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「少し待っててくれ。そのカップを入れられる袋を探してくる」
何だかちょっといづらくなった。帰りたいと言い出した僕に、春日はリカのカップを丁寧に洗い上げてから二階に消えた。
その間、僕はテーブルで春日の祖父、道斗さんと向き合っていた。
「いやー、昼には帰れんかと思っとったが」
道斗さんはうれしそうにトーストを取り上げると、冷蔵庫から出したブルーベリージャムの大瓶に大きなスプーンを突っ込んでたっぷり取り出し、にこにこしながらパンの全面に塗りたくった。
「よかった、よかった」
厚さ五ミリほどにジャムを塗り重ねてから、満足そうに白い髭の真ん中へ押し込んでいく。
血がつながってるせいだろうか。道斗さんにも、春日と同じ雰囲気がある。僕が何をしていようとここにいるのを拒まない、僕のやることを問い詰めたりしない、柔らかで温かな見守るような気配。
道斗さんがあんまり楽しそうに全身全霊を込めてトーストを食べていくから、ついつい見ほれていたけど、相手の目がいつの間にか僕を見つめているのに気づいた。
急いで目を伏せ、カップを両手で包む。
「伊織は両親のことを話したかね?」
しばらく僕を見つめた後、道斗さんは考え考えしたような声でゆっくりと尋ねてきた。
「え、あの…四、五年前に亡くなった、っていうことは…」
「事故でな」
相手は重くうなずいた。
「飛行機事故だったよ」
春日そっくりの口調で応じて、さりげなく、道斗さんは付け加えた。
「伊織はそうなると知っとったが」
「え?」
僕はぽかんと老人を見た。
何を、誰が知っていたって?
瞬きして、急に乾いた喉に唾を飲み込んだ。相手がふざけているわけでも、僕をからかってるわけでもないことに気づいて、なおさら混乱した。
「何を、ですか」
わかりきったことを繰り返すと、道斗さんはもう一度、うなずいた。
「わしらには、そんなことはわからんのにな」
そうじゃない、僕は何を、と聞いたんだ。言い返しかけて、僕は口をつぐんだ。
道斗さんは、ちゃんと僕の『声』に応えているのだ。
道斗さんは気がついている。僕が彼の言ったことを十分に理解しているのだ、と。ただ認めたくなくて、時間稼ぎの質問を繰り返したに過ぎない、と。
だから、話を進めたのだ。
それでも、僕はもう一度抵抗した。
「春日が、両親が飛行機事故にあうって、知ってたっていうんですか?」
道斗さんは、今度もきちんと僕の気持ちをくみ取ってくれた。しっかり確かな様子でうなずいて、
「二年ほど前にはわかっているそうだ、大概のことならば」
「二年、ほど前…」
僕は幼い春日の姿を思い浮かべた。小学校四、五年生の春日。それより、なお二年前。
小学校二、三年の、春日。
黒いランドセルが、ようやくコンテナのように見えなくなったぐらいの、けれどもまだ、学校という組織に慣れ切れなくて、あちこちで困ったことにぶつかっていた年ごろ。そんな小さいころに、二年後には両親が死ぬとわかっていた、という。
「春日が、そう話したんですか?」
どんな思いで。
それより、疑っては見なかったのだろうか、その感覚が間違っていないかと。
僕が母さんの気持ちを計り兼ねるように、『まずい』のは僕だと考えていたように。
それとも。
「…え、大概のこと?」
重ねて尋ねて、老人が付け加えたことばの意味に気がついた。
両親の事故のことだけがわかったんじゃなかった。いろんなこと、いいことも悪いことも、春日の中では二年前には予想がついて。
だから、疑うことなんてなかったんだ。
その予想がいつもとても正確だったから、それが避けようもないほどはっきりしていたから、春日は両親の事故を確信してしまったんだ。
「それって、あの、超能力、とかいうやつ…」
「違うそうだよ」
道斗さんはあっさり首を振った。
「伊織の言うところではな。あれが何からそういう知識を得ているのかはよくわからんのだが、伊織は『転生の記憶』と呼ばれているものを、かなりたくさん持って生まれてきたらしい」
