第104話「海賊ではない」
第104話「海賊ではない」
ヴェルドラコン帝都――帝都行政回廊
防衛システムから発せられた最後の警告音が、短い残響となって指揮室に残っていた。
戦術画面上の赤い点が、コンボイから徐々に遠ざかっていく。
公爵家の船へ接近する砲撃は、もうない。
敵のモビルフレームが再び戻ってこようとする動きもない。
残されているのは、推進機関が残した熱源の軌跡と、ゆっくりと消えていく電子妨害の痕跡、そして制御を失った末にアストレオン・ヴェロリアの防御システムによって停止させられた数機の攻撃ドローンだけだった。
それでも、紬はすぐに警戒を解かなかった。
メインパネルの前に立ったまま、一つ、また一つと赤から黄色へ、そして白へ変化していくシンボルを見つめている。
「セラフィエル。コンボイの状況は?」
セラフィエルは指揮席から数歩離れた場所に立ち、薄いホログラフィック画面を目の前に展開していた。
表情は変わらない。
だが、その瞳は普通の人間なら読み取ることさえ難しい速度で流れていくデータを追っていた。
「公爵家コンボイは健在です。操艦能力を失った船はありません。最大の構造損傷は護衛艦の外装層の一部に発生していますが、避難を必要とする基準値には達していません」
メインパネルにデータが順番に表示される。
コンボイ状況
- 民間船:100%
- 公爵家輸送船:99.72%
- 護衛艦A:96.41%
- 護衛艦B:98.03%
- 防御ネットワーク:94.86%
- 死傷者:0
- 民間人死傷者:0
- オーレリア・ヴェイリエン:安全
紬は最後の行まで目を通した。
それからようやく、肩の力が少しだけ抜けた。
「オーレリアは?」
「現在も公爵家の保護区域内にいます。身体状態は安定しており、攻撃による負傷の兆候もありません」
部屋の反対側では、レアがちょうどハンガーから戻ってきたところだった。
ヴァルキリーが安全な状態にあることを確認してきたらしく、モビルフレーム内での激しい動きのせいか、髪は少し乱れている。
狐の両耳は、新しい報告が届くたびに小さく動いていた。
カイラも戻ってきている。
彼女のモビルフレームはすでに戦場から離脱していたが、その機体に記録された損傷データは、まだ戦術パネルに表示されたままだった。
カイラは両腕を胸の前で組む。
「撤退が早すぎます」
レアが彼女を見る。
「それって、いいことじゃないの? このまま進まれていたら、私ももっと相手の機体を壊さなきゃならなかったし」
「撤退が悪いとは言っていません、レアさん。私が言っているのは、あの撤退の仕方が、戦闘に勝つために来た集団のものとは一致していないということです」
カイラの声音は相変わらず平坦だった。
レアは黙った。
そして、再び戦闘記録へ視線を戻す。
確かに、その通りだった。
敵はそれなりに整った編成で現れた。
電子戦機、攻撃ドローン、武装迎撃艇、そして複数のモビルフレームまで用意していた。
しかも、彼らは変更されたコンボイの航路まで把握していた。
それなのに、アストレオン・ヴェロリアが予想を超える能力を見せた途端、限界を試そうとはしなかった。
彼らは撤退を選んだ。
まるで、最初から目的がコンボイを破壊することではなかったかのように。
標的がそこにいることを確認すること。
それこそが、最初から彼らに与えられていた目的だったように見える。
紬はようやく椅子を引き、腰を下ろした。
「セラフィエル。彼らの通信を再生してくれ。攻撃前のものから」
「すでにチャンネルごとに分離してあります。戦闘中に公開ネットワークから復元可能だった通信記録も保存済みです」
新しいパネルが開く。
復元通信データ
**公開チャンネル:**17
**戦術チャンネル:**9
**暗号化チャンネル:**6
**部分復元:**4
**特定済み音声:**0
**有効送信時間帯:**23
レアが近づく。
「暗号化チャンネルが6つ? 一人を誘拐するだけの連中にしては、多すぎない?」
