【第163話】「契約はまだ終わっていない」
【第163話】「契約はまだ終わっていない」
ヴェルドラコン出航から29日目 — 艦内標準時 00:31~01:08 場所:ASTRAEON VELORIA — 指揮デッキ、エウフォリア医療研究所、および安全通信室 視点:モード・ラン・ヴァレス → 星崎紬 → セラフィエル・ヴェロリア → セラフィナ・ヴァルクレイン・ヴェルドラコン
### 視点:モード・ラン・ヴァレス
「セラフィエル、戦闘記録の完全版とは別にまとめた、今回の事件の時系列記録が欲しいの」
私は指揮デッキの端末に作業画面を開き、貨物マニフェストを、先ほど作成し終えた救助報告書の隣に並べた。
「タラリス戦略兵站局へ提出する報告書のためですか?」とセラフィエルが尋ねた。
「そうよ。自分たちの貨物を運んでいる艦が、なぜ配送経路を外れたのかを知る権利はあるわ。でも、だからといってASTRAEONの内部情報をすべて受け取る権利まで、自動的に与えられるわけではないでしょう?」
「C-145-MCの契約範囲に合わせて、情報パッケージを準備します」
私は頷いた。
収集できた情報を片っ端から盛り込めば、正式な報告書の質が上がるというものではない。
輸送契約に関する事務処理で重要なのは、関係する事実と、まだ調査中の情報、そして受取人へ提出する必要のない事項を明確に区別することだ。
残念ながら、今夜の出来事では、その三種類すべてが少なからず発生していた。
私はこれまでの航行記録の概要を呼び出した。
軍用貨物はC-145-MCの契約に基づき、タラリス軍事兵站停泊施設で受領した。その後、タラリス国境兵站補給拠点へ輸送するため、ASTRAEON VELORIAの貨物区画に収容・固定されている。
合意済みの契約総額は、現在も 8,400,000 GC。
最終支払いは、まだ行われていない。
貨物の引き渡しも、まだ完了していない。
そして現時点まで、私たちも依頼主も、この契約の条項を一つとして解除していなかった。
「カリスタ、貨物群すべての状態について、最新の確認が欲しいのだけれど」
そのスペースドワーフの声が、すぐに内部通信から聞こえてきた。
『貨物の報告か? それともASTRAEAの曳航準備の報告か? 今、二つの仕事を同時に開いてるんだよ』
「貨物が先よ。古くなったデータをもとに契約報告書を送るつもりはないわ」
『よし。七つの貨物群は、全部保管・固定されたままだ。救助作戦を支援するために移動させたコンテナもない。モジュール式固定装置、区画の分離、環境監視も、戦闘準備の段階から使っている構成どおりに動作してる』
私は彼女が送ってきた自動報告のタイムスタンプを確認した。
「コンテナTL-CN-017-04は?」
『封印TL-SG-482716は無傷だ。貨物群TL-CG-017の質量修正記録も変わってない。186,040kgだよ』
「ありがとう。仕事に戻っていいわ」
『ASTRAEAの技術点検に戻るよ。それからラン、曳航作業を修理完了済みなんて記録にするなよ。あたしはまだ、あの艦を曳いていいとさえ許可してないんだからな』
私は微笑んだ。
「そんなことはしないわよ」
『よし。設計図を眺めただけで、壊れた主エンジン二基を修理できると思ってるやつがいたら、自分でここに来て作業しろって言ってやる』
通信が終了した。
私はカリスタからの確認を、貨物の完全性に関する項目へ入力した。
次に、事件の時系列記録を開く。
前日の20時48分、ASTRAEONは主要通過経路の外側から救難信号を受信した。信号源の確認は段階的に進められたが、緊急インターフェースを調査しようとした際、システムが不審なデジタル干渉を検知。直ちに隔離・切断した。
ASTRAEONの中核システムに侵害は発生していない。
攻撃を受けていた艦の身元は、その後、パッシブ観測と利用可能な情報によって照合された。
その艦は、全長1,240メートルのヴェルドラコン皇室指揮ヨット、ASTRAEA OF THE SILVER LANTERN。
一方、攻撃側の部隊は、アルケイオン銀河連邦の軍事戦力と一致する識別情報を示していた。