僕はふいに周囲があやふやなものになっていくような気がした。うろたえて道斗さんを睨みつける。
この人はおかしいんだ。そして、この人にそんなことを吹き込んだ、春日という奴もかなり危ない奴に違いない。
道斗さんは相変わらず、ブルーベリージャムをトーストに山盛りにして食べている。コーヒーは豊かな香りを漂わせ、日の光は一杯にダイニングに満ちている。
当たり前の、よくある光景。
ごく普通の、よくある、昼間。
僕の不審と不安を感じ取ったのだろうか、道斗さんがふとトーストをかじるのをやめて優しい目で僕を見た。
「信じる必要はない、と伊織は言っとったよ」
道斗さんは淡々と続けた。
「輪廻転生の思想も、ある種の方便なんだから、と。人間は間違いを繰り返す生き物、それでいいんだ、ともな」
そこでふとことばを切って、道斗さんは唇をゆがめた。
泣き出しそうなのをこらえている、そう見えたのは一瞬だった。緩やかに緊張を解いて再び話し出す。
「けれど時々、にっちもさっちもいかなくなってしまう者がいる。繰り返し自分を傷つけて、どこへも行けない、何もできなくなってしまう一生ばかりを繰り返す者が」
繰り返し自分を傷つけて、どこへも行けない、何もできなくなってしまう一生を繰り返す者。
くらり、くらり、と頭が回り始めていた。
いつかの夢。
山上の門の僧と武士。
図書室カウンターの春日と僕。
この家の玄関に立つ、春日と僕。
春日は僕のことを話してるんだ。
けれど、その確信は、続いた道斗さんのことばに崩れた。
「小学校の三年、ぐらいのときじゃったかなあ。伊織がわしに電話をかけてきた。わしと二人で会いたい、という。そのころ、伊織達は別の町に住んどったのでな、南高杉の駅まで迎えに出ると、思い詰めた顔をして駅前で待っておった。何があったと聞いてもすぐには話さなんだが」
道斗さんがあれこれ尋ねても春日は無言で歩き続けていた。だが、この家へ上る坂を上がり始めたとき、とうとう耐え切れなくなったように話し始めたのだという。
「自分には『転生』の記憶があるんだ、と」
道斗さんは少しの間口をつぐんだ。医者として、春日のことばを道斗さんが真剣に受け取れなかったことは想像できた。
その道斗さんにいらだつように、春日は一気にしゃべったらしい。
「人間の一生は、ある種の課題を背負って続ける学校のようなもので、その課題をクリアしない限り同じことを繰り返すしかないんだ、と。自分には相手の背負っている課題が見える、その課題がどこまで消化できているのか、何に遮られているのかもわかる、と」
ほう、と老人はため息をついた。唐突に疲れたみたいな、重いため息だった。軽く首を振り、目を上げて僕に首を振って見せ、苦笑した。
「信じられるかね? それまで普通に遊んでいた孫が、いきなり『転生』だの、人生の課題だのと? いや、信じられるわけがなかろう。けれど、伊織はわしが何にも言わないのがどういう意味か、気づいておったよ。この家に着くなり、辛かったのじゃな、玄関で泣き崩れた」
道斗さんは最後はかすれた声でつぶやき、うつむいて、トーストに今度は一センチほどもジャムを盛った。
「玄関で座り込んだまま、うめくように言ったよ、両親が、死ぬのだ、と」
道斗さんは何かそれが魔法の鏡で、そこに過去が全て映っているようにテーブルをじっと眺めた。
「自分にはよくわかっているのだ、とも言った。両親は今の人生をとても立派に生き抜いた。するべきことをし、学ぶべきことを学んだ。だから、もう人生を終えてもかまわないのだ、と。けれど」
突然ことばを切って、道斗さんはふいにトーストを口に押し込んだ。何かに怒っているような荒々しい食べ方で何口か噛み、ごくりとそれを飲み下した。
「けれど、自分はまだ両親と一緒に居たいのだ、と。自分には生死の意味も命の理由もわかっているけど、それでも両親がとても好きで、まだまだ一緒に居たかったのだ、と」
僕は玄関でスリッパをそろえた春日のことを思い出した。あの玄関で泣き崩れていた小さな春日を想像した。
「わしは大丈夫だ、と言ってしまった……かわいそうに」