セラフィエルがデータを切り替える。
「それが、私が彼らを通常の犯罪集団として分類していない理由の一つです」
カイラがすぐに振り向いた。
「何が分かったのですか、セラフィエルさん?」
「彼らの身元を断定するには、まだ情報が不足しています。ただし、いくつか検証可能な事実があります」
最初の記録が再生される。
男の声がスピーカーから響いた。
『3番機、左側へ入るな。護衛航路が変わった』
記録が止まる。
続いて、二つ目の声が流れた。
『了解。代替航路を使え。標的は主輸送車両にいる』
再び記録が止まった。
紬が目を細める。
「主輸送車両?」
セラフィエルはすぐには答えなかった。
通信分類データを開く。
通信用語分析
- 「標的」――14回
- 「保護対象車両」――3回
- 「公爵家輸送船」――0回
- 「王女」――0回
- 「オーレリア」――0回
- 「民間輸送船」――7回
- 「主要車両」――11回
「彼らは意図的にオーレリアの名前を口にしていません」
カイラは表示されたデータを注意深く見る。
「誘拐作戦なら、それは合理的です。標的の身元は制限されるべきでしょう」
「その通りです。しかし、もう一つあります」
セラフィエルが次のデータを表示した。
戦術情報一致度
- 実際のコンボイ構成:100%
- 現行航路:100%
- 旧航路:100%
- 護衛隊形:100%
- 中継地点の変更:100%
- 保護対象者の位置:96.8%
- 出発時刻:100%
部屋が静まり返った。
先ほどまで気楽そうだったレアが、ゆっくりと耳を立てる。
「待って。古い航路と新しい航路の両方を知っていたの?」
「はい」
「それに、変更された中継地点まで?」
「はい」
レアは紬を見る。
「だったら、外からずっと私たちを追っていたわけじゃない」
紬はすぐには答えなかった。
右側の画面に表示されたコンボイの移動グラフを読み返す。
青い線が公式航路。
白い線が実際の航路。
そして赤い線が襲撃者の位置を示している。
3本の線が、一つの地点で交差していた。
カイラが以前から問題視していた中継地点だ。
紬は椅子に身体を預けた。
「コンボイがそこへ到着する前から、彼らは変更を知っていた」
カイラがセラフィエルへ視線を向ける。
「その情報を外部からの観測だけで入手できる可能性は?」
「複数の比較モデルを実行しました」
グラフが表示される。
情報源の可能性
外部観測――8.4%
公開交通データ――12.7%
現地監視――16.3%
商用追跡――9.1%
内部情報漏洩――53.5%
その下に、セラフィエルが細い線を一本追加する。
未解決――100%
「この数値は犯人を特定する結論ではありません」とセラフィエルが続ける。「復元できたデータに基づく可能性の分布にすぎません。まだ事実へ変換することはできません」
紬は小さく頷いた。
「それでいい。数字がもっともらしく見えるからって、可能性を確定事項に変えないでくれ」
「了解しました」
カイラも納得したようだった。
「少なくとも、先ほどの航路変更を無視できないことは分かりました」
「そうだな」
レアが腕を組む。
「じゃあ、あいつらはあの地点で待っていたってこと?」
「可能性は高いです」
「だったら、オーレリアの航路を変更した人と、あいつらを送り込んだ人が同じ可能性もある」
紬が顔を上げる。
「そうかもしれない。そうでないかもしれない。証拠が出るまでは、二つを同一視するな」
レアは息を吐いた。
「分かってる。ただ、あまりにもいろんな部分が噛み合ってる気がする」
「だからこそ慎重になる必要がある」
セラフィエルが記録を切り替えた。
今度は音声ではない。
登録書類が表示される。
船舶登録――復元された身元情報
運営者:民間保安請負業者
免許:有効
管轄:ヴェルドラコン外縁行政ネットワーク
保険:有効
武器申告:限定的
民間保安分類:承認済み
