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混乱し立ち竦む僕を突き飛ばすように、次々と人が乗り込んできた。我に返った僕は、倒れそうになって慌てて体をかわした。あちらへ流され、こちらへ押し戻されて、ちょうど一人二人隔てた近さで、リカ達に背中を向けて立つはめになる。人が増えたせいだけではなく、急に周囲の温度が上がった気がした。
「一杯だねえ」
リカの隣の男が言った。
「土曜日はいつもこうよ。あなたが昨日じゃだめだって言うから」
「だって、なあ、リカちゃん」
おばさんの柔らかな抗議に男が応じた。
「リカちゃんだって予定があったって言うし」
「そうなの、ごめんね」
リカがくすくすっ、と笑った。スリーブレスのワンピースに淡いピンクのカーディガンを重ねた華奢な体が、おばさんに寄り添うようにもたれる。
「彼がどうしても金曜にも会うって言うんだもん」
僕はびくっとした。金曜に会った『彼』は僕じゃない、側にいる男だ。なのに、リカも男も平気な顔をして、おばさんと話し続けている。
「明日もデートでしょ。お付き合い、反対はしないけど、昨日みたいに遅くなるのはもうだめよ」
「はあい」
おばさんのたしなめにリカは可愛らしく返事した。
「これ、選ぶのに手間取ったの」
思わず肩越しにリカの方を透かし見ると、彼女は手首を上げて見せている。
「これって、時計のおもちゃ?」
「違いまあす、ベビーGって言うんだよ」
「やれやれ、まったくわからんよ」
男が平然とした顔でベージュのジャケットの肩をすくめて見せた。
「近ごろの子どものほしがるものは」
「えー? だって、その『近ごろの子ども』が、改めて『実の子ども』になるんだよー」
リカが瞬き、おどけて応えて、僕は息が止まりそうになった。
「期待してます、父親役、がんばってね、土居さん、じゃない、パパ」
「はいはい」
「んもう、リカったら」
はにかんだおばさんの声。
「あ、そっか、ママも幸せにしてね、パパ」
「はいはい、承知しました」
三人は声をそろえて笑った。
幸せに、なれるの、リカ?
三人で?
それとほとんど同時に、駅に止まった電車が戸口近くの乗客を一気に吐き出し始める。流されるままに、僕は戸口からホームへ押し出された。改札へ向かう人の波の中で振り返ると、閉まった電車の扉の向こうにリカ達が見えた。
リカの肩を男が抱え込んでいる。男のもう一方の手はリカの母親を引き寄せている。快活に笑う男の顔には陰り一つない。リカは男に笑顔を向けた。どこか切なそうで、どこかうれしそうな、不思議な微笑。
そのリカの顔に、もう一人の、よく知った女の顔が重なった。
僕の手から春日にもらったきんちゃく袋が滑り落ちる。がしゃっ、と強い嫌な音が響く。
それが封印が解ける合図だったのかも知れない。
「よしの…」
僕はつぶやいた。
胸の奥に大きな風穴が開いて、そこから巨大な力を持った嵐が吹き上がってくる。
「そうか……あいつは…田島だったのか…」
僕のつぶやきを嘲笑うように、電車は忍び寄ってきた薄い夕闇の世界に吸い込まれて消えていく。
くらり、くらり、くらり。
頭の中心で、止まりかけては動く無骨な木の歯車のように、回り灯篭のように、リカとよしのが、男と田島が、いれかわりながら回っていく。
そうだ。
はっきりとした確信が広がった。
あのときも、俺は山門から帰っていった。僧に助けを断られた今となっては、どこへも行けない、何もできない。だからといって、僧の元に止まることは、さらにできない相談だった。
見下すような黒い目に追われるように坂を下ってのろのろと歩き、昼過ぎに家に帰り着いた。
てっきり火をかけられ、修羅場と化しているとばかり思っていた家は、田島の兵に守られるように囲まれていた。不審に思って、近くの茂みに疲れた体を潜ませた俺の目の前で、家の戸口から、威風堂々とした田島が、よしののやせ細った体を抱いて出てくる。
よしのは、笑っていた。
切なそうにうれしそうに笑っていた。
俺にはついぞ見せてくれなかった笑顔だった。
ざあっと、潮風が家を、田島とよしのを、俺の回りを吹き過ぎていく。
噂には知っていた。
よしのは田島の愛した女の忘れ形見だ、と。
その女はほかの男との間によしのをなしたが、よしのを育てずに病で亡くなり、田島が引き取ったのだ、と。
裏切られても憎まれても、田島はよしのを傷つけるつもりはなかっただろう。それを俺は知っていた。
その、無償の愛こそ、俺が欲しかったものだった。
ぬるぬるとしたものが頬を伝っていくのを俺はぬぐわずに、二人を睨みつけていた。
それはついに、俺の手には入らなかった。俺の手にだけは入らなかった。
それだけがはっきりしていることだった。
俺は茂みから草を蹴り立て、躍り出た。
「この売女!」
よしのに向かって叫ぶ。
「男なら誰でもいいんだ! おまえを守る男なら!」
俺じゃなくても。
俺は必要とされていない。
誰にも、どこにも。
驚きどよめいた田島の手勢はすぐに俺を追ってきた。田島が冷ややかに見る、よしのが大きく目を見開き、それでも田島の着物の懐にもぐりこむようにしがみつくのを見て、俺は身を翻した。
追っ手は容赦なかった。俺は追い詰められ、追い詰められ、海に……海に落ちて。
「いつまでも、同じことを繰り返す」
僕はつぶやいた。
ホームにはいつの間にか僕一人しかいなかった。電車も来ない、人も来ない、改札の明かりが海中を照らすたった一つのランプのように見えてくる。
僕は確かに電車から降りてホームに立っているだけなのに、同時に夢の中の俺は田島の追っ手に追われて死にかけながら海中に沈んでいる。
「いつまでも、どこまでも」
そうつぶやいたのは、僕だったのか、春日だったのか、それともほかの誰かだったのか。
ふらついた足元に何かが触れた。
茶色のきんちゃく袋がくしゃくしゃになって汚れて落ちている。
僕はのろのろとそれを拾い、駅のくずかごに投げ入れた。




