはないわ」
「それを聞いて安心いたしました」
紬が契約書の草案に目を向けた。
「ほかに追加することはあるか?」
私は全条項を確認した。
「現時点ではございません。ただ、一点だけ明確にしておきたいことがございます」
「何だ?」
「将来、セラフィナ様が帝国の任務を遂行する必要が生じたとしても、その任務が自動的にASTRAEONの任務になるわけではありません。別途、協議する必要がございます」
「同意するわ」
セラフィナ様は迷わず答えた。
「私の称号を使って、あなたたちに帝国の命令を受け入れさせるつもりはないわ。もしこの船の助力が必要な問題があれば、要請として伝える。そして、船長の判断に従うつもりよ」
紬は彼女をしばらく見つめた。
「それなら話が早い」
「あなたたちの旅を複雑にしたくないの」
「俺たちの旅に問題がなくなるわけじゃない。ただ、避けられる問題まで増やす必要はないからな」
私は文書を承認欄へ切り替えた。
「それでは、カリスタとの技術確認が終わり次第、この草案を完成させます。全員がそれぞれの境界線を理解したうえで、旅行に関する決定を正式に確定させましょう」
セラフィナ様は、もう一度文書に目を通した。
「分かったわ。署名する前に、最後まできちんと読むことにする」
「どうぞ。急ぐ必要はございません」
私は頷いた。
少なくとも今回は、次々と発生する事件から逃げ回りながら、行政手続きを片づける必要はなさそうだ。
それだけでも、十分な進歩と言えるだろう。
### 視点:カリスタ・フェロ
メインハンガーの内部から、整備機器の作動音が響いていた。
複数のドローンが、ASTRAEA OF THE SILVER LANTERNの周囲で作業を進めている。
あの王族の船の外装には、先の戦闘で受けた損傷の痕跡がまだ残っていた。しかし、最初にハンガーへ運び込んだときと比べれば、船体の状態はかなり整ってきている。
私はエンジン部品の交換報告書を確認していたところだった。
そこへ、近づいてくる足音が聞こえた。
「カリスタ」
振り返る。
セラフィナが紬とランを伴ってやってきた。
彼女たちは、部品を持ち上げているドローンの作業を妨げないよう、作業区域の境界線の外で立ち止まった。
「ちょうどいいタイミングで来たね。エンジン部分の初期検査を終えたところだよ」
「状態はどうだ?」と紬が尋ねた。
「まだ修理中。外装が少し綺麗になったからって、船全体が出航できる状態になったと思わないでよ」
「まだ何も言ってないぞ」
「あんたの顔が質問してる」
ランが小さく微笑んだ。
「カリスタ、セラフィナ様の旅行上の取り決めに含めるため、技術施設の利用範囲について説明をお願いしたいのですが」
「ああ、つまり今度は私も会議に参加するわけ?」
「あなたの担当範囲に関係する部分だけです」
「それなら問題ないよ」
私はASTRAEAの機関システムを投影表示した。
「この船は、一般的に知られている銀河標準の技術規格を採用している。だから、基本的な設計構造は維持しているよ。推進システム、エネルギー配分、冷却経路も、この船の技術者が理解できる設計に沿っている」
セラフィナは図面を注意深く見つめた。
「ASTRAEONの技術は使っていないの?」
「使っていないよ」
「本当に一切?」
私は彼女に視線を向けた。
「もう一度言ってほしい?」
「確認したかっただけよ」
「分かった。でも、必要性が本当にない限り、あんたの王族船に私たちの船の技術を持ち込むつもりはないよ。それに、技術が違うからといって、すべてのシステムを交換する必要があるわけじゃない」
私はメインエンジンの部分を拡大した。
「ASTRAEAの主機二基は深刻な損傷を受けている。修理では、使用に耐えないユニットを交換しているところだ。それと、交換用エンジンの出力にも少し調整を加えた。最終的な性能は元の能力よりわずかに向上する予定だけど、あくまでこの船の設計範囲内に収めるよ」
「ほかのシステムに影響は出ないの?」
「だからこそ、電力配分、冷却機構、推進システムとの統合を確認しているんだ。補助システムが変更に対応できるか確かめずに、エンジンの出力だけ上げるつもりはないよ」
紬が投影図を見つめた。
「あとどれくらいかかる?」
「今は確かな数字を出すつもりはないね。取り付け後の検査を通さなきゃならない部品がいくつかある。今ここで時間を言って、試験で問題が見つかったら、どうして間違った見積もりを出したのかって聞いてくるでしょ」
