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ASTRAEON VELORIA――銀河を旅する自由傭兵――  作者: Ren Hazumi


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【第166話】「戦姫の沈黙」

【第166話】「戦姫の沈黙」



ヴェルドラコン出航から29日目 — 艦内標準時 02:38~03:24 場所:ASTRAEON VELORIA — 観察室 視点:セラフィナ・ヴァルクレイン・ヴェルドラコン → 星崎紬 → レア・ヴァレン


### 視点:セラフィナ・ヴァルクレイン・ヴェルドラコン


その名簿が、ついに届いた。


ミレルから犠牲者の身元確認が検証段階に入ったと聞かされたときから、覚悟はしていた。


しかし、観察室の端末に実際のファイルが表示されると、私の手は画面まであと数センチというところで止まってしまった。


ASTRAEA OF THE SILVER LANTERN — 確認済み人員報告書


その文書は、ASTRAEAの人員記録、到達可能な区画の調査結果、そしてエウフォリア医療研究所への搬送後に行われた身元確認をもとに作成されていた。


発見された生存者の項目がある。


現在、治療を受けている人員の項目もある。


そして、二度と任務に戻ることのない人々の名前が記された一覧もあった。


私は最後の項目を開いた。


名前が一つ、また一つと表示される。


ASTRAEAを初めて贈られたころから知っている人もいた。私が担う航行任務の責任が増えるにつれて、あとから加わった人もいる。


以前、食堂の照明設定を変更したいと申し出てきた技術担当者のことを思い出した。


もとの照明の色では、料理があまり美味しそうに見えないというのが、その理由だった。


私が通りかかるたびに、必要以上に背筋を伸ばして立っていた護衛隊員のことも覚えている。


どの通路も公式式典の会場のように扱う必要はないと、ミレルが何度か注意していたものだ。


彼らには、それぞれの癖があった。


それぞれの考えがあった。


帝国皇女を守るという任務だけではない、一人ひとりの人生があった。


今、その名前が、今回の航行責任者である私が読まなければならない文書に並んでいる。


私は視線を落とした。


「……そう、ですか」


自分の声が、どこか他人のもののように聞こえた。


報告書の下部には、全人員の照合作業がまだ完了していないという注意書きがあった。


数名は今も未発見の状態にある。


また、護衛艦に乗っていた人員についても、艦の破壊や残骸の存在だけを根拠に、死亡者として分類してはならないと記されていた。


事務上の理由は理解している。


しかし、それを理解したところで、目の前の名簿が読みやすくなるわけではなかった。


端末から通信通知が鳴った。


ミレルだ。


私は応答した。


『殿下。報告書は届いておりますか?』


「ええ」


『今回の名簿には、身元の検証が完了した人員のみを記載しています。ほかのデータについては、引き続き照合作業を進めていることを、改めてお伝えしておきたくて』


「注意書きは読みました」


ミレルは少し黙った。


『そちらへ参りましょうか?』


私は、もう少しで「来てください」と答えるところだった。


けれど、まだ疲労の色が残っている彼女の顔を見て、その言葉を飲み込んだ。


「その必要はありません。あなたはもう、十分長く働いています」


『殿下――』


「ミレル、少しの間、一人でいるからといって、私はどこかへ消えたりしません。休んでください。重要な進展があれば、セラフィエルから私へ伝えてもらえます」


『……承知しました』


私は彼女の表情を見つめた。


「それから、ありがとう。あなたはよく働いてくれました」


ミレルが頭を下げた。


『私はただ、もっと多くの人を連れ出せていればと思うばかりです、殿下』


胸が締めつけられた。


「私もです」


通信が終わると、部屋は再び静寂に包まれた。


観察パネルの向こうには、穏やかな星々の広がりが見える。


この艦からそう遠くない場所に、つい先ほどまで私の命を奪いかけていた戦闘の残骸が漂っているとは、信じがたい光景だった。


私はASTRAEAの航行記録をもう一度開いた。


攻撃を受ける前、私たちは当時有効だった航行計画に従って、航路を変更している。


その決定は、私の責任の範囲内にあった。


航法士官との会話も、まだ覚えていた。


日程上の検討事項があった。


安全面での検討事項もあった。


そして、その時点では変更を受け入れても問題ないと思えるだけの、正式な情報も存在していた。


しかし、セラフィエルから転送されたセンサー報告を読んで以来、一つの疑問が頭から離れなかった。


もし、あの航路変更によって、護衛部隊を攻撃されやすい位置へ誘導してしまったのだとしたら?


