標準声写しは、ミリアの返事を声譜係の喉で済みにできません
晩餐会場脇の細い廊下に、小卓がひとつ増えていた。
銀の鈴は、まだ鳴っていない。
その下に、二十七番の束札をつけた薄い紙が置かれている。標準声写し。練習管の横には、喉を温める蜂蜜水が一杯。声譜係の少年は、その湯気を見つめながら、唇を結んでいた。
「配膳前声合わせ済みへ編入可。候補者返答は標準音で代替する」
王子府の進行係が読み上げると、銀鈴の冷たさが廊下の空気を一段低くした。
エレノアは、蜂蜜水の杯を少しだけミリアの席札側へ寄せた。
「声譜係殿。あなたが確認できるものを、三つに分けてください」
少年は練習管を持ち直す。指先が震えていた。
「練習管の音階。写し紙に書かれた音節。鈴を鳴らす予定時刻です」
「では、ミリア様が返事をした事実は」
少年は喉を鳴らした。蜂蜜水には手を伸ばさない。
「確認していません。私の喉で出した音は、私の喉の音です」
エレノアは小卓の白紙を四つに切り、銀鈴の前へ並べた。
練習管確認。
写し音節確認。
鈴時刻未実施。
本人返答欄。
最後の欄だけ、何も書かない。
ミリアが、指先で自分の返答席札を取った。前話で声合わせ鈴の下に置いた札だ。彼女はそこへ、ゆっくりと書く。
「まだ返事を声にしていません」
その字は震えていたが、誰の喉にも預けられていなかった。
「私の帰路確認も、同じ欄に入れないで」
シェリアが外套の端を握ったまま、二枚目の札を銀鈴の横へ差し出す。
「帰ると答える声は、帰れる馬車灯を見てからです」
アレンも北方返書筒の封蝋を押さえた。
「北方の返事は、私が読みます。標準音が先に『聞取済み』になるなら、返書を読んだ者がいないまま兵糧の返答だけ閉じることになる」
進行係が顔を赤くした。
「しかし晩餐の時刻が」
「時刻欄は空白で構いません」
エレノアは銀鈴に触れないまま言った。
「鳴っていない鈴を、鳴ったことにするほうが晩餐を汚します。声譜係殿の責任は、練習管と写し音節まで。マルク殿の配膳確認は、料理の到着と温度まで。ミリア様の返事は、ミリア様の喉までです」
声譜係の少年は、小さく息を吐いた。そして自分の名で、三欄だけに署名した。
練習管確認。
写し音節確認。
鈴時刻未実施。
本人返答欄は、空白のまま青い保留札で押さえられる。
蜂蜜水は、声譜係の前からミリアの小卓へ移された。代わりに喉を使わせるための水ではない。あとで本人が返事をするとき、喉を痛めないための水だ。
ミリアは杯に触れ、初めて少しだけ肩を下ろした。
鈴は鳴らない。
だから、返事もまだ閉じない。
そのとき、標準声写しの束から、もう一枚の細い札が滑り落ちた。
「北方返書朗読用・標準返答三音」
裏には、同じ筆で追記がある。
「配膳前声合わせ済みへ編入可」
アレンの指が、封蝋の上で止まった。




