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がたん、がたん。
電車が揺れて止まった。窓の外を流れていた風景に、『南高杉』の文字が読み取れた。僕はもたれていた扉から体を起こした。
空気音が響いて、のんびりと開く扉の透き間から、生ぬるい風が入ってくる。その風の中を擦り抜けるように僕はホームへ降りた。人の流れに押し出されながら、改札口へ歩いて行く。
改札を出るとき、何だかいつもみたいに切符がするりと出せなくて戸惑ったけど、慣れない左手を使っているせいだと気づいて、すぐに興味がなくなった。
いい天気だった。
まぶしさに目を細めて、駅前の掲示板の地図を見る。メモで覚えていた住所は駅からわりと近かった。信号に急かされながら通りを横切るとき、ちかちかする青い光に見覚えがある気がした。
ひょっとして、これもまた、予定通り、組み込まれていた行動なんだろうか、とぼんやり考えた。コピーされたプログラムから逃れられない電子頭脳が、町中にあふれているんだろうな、とも。
地図を頼りに、静かで落ち着いた、茶色やベージュやグレイの壁が重なり合う、品のいい住宅地へ入って行く。さまざまな形の屋根とバルコニー、外国の家のミニチュアを思わせる造りの家々は、凝った細工の黒や灰色の金属格子や、しゃれたレンガ塀に囲まれている。それらには、絵に描いたように鮮やかな緑や黄緑の草花が、あるものはつるを垂れ、あるものは色とりどりに花を咲かせていた。
どこからかピアノの音が響いてくる。出窓には白いレースのカーテンが揺れていた。青い瞳の人形がこちらを向いて座っている。けれど、どこにも人の姿はなかった。ピアノの音だって、CDだと言われればそうかもしれないと思っただろう。人気のない、住宅展示場へたった一人で迷い込んだ気がする。
立ち止まってため息をついたのは、道がわずかに坂になったせいだ。黒色のアスファルトに沿って、石畳風に造られた歩道が坂の上まで伸びている。
僕は左手で汗をぬぐった。重い足を引きずりながら、次第にきつくなってくる匂配の坂を上って行く。
道の彼方に空を見上げる、この視界には覚えがある。
頭がぐらりと渦を巻いた。
あの夢だ。
山上の、門。
「は、ははっ」
今にも坂の果てに、あの衣を翻した僧が立ちふさがりそうで、笑い捨てて怯みかけた体を前へ押した。軽く息を切らせてたどり着くと、定められていたように、坂のほぼ頂点にその家があった。やはり小ぎれいな金属の格子に囲まれた、けれど回りの家よりは落ち着いた気配の洋風建築。茶色とベージュで統一された外観は、緊張しきっていた気持ちをゆるめてくれる。
表札は木に黒く筆文字で彫り込まれ、『春日』と読めた。
僕は門のベルをゆっくりと押した。
『はい、どちらさまでしょうか』
すぐさまインターフォンから覚えのある声が応じて答えに戸惑った。
「あの」
『ああ…今、出るよ』
名乗る前に、春日の声は納得の響きを宿して消えた。それほど待つまでもなく、玄関のつややかに光る茶色の木のドアが開き、ジーパンにトレーナーの春日が、とんとん、と門扉までの数段の階段を降りてきた。訪ねてきたのが僕だと知っても驚いた様子もない。ためらいなく門戸を開けた、その春日の手が、ふと止まった。
僕の腰あたりを見てから目を上げ、ぽつんと言った。
「空っぽできたね」
「え?」
空っぽ?
そのことばを、春日が知っているとは思えなかった。ついさっきまでの母さんとのやり取りにさえ、僕はそれを口にしていない。なのに、なぜ春日にはわかるんだろう?
再び投げて来た春日の視線の先を見ると、右手にいつの間にかしっかりとリカのカップを握っていた。よほど力を入れて握っていたんだろう、指が真っ白になっている。なのに、自分では握っていることさえよくわからなくて、僕はのろのろとそれを右手ごと目の前に差し上げて眺めた。
「リカのなんだ」
つぶやいたことばがまた、自分でもわけがわからなかった。そんなことを春日に言って、僕はどうしようというんだろう。
けれど、春日にはわかっていたようだった。春日は静かにうなずいた。
「そうだと思ってた。入れよ」
「うん」
招かれるまま春日に従って家に入りかけ、気がついて右手のカップを背中に隠した。
「家のものはいないから大丈夫だよ」
春日が僕のうろたえを見抜いたように、肩越しに言った。
「出掛けてるのか?」
「一人はね。両親は死んだんだ。四、五年前になる。今は祖父と二人で暮らしている」
「あ」
僕はたじろいだ。淡々とした春日に怯んで立ち竦む。
「…ごめん」
「いいんだ」
春日は玄関の扉を開けて待っていてくれた。ことさらに丁寧だと思ったのは間違いで、僕が右手のカップを放さなかったせいだとは、後で気がついた。
玄関のスリッパを春日は僕のために並べてくれた。スリッパをはき、後ろからついてきていると信じ切っているような春日の背中に声をかける。
「あの、おじいさんは…」
「医者だ。往診専門医とでも言うのかな。電話がかかれば診に行っている。座れよ、ひどい顔をしてる。昼飯、食うだろ?」
「あ…うん」
茶色基調のシステムキッチンの前に置かれた、分厚い一枚板のテーブルに僕は腰を降ろした。りんごを数個いれたかごとコーヒーメイカー、木とガラスの調味料いれの側には読みかけらしい新聞が無造作に畳んでのせてある。
部屋の中にはまるで僕が来るのを待っていたように、コーヒーの香りが満ちていた。
僕は、テーブルの上に、そっとリカのカップを置いた。
僕が座るのを見届けてから、春日は近くの椅子にかけてあった緑のエプロンを首にかけた。慣れた仕草で、両側に垂れたひもを腰の後ろで結ぶ。高校生にしては落ち着き過ぎた感じのある春日に、それは妙な違和感があった。
「エプロン?」
「家事は基本的にぼくの仕事だからね。むやみにあちこち汚すと、洗濯物が増える。それよりはこれをしていた方がいいのさ……コーヒーでいいか?」
春日がリカのカップに手を伸ばして、僕はびくりとした。
「うん…あ、でも」
「大丈夫」
僕のためらいを春日はきちんと読み取っていた。
「割れない、使えるよ」




