善意は、受領印を嫌いません
「北方軍糧会計にも、同じ薔薇の印があります」
ユアンが差し出した請求書を見た瞬間、孤児院の炉の火が、少しだけ頼りなく揺れた。
紙面には、きれいな言葉が並んでいる。
北方慰問準備費。
兵站激励装飾一式。
見張り小屋環境改善分。
けれどエレノアは、その三つを声に出さなかった。
「薪束、乾燥肉、薬草酒、靴油」
代わりに、生活の名前で読み替えた。
見物人たちの表情が変わる。慰問準備費と言われても遠かったものが、夜の見張り小屋で兵士が手袋を外し、凍えた指で薪をくべる姿に変わったからだ。
「王都の薔薇飾りは、北門の薪束を食べたのですね」
「違います!」
聖女ミリアが叫んだ。
「私は、兵の皆様を励ますために必要だと聞いて……! 殿下も、華やかな式典があれば士気が上がると」
「士気で濡れた靴は乾きません」
エレノアは請求書を孤児院の長机に置いた。
その横へ、受領簿を開く。
北方第三見張り小屋。
薪、未受領。
乾燥肉、未受領。
薬草酒、未受領。
靴油、未受領。
四つの未受領が、きれいな言葉を全部押し返した。
「王子府の記録では、慰問は完了済みです」
財務卿の書記官が、青ざめた顔で告げた。
「完了済み、ですか」
エレノアは小さく息を吐く。
「では伺います。誰の足が温まりましたか。誰の夜食になりましたか。誰の靴底が凍らずに済みましたか。完了とは、帳簿が閉じることではありません。人が明日の任務に戻れることです」
ユアンの拳が、わずかに震えた。
彼は北方騎士団で、何度も夜番の列を見てきた。順番待ちの兵が、薪の残りを数えながら、まだ帰れない仲間の名を呼ぶ声を知っている。
「第三見張り小屋には、昨夜から吹雪が入っています」
ユアンが低く言った。
「靴油がないと革が割れる。乾燥肉がなければ交代兵が動けない。薬草酒は、凍傷になりかけた指を戻すためのものだ」
「つまり」
エレノアは、薔薇の印が押された完了欄に、青い囲みを入れた。
「これは完了済みではなく、生活到達未完了です」
その言葉を、財務卿が繰り返した。
「生活到達未完了」
「はい。王子府の式典倉庫にある薔薇飾りを、北方慰問の完了証明に使うことを停止します。代わりに、現物到達の臨時受領札を作ります」
エレノアは紙を一枚取り、四つの欄を書いた。
一、薪束十。
一、乾燥肉二袋。
一、薬草酒六瓶。
一、靴油三壺。
その隣に、さらに小さな欄を足す。
誰に届いたか。
誰が交代できたか。
誰が帰れたか。
「物資は、倉庫を出ただけでは届いていません。兵士が名前で受け取り、次の者と交代し、帰還路に立てるまでです」
見物人の中にいた老兵が、ぽつりと言った。
「……それなら、うちの倅も受け取れる」
彼の息子は北方第三見張り小屋にいる。エレノアはその名を聞き、臨時受領札の一番上に書いた。
レオ・マイヤー。
老兵の背が、少しだけ伸びた。
「名前があるなら、薔薇に消されません」
財務卿が即座に命じた。
「王子府式典倉庫を開け。装飾費のうち北方軍糧に該当する分を、現物で買い戻せ。支払いは凍結分から先に出す」
「ですが、殿下の夜会が」
ミリアが言いかける。
エレノアは、静かに首を振った。
「夜会より先に夜番です」
短い言葉だった。
けれど門前にいた者たちは、それを受け取った。誰かが胸元の薔薇飾りを外す。別の令嬢が、外した金糸を布商へ差し出す。孤児院の子どもが、薬瓶を抱えたまま老兵の袖を引いた。
「レオさんにも、あったかいの届く?」
「ああ」
老兵は、目をこすった。
「名前を書いてもらったからな」
同じころ、王子府の式典倉庫では、薔薇飾りの木箱が開けられていた。
中から出てきたのは、装飾だけではなかった。
底板の下に、薄い封筒が一枚隠されている。
表書きは、北方軍糧会計・転用承認。
署名欄には、王子の名も、ミリアの名もない。
代わりに、エレノアの父、アシュベリー公爵家当主の印影が押されていた。
財務卿の書記官が、その写しを持って戻ってきたとき、エレノアは初めて目を細めた。
「お父様の印……?」
ユアンが剣の柄に手をかける。
だがエレノアは止めた。
「抜かないでください。今は、斬るより先に照合です」
彼女は青い囲みのついた完了欄の下に、新しい一行を足した。
公爵家印影、本人確認未完了。
善意は受領印を嫌わない。
そして、責任ある印影もまた、本人の声を嫌ってはならない。