以前の航路を維持するべきだったのではないか?


出航を延期していれば?


私は、限定的な形式で提供された戦術記録を拡大した。


ASTRAEAの周囲に、護衛艦を示すマーカーが現れる。


その少しあと、アルケイオンの接触反応が攻撃陣形を形成するように動き始めた。


私は、その順序を追おうとした。


通信妨害。


機動能力への圧力。


護衛部隊への攻撃。


そして、状況はあまりにも急速に変化していった。


私は記録を巻き戻した。


もう一度再生する。


それから、再び巻き戻した。


「あのとき、もっと早く位置をずらすよう命じていれば……」


私は言葉を止めた。


画面は何も答えてくれない。


攻撃前に下した自分の判断を、戦闘が終わったあとで初めて知った情報と比較しているのだと、自分でも気づいていた。


けれど、そう理解しただけでは、次々と湧いてくる疑問を止められなかった。


あの航行を率いていたのは、私だ。


父はASTRAEAを私に託した。


護衛部隊も、定められた命令に従って任務を遂行していた。


もし、あの航路の判断が間違っていたのだとしたら。


いったい誰が、その責任を負うべきなのだろう。


私はもう一度、犠牲者名簿を見つめた。


「あのとき、航路を変えなければ……」


その言葉が、最後まで口にされることはなかった。


観察室の扉から、来訪を知らせる通知音が鳴った。


私は急いで表示の一部を閉じ、座り方を整えた。


「どうぞ」


扉の向こうに、星崎艦長が現れた。


戦闘装備は身につけていない。つい先ほどアルケイオンの軍事部隊と対峙していた巨大艦の艦長というより、仕事部屋から出てきたばかりの青年のような姿だった。


けれど、ASTRAEAが危険に晒されていたとき、彼がどのように命令を下していたのか、私は自分の目で見ている。


外見だけで、その能力を判断するつもりはなかった。


「お邪魔します、殿下」と彼が言った。「確認済みの人員報告書が送信されたと、セラフィエルから聞きました。きちんと届いているか、確認しておきたかったので」


「届いています、星崎艦長」


彼は私の前にある端末へ目を向けた。


「こちらで照合を手伝ったほうがいい情報はありますか?」


「今のところはありません。まだ不完全な部分については、ミレルが対応しています」


「分かりました」


私は、彼がそのまま部屋を出るものと思った。


ところが彼は、向かいの椅子を指さした。


「少し座ってもいいですか?」


「もちろんです」


彼は特にかしこまることもなく腰を下ろした。


しばらくの間、私たちは観察パネルの向こうに広がる星々を眺めていた。


彼が私から話し始めるのを待っているのか、それとも沈黙を無理に埋める必要を感じていないだけなのか、私には分からなかった。


結局、先に口を開いたのは私だった。


「艦長、ASTRAEAへの攻撃記録はご覧になりましたか?」


「一部は。ヴェスペラとセラフィエルが、まだ時系列を調べているところです」


「それなら、私たちの艦の通信能力と機動能力が、初期段階から標的になっていたらしいことも、ご存じなのですね」


「はい。ただし、なぜその標的を選んだのかについては、まだ分かっていません」


私は自分の手を見つめた。


「攻撃を受ける前、私は航路変更を承認しました」


彼は口を挟まなかった。


「当時は、入手できる情報に基づいて下した判断でした。問題ないと思っていたのです。でも、この記録を見てから、私が護衛部隊を不利な位置へ連れていってしまったのではないかと考えるようになりました」


