未点灯の室内灯済印は、ミリアの影を椅子に座らせません
赤い済印は、室内灯の欄に押されていた。
けれど支度室の扉の下は暗い。灯が点いていれば床へ細い金色の線がこぼれるはずなのに、そこにはミリアの靴先と、イーダの水杯の白い輪染みだけがあった。
エレノアは紙を拾わず、まず扉の前に膝をついた。
「灯が点いたなら、影はどこへ落ちましたか」
王子府の侍従が舌打ちする。
「室内灯は支度係の確認で十分です。候補者様のお姿は、標準声として――」
「声の次は、影ですか」
エレノアは静かに遮った。
ミリアの肩が小さく跳ねる。自分の声だけでなく、まだそこにない影まで、内側の椅子へ置かれようとしていると理解したのだ。
イーダが水杯を持ち上げた。杯の水面は暗いままで、灯の揺れを映していない。
「点いていれば、ここに火が映ります。候補者様は、この水をまだ受け取っていません」
ノラ・シェルは布籠から薄い外布を一枚だけ出し、敷居の外へ広げた。
「支度室の灯が点けば、布の端が黄色く見えます。まだ灰色です。着替え前の布です」
セリムは温石札を胸に抱えたまま、扉横の燭台受けを見上げた。
「油皿が冷たいです。火を入れた匂いがしません」
三つの声が、犯人名ではなく、灯の届いていない場所を指した。
エレノアは税帳の余白に、新しい欄を引いた。
――室内灯未点灯。水面反射なし。外布色変化なし。油皿冷却。候補者影未確認。
「室内灯済印は、灯りそのものではありません。椅子に影が座った証拠でもありません」
ミリアは唇を噛み、そして自分の名をその下へ書いた。
「私は、まだ灯の内側に影を落としていません。まだ椅子に座っていません」
その一行が置かれると、イーダは水杯を小卓へ戻した。ノラは外布の端を青紐で留め、セリムは温石札の裏へ「灯未点」と書き足した。
同じ暗さが、少しだけ意味を変えた。
さっきまで暗い支度室は、入れない場所だった。
今は、まだ入っていないと本人が言える場所になった。
扉の内側で、ようやく燭台に火を入れる音がした。
けれどエレノアは青札を外さなかった。
「今点いた灯は、九刻四分より後の灯です。前の済印を照らすためには使えません」
王子府の侍従の顔色が変わる。
薄い控え紙の裏に、別の小さな印が透けていた。薔薇ではない。候補者標準声台帳、と読める古い角印だった。
その下に、一行だけ、まだ乾いていない墨がある。
――標準声・標準影とも、王子府内覧室に転記済み。
ミリアの影は、支度室より先に別の部屋へ運ばれていた。




