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僕はもう粉々になってしまった。粉々になった僕が、空っぽの僕の中に詰め込まれている。
だから、母さんがどれだけ何を話そうとも、もう何も入らない。なのに、母さんはまったく気づかずに、どんどん話し続けている。
学校が休みで、土曜日家にぼんやりいた僕がまずかったのかもしれないけど。
「もう、高校生なんでしょう? ちょっとはあれこれ、家の事情というものを考えられるんじゃないの? 学校は休みでも家の仕事ってものがあるのよ。お父さんもお仕事があって忙しいんだから、こういうときにこそ、和樹が手伝ってくれないと」
今日もいい天気だ。日差しが明るい。そんなことを考えていた僕をじろりと母さんがにらんで、ふっと我に返る。
何を言われてたんだっけ?
「何をって」
あきれたように母さんが言って、僕は瞬きした。返事したつもりはなかったのに。
「だから、自分で手伝えることを考えなさいって言ってるの。部屋の掃除とか、買い物をしてきてくれるとか、家の中の仕事でも、手伝えることは一杯あるでしょう?」
母さんは付け加えて、唇の端をひくひくと動かした。自分では気づいていないけれど、母さんの考えていることを他の誰かが察してくれないと、必ず出て来る癖。
「部屋の掃除ね、わかった、他にすること、ある? 今日は暇だから何でもするけど」
僕は目一杯明るく言った。
万事OK、そんな感じで母さんがほほ笑む。
「ありがとう、今はないわ」
「都おばあちゃんにも用事はないかって聞いてみようか?」
ひく。
「そんなこと、言ってないでしょう?」
母さんは唇と目を同時にひきつらせた。
「そんなにお母さんを『できの悪い主婦』にしたいの」
険のある声で問い詰める。
「そんな…つもり…」
「余計な気を回してないで、自分のことをきちんとやりなさい」
母さんは話は終わったと言わんばかりにくるりと背中を向けた。そのまま流しに立って、朝食の洗い物を始める。その後ろ姿が、あっと言う間に、はるか彼方の崖の上に離れていったように小さく遠く見えた。
余計な気を回してないで、自分のことをきちんとやりなさい?
母さんの考えること、望んでること、願っていることを察しないと、まるでできそこないのように扱うくせに?
僕は答えようがなくて、コーヒーカップの温くなった中身を口に含んだ。
何も入らないんだよ、母さん。
僕の中には、もう何も入らない。
僕の中は一杯なんだ、僕のくずだらけで。
「片岡さんのところの、実くん、知ってるでしょ」
急に母さんが話し出した。自分の話すことは僕が必ず聞いていると確信してる声。聞いていないと世界が終わってしまったように騒ぐ声。
「うん」
機械的に声を返す。不快そうじゃなく、いかにもああ、聞きたかったんです、それ、みたいな声を。
「繁華街でうろうろしていて、補導されたんだって」
僕は実の顔を思い出した。
青白い生気のない顔で、いつもどこか弱々しい笑みを浮かべていた。こぼれ落ちそうな大きな目をしていて、いじめられるとその目がどんどん大きく広がったけど、決して泣かなかった。
実がどこまでやったら泣くか、なんて賭けは当たり前のことだった。けれどもきっと、実が泣いても終わりにはならなかっただろう。どこまでやったら悲鳴を上げてやめてくれと頼んでくるか。どこまでやったら泣かなくなるか。次の賭けはそうなったに違いない。
「小学校のときはおとなしくていい子だったのに。礼儀正しくて、道で会ってもきちんと挨拶してくれたわよ。親のしつけが行き届いているって感じだったのに」
母さんは洗い上げた皿を一枚ずつ、大きさをそろえて丁寧にかごに並べながら続けた。
「中学に入ってから悪くなったわね。友達のかげんかしらね。朱に交われば赤くなるって、ほんとだわね」
「何か…やったの」
どんどん実が悪者にされていきそうで、僕は思わず口を挟んだ。
「うろうろしてただけらしいけど……でも、万引きや何かぐらい、したのかもしれないわね、そこまでは知らないけど」
そこまでは知らない。
僕は母さんのことばを胸の中で繰り返した。
そう、そこまでは知らない。
なのに、母さんは、実をとんでもないできそこないのように扱っても平気なんだ。
実が小学校に入ってすぐからいじめにあっていたことや、六年間いじめ続けた奴が中学でも同じクラスになったことも、知らない。そのいじめてた奴っていうのが、近所で評判の『礼儀正しいしっかりした大人びた』朗だということにも気づいていない。
実は確かに見かけは弱々しくて脆そうだったけど、六年間一度も学校を休もうとしなかったし、朗のいいなりになって万引き仲間にも入らなかった。
ずっと前、ほんとは親に話したこともあるんだけど、と笑った実の顔を、僕は今も思い出す。「まさかね」と笑われたんだそうだ。「あんたの考えすぎよ、実、あの朗くんがそんなこと」と。
快活で必ず近所のおばさん達の中心にいるような人気者で、朗とよく似た性格の実の母親は、息子が何でしょっちゅう『転んで』ケガをして帰って来るのか、全く考えなかったんだろうか。
実がどれほどタフで必死だったか、大人は誰も知らない。たとえ後でそれをわかっても、こう言うんだろう。
そこまでは知らなかった。
そこまでは気づかなかった。
じゃあ、どこまで知れば、助けてくれるんだ?