私は息を吸った。


「別の経路を選ぶべきだったのかもしれません。あるいは、追加の安全確認が終わるまで、航行を延期するべきだったのかも……」


「その判断を下した時点で、殿下は待ち伏せがあることを知っていましたか?」


私は首を横に振った。


「いいえ」


「その経路にアルケイオンの部隊が待ち構えていると、明確に示す警告はありましたか?」


「そのような情報は、受け取っていません」


「だったら、殿下の選択が誤っていたかどうかを決める前に、当時、本当は何が分かっていたのかを調べるべきです」


私は彼を見つめた。


「けれど、護衛部隊の人たちは、実際に命を落としています」


「分かっています」


短い返答だった。


起きたことを軽く扱おうとする様子は、少しもなかった。


だからこそ、不思議と、その続きを聞きたいと思った。


「別の判断をしていても必ず同じ結果になった、なんて言うつもりはありません」と紬は続けた。「以前の航路のほうが安全だったのかどうかも、俺には分かりません。今は、どちらかを結論づけるだけの証拠が足りないんです」


彼は、私が先ほどまで開いていた記録を指さした。


「今なら、複数の情報源から敵の動きを確認できます。ASTRAEAのどの部分が最初に攻撃されたのかも分かっている。でも、殿下が航路を決めなければならなかったとき、その情報が全部揃っていたわけじゃありません」


私は黙った。


「指揮官の判断を評価するなら、決定を下した時点で実際に存在していた情報、選択肢、そして危険を調べなければいけません。結果を知ったあとで、誰もが最初から何が起こるか分かっているべきだった、なんて考え方をするべきじゃないと思います」


私は視線を落とした。


彼の言葉には筋が通っている。


あまりにも筋が通っていて、それを素直に受け入れられない自分に、少し腹が立つほどだった。


「おっしゃることは理解できます、艦長。でも、それを理解したからといって、私がASTRAEAの航行に責任を負っているという事実まで変わるわけではありません」


「そうですね。俺も、その責任を忘れてほしいと言っているわけじゃありません」


私は顔を上げた。


紬は、穏やかな目で私を見ていた。


「むしろ、責任を負っているからこそ、本当は何が起きたのか分かる前に、自分自身へ判決を下すようなことはしないでください」


私はすぐには答えられなかった。


名簿を開いて以来、初めてだった。


誰かが私の責任について、それを消そうとも、さらに重くしようともせずに話してくれていると感じられたのは。


### 視点:星崎紬


正直、俺はこういう状況への対処が、それほど得意じゃない。


損傷した艦が問題なら、カリスタに点検を頼めばいい。


航路に問題があるなら、ヴェスペラが代替案を組んでくれる。


頭が痛くなるような書類が出てきたら、大抵ランが説明を用意してくれる。相変わらず頭は痛くなるけど、少なくとも事務上は正確な説明だ。


残念ながら、仲間を失ったばかりの人に対して、簡単な答えを表示してくれる端末なんて存在しない。


目の前のセラフィナは、今も帝国皇女としての態度を保っていた。


背筋は伸びている。話し方も整っている。自分自身の迷いを認めるときでさえ、一つひとつの言葉を慎重に選ぼうとしていた。


それでも、あの犠牲者名簿が彼女に大きな衝撃を与えたことは、俺にも分かった。


根拠もないのに聞こえだけはいい言葉をかけて、余計に状況を悪くしたくはなかった。


「星崎艦長」と彼女が言った。「自分の下した判断によって、自分を信じてくれている人々を危険に晒してしまうかもしれないと、感じたことはありますか?」


「もちろんありますよ」


彼女は少し意外そうな顔をした。


「ASTRAEONほどの能力があっても?」


「艦の性能が高いからって、俺が必ず正しい判断を下せる艦長になるわけじゃありませんから」


俺は小さく笑った。


「むしろASTRAEONにはいろんな能力があるからこそ、どれを使っていいのか、いつ止めるべきなのか、慎重に決めなきゃいけないこともあります」


セラフィナは俺の顔を見つめていた。


「俺には、艦長として信頼してくれている仲間が五人います」と続けた。「自分たちの艦が強いからって、あいつらの安全を当たり前のものだとは考えたくないんです」


俺は彼女の端末に開かれた名簿へ目を向けた。


「ただ、責任を認めることと、起きた悪い出来事は全部自分のせいだと決めつけることは、別の話ですよ」


セラフィナは服の端を握り締めた。


「もし、その判断について考えるのをやめてしまったら、彼らをないがしろにしているような気がするのです」


「考えるのをやめろなんて、言ってませんよ」


「では、私はどうすればいいのでしょう?」


俺は少し考えた。


そもそも、一度の会話で解決できるような問題じゃない。


だから、俺が筋が通っていると思うことを伝えるしかなかった。


「その判断を検証してください。何が起きたのかを調べるんです。本当に間違いがあったのなら、それを認めて、次に活かせばいい。あなたに意図的に隠されていた情報があるなら、そのことも明らかにする必要があります」