「実際に聞くな」
「ほらね。だから言わないんだよ」
ランは小さく首を振った。
「修理は継続中であり、完了時期はまだ確定していないと記録しておきます」
「それから、今回の作業はすべてASTRAEAの技術規格に基づいて行われていることも書いておいて。後になって、所有者側の技術者にも説明できないシステム変更があった、なんて報告されたら困るからね」
「明確に記載いたします」
セラフィナは、まだエンジンの図面を見ていた。
「修理が終われば、ASTRAEAは再び運用できるようになるの?」
「基本的な運用機能を取り戻す。それが今回の修理の目的だからね。ただし、運用可能であることと、大規模な戦闘に対応できる状態であることは同じじゃないよ」
「そういう意味で聞いたのではないわ」
「ならいい。あの船は、単独で艦隊と戦うために設計された戦闘艦じゃない。それと、ASTRAEONの医療施設を、あらゆる状況に対応できる王立病院の代わりだと思わないこと」
セラフィナがこちらを向いた。
「あなたたちの医療施設は、かなり充実していると思うけれど」
「それはそう。でも、設備が充実しているからといって、限界がないわけじゃない。多くの症例に対応できるし、検査も治療も、利用可能な設備の範囲内で行える。けれど、特殊な設備や船内の能力を超える高度な治療が必要な患者がいたら、適切な施設を探す必要があるよ」
「分かったわ」
私はエンジンの図面を閉じた。
「もう一つ聞いておきたいことがある。ASTRAEAの人員について、どうするつもり?」
セラフィナは少し黙った。
「まだ、すべては決めていないわ」
紬が修理中の船へ視線を向けながら答えた。
「医療検査と輸送手段の手配が終わったら、ASTRAEAの人員は先に帰還させたほうがいい」
私は頷いた。
「それが妥当だね。船は修理中なんだから、作業の各段階が終わるまで、全員がここで待つ必要はないよ」
「私もそう思うわ」
セラフィナはASTRAEAの船体を見つめた。
「彼らは、これまで多くのことを経験してきたわ。船が再び動けるようになるのを見届けたい人もいるかもしれない。でも、私が旅を続けると決めたからといって、彼らまでここに引き留めたくはないの」
「修理を手伝いたい人がいるなら、それぞれの必要性と能力に応じて参加を相談することはできるよ。でも、エンジンの取り付けが終わるまで帰還を待つ必要はない」
私は、部品をエンジンの取り付け位置へ運んでいる数機のドローンを指さした。
「こういう物理的な作業は、もうドローンが担当しているからね。必要なのは、権限を持つ人間による検査と技術的な判断だけだよ」
紬が頷いた。
「なら、二つの件を分けよう。ASTRAEAの修理はそのまま進める。人員については先に帰還の手配をする」
「賛成」
セラフィナは、もう一度船を見つめた。
「カリスタ」
「何?」
「修理してくれてありがとう」
私は一瞬だけ彼女を見つめ、それから再び報告書に目を戻した。
「試験が終わるまでは、お礼を言わなくていいよ。もし結果が期待どおりじゃなかったら、まだ作業を続けることになるんだから」
「それでも、今伝えておきたかったの」
「……あんたも、なかなか頑固だね」
「ただ、言いたいことを言っただけよ」
私は小さく鼻を鳴らした。
「分かった。受け取っておくよ。でも、ドローンの吊り上げ作業には近づかないこと。進路上に皇女が立っていたからって、あいつらが停止するわけじゃないからね」
「覚えておくわ」
紬が安全区域の境界線に目を向けた。
「聞いたとおりだ。カリスタが修理している機械から、君を助け出さなきゃいけない状況にはなるなよ」
「そこまで愚かではないわ」
「よかった。これ以上、あいつの仕事を増やさずに済みそうだ」
ランが端末の時計を確認した。
「技術確認は、ひとまずここまでで十分でしょう。会議室へ戻り、旅行の手続きを終わらせたほうがよさそうです」
私は片手を軽く上げた。
「どうぞ。私はまだエンジンの取り付け部分を確認しなきゃならないからね。近くで船を見たいなら、ドローンの作業が終わるまで待ってよ」
「また後で来る」と紬が答えた。
三人は作業区域を後にした。
私は再びASTRAEAに目を向ける。
まだ修理完了には程遠い。
それでも、今は修理する一つ一つの箇所に明確な目的がある。船が完成したように見せるためだけに、急ぐ理由はなかった。