私は意図的に、\*一致する\*という表現を使った。
所属部隊や作戦権限、攻撃理由まで判明したと主張するつもりはない。
それらの情報は、まだ私たちの手元にはなかった。
私は介入に関する項目へ進んだ。
公開通信チャンネルを通じて、警告は送信済み。
攻撃艦は、ASTRAEONに当該宙域からの退去を要求する最後通告について、こちらで検証可能な法的根拠を提示しなかった。
さらに、私たちが検討していた接近経路を横切る形で、警告射撃まで行っている。
脅威が継続したことを受け、紬は自艦の安全と貨物の保護、そして生存者を救助する機会を確保するため、限定的な防御行動を許可した。
私は、ASTRAEONの秘匿兵装構成に関する詳細ではなく、脅威の存在を示す記録を選択した。
「セラフィエル、この証拠映像は、元のタイムスタンプを維持したまま保存できる?」
「可能です。送信後に複製ファイルが変更された場合、受取人がそれを確認できるよう、ファイルの完全性を検証するための情報も添付します」
「よかった。格納庫や技術施設の内部映像は含めないで」
「すでに分離してあります」
私は次の項目へ移った。
救助作戦によって、ASTRAEAからエウフォリア医療研究所への医療搬送が実施された。
複数の生存者がすでに受け入れられている一方、各区画の確認と人員名簿の照合作業は今も続いている。
最終的な死傷者数は、まだ確定できていない。
私は、この部分が好きではなかった。
未完成の報告書では見栄えが悪いからではない。
ASTRAEAの人員名簿にある名前を、すでに読んでしまったからだ。
治療を受けられた人がいる。死亡が確認された人もいる。そして今もなお、行方不明として記録されている人もいた。
暫定的な数字を最終結果であるかのように記載するのは、彼らに対しても、いずれ安否を問い合わせてくる家族に対しても、不誠実な行為になる。
私は一覧を閉じ、依頼主への通知書式を開いた。
C-145-MC — 航行中インシデント初期通知
| 項目 | 報告内容 |
| -------- | ---------------------------- |
| 運送事業者 | ASTRAEON VELORIA |
| 艦長 | 星崎紬 |
| 依頼主 | タラリス戦略兵站局 |
| 配送先 | タラリス国境兵站補給拠点 |
| 契約総額 | 8,400,000 GC |
| 契約状況 | 有効・未完了 |
| 貨物状況 | 七つの貨物群すべてが引き続き運送事業者の管理下にある |
| 経路逸脱の原因 | 航行経路付近での救難信号および武装した脅威の検知 |
| 運送事業者の対応 | 身元確認、警告通信、限定的な防御介入、生存者の救助 |
| 調査状況 | 攻撃部隊の所属および動機は、まだ全面的には確定していない |
| 今後の計画 | 安全点検、避難作業の完了、状況が許し次第、配送経路へ復帰 |
私は今後の計画に関する項目を読み直した。
情報が少なすぎれば、依頼主は判断に困る。
逆に、約束を盛り込みすぎれば、私たちが果たせない義務を背負うことになりかねない。
そこで私は、ヴェスペラによる航路評価と、カリスタによる安全点検の結果が出たあと、更新された到着予定時刻を送信する旨を追記した。
「ラン」とセラフィエルが呼びかけた。「ASTRAEAの一時保全に関する要請についても、記載しますか?」
私は少し考えた。
「追加の対応を必要としている生存者の艦があり、その作業が配送日程に与える影響を調査中だと記載して。ASTRAEAがすでに格納庫へ収容されたとは書かないでね」
「まだ移動作業が実施されていないからですね」
「そのとおり。技術部門の最終承認さえ得ていない仕事について、成功報告を送るつもりはないわ」
セラフィエルが変更内容を保存した。
それから私は立ち上がり、紬のもとへ向かった。
「紬、初期報告の確認準備ができたわ。送信する前に、一つだけあなたに直接確かめておきたいことがあるの」
彼が椅子を回した。
「何?」
「C-145-MCについては、引き続き当初の配送先へ向かうつもりで間違いないわね?」
紬は、答えなど分かりきっているだろうと言いたげな顔で私を見た。