これまでレアの後ろに立っていたカリスタが、ようやく前へ出た。
「ちょっと待って。登録が有効なら、何が問題なの?」
セラフィエルがメタデータの一部を拡大する。
「登録そのものは有効です。しかし、運営者の身元は完全なものではありません」
カリスタが眉を寄せる。
「偽造?」
「正確には、実在する複数の法的データから構築された身元が使用されています。免許には有効な番号が使われ、保険にも有効な記録があります。しかし、その法人と私たちが遭遇した船との関係が一致していません」
カリスタがさらに近づく。
「つまり、ゼロから偽の身元を作ったんじゃない。本物の身元を使って、偽物の身元を包んでいる」
「それが確認されたパターンです」
紬は数秒間、パネルを見つめた。
「普通の海賊なら、一つの小規模な作戦のためにそこまでやる理由はない」
カイラが振り向く。
「必ずしもそうとは限りません。組織化された犯罪集団の中には、情報網や偽造身元を持つものもあります」
「そうだな。だから、この一つのデータだけで海賊ではないとは言えない」
紬がパネルを指す。
「でも、全部を組み合わせれば、違いが見えてくる」
セラフィエルが複数のデータを同時に開いた。
襲撃者装備分析
- モビルフレーム:軍用規格部品
- 電子戦:軍用標準アーキテクチャ
- 戦術中継:プロフェッショナル規格
- 航法:軍用パターン暗号化
- ドローン制御:複数機協調ネットワーク
- 兵装:制限級部品を検出
- 民間登録:有効だが不整合あり
- 指揮系統:確認済み
- 航路情報:高精度
レアが一行ずつ読む。
「軍隊に近い戦術ネットワークまで使ってる」
カイラはモビルフレームの項目を見つめる。
「近いというだけではありません。一部の部品は、小規模な犯罪集団では通常使用されない規格です」
カリスタが兵装データを指差した。
「こっちのほうが興味深い。兵装冷却部品と射撃管制システムが、あまりにも整った仕様で作られてる。全部を闇市場で購入したなら、かなり高額になる。盗品なら、供給源があるはず。もし自前で製造しているなら……」
カリスタが言葉を止める。
レアが薄く笑った。
「つまり、かなり設備の整った施設を持ってるってことね」
「あるいは、誰かから装備を提供されている」
カリスタの答えに、カイラは反論しなかった。
紬はセラフィエルへ視線を移す。
「軍から直接支援を受けている証拠は?」
「まだありません」
「正式な保安会社からは?」
「ありません」
「犯罪組織からは?」
「まだ断定できません」
紬は静かに息を吐いた。
「つまり、最初に戻ったわけか」
セラフィエルがわずかに微笑む。
「完全に戻ったわけではありません。今回は、以前より多くの情報があります」
レアが小さく笑う。
「セラフィエルさんがそう言うなら、何かあるってことだね」
「私は単に、データが増えたと言っているだけです、レアさん。犯人を特定したとは言っていません」
「それがあなたの慎重すぎる話し方なのよ」
「私は正確性を重視するAIです」
「知ってる。だから、あなたに質問するのが好きなんだ」
カリスタがため息を吐いた。
「二人とも、武装集団を分析している最中なのに、どうしてそんな世間話みたいな会話をしていられるんですか?」
レアが振り向く。
「カリスタちゃん、みんながずっと緊張してたら、逆にちゃんと考えられないよ」
「私は緊張していません。ただ、人を殺せるほどのデータを前にして、あなたたちが冗談を言うのが好きではないだけです」
「ほら、それって緊張してるってことじゃない?」
「そういう意味じゃありません」
紬は数秒、その会話を黙って聞いていた。
それから別のパネルを指す。
「セラフィエル。アストレオン・ヴェロリアから公爵家コンボイがオーレリアを迎えに来るまでの移動データを開いてくれ」
「承知しました」
新しいデータが表示される。
オーレリア・ヴェイリエン――移動情報
回収地点 → AURELIS SERENA
