薔薇木箱の返却先は、兄の椅子より先に北方の返書を閉じられません
王子府式典倉庫の奥で、薔薇飾りの木箱だけが、場違いなほど甘い香油を漂わせていた。
箱の側面には、ローゼン装飾商会の荷札が三枚重ねて貼られている。一番上は「空箱回収済み」。二枚目は「式典装飾品、返却先確認済み」。そして、半分だけ剥がれた一番下に、エレノアは細い筆跡を見つけた。
「返却先、リオネル私室机」
ミリアが息を呑んだ。シェリアは黙って、夜門から運んできた外套を胸に抱き直す。
倉庫係は、判を押す手を止めなかった。
「木箱は空です。装飾商会の使いが回収します。私室机へ返した扱いですから、もう積載確認は閉じてよろしいかと」
「空ではありません」
エレノアは木箱の内底を指で叩いた。板の音が一か所だけ浅い。馬丁がランプを近づけると、底板の継ぎ目から、乾いた封蝋の赤い粉がこぼれた。
「北方返書便の封蝋です。空箱なら、どうして返書の封蝋だけが残るのですか」
ローゼン商会の使いが、笑って肩をすくめた。
「薔薇飾りの箱には、式典文も入ります。似た封蝋などいくらでも」
「では、読了者の名を読み上げてください」
エレノアが差し出した青い照合札には、三つの欄があった。返書を受け取った者。封を開いた者。北方へ返事を返した者。どれも空白だった。
「箱がリオネル様の私室机へ返ったなら、少なくとも兄は椅子に戻り、封を読み、返書便を閉じたはずです」
ミリアの声は震えていた。けれど、逃げてはいなかった。
「兄は、まだ帰っていません。椅子にも座っていません。読んだことにしないでください」
彼女は木箱の荷札の上に、自分の小さな札を重ねた。
『リオネル本人未帰着。私室椅子使用未確認。北方返書読了者空白。回収停止』
シェリアが倉庫の扉の前に立つ。祝典用の薔薇布を抱えた商会使いが一歩進むと、彼女は外套の裾を広げて通路を塞いだ。
「この箱を空箱として持ち出せば、私たちの帰り道だけでなく、北方の返事まで空にされます」
馬丁は灯油札を取り出し、ためらいながら言った。
「昨夜、この荷札を貼り替えた時、木箱の底は濡れていました。夜門の泥です。式典倉庫の床には、あの泥はつきません」
倉庫係の判が、ようやく机に置かれた。
「……空箱回収済み、押しません。夜番保管手当も、半刻分、倉庫帳に残します」
小さな報酬だった。箱は豪華なまま、扉の内側に残った。馬丁の待機賃金は消されず、返書便用の灯油も、封蝋を読み直す半刻分だけ足された。ミリアは兄を庇ったのではない。兄の椅子が、まだ空いていることを守ったのだ。
エレノアは木箱の内底に残る赤い粉を、封筒の角へ移させず、青い紙片で覆った。
「これは犯人名ではありません。まだ閉じてはいけない返書の証拠です」
その時、底板の裏から、もう一枚の薄い荷札が滑り落ちた。
『空箱回収予定、二十一刻。リオネル帰着予定、二十二刻』
箱は、兄が帰るより一刻早く、空になったことにされる予定だった。




