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ドリーム・ウォーカー  作者: segakiyui
4.虹の向こうの雨

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12/22

1

「休みたいな」

 朝食の席で呟いたとたん、空気がぴりっと緊張したのがわかった。

「休みたいって……どうして」

 母さんが世にも不思議なことを聞いた、というように、こちらを向く。

 正面に座っている父さんの顔は、広げた新聞の向こうに隠れて見えない。

「うん…」

 僕はわけもなく前髪をいじりながら、ぼんやりと食卓の上を見た。

 湯気をたてている白いご飯、ねぎとあげのみそ汁、ガラス食器に彩りよく盛られた生野菜、焼き上がったばかりのベーコンエッグ。箸置きにきちんとそろえられた汚れ一つない箸と、番茶の入っている湯飲み。

 何もかもきちんとして、何もかもそろった理想の朝食。

「具合でも悪いのか」

 新聞の向こうから、父さんの声がした。

 聞こえてたんだ。

 そう思って、吐息をつく。

「頭が……痛い気がして」

 きりりりりっ。

 そんな音をたてて、周囲の空気が絞り上げられていくのがわかる。ああ、きてるな、ぼんやりとそう思ったけど、今日はそれを消そうと慌てる気になれなかった。

「食べないの?」

 唐突に母さんが言った。

 僕はどこかぽかんとして、母さんを見た。

 頭が痛いって、言わなかったっけ?

 自分のことばを頭の中で繰り返して考えてみる。

 僕は、頭が痛いって言ったんじゃなかったっけ?

 なのに、どうして、その答えが、食べないの、なんだろう?

「ベーコンエッグがほしいって言ったの、和樹なのに」

 母さんがじっと僕を見つめながら、とてもとてもいぶかしそうに続けた。

 僕は、どう答えたらいいのかわからなくなって、父さんを見た。だけど、父さんは、まるで、僕と話していたのは別人だったみたいに黙りこくって、新聞の陰に消えている。

「和樹はパンがよかったんだよ」

 都おばあちゃんが突然口を挟んだ。

「誰にだって好みがあるんだから、もう少し考えてやらなきゃ」

 いかにも僕のことを気遣っているふうで、母さんを見る。

「和樹はベーコンエッグが欲しいって言ったんです。それに、朝からパンなんて、この年ごろの子のお腹はもちませんよ」

 母さんが跳ね返った油みたいに答えて、きつく唇を引き締め、僕を睨みつけて、都おばあちゃんから目を背けた。

「さて、行くか」

 父さんが立ち上がって新聞を畳み、僕には目もくれず席を立って、隣を過ぎていく。

「いってらっしゃい」

「いってらっしゃい」

 母さんと都おばあちゃんが応じて、母さんは見送りに玄関までついていった。やっぱり僕の方はちらりとも見ない。

「あたしはね、こういうのは苦手だね」

 都おばあちゃんは僕の皿の上のものを見てつぶやき、みそ汁の椀を手に取った。

「まあ、若い人はいるんだろうけどね、臭いでもう胸が一杯になるよ。朝からこってりしたものを、そうそうは食べられないよ、いくら好みがあるといってもね」

 僕は箸を取り上げた。

 頭がどんどん痛くなってくる気がしたけど、気のせいなのかもしれない。母さんにベーコンエッグが欲しいなんて、言ったことがないような気がするのと同じように。明日の朝食はと聞かれて、トーストが食べたいと言って、母さんがそうするわ、と答えたような気がするのと同じように。

 間違っているのは僕の記憶で、母さんがごまかしたり、忘れたりしたんじゃないんだろう、きっと。

 父さんの見送りに立っていた母さんが戻って来て、僕を見た。

「あら、食べるの。食べにくそうだったから、別のを作ってあげようかと思ってたのに」

「パン?」

 ついそう口走って、次の瞬間、すうっと母さんの顔に血の色が昇った。目が険しくなり、口元がゆがむ。それでも、母さんは爆発はしなかった。

「……パンがよかったの?」

 ひいやりとした、凍った声。

 都おばあちゃんは我関せずという顔で、黙々とご飯を食べている。けれども、その唇がわずかに軽く笑ったように見えた。

 僕は慌てて首を振った。

「ううん、ご飯でいい」

「……じゃあ、なんで食べないの」

 事件の容疑者になったみたいに詰問されて、僕は黙った。

「和樹は頭が痛いって言ってたんだよ」

 また都おばあちゃんがしらっとした調子でつぶやいて、芝居がかったゆっくりとした動作で母さんを見た。

「ごちそうさま。おいしいみそ汁だったよ」

 空になった茶椀と箸をまとめた都おばあちゃんが、半分以上残したみそ汁の椀を残して席を立つ。

「まだ、痛いの」

 それを横目に見た母さんがゆっくりと僕に視線を戻して尋ねた。表情のない、僕を見つめたリカのような、真っ暗な目。

「え…あ…」

 僕が口ごもると、母さんは荒々しく、都おばあちゃんの残したみそ汁を流しに捨てた。それから、戸棚から薬箱を出して、頭痛薬と水の入ったコップを食卓の上に置き、振り返りもしないで部屋を出て行った。

 僕はご飯茶椀を左手に、箸を右手に持ったまま、ぼんやりと座り続けていた。

 食卓には相変わらず湯気をたてているみそ汁とベーコンエッグ、よく冷やされて汗をかき始めたガラス食器のサラダがある。

 栄養満点でバランスがよく、食べごろに温度も考えられて、きれいで整ってて美しくて。

 でも、誰も、いない。

「春日…」

 どこか遠いところで声がつぶやいた。

「何か、まずいや…」

 二階では母さんが掃除機をかけ始めている。ふすまの向こうで、聞こえよがしに都おばあちゃんが咳払いをして「まあ、こんな時間から、何だろうね」とつぶやいた。

 その声に重なるように、

「僕……ぼちぼち……まずいよ」

 それが自分の声だと気づいて、僕はぎょっとした。そのとたん、ぱたたっ、と音がして、頬を滑り落ちたものが、制服の膝に染みをつくった。それを僕はまじまじと見た。

 涙……涙、だって?

 僕は朝ご飯を食べながら泣いている?

 手に負えなくなってきている、そう思った。

 何がって? 

 もちろん、僕自身が。


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