2
僕はのろのろと首を回して、流しの上のカップを見た。白くて小さなカップには薄いひびが入っている。さっき、母さんが叩きつけた衝撃で割れたのだろう。そのひび割れは、僕の心の中のひびにそっくりに見えた。
リカにもらった、カップだったんだけど。
出会った記念におそろいだよって、初めてもらったプレゼントだったんだけど。
母さんにとっては、どこにでもある白いカップにしか過ぎなかったんだろうけど。
頭の中に男と腕を組んで夜の街へ消えて行った、リカの姿が過っていった。
結局は、そうなのか。
春日がいなくなった冷えた教室を思い出す。
僕も、母さんにとってのこのカップと同じ、どこにでもある無個性な塊にしか過ぎないのか。
誰にとっても、どんなときでも。
僕はカップを手に取った。
きっと、もうすぐ割れるだろう。
次にコーヒーでもいれたら、その瞬間に砕け散るだろう。ひびの一つ一つを引き裂くように熱い液体が入り込み、どんなにカップが頑張っても押し広げて砕くんだ。
「答えなさい!」
母さんはいらいら怒鳴った。
「お母さんを怒らせてるのは誰なの!」
それは僕。
僕はカップをそっと撫でた。
夜の街に消えて行くリカと男。
大事なリカ。でも、僕はリカにとってはそうじゃない。
大事なカップ。でも、母さんにとってはそうじゃない。
大事なものはなんだろう?
僕は大事じゃない。
きっと、誰にとっても。
もう、何もかも、どうでもいい。僕には何もわからない。
「怒ってるのは、母さんだ」
僕はつぶやいた。
「何ですって」
世界最大の地震が起きると知らされたような声だった。
母さんの顔は白くなった。
ひく。
ひく。ひく。ひく。
唇の端とこめかみが、細かく何度も引きつり出す。
『まずい』ことを言ったんだ。また、『まずい』ことを。
心の中で崩れていく破片一つ一つに、『まずい』の文字が黒々と書かれている。どんな小さな破片にも、どんなに歪んだ形でも。
それを見ながら、僕はくすりと笑った。
なんだ。
全部『まずい』んじゃないか。
僕が何もしなくても、僕が僕であるだけで、母さんにとっては『まずい』んだ。
「何笑ってんの!」
母さんが一段と声を張り上げて、きいん、と鳴らした。
「母さんが怒ってるのに何を笑ってんのよ!」
何を笑ってるって、おかしくない?
僕は今まで、僕が何かしたことのせいで、『まずい』ことになっているんだとばかり思っていた。けれど、本当はそうじゃなくて、僕が僕であるだけでも、十二分に『まずい』なんて。
じゃあ『まずくない』ことって何なんだ?
簡単だ。
僕じゃないこと。
今ここにいる、僕じゃないこと。
それって、つまり?
「あんた、わたしをバカにしてるのね! ちょっとばかり大きくなったからって、親をバカにするなんて、許さないわよ!」
母さんは叫び続けている。
「親じゃ…ないよ」
僕は笑った。ばらばらと落ちて、前よりも空っぽになっていく心の真ん中で。
「親なんかじゃ…ない」
えへへへ、と笑った。
いつもの僕と違う対応に驚いたのか、一瞬怯んだ母さんは、数倍赤くなった。
「何言ってんの! あんたを産んだのはあたしよ!」
そうだよ。
僕は心の真ん中の真っ暗な部分を見つめながら、胸の中で答えた。
母さんは僕を産んだね。
だから、母さんは、僕が僕じゃ、だめだって言うんだ。
僕が感じたいことを感じちゃだめ。
僕が考えたいことを考えてもだめ。
僕はいつも、母さんのことを考え、母さんのことを気遣い。
母さんのために生きていなくちゃいけないって。
ほとんど空っぽになった心の真ん中に、ふと気づくと、たった一つ破片が残っていた。僕はえへらえへら笑いながら近づいていって、そのかけらを拾い上げた。『まずい』の文字は書かれていない。
けれど、そのつるつると滑らかな、白い陶器のようなかけらを引っくり返して、僕は吹き出し、笑いが止まらなくなった。
そこにあるのは、母さんの顔。
母さん印の僕。
母さんのコピーでしかない僕。
それが、『まずくない』僕。
爆笑。
これって何だ?
これって、何?
そのかけらをぐいぐいきつく握りしめて、僕は笑い続けた。掌に痛みが走り、とろりとした粘っこい温かなものが流れ出す。
真っ赤な血。
僕と母さんを繋いでいる血の糸が掌から闇にこぼれ落ちていく。
すごい、何てすごい、地球最大のジョーク。
「親じゃないよ、親じゃない、そうでしょう」
口走ったのも、別に反論したかったわけじゃない。見たものがあまりにもわかりきったことで、それに今まで気づかなかった僕も、気づかせなかった母さんも、どうしようもなく救い難いように思えて、そう確認するしかなかった。
「何言ってんの!」
母さんは喚いた。
「親ならこんなことしない、こんなひどいことしないよ」
それとも、親だから、そうするのかな。自分のコピーを作るための次世代だから、それに『自我』なんてあっちゃ『まずい』のかな。だから、子どもが自分と違うことを感じたり考えたりしたりすることを、平気で踏みにじれるのかな。
僕はくつくつ笑った。
「何言ってんのよ、和樹!」
動物もそう?
植物もそう?
命って大事なものだと教わった気がするんだけど、それって単に、コピーが途切れるのが不安になった親世代の刷り込みなのかな。
じゃあ、どうして、一人一人違う、心なんてあるんだろう?
こんなに苦しむためにだけ?
コピーにもなりきれない、自分にもなりきれない、不安定な命を抱えるためにだけ?
「あんたは、ドレイがほしいだけだ」
ぽおん、と口からことばが飛び出た。
母さんが黙った。大きな、僕とよく似ていると言われる目を一杯に見開いて。
心の中で、なおもぎりぎりと音がするほど握り締め続けた母さん印の最後のかけらが、血まみれのままいきなり砕け散って、闇に消えた。
僕は笑うのを止めた。
母さんを見つめる。
母さんを光が照らしている。写真の中の女のように。古い名画の登場人物のように。
どこかセピアに懐かしく。
開き過ぎるほど開いていた母さんの目と口が、じんわりと閉じていった。
沈黙。
耳が裂けていきそう。
やがて、母さんはゆっくりと目を開いた。さっきまでの興奮はその目にはない。静かなというより、死んでしまった魚のように生気のない、薄く膜がかかったような視線で僕を見た。
感情のない、距離を置いたひんやりとした声で言い放った。
「和樹。どうしたの。ちょっと変よ」
ばしゃん。
本日はもう閉店しました。
そう張り紙のついたシャッターが落ちたみたいだった。
おかしいのは私じゃなくて、あんたでしょ。
見えない文字が追加して書かれている。
僕は手を固く握り締めて家を飛び出した。




