1
「休みたいな」
朝食の席で呟いたとたん、空気がぴりっと緊張したのがわかった。
「休みたいって……どうして」
母さんが世にも不思議なことを聞いた、というように、こちらを向く。
正面に座っている父さんの顔は、広げた新聞の向こうに隠れて見えない。
「うん…」
僕はわけもなく前髪をいじりながら、ぼんやりと食卓の上を見た。
湯気をたてている白いご飯、ねぎとあげのみそ汁、ガラス食器に彩りよく盛られた生野菜、焼き上がったばかりのベーコンエッグ。箸置きにきちんとそろえられた汚れ一つない箸と、番茶の入っている湯飲み。
何もかもきちんとして、何もかもそろった理想の朝食。
「具合でも悪いのか」
新聞の向こうから、父さんの声がした。
聞こえてたんだ。
そう思って、吐息をつく。
「頭が……痛い気がして」
きりりりりっ。
そんな音をたてて、周囲の空気が絞り上げられていくのがわかる。ああ、きてるな、ぼんやりとそう思ったけど、今日はそれを消そうと慌てる気になれなかった。
「食べないの?」
唐突に母さんが言った。
僕はどこかぽかんとして、母さんを見た。
頭が痛いって、言わなかったっけ?
自分のことばを頭の中で繰り返して考えてみる。
僕は、頭が痛いって言ったんじゃなかったっけ?
なのに、どうして、その答えが、食べないの、なんだろう?
「ベーコンエッグがほしいって言ったの、和樹なのに」
母さんがじっと僕を見つめながら、とてもとてもいぶかしそうに続けた。
僕は、どう答えたらいいのかわからなくなって、父さんを見た。だけど、父さんは、まるで、僕と話していたのは別人だったみたいに黙りこくって、新聞の陰に消えている。
「和樹はパンがよかったんだよ」
都おばあちゃんが突然口を挟んだ。
「誰にだって好みがあるんだから、もう少し考えてやらなきゃ」
いかにも僕のことを気遣っているふうで、母さんを見る。
「和樹はベーコンエッグが欲しいって言ったんです。それに、朝からパンなんて、この年ごろの子のお腹はもちませんよ」
母さんが跳ね返った油みたいに答えて、きつく唇を引き締め、僕を睨みつけて、都おばあちゃんから目を背けた。
「さて、行くか」
父さんが立ち上がって新聞を畳み、僕には目もくれず席を立って、隣を過ぎていく。
「いってらっしゃい」
「いってらっしゃい」
母さんと都おばあちゃんが応じて、母さんは見送りに玄関までついていった。やっぱり僕の方はちらりとも見ない。
「あたしはね、こういうのは苦手だね」
都おばあちゃんは僕の皿の上のものを見てつぶやき、みそ汁の椀を手に取った。
「まあ、若い人はいるんだろうけどね、臭いでもう胸が一杯になるよ。朝からこってりしたものを、そうそうは食べられないよ、いくら好みがあるといってもね」
僕は箸を取り上げた。
頭がどんどん痛くなってくる気がしたけど、気のせいなのかもしれない。母さんにベーコンエッグが欲しいなんて、言ったことがないような気がするのと同じように。明日の朝食はと聞かれて、トーストが食べたいと言って、母さんがそうするわ、と答えたような気がするのと同じように。
間違っているのは僕の記憶で、母さんがごまかしたり、忘れたりしたんじゃないんだろう、きっと。
父さんの見送りに立っていた母さんが戻って来て、僕を見た。
「あら、食べるの。食べにくそうだったから、別のを作ってあげようかと思ってたのに」
「パン?」
ついそう口走って、次の瞬間、すうっと母さんの顔に血の色が昇った。目が険しくなり、口元がゆがむ。それでも、母さんは爆発はしなかった。
「……パンがよかったの?」
ひいやりとした、凍った声。
都おばあちゃんは我関せずという顔で、黙々とご飯を食べている。けれども、その唇がわずかに軽く笑ったように見えた。
僕は慌てて首を振った。
「ううん、ご飯でいい」
「……じゃあ、なんで食べないの」
事件の容疑者になったみたいに詰問されて、僕は黙った。
「和樹は頭が痛いって言ってたんだよ」
また都おばあちゃんがしらっとした調子でつぶやいて、芝居がかったゆっくりとした動作で母さんを見た。
「ごちそうさま。おいしいみそ汁だったよ」
空になった茶椀と箸をまとめた都おばあちゃんが、半分以上残したみそ汁の椀を残して席を立つ。
「まだ、痛いの」
それを横目に見た母さんがゆっくりと僕に視線を戻して尋ねた。表情のない、僕を見つめたリカのような、真っ暗な目。
「え…あ…」
僕が口ごもると、母さんは荒々しく、都おばあちゃんの残したみそ汁を流しに捨てた。それから、戸棚から薬箱を出して、頭痛薬と水の入ったコップを食卓の上に置き、振り返りもしないで部屋を出て行った。
僕はご飯茶椀を左手に、箸を右手に持ったまま、ぼんやりと座り続けていた。
食卓には相変わらず湯気をたてているみそ汁とベーコンエッグ、よく冷やされて汗をかき始めたガラス食器のサラダがある。
栄養満点でバランスがよく、食べごろに温度も考えられて、きれいで整ってて美しくて。
でも、誰も、いない。
「春日…」
どこか遠いところで声がつぶやいた。
「何か、まずいや…」
二階では母さんが掃除機をかけ始めている。ふすまの向こうで、聞こえよがしに都おばあちゃんが咳払いをして「まあ、こんな時間から、何だろうね」とつぶやいた。
その声に重なるように、
「僕……ぼちぼち……まずいよ」
それが自分の声だと気づいて、僕はぎょっとした。そのとたん、ぱたたっ、と音がして、頬を滑り落ちたものが、制服の膝に染みをつくった。それを僕はまじまじと見た。
涙……涙、だって?
僕は朝ご飯を食べながら泣いている?
手に負えなくなってきている、そう思った。
何がって?
もちろん、僕自身が。




