孤児院の冬支度費は、薔薇飾りになっていました
翌朝、王都の空は薄い鉛色だった。
舞踏会で断罪劇が崩れた翌日だというのに、エレノア・グレイシアの机の上には、花束も謝罪状も積まれていない。
積まれているのは、帳簿だった。
「お嬢様。王子府から、昨日の件は誤解であったとする書状が届いております」
侍女のリタが銀盆を差し出す。
封蝋には王子府の紋章。文面は丁寧だが、要するにこうだ。
昨夜の会計凍結は一時的な混乱である。詳細調査が終わるまで、グレイシア家は不用意な発言を控えるように。
エレノアは一読し、そっと横へ置いた。
「返事は後で」
「よろしいのですか」
「今日、先に返すべきものがあります」
彼女は机の端に置いた小さな木箱を開けた。
中には、孤児院から預かった領収書が束ねられている。薪、毛布、乾燥豆、風邪薬、靴底の革。冬を越すための小さな品目ばかりだ。
数字は、剣より静かに人を殺す。
不足欄に赤線を引くたび、エレノアはその先にいる子どもの顔を思い浮かべるようにしていた。毛布一枚が足りないとは、夜明けまで震える肩が一つ増えるということ。薬瓶一本が買えないとは、熱の下がらない額が一つ残るということ。
王子府の豪奢な香油より、先に数えるべきものがある。
「孤児院の冬支度費、昨年比で四割減っています」
リタが息を呑んだ。
「四割も」
「ええ。けれど聖女救済基金の総額は増えている。つまり、どこかで流れが曲げられています」
扉が叩かれた。
入ってきたのは、昨夜エレノアに拍手を送った北方辺境伯の嫡男、ユアン・ノルドだった。黒い外套に、王都の湿った冷気をまとっている。
「朝から失礼します。存在しない商会の件で、財務卿から同行を頼まれました」
「北方の方が、王都の商会に詳しいのですか」
「寒い土地では、薪と毛布の流通をごまかす者を放っておくと死人が出ます」
エレノアは少しだけ頷いた。
「では、話が早いです」
彼女は帳簿を一枚めくった。
「この『ローゼン装飾商会』。王子府の舞踏会装飾として金貨二百八十枚を受け取っています。しかし同じ日に、聖女救済基金からも孤児院冬支度費として金貨二百八十枚が支出されている」
「同額ですか」
「はい。品目名だけが違います」
舞踏会装飾。
孤児院冬支度。
文字の上では別物だ。けれど金額と日付と承認印は、同じ癖で並んでいる。
ユアンが眉を寄せた。
「領収書の現物は?」
「こちらです」
エレノアは二枚の羊皮紙を並べた。
一枚には、昨夜の舞踏会で壁一面を飾っていた薔薇飾りの納品書。
もう一枚には、王都東区孤児院へ納めるはずだった冬用毛布と薪束の納品書。
商会印は、同じ。
だが孤児院の納品書には、受領印がない。
「つまり、孤児院の毛布代で、薔薇を買った」
ユアンの声が低くなる。
「まだ断定しません」
エレノアは淡々と言った。
「断定する前に、現場を見ます。数字だけで怒ると、数字を隠す人間と同じになりますから」
◇
王都東区の孤児院は、坂の下にあった。
石壁は古く、窓枠には布が詰められている。風が吹くたび、薄い布が震え、隙間から冷気が入った。
院長の老婦人は、エレノアの顔を見るなり深く頭を下げた。
「グレイシア様。いつも領地から豆を送っていただき、ありがとうございます」
「礼は後で。毛布は届きましたか」
老婦人は目を伏せた。
「……まだでございます。救済基金からは、手続き中だと」
奥の部屋で、子どもが咳をした。
エレノアはその音を聞き、帳簿の赤線が一本、現実に変わるのを感じた。
数字は紙の上にある間だけ、冷静でいられる。
「薬は」
「半分だけ。熱冷ましは昨夜で切れました」
リタが小さく拳を握る。
ユアンは黙って外套を脱ぎ、近くにいた幼い子どもの肩へかけた。子どもは驚いて、しかしすぐに布を握りしめる。
エレノアは帳簿を閉じた。
「では、本日の優先順位を決めます」
「優先順位?」
「王子府への抗議より先に、毛布。聖女様の面子より先に、熱冷まし。存在しない商会の追及より先に、今夜の薪です」
老婦人の目に涙が浮かんだ。
「ですが、お金は」
「仮払いします。グレイシア領の災害予備費から。後で王子府と基金へ請求します」
「そんなことをなされば、また殿下が」
「殿下の怒りで、子どもは温まりません」
エレノアはリタへ指示を出した。
「近くの薬舗へ。熱冷ましを三日分。薪問屋へは、受領印をこちらで確認するまで代金を渡さないよう伝えて。毛布は倉庫に在庫がある商会を二つ当たって」
「はい」
リタが走る。
ユアンは苦笑した。
「昨夜、あなたは領民の食費を削る予算は燃やすと言いましたね」
「ええ」
「孤児院の毛布代で買われた薔薇は?」
「燃やしません」
エレノアは窓の外を見た。
「燃やしても、子どもは温まりませんから。売ります。買い戻させます。差額と遅延損害をつけて」
ユアンが、今度ははっきり笑った。
「怖い帳簿だ」
「優しい帳簿のつもりです」
◇
夕方までに、孤児院の倉庫には薪が積まれ、薬棚には熱冷ましが並んだ。
毛布は全員分には足りなかったが、熱のある子どもと幼い子から順に渡すことができた。院長が何度も礼を言い、子どもたちは新しい布の匂いを嗅いで笑った。
小さな報酬だった。
王子府はまだ謝っていない。聖女救済基金の闇も、存在しない商会の背後も見えていない。
それでも今夜、少なくとも三人の子どもは震えずに眠れる。
エレノアは、それを帳簿の一番上に記した。
『冬支度費、暫定救済。優先順位は、薔薇より毛布』
その時、孤児院の門が乱暴に開いた。
聖女ミリアが、取り巻きの令嬢たちを連れて立っていた。白い外套の胸元には、昨夜の舞踏会と同じ薔薇飾りが揺れている。
「エレノア様」
ミリアは震える声で言った。
「その帳簿を、返してください。それは聖女救済基金の善意を傷つけるものです」
エレノアは、彼女の胸元の薔薇を見た。
白い花弁の縁に、細い金糸が縫い込まれている。
孤児院の毛布一枚分と、ほぼ同じ値段の金糸だ。
「ミリア様」
エレノアは帳簿を抱え直す。
「善意は、領収書を嫌いません」
門の外で、財務卿の馬車が止まった。
存在しない商会の代表者名が、ついに判明したのだ。
ローゼン装飾商会。
その名義人は、聖女ミリアの実兄だった。