しかし、私が必要としているのは、これまでの会話から推測した意思ではなく、艦長による正式な表明だった。
「ああ」と彼は答えた。「途中で問題に遭遇したからって、それだけで契約を破棄するつもりはないよ」
私は頷き、端末を差し出した。
「それなら、運送事業者の決定に関する項目を読んでちょうだい。承認してもらえたら、利用可能な通信経路を通じて初期通知を送信するわ」
### 視点:星崎紬
傭兵になってから学んだことが一つあるとすれば、それは単純な仕事ほど、引き受けた本人の許可など求めずに、とんでもなく複雑な状況へ変わることがあるという事実だ。
俺が引き受けたのは、軍用貨物の輸送契約だった。
貨物を受け取り、安全に固定して、目的地へ向けて出発した。
ところがそのあと、攻撃を受けている皇室艦船を発見し、別の国家の軍事部隊と交戦し、生存者を避難させ、そのうえ全長1,240メートルの皇室艦船をASTRAEONの格納庫へ収容できるかどうかまで検討している。
いったい、普通の輸送旅行のどのあたりから、こんなことになったんだろうな。
俺はランの文書に目を通した。
「経路逸脱の説明はこれでいい。ただ、作戦中も貨物を一度たりとも第三者へ引き渡していないことを追記してくれ」
「貨物の完全性に関する報告には、すでに記載してあるわ」とランが答えた。「ただ、受取人が技術資料の添付ファイルを開かなくても分かるよう、冒頭の概要にも明記しておくわね」
「頼む」
俺は次のページへ進んだ。
「アルケイオンとの接触については、責任を持って説明できる範囲の識別情報だけを使ってくれ。この報告書を、俺個人による宣戦布告みたいな文面にはしたくないからな」
ランが俺を見た。
「私だって、兵站局宛ての書簡にそんなことを書くつもりはないわよ」
「それはよかった」
俺は端末を返した。
「その変更が終わったら承認する。初期通知として送信してくれ」
「了解よ」
彼女は自分の作業場所へ戻った。
俺は続いてヴェスペラを呼び出した。
「この宙域を離れたあとの航路はどうなってる?」
スペースハイエルフの彼女は、俺の目の前に航法投影を開いた。
戦闘宙域から、本来使用するはずだった配送経路へマーカーを移動させると、その長い耳がわずかに動いた。
「いくつかの候補を準備してあります。一つ目は、すべての船外作業が終わったあと、進入時に使用した回廊を通って戻る方法です。二つ目は、現在も活動しているアルケイオンの監視区域を避けるため、迂回経路を取る方法です」
「どっちがいい?」
「まだ選んでいません。ASTRAEAを本当に格納庫へ収容できた場合、周辺の状況も変わります。それに、戦闘で発生した残骸が出航経路を塞いでいないことも確認する必要があります」
「つまり、まだタラリスに送れるような到着予定時刻は出せないわけか」
「条件付きの予測なら出せますが、確定時刻ではありません。避難の完了、カリスタによる曳航の承認、そして敵艦が再びこちらの経路を照準に捉えないことの確認が必要です」
俺は頷いた。
「見た目だけもっともらしい数字は出さなくていい。影響する条件がもう少しはっきりしてから、予測を送ってくれ」
「そのつもりです」
ヴェスペラはASTRAEAのマーカーを指さした。
「それから、一つ考慮していただきたいことがあります」
「何?」
「皇室艦船をASTRAEONの内部へ無事に収容できた場合、私たちは大きな損傷を受けた帝国資産を積んだまま、配送経路を航行することになります。航法上は、宇宙空間で外部曳航したまま全行程を移動するより、はるかに適切です。ただし、FTLを使用する前に、格納庫への収容手順と船体の固定を完全に終えておく必要があります」
「カリスタとも、その話はしてあるよ。曳航が順調に進んでいるように見えるからって、それだけで出航したりはしない」
ヴェスペラがかすかに微笑んだ。
「よかったです。FTLを抜けたとき、皇室艦船の破片が格納庫の中に浮かんでいるような光景は見たくありませんから」
「俺も、そんなことになった理由をセラフィナへ説明したくないな」
すると、別の端末からカリスタの声が割り込んできた。
