4
コーヒーメイカーからはずしたポットを持ち上げ、春日はカップにゆっくりと、濃い茶色の液体を注いだ。熱くてしっかりした、強い香りが重ねて広がる。
「ミルクと砂糖はそこにある。スプーンはテーブルの引き出しだ、適当に出して使ってくれ。トーストは二枚、スクランブルエッグにソーセージ。ジャムは?」
フライパン片手に首を傾げて尋ねられて、僕はうろたえた。
「あ、ジャムいらない…じゃなくて、そんなに気を使ってくれなくても」
「気を使ってるんじゃない」
春日は平然と答えた。
「ぼくもこれから食べるんだ」
「あ、そうなんだ」
僕はよっぽど惚けた顔をしていたのだろう、春日は少し笑ったようだった。
その微笑を確かめる間もなく、背中を向けた春日が、コンロに向かって手を動かし始める。冷蔵庫から卵とソーセージを取り出す動作も、トースターに食パンをほうり込む手際も、何度もやり慣れたものの滑らかさだけが目についた。
僕は何だか気が抜けて、ぼんやりと椅子に体を落ち込ませた。目の前に、湯気をたてるコーヒーをいれたリカのカップがある。
よかった、割れなくて。
よかった、大丈夫で。
胸の中でつぶやいて深い深いため息をつく。
そうっとカップを指でなでて、伝わった熱さに眉をしかめた。
『大丈夫』
ふいと春日のことばが甦ってきた。
『大丈夫、割れない、使えるよ』
静かで確かな低い声。
空っぽになってしまった僕の胸の中に、春先の雪のように降り落ちて、渇きを癒し融けていく。
大丈夫。割れない。使える。
そのことばのどれもが、僕にとっては絶対必要だったもの、と気づくのに、時間はかからなかった。
『空っぽできたね』
『そうだと思ってた。入れよ』
春日はきちんといつも、僕の声に応えてくれている。
でも、なぜだろう?
母さんには、あれほど一所懸命伝えようとして口に出したのに、何が何だかわからなくなってしまった。なのに、何も知らないはずの春日は、なぜ僕に応えられるんだろう?
それとも春日は何か知っているんだろか?
夢。
ことばが、忘れていた記憶のように戻ってきた。
夢からはいろんなことがわかる。
春日はいつか言ってたじゃないか。
あの図書室でリカと話していた夢の話から、僕の何かに気づいたんだろうか。僕自身にもわからない何かを。
ひょっとして、春日に聞けば、今何が起こってるのかがわかるだろうか、と思って、教室で夢を聞いてくれないかと言ったときの、春日の苦しそうな顔が甦った。
たぶん、春日からは夢の話をしてくれないだろう。
僕から話してみようか。
昨日のように、ためらって逃げられてしまう前にさっさと話せば、春日だって聞いてくれるかもしれない。僕の夢を春日に話してみれば、春日も知っていること、話してもいいと思うことを僕に教えてくれるかもしれない。
でも。
できれば、あの夢は話したくない。武士と僧侶の出てくる、あの辛くて苦しい夢だけは。
「はい、できたよ」
春日が白い皿をコーヒーカップの隣に置いた。木の柄の素朴なナイフとフォークもそえてくれる。
「ありがと」
「いただきます」
自分の前にも同じような料理の皿を置いて、春日はきちんと両手を合わせた。窓からの日の光に、目を閉じた整った顔立ちが、由緒正しい仏像のように見えた。
「いた、だきます」
春日が目を開けるのに、慌てて目を逸らせ、両手を合わせてまねをする。
ずいぶん長い間、いただきますなんて言わなかった。
トーストはきつね色に焼けていた。バターがぼんのり甘く溶けて、パンにしみこんでいく。かじるととろりとこぼれそうになったので、急いで舌で舐め取った。一枚目を夢中で食べて、スクランブルエッグにフォークを突っ込んだ。ふわふわとした黄金色の卵もどこか甘い気がした。ソーセージは逆にコショウがきいてぴりっと辛めだ。トーストの二枚目も、瞬く間に僕の胃の中へ流れ込んでいった。
「うまいかい?」
「うん」
「それは、よかった」
春日はコーヒーをゆっくり飲んで、トーストをかじっている。
僕もコーヒーを口に運んだ。気持ちいい香り、舌に広がった熱さが、胸のしこりの何かを解いた。
何で、こんなにうまいんだろ。
そんな気持ちがふいにあふれた。
ただのトーストと卵とソーセージとコーヒー、それだけだ。どこの喫茶店にでもあるメニューだ。
僕は母さんと大喧嘩してパニクって、コーヒーカップを握り締めたまま電車に乗るほどうろたえていたはずなのに、パンの食べ方も忘れてなくてうまいなんて思えたりもする。
何か、ひどく、情けない。
春日の家に押しかけ、昼飯なんか作ってもらって、それを子どもみたいに喜んで食べて。
僕は一体何をしてるんだ。
ここへ一体何をしにきたんだ。
これから一体、どうしようって言うんだ。
「春日…」
「うん?」
「僕…」
この先どうして生きていこう。
そんな恥ずかしい質問は、幸いしなくてもよくなった。
「あれ? お客さんか?」
突然豊かな声量の声が響いて振り向くと、白くてふさふさの髪と髭の男が立っていた。