医療搬送 → アストレオン・ヴェロリア
一時民間移動 → ペラギア・ノーヴェ
文化圏移動 → メリディアン・ヴェイル
帰還許可 → ヴェルドラコン銀河帝国
帝都到着 → 公爵家邸
複数の時系列が横方向に表示される。
紬はすべてに目を通した。
その移動自体には、不自然な点はない。
少なくとも、襲撃者の通信データをタイムライン上へ重ねるまでは。
セラフィエルが二つ目のレイヤーを追加する。
赤い点が現れた。
続いて、三つ目のレイヤー。
黄色い点が表示される。
レアが近づく。
「赤いのは?」
「襲撃者による通信の出現です」
「じゃあ、黄色は?」
「オーレリアに関する情報を検索したネットワーク活動です」
紬はそのパターンを見る。
いくつかの点は、ペラギア・ノーヴェでオーレリアの情報が広まった後に出現している。
しかし、その一部はもっと早い。
遥かに早い。
紬が一つの点を指差した。
「これは?」
「ペラギア・ノーヴェで撮影されたオーレリアの写真が、現地ニュースネットワークへ流れる前に検索活動が発生しています」
再び、部屋が静まり返る。
カイラが一歩前へ出る。
「それなら、彼らはメディアだけから情報を得たわけではない」
「その通りです」
「一般にオーレリアの存在が知られる前から、彼らは彼女を探していた」
セラフィエルが追加データを表示する。
情報アクセス時系列
AURELIS SERENA――検索活動 → ペラギア・ノーヴェでの報道露出以前
オーレリア・ヴェイリエン――身元制限検索 → 公開身元特定以前
ヴェルドラコン公爵家航路――航路承認後に検索活動
紬は数秒間、瞬きもしなかった。
そして静かに言う。
「誰かが、彼らに情報を渡した」
誰もすぐには口を挟まなかった。
単純な言葉だった。
「陰謀」という言葉もない。
告発もない。
名前もない。
ただ、このデータから導き出せる数多くの理論よりも、遥かに単純な結論だけがそこにあった。
カイラがようやく息を吐く。
「その言葉には同意します。現時点では、それが最も安全な線引きです」
レアも頷く。
「だったら、もう問題はどうやってオーレリアを見つけたかじゃない。彼女の移動について十分な情報を持っていて、それを彼らに渡せたのが誰なのかってことだね」
紬が立ち上がる。
「そして、その人物が公爵家の内部にいるのか、帝都行政保安局なのか、別の保安ネットワークなのか、それとも第三者なのかも分かっていない」
カイラが紬を見る。
「紬さん。一つ、確認させてください」
「何だ?」
「今から彼らを追うつもりではありませんよね?」
紬は首を横に振った。
「もう撤退した。疑っているというだけで追う理由はない。それに、さっきの連中の目的はオーレリアを生きたまま連れ去ることだった。失敗したんだ。今重要なのは、なぜ彼らが本来持っているはずのない情報を手に入れられたのかを知ることだ」
カイラはしばらく黙った。
やがて、表情が少しだけ真剣になる。
「合理的な判断です」
レアが小さく鼻を鳴らす。
「残念。私はさっきの戦いが始まったばかりだったのに」
カイラが彼女を見る。
「レアさん、誘拐を目的とした戦闘を楽しいと表現するのですか?」
「誘拐が楽しいなんて言ってないよ。戦闘が楽しかったの。ヴァルキリーを本当の状況で使えたから。訓練や競技じゃない、現実の戦場で。やっぱり感覚が違う」
紬はレアを見る。
「気分に流されすぎるな」
「分かってる。ちゃんと命令には従ったよ。撤退した相手を追わなかった」
「それでいい」
レアはしばらく黙った。
視線が、自分のモビルフレームのデータを表示している画面へ移る。
ヴァルキリー――戦闘後状態
- 構造完全性:94.7%
- 主推進器:98.9%
- 360度ベクターノズル:96.8%
- プラズマ・キャノン:97.1%
- 軽量ミサイルランチャー:100%
- パイロット支援システム:99.4%
- 戦闘能力:93.8%