ぶっ壊れても、仕方がないよね。
僕は黙ったまま、飲み終わったコーヒーカップを流しに出した。
「今、洗い物、終わったのよ?」
母さんはとても不思議なことに出くわしたように、僕を見た。
「あ、ごめん」
それならもう一杯、コーヒーを飲もうか。
僕はスプーンを取り出し、インスタントコーヒーの瓶に手を伸ばした。
「そのまま飲むの?」
「え?」
母さんが止めた。
「汚れてるじゃない、カップ」
振り返ると、母さんが不快そうに眉をしかめて手を出している。
「同じ…コーヒー、だけど」
それに、僕が飲むんだし、僕が気にしなければいいこと、だよね?
「すっきりきれいなカップで飲んだ方が気持ちいいわよ」
母さんは有無を言わせず、僕の手からカップを取り上げた。流しに戻り、洗剤を泡立てたスポンジでキュッキュッ、とCMみたいに音をたててこすって洗い、水で流して布巾で水分を拭き取った。ぴかぴかに光ったカップを僕の手に自慢そうに返してくれる。
一連の動作と、さっきの洗い物は終わったのにどうしていまさら汚れたカップを出すのか、そういいたげだった母さんが重なって、僕は混乱した。
今の動作は洗い物じゃなかったんだろうか。
それとも、母さんが洗い物の追加を嫌がったと思った僕が、間違っていたんだろうか。
「さっき、汚れたカップを出すのと、今洗ったのと……どう違うの?」
尋ねたとたんに後悔した。
母さんの顔がゆっくりと朱色に染まった。
ダン、とすごい音をたてて、母さんはカップを流しに叩きつけるように置いた。圧力に耐えかねたのか、ぴちっ、とカップのどこかで小さいけれど嫌な音がした。
「人の好意を何だと思ってるの!」
母さんはいきりたったように叫んだ。
「人の気持ちを何だと思ってるの! きれいなカップで飲みたいだろうなと思っただけのことでしょう! だからわざわざ洗ったんじゃない! なのに、お礼一つも言わないで!」
僕の混乱は増した。
お礼?
どうして?
好意?
母さんが、僕のカップを洗ったことが?
でも、僕は別にカップを洗ってほしいなんて思わなかった。あのままのカップでよかったんだ。きれいなカップですっきり飲んでほしかったのは、僕じゃなくて、母さんの方じゃなかったの?
母さんが、母さんの気持ちをすっきりさせるために、僕のカップを洗ったんじゃなかったの?
なのに、それに、僕はお礼を言わなくちゃならない? 望んでもいなかったことをしてもらったからと言って?
「何だって、そういちいち反抗するのよ! 何が不満なの! 言ってみなさい!」
母さんはきりきりと声をとがらせた。
反抗。僕が母さんに尋ねたことが、反抗なの?
でも、僕は、ごちそうさま、とカップを流しに出して洗ってもらうのと、次のコーヒーを飲むときに洗い直すことの、どこに違いがあるのかわからなかっただけだ。
不満? 僕が、僕の思っていることを口に出すことが?
でも、僕は母さんじゃないから、母さんとは違うことを感じたり考えたり思ったりする。それを口に出すことは、母さんに対する不満になるの?
考えれば考えるほど、母さんが何に怒っているのか、母さんは何を望んでいるのか、わからなくなってきた。
『まずい』ことをしたらしい。いつものように、いつもの手順で。でも、何が『まずい』のか、わからない。ましてや、僕の中は粉々になっている断片だらけで、考えがうまくまとまらない。
「どうして……怒ってるの?」
僕は困り切って尋ねた。
母さんの顔がもっと赤くなった。
「誰が、お母さんを怒らせてるの!」
その瞬間、がさりと心の中の僕の断片の一つが落ちた。ばらばらと音をたてて、どこか深く暗い場所へ崩れ落ちていく。