### 視点:星崎紬
格納庫を出た俺は、グランドサロンへ戻った。
室内は先ほどと変わらない。
船内の来客たちが小さな声で会話を交わし、部屋の片側に設置された情報スクリーンには、星間メディアネットワークのニュース番組が流れていた。
最初は飲み物を取りに来ただけだった。
だが、あるニュースの見出しを目にして、足が止まった。
ASTRAEA OF THE SILVER LANTERN――ヴェルドラコン帝国皇族の船が、再び世間の注目を集める。
その下には、かつて俺たちが救助し、ハンガーへ運び込んだ全長1,240メートルの船の画像が表示されていた。
次のニュースでは、救助作戦区域で撮影された短い映像が流れる。
ASTRAEON VELORIAの姿も映っていたが、撮影角度と映像の画質のせいで、詳細までは確認できなかった。
さらに別の見出しが表示される。
独立船ASTRAEON VELORIA、国境地帯の事件との関連が再び浮上。
俺は自動サービスカウンターから飲み物を取り、近くの椅子に腰を下ろした。
「報道が広まるのは早いな」
テーブルの近くにある通信端末から、セラフィエルの声が聞こえた。
「そのとおりです。複数のメディアがASTRAEAに関する報道と救助作戦の映像を組み合わせています。ただし、現在流通している情報のすべてが検証済みというわけではありません」
「もう俺たちの船の正体を推測し始めているのか?」
「一部のメディアは、ASTRAEON VELORIAを通常とは異なる能力を持つ独立船舶として紹介しています。しかし、掲載されている技術情報だけでは、船のシステムを特定するには不十分です」
「それならいい。追加情報は出さないでくれ」
「公開可能な情報の範囲については把握しています」
俺は再びスクリーンを見た。
いくつかのメディアは、ASTRAEAの乗客や乗員の家族から寄せられたコメントを紹介していた。彼らは、自分たちの大切な人たちについて、何らかの知らせが届くことを望んでいるようだった。
どれほど多くの家族が、帰還を待っているのかは分からない。
それでも、少なくとも今は、ASTRAEAが発見され、船内にいた人々が無事だったことを知ることができたはずだ。
それは、本来なら喜ばしい知らせだろう。
しかし、スクリーンに映る人々の表情を見ていると、あることが頭に浮かんだ。
「ラン」
「はい、紬?」
ちょうどセラフィナと一緒にグランドサロンへ入ってきたランが、俺の座っているテーブルへ近づいてきた。
「ニュースは見たか?」
「確認済みです。現在、流通している情報に誤った報告が混在していないか、公式通信経路も確認しています」
「ASTRAEAの乗員はどうなっている?」
セラフィナが俺を見た。
「どういうこと?」
「先に彼らの帰還を手配する必要がある」
俺は飲み物を置いた。
「全員の医療検査が終わり、安全な輸送手段を確保できたら、ASTRAEAの乗員は帰還させたほうがいい。家族が帰りを待っているかもしれないからな。今は彼らの船が再びニュースになっている。君の旅の手続きが終わっていないからといって、彼らまでここに留め続けるつもりはない」
セラフィナはすぐには答えなかった。
彼女の視線はニュース画面へ移り、それから再び俺に戻ってきた。
「彼らを引き留めるつもりはないわ」
「分かっている。ただ、手続きを混同しないようにしたいだけだ」
「彼らは帰還させるべきよ。そのことは、私から本人たちに伝えるわ」
「そうしてくれ」
ランが端末を開いた。
「関係機関を通じて帰還の調整を進めることは可能です。ただし、各人の健康状態、目的地、安全な輸送経路を確認する必要があります。同じ船に所属していたからといって、全員を同じ場所へ送ればよいというわけではございません」
「そのとおりだ。大切なのは、それぞれが自分の家族のもとへ帰れる機会を得ることだ」
「私も、彼らには休息を取ってほしいと思っているわ。長い間、不安定な状況に置かれていたのだから」
俺はもう一度ニュース画面を見た。
「家族が今どんな気持ちでいるのかは分からない。けれど、少なくとも、必要以上に長く待たせずに済むよう手伝うことはできる」
セラフィナは少しだけ頭を下げた。
「賛成よ」
ランは端末を読みやすい位置に動かした。
「ASTRAEAの乗員の帰還者リストは、セラフィナ様の旅行契約書とは分けて管理いたします。この二つを一つの行政手続きにまとめるべきではありません」