レアは満足そうに笑った。
「まだ十分いい感じ」
カリスタがすぐに返す。
「喜ぶのはまだ早い。プラズマ・キャノンの冷却システムを全部確認するまで安心しないで。さっきみたいに撃ち続けていたら、内部部品の摩耗が早くなる」
「でもシステムはちゃんと動いたよ」
「それは機械を酷使していい理由にはならない」
「カリスタちゃん、私はちゃんと想定された用途で使っただけだよ」
「その使い方の後始末をするのは私なんです」
レアが笑う。
しかし数秒後、その表情が変わった。
彼女はヴァルキリーのパネルをじっと見つめた。
そして、まるで独り言のように呟く。
「もし、さっき私が紬の機体を使ってたら……」
損傷データを読んでいたカリスタが、すぐに顔を上げた。
「紬の機体?」
レアは、そこで初めてカリスタがその機体を見たことがないと気づいたようだった。
「あ。まだ知らなかった?」
「もちろん知りません。何の機体ですか? モビルフレーム・ハンガーを確認したとき、私が見つけたのは標準機とヴァルキリーだけです。もし専用機があるなら、どんな形をしているんですか? それはどこに保管されているんです?」
レアは笑いをこらえる。
「本当に見たことないの?」
「見たことがあるなら、質問なんてしません」
カリスタは紬へ近づいた。
「紬、個人用のモビルフレームを持ってるの?」
紬は少し黙った。
「ある」
カリスタが眉を寄せる。
「どこに?」
「ハンガー」
「ハンガーなのは分かっています。でも、ここのハンガーはかなり広いとはいえ、私は何度もモビルフレーム区画を調べています。個人用の試作機らしい機体は見つけていません。目立っていたのは、レアのヴァルキリーくらいです」
レアが笑いをこらえる。
「ほら。それが問題なんだよ。探してる場所が違う」
カリスタがすぐに彼女を見る。
「場所が違う?」
セラフィエルがハンガーの区画図を開く。
アストレオン・ヴェロリア――モビルフレーム保管区画
総収容数:2,400機
標準保管:稼働中
カスタム機:ヴァルキリー
個人用試作機:制限アクセス
アクセス権限:キャプテン/セラフィエル
現在状態:待機
区画図の一部が別の色へ変わる。
そこは主要保管区画ではない。
標準機が並ぶプラットフォームでもない。
稼働中の保管ルートから外れた、より暗いハンガーの一角だった。
カリスタは、その区画図をしばらく見つめた。
「……私は本当に、ここを作戦区画として認識したことがありません」
「その機体は、ほかの機体と一緒には置かれていませんから」とセラフィエルが説明する。「稼働中の保管区画とは分離された場所にあります」
レアがにやりと笑う。
「私、前にその機体を使ったことがあるよ」
カリスタが素早く振り向く。
「使ったことがあるんですか?」
「シミュレーションでね。本当の戦闘じゃないよ」
「どうでした?」
レアから笑みが消えた。
狭いコックピット。
自分が実際に動くことを認識するより先に反応するニューラルインターフェース。
そして、あまりにも攻撃的に感じられた戦闘システムの推進力。
その感覚が蘇る。
「危険だった」
カリスタが眉を上げる。
「どれくらい?」
「機体が遅いとか、操縦しにくいとかじゃない。むしろ逆。反応が良すぎる。速すぎる。少しでも頭の中が乱れていたら、自分が何を考えているのか認識するより先に、その機体が衝動に従って動いてしまう」
カリスタは先ほどの区画図を見る。
「だから、今は使っていないんですか?」
レアが口を開くより先に、紬が答えた。
「まだ必要ないからだ」
カリスタは紬を見る。
「でも、もしさっきそれを使っていたら、どうなっていました?」
紬はすぐには答えなかった。
代わりにセラフィエルが古いパネルを開いた。
個人用モビルフレーム――技術概要
分類:試作機
構成:キャプテン専用
制御インターフェース:ニューラルインターフェース
戦闘最適化:最大性能
パイロット適合性:制限付き
自律戦闘支援:高
