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僕は急いで茶椀と箸を置いた。
「学校…行かなきゃ」
ゆっくりと自分に言い聞かせるようにつぶやいてみた。
「学校、行って…」
立ち上がってふらついた体を何とか支える。
きらりと脳裏にリカの笑顔が過った。
可愛いリカ。
僕に笑いかけてくれる、ただ一人の人間。
「リカに……会って…」
頬を手の甲でこすって、涙の跡を消す。よろめきながら鞄を持って玄関に行き、靴を苦労して履いた。
「今日が金曜だから、明日はだめだけど、あさってはリカと映画だ、うん」
まずいよ。
僕の中の、もう一人の僕がつぶやいた。
何を言ってるんだ?
一体、誰に、話しかけてるんだ?
僕は、その声に耳を塞いだ。
学校に来た目的はただ一つだったのに、そのリカは学校を休んでいた。少し遅れて来るんだろうと思ってたのに、昼になっても、そして放課後になっても、ついにリカは来なかった。友達に聞いても知らない、と言う。
見えないところで何かが起こっている。けれど、何が起こっているのかわからない。
いや、わからないふりをしていよう、と僕は決めた。わかってしまうといろんなことが辛くなるのは経験済み、わからずにある日いきなり身動き取れなくなってしまったほうが楽なはずだ。
危うい予感は扉の中にいれて、鍵をかけてしまえばもう安心。バタン、カチン。それでおしまい。見なかったことにすればいい。考えないでいればいい。
そうすれば、悪いことが起こっても、一過性で済む。それが来るまで何度も何度も怯えることも傷つくことも、手を出しかねて焦ることもいらなくなる。
でも、きっとこれは、まずいんだろうな。
実はそうもわかってる。
扉の中に閉じ込められた『悪いこと』が、とんでもなく大きく成長して、僕を内側から呑み込んでいくような気がする。
けれど、そんな気持ちも、バタン、カチン。別の部屋へ押し込めて、OK、大丈夫、何もない。
生活は順調、友達ともうまくやれてるし、学校の方もまあ問題なし。
その日、僕はかなり『うまく』切り抜けた。放課後、春日に話しかけたりさえできた。
「今日、内園、休みだな」
「そうだね」
ちょっと意外そうに目を上げた春日に、にっこり笑って見せる。
「昨日は世話かけたな、どうかしてたんだ」
春日はいぶかしそうに首を傾げた。
「ほら、図書室でぶっ倒れたとき、さ」
僕はくすくす笑って見せた。
「ちょっと飲み過ぎてたのかもな」
続けたことばに我ながらにんまりする。
ほら見ろよ、春日。あんなことは何でもなかったんだ。その証拠に、こんなふうに冗談にして茶化すことさえできるんだ。
春日は笑わなかった。静かな表情でじっと僕を見つめ、ふいにひどく優しい目になった。
「頭は、痛まないかい?」
一瞬、無意識に自分が飛びすさって逃げるかと思った。余裕たっぷりのポーズがあっけなく崩れた。罠だ、とどこかで声がして、僕は身構えた。
春日は僕を罠にかけて、好きなように操る気なんだ。目の前に僕が欲しくてたまらないものを並べて、僕がそれに手を伸ばしたとたん、気づかなかったふりをして持ち去っていく気なんだ、と。
おなじみのゲーム。
何度も何度も繰り返された。
手には絶対入らないとわかりきるまで、わかってしまってからも、並べる品物を思いやりだの優しさだのに変えて、何度も何度も。
それにまた毎回毎回信じては手を伸ばし、握った瞬間に奪い去られて茫然とする、その繰り返し。
学習効果のない、間抜けなぼく。
「痛むときもあるさ。人間、誰だって頭痛はあるだろ」
揺さぶられた心を気づかれないように言い放つ。
「そうじゃない」
春日はきっぱりと否定した。
「ぼくは、君が苦しんでいないか、ときいたんだ」
その声に含まれていた憂いに、ぞくり、と背骨の真下から波が走り上がって体が震えた。春日の細い白い指が僕の心の内側の、一番脆くて弱い部分をいたわるようにそっと触れていった気がした。
顔が熱くなっていく。
だめだ、期待するな、と激しい声が響いた。
『それ』は、実の親でも家族でも与えてくれなかったものなんだ。それを、他人の、それも同い年にしか過ぎない奴が与えてくれるわけがない。
僕の中で誰かがヒステリックに喚いている。
信じるな、信じちゃいけない。今度傷ついたら、きっとおまえはもうもたない。
今度?
今度って、前はいつだった?
「妹尾?」
尋ねた春日の声の柔らかさに崩れそうになって、僕は慌ててそれを遮った。
「夢を」
春日が口を挟む前に重ねて尋ねる。
「夢を話したいんだ、おまえは夢についてよく知ってるんだろう? 気になる夢があるんだ、それをおまえに話したいんだ、話して…」
一体何を言ってるんだ? それこそ絶対に口にしてはいけないことのはずなのに。
僕は戸惑った。
けれど、その先を言わなかったのは、心の声の制止に従ったわけじゃない。春日が眉をひそめたのだ。初めて見る、ひどく苦しそうで辛そうな表情だった。
「春日?」