「そうしてくれ。セラフィナが残るからといって、彼らまで俺たちの旅に同行しなければならないと誤解されても困る」
「そのようなことが起きないよう、確実に対応いたします」
セラフィナは俺の向かい側に座った。
「紬」
「ん?」
「会議を終える前に、一つ伝えておきたいことがあるの」
「聞こう」
「私は、自分の都合でASTRAEAの乗員を引き留めるよう、ASTRAEONに頼むつもりはないわ。彼らにはそれぞれの生活があり、会うべき家族がいる。帰りたいと望むなら、その決断を支持するつもりよ」
「それでいい」
「それから、帝国の屋敷で普段から私に付き添っている人たちについては、まず家族に同行の許可を求めるわ。許可を得ずに連れてくるつもりはない」
「許可が下りて、本人たちも同行を望むなら、改めて相談しよう。ただ、追加の手配なしですぐに受け入れられると保証することはできない」
「分かっているわ」
ランが頷いた。
「それでは、必要な境界線は十分に明確になりました。最終的な書類を準備いたします」
その後、俺たち三人は会議室へ移動した。
数分後、一時的な旅行契約書の草案が再びスクリーンに表示された。
俺は各項目をもう一度読み直した。
セラフィナは俺の向かい側に座っている。ランはテーブルの右側に位置し、セラフィエルは会議室と接続された通信端末を通じて参加していた。
「さっき話した内容と、すべて一致しているか?」
俺が尋ねる。
「はい。一時的な旅行上の身分、アクセス制限、安全手順、個人的な責任、情報共有義務、そして状況が変化した場合の再評価について記載済みです」
「セラフィナは?」
「すべて読んだわ」
「異議はあるか?」
「ないわ」
俺はテーブルに手を置いた。
「それなら、俺の決定を伝える」
室内が少し静かになった。
俺はセラフィナを見つめた。
「君がASTRAEON VELORIAと旅を続けたいという申し出を受け入れる。当面の間、君は俺たちの旅の同行者だ。中核クルーではない。船の士官でもない。そして、運航上の決定を変更する権限を持つ者でもない」
セラフィナは頷いた。
「その条件を受け入れるわ」
「状況が変われば、この身分は再評価する。君自身が帰還を決めてもいいし、旅を続けることが合理的ではないほどの危険が生じた場合には、俺たちも取り決めを見直すことになる」
「分かっているわ」
「もう一つ。この旅によって、俺たちがヴェルドラコン軍の一部になるわけでも、帝国の任務を自動的に引き受けるわけでもない。俺たちの助力が必要なことがあるなら、別個の要請として伝えてくれ」
「私の称号を使って、あなたたちの決定を強制するつもりはないわ」
俺は頷いた。
「分かった」
ランが承認ページを開いた。
「セラフィナ様、内容に変更がなければ、こちらの端末から署名していただけます。その後、船内管理用の写しを保存し、セラフィナ様にも写しをお送りします」
セラフィナは用意された端末を手に取った。
文書の最後の部分をもう一度読み、それから承認手続きを完了させる。
画面に確認表示が現れた。
旅行上の身分:一時的な旅の同行者 氏名:セラフィナ・ヴァルクレイン・ヴェルドラコン 承認状況:承認済み 有効期間:再評価、または関係者による終了決定まで
「完了しました」とランが告げた。
セラフィナは端末を彼女に返した。
「これで、本当にあなたたちの旅の一員になったのね?」
「当面は、そういうことになるな」と俺は答えた。
「それほど驚いているようには聞こえないわ」
「君はさっきから、ずっと自分の決断を伝えていただろう?」
「最後の答えを聞きたかっただけよ」
「今、聞けただろう」
セラフィナは微笑んだ。
「それなら、あなたたちの迷惑にならないように努力するわ」
ランがすぐに口を挟んだ。
「ご迷惑が発生しないと保証することはできません。たった一人増えるだけでも、物流面の調整が必要になりますので」
「ラン」
「事実をお伝えしているだけです、船長」
セラフィナは小さく笑った。
「覚えておくわ」
俺は椅子から立ち上がった。
「今は休んでおいてくれ。ASTRAEAの乗員の帰還手配もまだ残っているし、船の修理も終わっていない」
「分かったわ」
「それから、家族への連絡も忘れないように」
「今夜中に連絡するわ」
「よし」
テーブルを離れようとした、そのときだった。
通信端末からセラフィエルの声が響いた。
「紬船長。認証済み通信経路を通じて、正式なデータパッケージが新たに届きました」