俺は一度言葉を切った。


「でも、自分だけが生き残って、あの人たちの名前を読むことができるからって、自分自身を唯一の容疑者にしないでください」


セラフィナが動きを止めた。


俺は勇気がなくなる前に、続きを口にした。


「亡くなった人たちは、あなたが自分を罰し続けたからといって戻ってくるわけじゃありません。それに、助かった人たちには、次の判断を一緒に考えてくれる人が、まだ必要なんです」


彼女は俯いた。


「……分かっています」


「それに、事実を全部知らないまま自分を責め続けたところで、結局は自分の背負うものを増やすだけです。その重荷が増えたからって、次の判断が自動的によくなるわけじゃない。むしろ、誰かがあなたを必要としているときに、考えることさえ難しくなってしまうかもしれません」


俺は首の後ろを掻いた。


「……すみません。皇女殿下に説教してるみたいに聞こえたら」


セラフィナは静かに首を横に振った。


「いいえ。続けてください、艦長」


俺は息を吐いた。


……よし。


ここまで話したんだ。だったら、最後までちゃんと伝えよう。


「あなたは、自分が苦しみ続けることで、亡くなった人たちへの敬意を証明する必要なんてないんです」


俺は人員報告書を指さした。


「ここにある名前は、忘れられるべきじゃありません。あの人たちに何が起きたのかも、きちんと調査されるべきです。この攻撃に責任を負うべき相手がいるのなら、間違った結論を出さないように証拠を調べなければなりません」


俺は再び彼女を見つめた。


「でも、あなたにはまだ、生き残った人たちがいるでしょう? ミレルや、ほかの皆さんが。あの人たちが必要としているのは、悲しくなんかないって顔をし続ける指揮官じゃありません。現実と向き合って、必要なときは助けを求めて、それでも次の一歩を考えられる指揮官だと思います」


セラフィナは何も言わなかった。


俺は待った。


しばらくして、彼女は少し小さな声で尋ねた。


「もし、私が本当に間違いを犯していたら?」


「そのときは、事実に基づいて、その間違いと向き合いましょう」


「そんなに簡単に?」


「いいえ。全然、簡単じゃありません」


俺は首を横に振った。


「でも、難しいからって、まだ証明されてもいない結論を重ねて、さらに難しくする必要はないでしょう?」


彼女はしばらく俺を見つめていた。


やがて、肩に入っていた力が少しずつ抜けていく。


「皇室の一員は、自分の決定がもたらす結果を引き受ける覚悟を持たなければならないと、私はずっと教えられてきました」


「それはもっともだと思います」


「でも、ときどき、その覚悟というのは、迷いを見せてはいけないという意味だと、周囲の人々が考えているように感じるのです」


「指揮官が迷ってることを絶対に認めちゃいけないなら、部下はいつ、自分たちの意見が必要だって分かるんでしょうね?」


セラフィナがまばたきをした。


それから、小さく笑った。


「あなたが言うと、とても単純なことのように聞こえますね」


「俺は宮廷で育ったわけじゃありませんから。理解してない決まりごとも、たくさんあるんでしょうね」


「最近では、それもあなたの長所の一つなのではないかと思い始めています」


「ランの前では言わないでくださいよ。さっきの認証書類のことを、すぐに持ち出されますから」


セラフィナが口元を押さえ、笑いをこらえた。


よかった。


少なくとも、まだ笑うことはできるらしい。


もちろん、それで問題が解決したなんて思っていない。ただ、この部屋から空気がすべて抜けてしまったような感覚は、もうなくなっていた。


「艦長」と、やがて彼女が言った。「もう一つだけ、聞いてもよろしいですか?」


「どうぞ」


「あなたがASTRAEAを助けたのは、私が何者なのか知っていたからですか?」


俺は眉を上げた。


「最初に救難信号を受信した時点では、あなたの身元さえ分かっていませんでしたよ」


「それは知っています。でも、そのあと、私の身元を知ってからは……」


「そのあとだって、目の前の状況に基づいて判断する必要がありました。攻撃を受けている艦があって、助けを必要としている人たちがいて、しかも攻撃側は俺たちの接近経路まで脅かし始めたんですから」