『あたしの艦について話してるのが聞こえたぞ』
俺は眉を上げた。
「いつからASTRAEAがカリスタの艦になったんだ?」
『あたしが点検しなきゃいけない艦って意味だよ! それに、まだ点検は終わってない!』
「それで、途中経過はどう?」
『ASTRAEAの技術班から、共有を許可された構造図は受け取った。今は外部観測の結果と照合してるところだ。主エンジン二基は確かに使用不能だからな。曳航中に、あの艦自身の推進力で機動を助けてもらえるとは思うなよ』
「曳航用の接続箇所は?」
『一時的な固定に使えそうな場所はいくつかある。だが、まだ承認はしてない。荷重が損傷した船体部分を通って伝わらないことを確かめる必要があるんだ。Vector Caliperに曳航支援能力があるからって、最初に頑丈そうに見えた場所へ装置を引っ掛けていいわけじゃない』
俺は、レアがそんなことをしようとしている姿を想像した。
そして、それ以上は想像しないほうがいいと判断した。
「点検を続けてくれ。ASTRAEAを早く移動させることより、人員の安全を優先してほしい」
『分かってる。それから、固定作業を始める前に、関係する区画にまだ残っている皇室側の担当者全員へ通知が届いていることも確認してるところだ』
「ありがとう、カリスタ」
『ふん。礼なら仕事が終わってからにしてくれ』
通信が終了した。
俺は、椅子の隣に立っているセラフィエルへ顔を向けた。
「エウフォリアの状態は?」
「セレネが引き続き安全なチャンネルを通じて医療相談を支援しています。ASTRAEAの医療従事者が、当艦の施設システムと協力して直接の診察を担当しています。一部の患者には継続的な監視が必要ですが、受け入れ経路は手順どおりに稼働しています」
「新しく入ってきた生存者に問題は?」
「搬送手順に大きな障害は発生していません。ただし、発見済みの人員数とASTRAEAの全乗員の安否状況を、同一のものとして扱ってはいけません。最終的な照合作業は、まだ続いています」
「了解」
俺はメインスクリーンに表示された皇室艦船の構造図を見つめた。
正直なところ、負傷者の大半が脱出に成功した時点で、俺たちの仕事は終わったと言うこともできる。
俺たちは、皇室の護衛になるための正式な契約を結んでいるわけじゃない。
それに、ここへ長く留まれば留まるほど、アルケイオンが俺たちを、自分たちの対処すべき問題の一部だと見なす可能性も高くなる。
とはいえ、まだ生存者が残っている損傷艦を置き去りにしたり、自分たちの貨物の状態を無視したりすることも、ただ早く普段の航行に戻りたいという理由だけでは決断できない。
追加で引き受けた仕事を、どの時点なら十分安全に終えられるのか。
それを判断し、ASTRAEONを本来の目的地へ戻さなければならなかった。
「ラン」
彼女が顔を向けた。
「何かしら?」
「俺の名前で、一文追加してくれ。必要な救助活動と安全点検が完了したあと、タラリス国境兵站補給拠点への配送を再開する。こちらから契約の解除を求める意思はない、って」
ランが端末を操作した。
「入力したわ」
「それから、ASTRAEAの修理をC-145-MCの一部として約束しないように。あれは別件だ」
「もちろんよ。たまたま二つの書類が同じ机に置いてあるからといって、兵站局へ造船所の設備を無料で提供するつもりはないわ」
俺は笑った。
「ランって、たまに怖いよな」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
### 視点:セラフィエル・ヴェロリア
C-145-MCの初期通知は、紬の承認を得た。
私はランが作成した文書、時刻記録、そして経路逸脱に関係する限定的な証拠を含む送信用パッケージを準備した。
戦闘記録の完全版、ASTRAEONの内部構成、ASTRAEAの点検データは、引き続き別の保管領域に保存してある。
契約に登録済みの受取先を確認したあと、利用可能な通信チャンネルを通じて送信を開始した。
アルケイオン艦のネットワークへ直接接続する理由も、以前妨害の標的となったASTRAEAの緊急インターフェースを使用する理由もない。