標準パイロット推奨:非推奨
現在状態:待機
レアはもう一度、そのデータを読む。
「だから気になるんだよね。さっきあの機体を使っていたら、ヴァルキリーより速く動けたかもしれない」
それまで黙っていたカイラも、そのデータを見る。
「ですが、あなたはヴァルキリーを選んだ」
「ヴァルキリーは私の機体だから。限界も分かってるし、スラスターの動きも、プラズマ・キャノンの反応も、いつ止めるべきかも分かってる。紬の機体は違う」
カリスタが腕を組む。
「それなら、なぜ先ほどの戦闘に持ち出さなかったのか分かります。反応が良すぎる機械が、必ずしも優れた機械とは限りません」
レアが笑う。
「それ、私が初めて使ったときに紬が言ってたことと同じ」
紬が振り向く。
「俺は、そんな言い方をした覚えはない」
「意味は同じだよ」
「そう言うなら、そうなんだろうな」
セラフィエルがデータを閉じる。
「現時点では、紬の個人用機体は待機状態を維持します。先ほど戦闘が発生したというだけで、起動する理由にはなりません」
紬が頷く。
「そのままでいい」
レアが息を吐く。
「残念。あの機体が本当に戦場へ出たら、どんな感じなのか知りたかったのに」
カイラが彼女を見る。
「レアさん。あなたの説明したデータを考えると、私は戦闘能力よりも、なぜ紬さんがその機体を保管しているのかのほうが気になります」
レアが大きく笑う。
「それ、いい質問だね」
カリスタも紬を見る。
「私も知りたいです。今まで、アストレオン・ヴェロリアのモビルフレーム・ハンガーには必要に応じて使用できる機体だけがあると思っていました。まさか、ほかの機体と混ざらない場所に、個人用の試作機まで保管していたなんて」
紬は息を吐く。
「セラフィエルが作った」
セラフィエルが微笑む。
「私は、紬がいつか標準構成では制限される機体を必要とする可能性に備えて、用意しただけです」
「そして、今まで俺は必要としていない」
「その通りです」
レアは再びパネルを見る。
「じゃあ、待つ理由はできたね」
カリスタが疑わしそうに彼女を見る。
「まさか、この後また試すつもりじゃないでしょうね?」
「そんなこと言ってないよ」
「表情がそう言っています」
「カリスタちゃん、私のことを知りすぎだよ」
「それが問題なんです」
その会話によって、部屋の空気が少しだけ軽くなった。
しかし、セラフィエルは笑わなかった。
彼女の視線は、まだ開いたままの通信データへ戻っている。
「紬。一つ、まだ見せていない部分があります」
その声音によって、全員が再び黙った。
紬が振り向く。
「表示してくれ」
最後の記録が表示された。
命令の声ではない。
座標でもない。
部分的に破損した通信の断片だけだった。
『……中継地点の変更……』
ノイズ。
『……予定通り……』
再び干渉。
『……公爵家の名前は使うな……』
そこへ、別の声が入る。
短い。
低い。
『……標的は必ず生かしておけ』
記録が終わる。
カイラは画面を見つめる。
「本当に、オーレリアを生かしておくことを強調しています」
「攻撃パターンとも一致しています」とセラフィエルが答える。「彼らは標的の船を破壊できる攻撃を避けています。護衛を分断し、主要車両への進路を開くために兵装を使用していました」
紬は戦闘グラフを見る。
最初の攻撃。
電子妨害。
隊形の分断。
モビルフレームの接近。
護衛の拘束。
主要車両への接近。
すべてが、混乱を引き起こすことだけを目的とした攻撃にしては、あまりにも整然としていた。
紬はグラフ上の一点に触れる。
「セラフィエル。この作戦パターンを、以前遭遇した海賊集団のデータと比較してくれ」
「比較完了しました」
新しいパネルが表示される。
戦術行動比較
無秩序な海賊集団
- 編成規律:変動
- 通信構造:低~中
- 航路情報:低~変動
- 標的識別:不安定
- 撤退パターン:機会依存
今回の襲撃者
- 編成規律:高
- 通信構造:高