俺は肩をすくめた。


「確かに、殿下の身元が分かったことで、事務処理は増えましたね。それも、ものすごく」


セラフィナが微笑んだ。


「その点については、今も少し申し訳なく思っています」


「ああ、それは少しだけ思ってもらってもいいかもしれません。ラン、本当に頑張ってますから」


彼女が笑った。


俺も笑い、それから普段の口調に戻した。


「でも、助けるという判断が、皇室から報酬をもらうための行動に変わったわけじゃありません。俺たちに助けてもらった代償として、殿下がすべての問題を一人で抱え込まなきゃいけないなんて、思ってほしくないんです」


「分かりました」


「ASTRAEONの安全のために伝えるべき情報があるなら、合意した手順に従って伝えてください。まだ話せないことなら、まだ話せないと言ってくれればいい。外交上の問題を全部、今夜中に片づける必要はありませんよ」


セラフィナが頷いた。


それから彼女は犠牲者名簿を見つめ、その名前が記載された項目を閉じた。


削除したわけではない。


ただ、一時的に表示を閉じただけだった。


「この報告書は保存しておきたいと思います」と彼女が言った。「でも、一晩中、何度も繰り返し読む必要はないのかもしれませんね」


「俺も、それがいいと思います」


「明日――」


彼女は言葉を止め、艦内標準時をちらりと確認した。


「いえ、十分に休息を取ってから、ヴェスペラと攻撃のデータについて話し合いたいと思います」


「それなら調整できます」


「ただ、誰かを責める相手として探したいわけではありません。どうして彼らが、私たちの護衛を突破できたのかを理解したいのです」


俺は頷いた。


「だったら、セラフィエルに適切な検証の機会を準備してもらいましょう。機動パターンについては、俺よりヴェスペラのほうが詳しく説明できるはずです」


「ありがとうございます、星崎艦長」


俺は立ち上がった。


「そろそろ指揮デッキへ戻ります。カリスタはまだASTRAEAを点検してますし、俺がわざと技術報告を避けてるなんて思われたくないですからね」


セラフィナが小さく微笑んだ。


「怒られてしまうのですか?」


「仕事を早めろなんて言ったら、確実に」


「それなら、言わないほうがいいですね」


「いい助言です」


俺が扉へ向かおうとしたとき、内部通信が入った。


レアだ。


『紬、まだセラフィナと一緒にいる?』


「ああ。どうした?」


『外部警戒の引き継ぎ報告を、セラフィエルに渡し終わったんだ。本人が嫌じゃなければ、少し会って話したいんだけど』


俺はセラフィナを振り向いた。


「レアが話したいそうです。構いませんか?」


「もちろんです」


「聞こえたな、レア」


『うん。すぐに行くね』


俺は通信を切った。


部屋を出る前に、もう一度セラフィナへ顔を向けた。


「殿下」


「はい?」


「人の艦にいるからって、無理に平気なふりをする必要はありませんからね」


彼女は黙った。


俺は微笑んだ。


「ただ、食事と休息は忘れないでください。患者を延々と書類を読ませたせいで疲れ切らせたなんてセレネに知られたら、説教されるのはセラフィエルですから」


「セラフィエルに迷惑はかけたくありませんね」


「だったら、意見は一致しましたね」


彼女が頷いたのを見届けてから、俺は部屋を出た。


扉が閉まったところで、ようやく気づいた。


……予定していたより、ずいぶんたくさん喋ってしまったな。


人生の問題をすべて理解したつもりの人間からの助言みたいに聞こえてなければいいんだけど。


俺だって、まだ艦長として勉強中なんだから。


### 視点:レア・ヴァレン


セラフィナは、観察パネルの近くに座っていた。


部屋の外では、ちょうどサービスドローンが温かい飲み物の載ったトレーを届け、立ち去ったところだった。


私は、それが彼女宛ての注文であることを確認してから受け取った。


「殿下、入ってもいい?」


「どうぞ、レアさん」


私はトレーを持ち上げた。