その危険性については、すでに十分理解している。
「ラン、通知パッケージを送信しました。最終的な受理状況については、タラリス側からの確認待ちです」
「ありがとう。追加の要請があったら教えてちょうだい」
「もちろんです」
私は続いて、作戦日程の分析画面を開いた。
紬からの質問は、本来なら単純なものだった。
契約上の目的地へ向かうためには、あとどれくらいの時間が必要なのか。
しかし、その答えはASTRAEONのFTL性能を使って距離を割るだけでは求められない。
私たちにとっての主な問題は、今この場所にある。
避難はまだ続いている。ASTRAEAの物理的な点検も完了していない。Vector Caliperは引き続き皇室艦船の近くで警戒位置を維持しており、残されたアルケイオン艦も、まだ全艦が作戦宙域から離脱したわけではなかった。
私はヴェスペラへ連絡し、予測条件をすり合わせることにした。
「ヴェスペラ、条件付きの出航可能時間帯をまとめています。救助作戦後の航路評価は、もう完了していますか?」
「初期航路は用意できています。ただし、ASTRAEAについてカリスタの最終的な報告を受け取るまでは、出航を承認するつもりはありません」
「同感です。特定の出航時刻を約束するのではなく、各段階を基準にした予定を作成します」
私はその計画を指揮デッキの端末に表示した。
航路復帰見込み — C-145-MC
| 段階 | 満たす必要のある条件 |
| ------- | ---------------------------------------- |
| 避難の完了 | 緊急接続部を通じた患者の搬送が、すべて終了していること |
| 安全点検 | ASTRAEAおよび船外作戦区域が、次の段階へ進むのに十分安全だと判断されること |
| 曳航の決定 | カリスタの承認、ヴェスペラによる航路確認、およびASTRAEA側の許可 |
| 格納庫での保全 | 曳航を実施する場合、皇室艦船が安定し、関係する全区画の安全が確保されていること |
| 脅威評価 | 出航経路がアルケイオンの攻撃照準に捕捉されていないこと |
| 航行再開 | すべての条件を満たしたあと、紬が最終承認を与えること |
責任を持って計算できない項目には、意図的に確定時刻を記載しなかった。
ASTRAEAを安全に曳航できないと分かれば、セラフィナとともに、利用可能な選択肢を改めて話し合う必要がある。
アルケイオン艦隊が新たな攻撃を開始した場合、安全上の優先順位は変化する可能性がある。
そして、まだ到達可能な区画で新たな負傷者が発見された場合、事務上の日程だけを理由に救助作戦を終了させる判断を下してはいけない。
私はその計画を紬とランへ送信した。
「紬、契約を再開するまでに必要な各段階の見込みです。まだ確認の取れていない条件が複数あるため、更新後のETAは記載していません」
紬が目を通した。
「いいね。カリスタが今にも外れそうな船体の一部を見つけるたびに数字が変わるくらいなら、まだ分からないって書いてある報告書のほうが好きだよ」
「カリスタにも、そのご意見を伝えておきますね」
「いや、やめてくれ。仕事を疑ってると思われるから」
私は微笑んだ。
「冗談ですよ」
ちょうどそのとき、エウフォリアから通信が入った。
セレネ・アルカディアが、前回の相談以降に受け入れた患者数と、記録された容体の変化について最新情報を求めている。
私は医療チャンネルを独立した作業空間へ切り替えた。
「セレネ、受け入れ報告は準備できています。ASTRAEAの医療従事者が、新たに到着した患者を診察中です」
『更新情報は確認したわ。カリスタが準備した搬送装置はどう?』
「承認済みの手順どおりに稼働しています。責任者による確認なしに実施された搬送工程はありません」
『よかった。搬送が順調に見えても、到着後の再検査は続けるようにしてね』
「エウフォリアの受け入れ手順に組み込んであります」
『それから、そちらの施設が高性能だからといって、初期評価を省略してはいけません。高度な技術があっても、不完全な患者情報が突然完全になるわけではないのよ』