- 航路情報:高
- 標的識別:正確
- 撤退パターン:統制済み
紬は最後の行まで読み終えた。
「じゃあ、タイトルはもう明らかだな」
レアが彼を見る。
「何?」
紬は一つのパネルを閉じた。
「こいつらは普通の海賊じゃない」
カイラが静かに続ける。
「そして、現在あるデータだけでは、正式な軍でもありません」
「そうだ」
カリスタは先ほどの偽装登録記録をもう一度見る。
「じゃあ、その中間にいる。軍のような装備、プロのような通信、偽装された民間身元、それに本来なら手に入れるのが難しい情報まで持っている」
紬は頷いた。
「俺たちが調べるべきなのはそこだ。誰が一番強いかじゃない。誰が一番危険かでもない。誰が彼らに情報を渡したのかだ」
セラフィエルが、先ほどまで読み取れなかったデータの一部を拡大する。
一つの識別文字列が表示された。
最初は数文字だけだった。
やがてシステムが、その一部を再構成する。
情報源参照――部分復元
公爵家保安ネットワーク → 内部参照 → 権限関連情報 → アクセスパターン:制限対象
カイラがすぐに姿勢を正した。
「セラフィエルさん。最後の部分を拡大してください」
「処理中です」
コードの行が動く。
一つの名前が完全には表示されない。
個人名ではない。
完全な家名でもない。
ただ、一つの派閥を示す識別情報だけが浮かび上がる。
しかし、それだけで公爵家内部の一つの派閥と結びつけるには十分だった。
カイラは何も言わない。
レアも笑みを消した。
カリスタは紬を見る。
そしてセラフィエルが、復元できた結果をついに表示した。
公爵家派閥参照――一致確認
紬はその名前を読む。
数秒間、誰も口を開かなかった。
やがて紬が静かに言う。
「全部保存してくれ。まだ誰にも送るな」
セラフィエルが外部アクセスを閉じる。
「了解しました、紬」
カイラは、まだその派閥名を見つめていた。
これで問題は変わった。
もはや、誰がオーレリアを襲撃したのかという問題だけではない。
公爵家コンボイの航路を偶然見つけた犯罪集団だったのか、という話でもない。
貴族家の内部対立に関わる誰かが、ついにデータの中へ姿を現した。
そして、オーレリアがヴェルドラコンへ戻ってきてから初めて、家族の安全保障と内部の権力争いとの境界線が、明確に見え始めていた。
紬は椅子から立ち上がる。
「今夜は結論を出さない」
レアが頷く。
「でも、少なくとも、どこを見るべきかは分かったね」
カイラは、まだ派閥名が表示されている画面を見る。
「そして、この情報を公爵家保安局へ報告する必要があります」
紬が頷く。
「事実だけを報告してくれ。推測は加えるな」
「分かりました、紬さん」
セラフィエルがすべての記録を閉じる。
メインスクリーンには、再び静かな帝都の軌道航路が映し出された。
まるで、ほんの少し前に襲撃など起きていなかったかのように。
しかし、アストレオン・ヴェロリアの内部では、一つの新しいデータが問題の方向を大きく変えていた。
戦争ではない。
反乱でもない。
帝国全体への脅威でもない。
ただ、一つの貴族家内部の対立が、オーレリアの安全を自らの駆け引きの一部として利用し始めている。
そして今、紬の手元には最初の証拠がある。
誰かを告発するには、まだ不十分な証拠。
それでも、無視するにはあまりにも重要な証拠だった。
【第105話――「戦争と呼ばれない戦い」】
「戦争と呼ばれない戦い」
紬は、公爵家内部に存在する対立の構造を少しずつ理解し始める。家の地位、継承権、政治的関係、帝国宮廷への影響力、そしてオーレリアの安全を巡り、それぞれ異なる利害を持つ複数の勢力が存在している。オーレリア自身はその争いの当事者ではない。彼女は、その身分ゆえに多くの勢力の利害が集中する中心にいるだけだった。
紬は公爵家の政治に関わるつもりなどなかった。
しかし、状況は彼がただ立ち去ることさえ、次第に難しくしていた。
【第105話へ続く……】