「セラフィエルから、前の報告が届いてから追加の食事を頼んでないって聞いたんだ。だから、これを持ってきたよ」


セラフィナは、トレーの上のカップを見つめた。


「ありがとう。でも、わざわざ自分で運んでこなくてもよかったのに」


「もともと話したかったんだ。ちょうどいいでしょ?」


私はテーブルへトレーを置いた。


端末から小さな音が聞こえ、私の狐耳がぴくりと動く。


犠牲者名簿は閉じられていたが、戦闘記録はまだ表示されたままだった。


見覚えのあるマーカーがいくつも並んでいる。


ASTRAEAの護衛陣形。


アルケイオンの接触反応。


私たちが使った接近経路。


「また、その記録を見てたの?」


「今、閉じたところです。星崎艦長から、調査が終わる前に結論を出さないよう助言をいただきました」


「いい助言だね」


勧められてから、私は椅子に腰を下ろした。


セラフィナはカップを手に取った。


「もうヴァルキリーから戻ったのですか?」


「うん。私の機体は大丈夫。戦闘後の定期点検は必要だけど、再出撃に支障が出るような大きな損傷はないよ」


「それはよかった」


私は彼女の顔を見つめた。


救助後に初めて話したときと比べれば、ずいぶん落ち着いているように見える。


ただ、座る姿勢を整えたくらいでは隠しきれない疲れが、まだ目元に残っていた。


「紬、さっきはたくさん喋った?」と私は尋ねた。


セラフィナがかすかに微笑んだ。


「ええ、かなり」


「へえ。事務処理の話になると、普段はランに任せる口実を探してるのにね」


「その話も少ししました」


私は笑った。


それから、端末の端に残っている戦術記録へ目を向けた。


「帝国皇女を慰めようとしてる人間としてじゃなくて、戦闘機パイロットとして話してもいい?」


セラフィナはカップを置いた。


「むしろ、パイロットとしての意見を聞きたいです」


「分かった」


私は護衛艦のマーカーの一つを指さした。


「戦闘中って、全体像が分かる前に決めなきゃいけないことが山ほどあるんだ。目標を選ぶ。位置を調整する。いつ攻撃して、いつ退くかを決める。どの選択にも危険はある」


セラフィナが頷いた。


「それは理解しています」


「でも、ある判断に危険があると知っていることと、その危険を利用するために敵が特定の方法を準備していたと知っていることは、同じじゃないよ」


私は記録を少し進めた。


「ほら、ここ。今の私たちは、連中が最初からASTRAEAの通信能力と機動能力を狙ってたって知ってる。でも、もし攻撃が始まる前の私があなたの護衛部隊にいたとしても、敵の作戦全体をすぐに見抜けたとは限らない」


「戦闘経験があっても?」


「経験があれば、状況を読むのは速くなるよ。でも、未来が見えるようになるわけじゃないからね」


セラフィナがかすかに微笑んだ。


私は続けた。


「それから、もう一つ言いたいことがあるんだ。指揮官が自分の判断に責任を持つのは当然だよ。でも、だからって失ったものを全部、一人で背負わなきゃいけないわけじゃない。まるで部下たちは自分で判断したことも、それぞれの状況に直面したこともなかったみたいにさ」


「それを、責任から逃れるための理由にはしたくありません」


「私だって、そんなことを頼んでないよ」


私は肘を椅子の肘掛けに預けた。


「自分を責めることばかりに気を取られて、周りの人の意見が聞こえなくなっちゃう人を見たことがあるんだ。本人は責任を示してるつもりでも、結局、次の失敗が怖いって気持ちだけで、全部の判断を下すようになっちゃう」


セラフィナが少し俯いた。


「まるで、ご自分でも経験したことがあるような言い方ですね」


「戦闘中に判断を下して、全部が終わってから初めて、その結果を知る気持ちは分かるよ」


今夜、自分の経験をすべて説明する必要は感じなかった。


彼女も、それを求めてはこなかった。


「護衛の人たちを大切に思っているなら、何が起きたのかを調べよう。陣形そのものに弱点があったのか。届くのが遅れた情報があったのか。それとも、敵が予想外の戦術を使ったのか」