私は小さく笑った。
「カリスタの言ったとおりですね。手順を無視したら、やっぱりセレネは怒るんですね」
『当たり前でしょう。それは医療手順であって、部屋の飾り付けに関する助言じゃないのよ』
「そのお褒めの言葉は、カリスタへ伝えておきます」
『セラフィエル』
「はいはい。言葉を変えずに、指示だけを伝えますね」
通信を終えたあと、私は別の更新情報を受信した。
医療施設からではない。
タラリスへ送信した初期通知が、宛先の通信システムから受信確認を得たのだ。
ただし、担当部署からの正式な事務回答は、まだ届いていない。
私はランへその通知を送った。
「送信先システムによる受信は確認できました。権限を持つ担当者からの回答は、引き続き待機中です」
「よかった」と彼女が答えた。「自動の受信確認を、日程変更の承認として扱わないでね」
「もちろんです」
待機している間、私はセラフィナの身元情報を改めて開いた。
入手可能な公開情報は、すでにASTRAEAとヴェルドラコン皇室の関係を示している。実際に確認した紋章や受信済みの通信も、その識別を裏付けていた。
しかし、作戦報告書の中で誰かを皇女と呼ぶことと、皇室の認証情報を使用して正式な身元確認を完了することは、別の問題だ。
セラフィナが承諾するのであれば、ASTRAEONの中核システムへのアクセスを与えることなく、限定的な手順でその確認を実施できる。
私は紬へ近づいた。
「事件の完全な報告書を作成する前に、セラフィナと話し合っておきたいことが一つあります」
「彼女の身元について?」
「そのとおりです。彼女から、認証のために帝国の通信プロトコルを利用できると申し出がありました。隔離された検証環境を通じて、必要な認証データだけを受け取ることを提案します」
ランがすぐにこちらを向いた。
「賛成よ。皇室ネットワークへの無制限なアクセスなんて必要ないわ。まして、緊急インターフェースへの妨害に関する調査も、まだ終わっていないのだから」
紬が頷いた。
「だったら、その範囲をセラフィナへ説明してくれ。助けた見返りとして、ASTRAEAのシステムを支配する権限を要求してるなんて思わせないように」
「分かりました」
私は指揮デッキの扉へ向かった。
この艦の壁の向こうでは、六人の中核乗員が、それぞれの仕事を進めている。
一方、ASTRAEAから迎え入れた客人たちは、用意された施設で過ごし、ASTRAEONの自動システムと、一緒に避難してきた皇室艦船の医療従事者から支援を受けていた。
乗員、緊急避難乗客、外部関係者。
その区別は、今後も明確にしておく必要がある。
彼らを遠ざけるためではない。
誰に助けを求めればよいのか、誰に決定権があるのか、そして紬の家のどの部分が一般には開放されていないのか。
それを、誰もが理解できるようにするためだった。
### 視点:セラフィナ・ヴァルクレイン・ヴェルドラコン
ASTRAEON VELORIAへ入ってから、ここが宇宙船の内部なのだと、何度か自分自身に言い聞かせなければならなかった。
私に用意された観察室は、エウフォリア医療研究所からそれほど離れていない。
室内のパネルを通じて、柔らかな人工照明に照らされた庭園の一部を眺めることができる。別の通路の先には、ゲスト用施設や休憩室、そして特別な許可を必要とする区域への案内表示もあった。
まだ、見て回ろうとはしていない。
ASTRAEAでの出来事を経験した今、私が必要としているのは、救助艦の豪華な設備を鑑賞する機会などではなく、乗員たちの安否に関する情報だった。
目の前の端末には、ミレルからの最新報告が表示されている。
彼女は現在も、人員の照合作業と皇室艦船の記録の保全を手伝っていた。
到達可能な患者グループの大半は、すでに搬送経路を通過している。しかし、すべての区画からの最終報告が出揃ったわけではない。
私は彼女へ返信した。
「ミレル、すでに危険と判断された区域に、無理をして留まらないでください。捜索班が情報面での支援を必要としているのなら、通信回線を使えばいいのです。私たちが意地を張りすぎたせいで、これ以上士官を失いたくはありません」
ほどなくして、返事が届いた。
