存在しない商会の名義人
「帳簿を返してください」
孤児院の門前で、聖女ミリアは泣きそうな顔を作ってそう言った。
朝から集まった見物人の視線が、一斉にエレノアへ向く。泣く聖女と、帳簿を抱える悪役令嬢。絵だけなら、どちらが悪者かは明らかだった。
けれどエレノアは、ミリアの涙ではなく胸元を見た。
白絹のドレスに縫いつけられた金糸の薔薇。昨夜の舞踏会で、王子派閥の令嬢たちが同じ飾りをつけていたものだ。
「その金糸一本で、今夜の毛布が一枚買えます」
ミリアの涙が止まった。
「……何を」
「薔薇一輪ではありません。毛布一枚です。胸飾り十個ではなく、薪十日分。舞踏会の花壁一面ではなく、熱冷まし薬三十本と乾燥豆二袋」
門の内側で、院長が息を呑む。昨夜から熱を出した子どもが、薄い布にくるまっている。炉の薪は、朝の一束で最後だった。
エレノアが帳簿を開いたとき、財務卿の馬車が止まった。降りてきた書記官が、封蝋つきの書類を差し出す。
「ローゼン装飾商会の登記を確認しました」
タイトルにふさわしい紙面だった。
ローゼン装飾商会。
所在地、王都南三番倉庫。
名義人、リオネル・ローゼン。
聖女ミリアの実兄である。
「兄は、善意で手続きを手伝っただけです」
ミリアはすぐに言った。
「王子殿下の夜会で、救済基金の名を広めるために装飾が必要で……孤児院への物資は、あとから必ず」
「あとから来る善意は、今夜の寒さを防ぎません」
エレノアは孤児院の受領簿を開いた。
毛布、未受領。
薪、未受領。
熱冷まし薬、半量のみ。寄付元不明。
乾燥豆、未受領。
四つの空欄が、どんな糾弾より冷たかった。
「ここに印がない限り、善意はまだ門をくぐっていません」
見物人の中で、誰かが胸元を押さえた。昨夜の薔薇飾りと同じ金糸を、今もつけている令嬢だった。彼女はそっと飾りを外しかけたが、ミリアが鋭く睨む。
その一瞬で、門前の空気が変わった。
面子が毛布より重い人間が、誰なのか。
「商会は存在します」
今度は灰色の上着を着た代理人が進み出た。
「南三番倉庫を借り、正式に請求書を出しております。名義人が聖女様のご親族であることは、むしろ信用の証で」
「倉庫を見ました」
ユアンが低く言った。北方騎士団の制服ではなく簡素な外套だが、声には雪道の硬さがある。
「毛布を扱うなら防虫倉庫が必要だ。薪を扱うなら乾燥棚がいる。薬を扱うなら薬師会の登録が要る。南三番倉庫にあったのは、薔薇の造花と香油の空瓶だけだった」
代理人の口元が引きつる。
エレノアは、請求書を一枚持ち上げた。
「ローゼン装飾商会は、孤児院用熱冷まし薬として金貨四十二枚を請求しています。では伺います」
彼女はミリアの胸元の薔薇を見た。
「薔薇飾りを納める商会が、なぜ熱冷まし薬を請求しているのですか」
返事はなかった。
財務卿が静かに命じる。
「王子府特別会計の一部を凍結。孤児院救済分については、仮移管を許可する。まず現物で届けよ」
「順番があります」
エレノアはすぐに言った。
「一番目、熱のある子へ薬。二番目、幼い子へ毛布。三番目、夜番の薪。四番目、乾燥豆と窓布。王子殿下の弁明は、そのあとで結構です」
財務卿がうなずき、書記官たちが走る。近くの薬舗から薬瓶が運ばれ、布商が急ぎの毛布を抱えてくる。薪屋の荷車が門前に止まったとき、院長は膝から崩れそうになった。
熱のある子が薬を飲む。
毛布を受け取った小さな少女が、金糸の薔薇を見上げてつぶやいた。
「こっちのほうが、薔薇よりあったかい」
誰も笑わなかった。
炉に薪が入る。白かった息が、部屋の中で少しずつ薄くなる。
エレノアは帳簿の余白に新しい規則を書いた。
一、救済基金の支出は、受領印がなければ善意と呼ばない。
一、装飾費は生活物資へ換算して併記する。
一、親族名義の商会は、現物確認まで支払いを停止する。
「聖女様」
エレノアは顔を上げた。
「善意は、飾るものではありません。届いた数で数えます」
ミリアの唇が震える。
「兄が、勝手に……私は、殿下のために必要だと聞いて」
「その説明なら、まだ逃げ道がありました」
財務卿が別紙を開いた。支払承認印の横に、細い文字の追記がある。
孤児院分、薔薇へ振替。殿下の夜会に必要。
筆跡は、ミリア本人のものだった。
見物人の間から、短い悲鳴が上がる。
ユアンがもう一枚の請求書を拾い上げた。その表情から、怒りではなく温度が消えていく。
「ローゼン装飾商会は、北方軍糧会計にも請求している」
「軍糧……?」
「見張り小屋の薪、乾燥肉、薬草酒」
彼はミリアを見ず、書類の数字だけを見た。
「北方の兵の薪まで、薔薇に変えたのか」
炉の火が小さく爆ぜた。
帳簿の数字は、孤児院の夜だけで終わらなかった。次の空欄は、雪の中で見張りに立つ兵士たちの足元に続いていた。