私はASTRAEAのマーカーを指さした。


「でも、最初から自分が原因だっていう結論で調査を始めないで。そんなふうに決めつけてしまったら、あとから出てくる情報を全部、自分を罰するために使っちゃうよ」


セラフィナが私を見つめた。


「星崎艦長も、ほとんど同じことをおっしゃっていました」


「よかった。今回は私たち、意見が合ってるみたいだね」


彼女が小さく笑った。


私は自分の飲み物を手に取った。


「それに、まだミレルがいるでしょ?」


「ええ」


「ほかの生存者たちも」


「はい」


「だったら、あの人たちの話も聞いてあげて。あなたが知らない情報を持ってるかもしれないし、近くにいた人を助けられなかったことで、自分を責めてる人だっているかもしれない」


セラフィナの表情が変わった。


私は少し声を落として続けた。


「その人たちの気持ちまで、追加の罰として背負う必要はないよ。でも、助かったあとで、自分たちは置き去りにされたんだって感じさせないようにすることはできるでしょ?」


しばらくの間、彼女は自分のカップだけを見つめていた。


それから頷いた。


「そのことについては、まだ十分に考えられていませんでした」


「でも、今は考えられた」


「ありがとう、レア」


私の狐耳がぴくりと動いた。


「どういたしまして」


セラフィナは、その動きを見つめていた。


「少し失礼かもしれないことを、言ってもよろしいですか?」


「何?」


「あなたの耳は、注意を向ける先が変わるたびに動くのですね。最初は、ただの偶然かと思っていました」


私は笑った。


「いつも隠せるわけじゃないからね」


「ごめんなさい。じっと見るつもりはなかったのですが」


「大丈夫。ただ、許可も取らずに、いきなり触ろうとしなければね」


セラフィナの表情が、一瞬で真剣になった。


「もちろん、そんなことはしません!」


あまりにも素早い反応だったので、私はまた笑ってしまった。


「冗談だよ。半分くらいは」


「本当に驚かせないでください……」


「よかった。戦闘報告以外のことにも、ちゃんと反応する元気は残ってるみたいだね」


彼女は首を振ったが、今度の笑顔は先ほどよりも自然に見えた。


私たちは、少しの間、静かに飲み物を楽しんだ。


称号についての話はしなかった。


新しい救助の依頼もなかった。


ただ、つい先ほどまで戦闘の中にいて、そのあとにも山ほど仕事が残っていることを理解している、二人の人間がいただけだった。


「レア」と、しばらくしてセラフィナが呼びかけた。


「ん?」


「ヴェスペラと一緒に、戦術データを確認したいと思っています」


私は彼女へ顔を向けた。


「アルケイオンの陣形が、どうやってあなたの護衛部隊を突破できたのかを調べるため?」


「ええ。その機会をいただきたいと、すでに星崎艦長へお願いしました。ただ、ヴェスペラご本人にも、航法上の観測結果を直接説明していただけないかと思っているのです」


「セラフィエルが公開してもいいデータを分けてくれてるなら、嫌がらないと思うよ」


「ASTRAEONの機密情報を求めているわけではありません。ただ、検証可能な証拠に基づいて、ASTRAEAに何が起きたのかを理解したいのです」


私は頷いた。


「それなら、いい目的だと思う」


セラフィナは再びセンサー報告の概要を開いた。


ただし、今回はすぐに記録を再生しようとはしなかった。


「自分の判断を正当化するための材料を探したいわけではありません、レア。本当に私の間違いがあったのなら、それを知りたいのです」


「だったら、データに答えてもらおうよ」


「そして、もし私たちが意図的に待ち伏せの場所へ誘導されていたのだとしたら……」


彼女は言葉を最後まで続けなかった。


私はセラフィナを見つめた。


「そのときは、誰が、どうやってそんなことをしたのか、調べる必要があるね。でも、検証が終わる前に、その結論へ飛びつくのはやめよう」


「……そうですね」


私は内部通信を有効にした。


「セラフィエル、レアだよ。セラフィナが、ヴェスペラと一緒に戦術データを確認する時間を取りたいって。調整できる?」


すぐに返事があった。


『可能です。ヴェスペラは現在も、アルケイオンの航跡と陣形に関する分析を進めています。本人の了承を得たうえで、ASTRAEONの秘匿構成を開示しない形で、関係するデータの写しを準備します』