『了解しました、殿下。ダメージコントロール担当者の判断に従います』
私は息を吐いた。
立場が逆だったなら、ミレルもきっと、私に同じことを言うのだろう。
彼女の報告を閉じた直後、セラフィエルから入室許可を求める連絡があった。
「どうぞ」
彼女は携帯端末を持って入ってきた。
「殿下、以前お申し出いただいた帝国の通信プロトコルについて、お話ししたいことがあります」
私は頷いた。
「今、必要になったのですか?」
「ランが初期報告書と緊急避難乗客の登録記録を作成しています。正式な認証を行えば、使用している身元情報が正当な権限に基づくものであることを確認できます。ただし、私たちが求めるのは、その検証に必要なデータだけです」
「ASTRAEAの通信システム全体へのアクセスは、必要ないのですか?」
「必要ありません。皇室の名義で通信を送信する権限も求めません」
私はしばらく彼女を見つめた。
私の身分を知った人々の中には、宮廷との繋がりから、どのような利益を得られるかをすぐに考え始める者も少なくない。
けれど、星崎艦長とセラフィエルは、むしろ自分たちが不必要なアクセス権を得ないよう、境界線を定めることに忙しいようだった。
「皇室の手順を通じて、認証情報を提供することはできます」と私は答えた。「ただし、一部のデータは正式な仕組みを通じてしか検証できません。私的な通信鍵を、そのまま引き渡すことはできないのです」
「私たちも、その形を想定しています。隔離された検証環境を準備します。認証を実施する前に、詳細な手順をランとともに確認しましょう」
「分かりました」
セラフィエルは端末を閉じたが、すぐには立ち去らなかった。
「それから、ASTRAEAの技術点検にも進展があります」
私はすぐに顔を上げた。
「どのような状態ですか?」
「カリスタが構造図を受け取り、外部からの初期点検を一部完了しました。現在は、曳航手順に使用可能な接続箇所を調べています。皇室艦船を動かすという決定は、まだ下されていません」
私は彼女を見つめた。
「それなら、ASTRAEAを格納庫で保管するという提案には、まだ可能性があるのですね?」
「引き続き評価中です。カリスタは、すべての選択肢を直ちに断念しなければならない理由は見つけていません。ただし、主エンジン二基とその周辺の船体の損傷について、より詳細な点検が必要だと判断しています」
私はゆっくりと頷いた。
少なくとも、父と祖父から贈られたあの艦を、置き去りにしなければならないという知らせは、まだ届いていない。
「教えてくれて、ありがとう」
セラフィエルは向かいの椅子に腰を下ろした。
「もう一つお伝えしたいことがあります。紬は、タラリス戦略兵站局への初期通知を承認しました。私たちの輸送契約は引き続き有効であり、ここでの作戦が終わって航路へ復帰できるようになり次第、再開する予定です」
私は、その言葉の意味を理解した。
「私がASTRAEAに関するすべての問題を片づけるまで、あなたたちが待ち続けるわけにはいかないということですね」
「すでに決定した範囲では、引き続き支援します。ただ、私たちにはほかの方々に対する義務もありますから」
「星崎艦長に、契約を忘れるよう求めるつもりはありません」
私は、艦の外にあるASTRAEAを映し出しているパネルへ目を向けた。
「むしろ、自分の責任を忘れずにいてくれることを高く評価しています。帝国の皇女を前にした途端、依頼主との約束を簡単に投げ出すような艦長を、今のような状況で信頼したいとは思いませんから」
セラフィエルが微笑んだ。
「その評価を聞けば、きっと紬も喜ぶと思います」
「本当に喜ぶでしょうか?」
「ランから追加のお説教を受けなくて済む理由として、口にするかもしれませんね」
私は笑った。
「皆さん、本当にお互いのことをよく理解しているのですね」
「同じ艦で一緒に暮らしていますし、日常的にあまりにも多くの問題を扱っていますから。いつまでも形式ばっているわけにはいかないのです」
私は彼女を見つめた。
「六人、でしたね?」
「はい。紬、私、レア、ヴェスペラ、ラン、そしてカリスタです」
私は、先ほど通り過ぎた施設の壮麗さを思い返した。
