薔薇木箱の底板は、空箱回収車の片輪だけを隠せません
薔薇木箱の底板を裏返すと、右側の縁だけに、黒い泥が厚く残っていた。
けれど王子府式典倉庫の裏口に刻まれた空箱回収車の轍は、左右とも同じ幅で、乾いた白砂を踏んでいる。
「この車ではありません」
馬丁のセリムが、泥のついた手袋を膝の上で握った。
「昨夜、箱を積み直した車は、左の蹄鉄が欠けていました。片輪だけ深く沈んだので、泥落としを頼まれたんです。でも、空箱回収車の名で出た支払い札には、その泥落とし賃がありません」
ローゼン装飾商会の使いは、薔薇布の束を抱えたまま、早口で言った。
「箱は戻りました。回収車の車輪がどれでも、装飾品の処理は済んでいます。泥落としなど、王子府の裏口雑費でしょう」
倉庫係が帳面を抱え直す。
「空箱回収済みなら、車の違いまでは……」
「違います」
エレノアは底板の泥を、青い紙片の上へ落とした。
「空箱回収済みは、箱が運ばれたと言うための言葉です。泥を落とした人、蹄鉄を見た人、裏口の灯をつけた人の支払いまで済んだ証拠にはなりません」
ミリアは、兄の名札に手を伸ばしかけて、そこで止まった。
「兄が帰る前に動いた車は、兄の行ではありません」
彼女はリオネル帰着予定の札を動かさず、その下に新しい細い札を置いた。
『兄帰着前移動車。片輪泥。別列保留』
シェリアは裏口の通行札を門番へ返さず、馬丁の前へ差し出した。
「責めるためではありません。あなたが何時に帰れたか、どの灯を使ったかを書いてください。温麦粥の券も、ここへ残します」
セリムは一度だけ瞬きをした。それから、泥で汚れた指を拭き、自分の名で時刻を書いた。
「二十二刻三分。裏口灯、一つ。蹄鉄確認、左前。帰宅は遅れました」
エレノアは倉庫係へ向き直る。
「空箱回収車の札で、この支払いを閉じないでください。箱が空かどうかより先に、働いた人がまだ夜を終えていません」
倉庫係は判を持ち上げ、赤い処理済み欄へ押さなかった。
「泥落とし賃、蹄鉄確認代、裏口灯油、温麦粥券。四つ、未完了で残します」
小さなことだった。けれど、豪華な薔薇飾りより重い四つだった。ミリアは兄を庇わなかった。兄の前に動いた車と、働いた馬丁の夜を、別の行に分けただけだ。
その時、セリムが通行札の裏を見て、声を低くした。
「この片輪の蹄鉄番号……空箱回収車ではありません。倉庫裏の廃材置き場へ戻る車の番号です」
通行札の端には、まだ濡れた字で、一行だけ追記されていた。
『装飾廃材、売却済み』