「よし」


セラフィナが少し端末へ近づいた。


「セラフィエル、私はASTRAEAの航行責任者として、その記録の検証に参加したいと考えています。必要であれば、合意済みの手順を通じて、こちらの航路決定に関する記録も提供できます」


『それは出来事の時系列を照合するうえで役立ちます、殿下。交換するデータの範囲が明確に保たれるよう、ランにも確認を依頼します』


「ありがとうございます」


通信が終了した。


私はセラフィナを見た。


「ほら。一晩中一人で同じ記録を繰り返し再生するより、ずっと役に立つ仕事ができたでしょ?」


彼女が頷いた。


「そうですね」


私は立ち上がり、空になったトレーを手に取った。


「だったら、まずは休んで。目が疲れ切って、画面のマーカーを見分けることもできなくなったら、敵の陣形なんて余計に分からなくなるよ」


「ミレルのようなことを言うのですね」


「だったら、あなたの部下はちゃんと常識のある人なんだね」


セラフィナが笑った。


私は扉へ向かったが、部屋を出る前に呼び止められた。


「レア」


「何?」


彼女が立ち上がった。


その姿勢は再び、公式の場で何かを伝えようとしている帝国皇女のように、背筋の伸びたものになっていた。


ただ、今度は自分の気持ちを隠すために、その態度を取っているようには見えなかった。


「戦場を経験した者同士として、私に話してくれてありがとう。気持ちを傷つけないよう配慮しなければならない帝国皇女としてではなく、一人の人間として接していただけたことに感謝しています」


私は微笑んだ。


「どういたしまして、セラフィナ」


称号を付けずに名前を呼ばれたことが意外だったのだろう。


彼女の表情が少し驚いたものに変わり、私の耳が動いた。


「でも、公務のときはちゃんと殿下って呼ぶからね。これ以上、ランの事務記録を複雑にしたら怒られそうだし」


セラフィナがまた笑った。


「ヴァレスさんの仕事を、これ以上増やしたくはありませんね」


「よし。意見が一致したね」


私は観察室をあとにした。


外のASTRAEONの通路は、相変わらず静かだった。


サービスドローンが専用経路を移動し、艦のシステムは、一つひとつの扉や端末を監視するために大勢の乗員を必要とすることなく、作業を続けている。


ASTRAEONの六人の中核乗員には、今もそれぞれの仕事があった。


紬は作戦上の判断を指揮する。


セラフィエルは、艦のシステムと生存者の安全を調整する。


ランは契約上の義務と正式な記録を担当する。


カリスタは、ASTRAEAの損傷を悪化させずに救える可能性を調べている。


ヴェスペラは、敵の動きをもう一度読み解こうとしていた。


そして私は、必要になったときに、自分の側で得た戦闘分析の結果を、皆へ渡せるようにしておこう。


私は一度だけ、閉じられた観察室の扉を振り返った。


セラフィナには、まだ向き合わなければならないことがたくさんある。


私たちが何度か笑顔にできたからといって、犠牲者名簿が消えてなくなるわけじゃない。


でも、少なくとも今の彼女は、もう一人きりですべての答えを探そうとはしていなかった。


観察室の中で、セラフィナは用意された通信チャンネルを通じて、短いメッセージを送信した。


宛先は、ヴェスペラ・ノクス・オーレル。


共同検証の要請: アルケイオンの陣形記録、通信妨害の発生順序、および主攻撃が始まる前のASTRAEA護衛部隊の位置変化。


そして最後に、一文を付け加えた。


私たちの防護がどのように突破されたのか、実際に検証可能なデータに基づいて理解したいと考えています。


送信完了を確認すると、セラフィナは端末を閉じた。


しばらくの間、彼女は観察パネルの向こうに広がる星々だけを眺めていた。


まだ答えは得られていない。


けれど今度は、何を問うべきなのかが分かっていた。


【次話予告・第167話】


「敵の編隊を読み解く」


敵の編隊を読み解く――ヴェスペラとセラフィナは、ASTRAEAの記録とASTRAEONのパッシブ観測データをもとに、アルケイオンの動きを再検証する。時刻と位置の比較から、偶然とはますます考えにくい攻撃パターンが浮かび上がる。一方、セラフィエルは、共同分析によって艦の秘匿システムが開示されることのないよう、情報の安全を維持する。


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