「信じられないほどです。ASTRAEONにはこれほどの収容能力があるのに、皆さんの家に暮らしているのは、たった六人なのですね」
「艦の収容能力と、そこに暮らしたいと思う人の数は、別の問題ですから」
私は小さく微笑んだ。
「少しずつ、あなたの言いたいことが分かってきた気がします」
セラフィエルが答えようとした、ちょうどそのとき。
彼女の端末が通知音を鳴らした。
内容を確認したあと、彼女が私へ顔を向ける。
「タラリスから返答が届きました。ランから、まず紬へ伝えるよう頼まれています」
「皆さんの契約に問題があったのですか?」
「現時点では、契約解除を示す情報はありません。ただし、結論をお伝えする前に、回答の全文を確認する必要があります」
私は頷いた。
「どうぞ。あなたの仕事を妨げるつもりはありません」
セラフィエルは立ち上がり、挨拶をして部屋を出ていった。
扉が閉まると、私は再びASTRAEAの人員報告書を開いた。
まだ最終確認が取れていない名前が、いくつか残っている。
次の報告では、良い知らせが届いてほしかった。
ほどなくして、私の通信端末に、紬の許可を得てセラフィエルから転送された正式なメッセージが届いた。
彼らの契約に関する機密文書ではない。
救助作戦の継続に関係する、タラリスからの回答の一部だった。
初期通知は受理された。
C-145-MCの契約は、引き続き有効。
ただし、タラリス戦略兵站局は、ASTRAEON VELORIAがより安定した通信区域へ到達したあと、完全な報告書を提出するよう求めていた。
すべての遅延について、裏付けとなる証拠と、更新された到着予定時刻を添える必要があるという。
私は最後の一文を二度読んだ。
彼らは星崎艦長の仕事を取り消さなかった。
しかし、彼が皇室艦船を救助したという理由だけで、契約上の責任から解放したわけでもなかった。
私は安堵した。
なぜだろう。
いつ気が変わるか分からない誰かの善意に頼るより、この艦で下される決定が、明確な義務に従っていると知るほうが、私には心地よかった。
私は指揮デッキへの通信を有効にした。
「星崎艦長、セラフィナです。タラリスからの回答について、更新情報を受け取りました」
すぐに返答があった。
『お身体の具合はいかがですか?』
「大丈夫です。それから、先方の要請についても理解しているとお伝えしたくて。こちらの経路逸脱について説明するために役立つASTRAEA側の文書があれば、正式な手順に従って、権限を持つ士官に準備させます」
『ありがとうございます。本当に必要な書類については、ランからお知らせします』
「それから、セラフィエルと話し合った範囲内での身元認証にも、協力する用意があります」
『よかった。お互いのシステムに、不必要なアクセスを開くことなく進めましょう』
私は微笑んだ。
「もちろんです、艦長」
通信が終了した。
私はASTRAEONの外に留まっている皇室艦船の映像へ、視線を移した。
今夜、私は長年自分の指揮下で働いてくれた人々の命を失った。
父と祖父が信頼の証として贈ってくれた艦、ASTRAEAも、もう少しで失うところだった。
あの艦が再び飛べるようになるのかは、まだ分からない。
誰がアルケイオンの攻撃を命じたのかも、彼らが私たちの外交航路の変更をどのように知ったのかも、分かっていない。
けれど、ASTRAEAの主エンジンが破壊されてから初めて、負傷した人々全員が避難場所を失ってしまうのではないかと心配することなく、それらの問題を考える余裕が生まれていた。
私は椅子の背もたれに身体を預けた。
外では、ASTRAEON VELORIAが今もその位置を維持している。
そして、はるか前方には、まだ完了していない輸送契約が、艦長の帰還と航行の再開を待っていた。
【次話予告・第164話】
「王家の証明」
王家の証明――セラフィナはASTRAEONの安全通信室で、正式な身元認証を受ける。ランとセラフィエルは皇室ネットワークへの無制限なアクセスを求めることなく彼女の身元を確認し、紬は皇女という身分によって自艦の所有権や契約上の義務が変わることはないと明言する。




