王子府内覧室の標準影は、ミリアの袖が椅子に触れる前に済みにできません
王子府内覧室の椅子は、冷たかった。
磨かれた背もたれにも、座面の縁にも、人が少し前まで座っていた温みはない。けれど卓上の控え紙には、きれいな赤字でこう書かれている。
標準声・標準影、内覧室にて確認済み。
候補者ミリア、着座姿勢適合。
ミリア様は扉の外で、自分の袖を見下ろした。支度室の薄布は、まだ肩から落ちないようにノラが仮紐で留めたままだ。袖口には内覧室の椅子布に触れた毛羽も、香油の匂いもない。
「私の袖は、まだあの椅子に触れていません」
声は震えたが、彼女は逃げなかった。エレノアが差し出した青い余白へ、自分の名で書く。
候補者ミリア。
袖、内覧室椅子未到着。
標準影で着座済みにしない。
イーダは銀盆の水杯を持って、椅子横の小卓へ近づいた。水の縁はまっすぐで、誰かが指を添えた跡がない。
「候補者様が座れば、杯を持つ時にここへ指の曇りが残ります。これはまだ、本人未着杯です」
彼女は空杯棚ではなく、小卓の下へ青札を貼った。
水杯一、本人未着。洗い場返却不可。
ノラは外布の端を、内覧室の鏡へ向けた。鏡面には戸口の白い冷気だけが映り、室内灯の金色はどこにもない。
「この影は、外の廊下の明かりです。内覧室の灯で候補者様の影が映ったものではありません」
セリムが油皿に指を近づけ、すぐに首を振った。
「冷たいです。火を入れた後の匂いもしません。点灯済み欄には移せません」
エレノアは赤い控え紙を破らず、椅子の前に置いたまま青欄を四つに分けた。
袖、椅子未到着。
水杯、本人未着。
鏡影、廊下反射。
油皿、未点灯。
「標準影とは、本人が座る前に椅子を温める便利な影ではありませんわ」
王子府の侍従が唇を歪める。
「内覧の標準姿勢は、候補者全員に同じ礼を保たせるためのものです。お一人の袖や杯で、進行を止められては――」
「同じ礼を保つなら、同じ痛みも本人に読ませるべきです」
ミリア様が、初めて侍従のほうを見た。
「私は、まだその椅子に座ると決めていません。私の影だけを先に座らせないでください」
その一言で、イーダが水杯を守る手に力を入れ、ノラが外布を畳まず、セリムが油皿の未点灯札をもう一度見える向きに直した。
大きな断罪ではない。
冷たい椅子が冷たいまま、空でない杯が空杯にされず、映っていない影が映ったことにされなかっただけだ。
けれど扉の外に立つ候補者が、自分の袖がまだ届いていないと言える場所は、そこで守られた。
エレノアは控え紙の裏を返した。鏡台の脚に挟まっていた古い赤札が、紙の端に貼りついている。
標準候補者姿勢、二名分転写可。
第一候補未着時、第二候補影で補完。
ミリア様の影だけではない。
この内覧室は、誰かの姿勢を、別の誰かの影で埋めるために使われていた。