俺は足を止めた。
「送信元は?」
「送信者のメタデータと認証チェーンを確認中です。パッケージには、国境地帯におけるアルケイオン銀河連邦の作戦に関する初期情報が含まれています」
ランが顔を上げた。
「ASTRAEAを襲撃した作戦に関する情報ですか?」
「資料はアルケイオンの複数の作戦活動に関連しています。ただし、現時点では、すべての情報が同一の指揮系統に由来するものだと確認できる証拠はありません」
俺は再び席に座った。
「確認できる情報はどこまでだ?」
「複数の作戦要素に関する初期的な移動パターンと連携記録が含まれています。観測された活動が、単独で行動する船舶の移動にすぎないものではないことを示すには十分なデータです。しかし、最終的な命令を出した人物を特定するには、まだ情報が不足しています」
それを聞いたセラフィナも、立ち上がりかけていた身体を再び椅子に戻した。
「襲撃を命じた人物について、何か分かったの?」
「命令を出した人物の身元を確定できる証拠は、まだございません」
「つまり、あの作戦の背後に誰がいるのかは、まだ分からないということね」
「そのとおりです、セラフィナ様」
俺は端末の画面を見つめた。
次の旅に関する重要な決定を終えたばかりだった。
その直後、今度は一連の混乱を引き起こした可能性のある勢力について、新しい情報が届いた。
だが、焦って結論を出すつもりはない。
「セラフィエル、原本の複製を保存しておいてくれ。ソースデータには手を加えないこと。確認済みの情報と、まだ調査が必要な情報は分けておいてくれ」
「承知しました」
「ラン、この情報はセラフィナの旅行契約には含めないでくれ。彼女個人の問題と直接関係しているかどうか、まだ分からないからな」
「別のファイルとして管理いたします」
セラフィナが俺を見た。
「紬、この情報はASTRAEAへの襲撃と関係していると思う?」
俺は少し彼女を見つめてから答えた。
「可能性はある。でも、そうだと断定できるだけの証拠はまだない」
「分かったわ」
「初期データの分析が終わったら調べる。それまでは、推測を事実として扱わないようにしてくれ」
セラフィナは頷いた。
画面には、まだ開かれていないデータの一部が表示されたままだった。
情報は不完全。
命令を出した人物も不明。
そして、アルケイオンの作戦が実際にどこまで計画されていたのかも、まだ分からない。
それでも、少なくとも今は、調査を始められる材料が手元にある。
俺はもう一度立ち上がった。
「よし。今夜の旅行に関する手続きはこれで終わりだ。明日、次の準備を進めよう」
「承知しました、船長」とランが答えた。
セラフィナも頷く。
「私は家族に連絡するわ」
「そうしてくれ。その後はちゃんと休むこと」
「努力するわ」
俺はランとともに会議室を後にした。
背後では、セラフィナが自分の旅行契約書の写しを表示した画面の前に、まだ座っていた。
彼女はもう、誰かが自分の行き先を決めてくれるのを待つだけの皇女ではない。
少なくとも今は、自分自身の道を選んだのだ。
そして、ASTRAEON VELORIAには、新たな旅の同行者が加わった。
### 次回予告
第180話――「銀河の果てへ、戦姫とともに」
ASTRAEON VELORIAは、契約C-145-MCに関するすべての手続きを終え、出航準備を開始する。ヴェスペラは次の独立コロニーへ向かう航路を確認し、カリスタは艦のシステムが出航可能な状態にあるかを確かめる。一方、ランはASTRAEA乗員の帰還手配と事務手続きを進めていた。
セラフィナは、停泊区域を離れる。
彼女は囚われの身としてでも、強制された乗客としてでもなく、ヴェルドラコン帝国の正式な代表者としてでもない。
一時的な旅の同行者として、自らの意思で旅に加わることを選んだのだ。
しかし、その決断によってASTRAEON VELORIAが帝国所有の船になるわけではない。セラフィナが家族からの任務を遂行する必要に迫られた場合、その問題は別個に協議されなければならない。
出航準備が進むなか、レアは一行に戦姫が加わったことを理由に紬をからかい始める。ランは乗員が一人増えることで必要となる物流面の調整を指摘し、セラフィエルは出航手順が滞りなく進んでいることを確認する。
その一方で、セラフィナは宮殿の外で過ごす旅を、本当に自分が望んでいたものとして捉え始めていた。
新たな旅が、まもなく始まる。




